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悪左府

「あくさふ」と読みます。左大臣・藤原頼長(ふじわらの よりなが)は、
当時、こう呼ばれました。「悪」というのは悪い呼び名でなく、
「切れ者」ぐらいの意味。兄・忠実(ただざね)と摂関家の
氏の長者を争い、それを獲得。左大臣まで上りつめます。

もともと頭が良かった上に、若い頃から努力家で、勉学に励みました。
将来、朝廷を切りもりしていかねばならない、という自負が
あったことでしょう。

頼長が歴史に名を残すことになった事件が、保元の乱。
崇徳上皇につきました。鳥羽法皇が死去した後、崇徳上皇と
後白河天皇との間で、争いが表面化。頼長が上皇に、
兄・忠実が天皇につき、摂関家も対立。

これに平氏、源氏の対立も加わり、乱の規模が拡大。

上皇方のリーダーは、頼長。けれど、しょせん公家。頭は良くても、
戦いのことまでは、分かりません。本来なら専門家である武士に
任せるべきでした。けれど、なんでも自分でやりたがる頼長。
軍議に口をはさみました。

当時の状況では、天皇方が早い段階で夜襲をしかけてくることは、
明らか。上皇方の武士は、もちろんそれを察知し、むしろ先手を
打って夜襲を主張。けれど頼長は「夜襲など、正当な戦い
ではない」と、にべもなく、はねつけました。

結局、武士の見立てどおり、天皇方は夜襲をしかけてきました。
上皇方は、あえなく壊滅。頼長の意見など、どうせ、どこかの書で
読んだ内容の受け売り。何の力にも、なりませでした。

頼長は傷を負い、敗走。父親の屋敷に駆けこもうとします。
兄・忠実より、いつも自分を引き立ててくれた父親。けれど、
この時、屋敷に入ることを断られます。父親が断った理由は
「悪左府ほどの者、戦さで負傷するはずなし。」

絶望した頼長は、その場で舌を噛み切ったとか。乱後、頼長の
日記が発見されます。そこには赤裸々な同性愛の記録が
綴られてました。同性愛は、当時の公家、武家の間で、
それほど珍しいことでは、ありません。

裏切りが多かった政界では、同性愛によって互いの絆を
強めあう、という意味があったからです。いずれにせよ、
頼長。摂関家・復活のために奔走し、自ら恃むところ、
大ながら、志の半ばで斃れました。

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