FC2ブログ

源実朝

大海の 磯もとどろに 寄する波 割れて砕けて 割けて散るかも

壮大な太平洋の荒波を歌った一首。武家・出身者が、ここまでの感性を
表現するとは。藤原定家も絶賛。けまりの技量も抜群。運命を選べるなら、
源実朝は、頼朝・次男としてでなく、公家に生まれたかったことでしょう。

鎌倉幕府は発足したばかり。御家人の内紛が絶えません。頼朝を後継する
はずだった長男・頼家。幕府をまとめる統率力がなく、御家人にとって、
最も大切な土地分配に関しても、投げやり。急速に信頼を失います。

頼家の妻が比企氏・出身だったことから、北条氏、比企氏の争いに発展。
結局、北条氏が勝利し、比企氏は根絶。頼家も伊豆に流され、暗殺。
三代将軍の座は、次男・実朝に回ってきました。

一生、歌の道で生きていこう、などと考えてた実朝。思いがけず巡ってきた
将軍職について、歌よみらしく、朝廷政治に範を取ろうとしました。志として、
悪くありません。けれど、御家人にとって、朝廷政治の復活は、
鎌倉時代・以前の、公家への屈服を意味します。

頼家の投げやり政治も問題でしたが、実朝の朝廷政治は、もっと危険な
ものに映りました。結局、実朝。鶴岡八幡宮で、頼家の息子・公暁(くぎょう)に
よって、雪の降る二月の夜、斬殺。公暁は、数時間後、北条氏によって討伐。
公暁をそそのかしたのは、二代執権・北条義時だったと言われてます。

頼朝の血筋は、ここで途絶えました。頼朝は、自分の血筋を安定させるため、
競争相手の親族男子をことごとく殺害。けれど、その業が返ったのでしょうか、
今度は自分の嫡流男子が、次々と憂き目にあいました。

さて、実朝。彼の首塚は、小田急線・秦野駅(はだの えき)北口から、
少し歩いた場所に、ひっそり佇んでます。鎌倉から遠く離れた、
こんな場所に、首塚があること自体、実朝の不遇を象徴してます。

夕日
sunset

浅野総一郎

明治四年、若き総一郎は、東京に出て、妻と一緒に水の売買を始めました。
場所はお茶の水。今では信じられないかもしれませんが、当時のお茶の水は
おいしい水が取れる清泉として、有名。原価がかからない水に注目し、
これは売れると判断し、実際に売り歩いた総一郎。資金を得ました。

現金を持っても、意味がない。

これが口癖だった総一郎。資金をドンドン事業に回しました。時代は
明治維新。日本の工業化が急がれました。総一郎は東京から川崎、横浜
へと続く、遠浅の海岸線に着目。工業地帯を作るなら、ここだ、と判断。

渋沢栄一、安田善次郎といった銀行家の協力をとりつけ、東京湾の
埋めたてに着手。土地ができれば、すかさず工場を建設。建設された
工場は、日本の工業化に、なくてはならないものばかり。

製鉄業、石油精製業、セメント業、貿易、保険まで、総一郎が設立した
浅野コンツェルンは、多岐に及びました。今、京浜東北線、京急線から
見るコンビナートは、全て、総一郎の発案によるもの。

JR鶴見線に乗れば、結節点で「浅野駅」。駅だけではありません。
扇島、扇町といった地名は、浅野家の家紋、扇に由来します。

成功した実業家、総一郎。彼が最後に手がけたのが文化事業。
浅野学園の設立。工業地帯を見下ろす子安台にあります。設立当初、
学内には工場まで、ありました。実学を重んじる総一郎の、たっての希望。
工場は今も、浅野工学専門学校として、継承。

学園内を校舎と反対の方角に歩くと、少し上り坂。やがて、大きな銅像。
なんと、ステッキを持ち、帽子をかぶった総一郎。こんな場所に。
像の裏に回れば、徳富蘇峰が書いた総一郎・伝。

浅野学園の文化祭・打越祭。この時には、学園が開放されます。
近くの人は足を運んでみましょう。総一郎の銅像が、迎えてくれます。

麦
September

渋沢栄一

JR高崎線・深谷駅。電車からは「渋沢栄一の故郷・深谷」という看板。
「日本の資本主義の父」と呼ばれた渋沢は、ここで生まれました。

江戸に出て、一橋家に出仕。利発さを認められ、パリ万博に経理担当
として随行。資本主義の経済一般、特に銀行業、株式会社の仕組みを
学びました。

経済だけではありません。電力、上下水道といった社会インフラも、学習。
パリの役人に頼みこんで、パリの下水を巡りました。渋沢の好奇心には、
下水の匂いも、なんのその。ナポレオン三世にも謁見して、帰朝。

パリでの経験をもとに、静岡で「商法会所」(しょうほう かいしょ)を設立。
日本最初の株式会社。融資から利子を得る業務も行ってましたから、
日本最初の銀行とも言えます。

そんなことをしてるうちに、渋沢は大蔵卿・大隈重信に請われ、新政府の
大蔵省で働き始めました。けれど官僚勤めが全く肌に合わず、内務卿・
大久保利通とも仲たがい。再び民間人として、銀行経営を目指しました。

