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承平天慶の乱

「じょうへい てんぎょうの らん」と読みます。一般的には平将門
(たいらの まさかど)の乱。承平、天慶というのは、当時の元号。
時期は十世紀。朱雀天皇の治世です。

下総(しもうさ:現・千葉県)に生まれた平将門。武門に秀で、りりしい武士に
成長。けれど平安期。武士といえども、京での官位獲得がなければ、
地域をまとめきれません。将門も、京で出世コースに乗ろうとします。

けれど、将門が見た京。そこの公家。汚職が蔓延し、民のための
政治など、どこにもありません。失望した将門は、無位無官のまま、
下総に戻りました。

官位に何の意味もないと知った将門。それは自らの正当性を自ら
決めてよいという自負にも、つながりました。将門自身、桓武平氏の
血を引いてたことから、ついには朝廷に反旗を翻し、「新皇」を
名のるまでになります。

鉄の鋳造、鍛造に着目した将門。その技術を発達させました。
それは、そのまま武具、農具の改良を刺激。農民は、将門の下で、
農業収穫量が増え、生活が良くなることを実感。集まり始めました。

武具改良も、将門の名声を高めました。今日、私たちが見る、
日本刀。この日本刀を開発したのも、将門。

農民たちは当時、朝廷から派遣される、形ばかりの国司にウンザリ。
重税、苦役に苦しんでました。彼らにとって、自分たちをホンとに考えてくれ、
誠実で知られた将門は、真のリーダー。将門を支持する動きは、
下総だけでなく、関東一円に広がります。

時、同じくして瀬戸内では伊予・国司に任じられた藤原純友
(ふじわらの すみとも)が反乱。時代劇では、将門が京にいた頃、
純友と誼(よしみ)を交わしたことになってますが、二人の間に
実際の交友があったかどうかは、分かりません。

東西で起きた反乱に、朝廷は驚愕。慌てて、乱鎮圧に乗りだします。
関東へは平貞盛(たいらの さだもり)と俵藤太(たわらの とうた)を
派遣。貞盛は将門の従兄。幼い頃から、親しく成長した間柄。

貞盛と藤太は田起こし期を狙って、軍を繰りだしました。民衆思いの
将門なれば、田起こし期、民衆を土地へ返すはず、と踏んでのこと。

案の定、将門は民衆を土地へ返し、武力が手薄になったところを
見計らって、貞盛、藤太の軍が圧倒。将門は討ちとられました。

とはいえ、公家支配から脱しようとした将門。その政策は、武士なら、
誰でも首肯できるもの。将門を倒した貞盛、藤太にとっても、それは同じ。
彼らは将門を倒しておきながら、子孫には、その偉大さを語り伝え、
武士リーダーのあるべき姿を教えました。

やがて、貞盛の系譜から平忠盛、平清盛が登場。
公家に頼らない、武士の政治を確立しました。

俵藤太は藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)と名を改め、
その系譜から、奥州藤原氏の祖、藤原常清が登場。

将門は二百年、三百年、時代の先を行ってたと言えるでしょう。
ちなみに、今も丸の内に残る将門の首塚。京でさらされた首が、
カラカラと笑った後、飛び去り、故郷に戻る途中、ここへ落ちたとか。

東京駅の正面だけに、明治期以来、撤去計画が何度か上がりましたが、
その度、関係者が奇妙な死。やがて、誰も撤去を言いださなくなり、
将門の首塚は、今も丸の内にあります。

水玉
future

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