そして、設立したのが「第一国立銀行」。現・みずほ銀行。日本に
本格的な資本主義が始まりました。当時、銀行の仕組みが世間に
浸透しておらず、借りる人はいても、貸してくれる人は皆無。渋沢の
第一国立銀行は、最初から暗礁に乗り上げます。

とはいえ、志ある青年の、未来への努力には、どこからともなく援助の
手が差し伸べられたのが、明治期。やがて、第一国立銀行の経営は
軌道に乗り、渋沢は、その資金を使って、製糸業にのりだしました。
日本の発展にとって、情報を伝える紙の重要性に着目。現在の
大王製紙、王子製紙は渋沢が設立した会社です。

その後、日本のインフラを整えるべく、次々と会社を設立。東京電力、
東京ガス、石川島播磨、JR、東京証券取引所、NHK、日経新聞、
帝国ホテル、サッポロビール・・・渋沢が設立した会社の数は、
五百を超えたとか。

渋沢の経営哲学を表す言葉として、よく「論語とそろばん」が
挙げられます。まずは人のため、社会のため、という目標があり、
その次に、そろばんをはじいて、利益を出そうという哲学。

個人の利益よりも、まず公益。確かに、渋沢が設立した会社群は、
私たちが今、普通に生活してれば、お世話になるものばかり。

明治の実業家らしく、私生活では謙虚を貫いた渋沢。飛鳥山に
あった自邸で開いたパーティーでは、来客の一人一人に、
丁寧に頭を下げる渋沢の姿が、映像で残ってます。

教育にも力を入れた渋沢。日本女子大、東京女学館の設立に、尽力。
今年、渋谷教室には、女学館生がたくさん。一度、彼女たちに、
設立者・渋沢が、どう語り継がれてるか、聞いてみましょう。

コスモス
cosmos

安田善次郎

JR鶴見線には「安善駅」(あんぜん えき)。安田善次郎の「安」と「善」を
取って付けられました。明治期、安田善次郎は、浅野総一郎と組んで、
横浜、川崎の埋立に着手。それで現在、彼の名前が鶴見線に。
地名にも「安善町」があります。

地名だけではありません。東大・安田講堂。この名前も、善次郎の
資金援助を記念。みずほ銀行も、元を辿れば、安田銀行。一体、
安田善次郎は、どんな人物だったのでしょうか。

善次郎は幕末、富山の農家に生まれます。商売に興味があった彼は、
江戸に出て、両替を始め、それが当たりました。やがて明治維新を迎え、
新政府が新貨を発行。明治四年の新貨条例です。

けれど、新政府が軌道に乗らない時期。新貨には信用がなく、
新政府は途端に困窮。この時、新貨を大量に購入したのが、善次郎。
やがて、新政府が次々と改革案を打ちだし、それが実を結び始めると、
新貨の価値も上がっていきます。善次郎も大儲け。その資金を
使って、銀行業にのりだしました。

善次郎のもとには、新政府から、銀行救済の案件が、次から次へと
もちこまれます。銀行が他の銀行を救済することは、実は難しい作業。
へたをすれば、共倒れ。しかし、善次郎。経営不振の銀行を次々、救済。
自行の店舗網を広げなくても、安田銀行には、ドンドン支店ができ、
ついに安田財閥は、三井、住友、三菱と並ぶ四大財閥。

善次郎は、当時の国家予算の、なんと八分の一を持つ資産家に。
いつしか善次郎は「銀行王」と呼ばれるようになりました。銀行を主体に
財閥を形成したことは、正解でした。好況時はともかく、不況時、ものを
言うのは現金。昭和の恐慌時、銀行を持たなかった鈴木商店は倒産。
大倉商事も傾きました。一方、銀行を持ってた四大財閥は、今も健在。

とはいえ、善次郎。「銀行王」という呼び名の他に「守銭奴」という呼び名も。
大金持ちのくせに、生活はいたって質素。客が来ても、お茶は出すが、
一杯だけ。茶菓子を出したことは、決してなかったそうです。

この守銭奴ぶりは、周知のこととなり、仲がよかった渋沢栄一、
大倉喜八郎たちからも、揶揄されました。

とはいえ、投資家、実業家として、ホンとに成功したいなら、私生活は
トコトン切りつめ、資金を投資、実業に回すべき。しかも、善次郎。
各種の寄付、資金援助を人知れず、実行してたわけですから、
その守銭奴ぶりも、ひょっとしたら公共精神の表れだったと、
見ることもできます。

椅子
chair

湊川(みなとがわ)の戦い

建武三年・五月、足利尊氏が東上する時、その軍勢は三万五千。
当時、誰の目にも後醍醐天皇の失政は明らか。次を担うのは尊氏。

迎え撃つ楠正成。七百で挑みました。湊川(みなとがわ)の戦い。
尊氏と正成は、かつて鎌倉幕府・討幕のために共に戦った間柄。
けれど、運命の巡りあわせで、ここ湊川で戦うはめに。

正成としては、負け戦が明らかでしたから、息子・正行(まさつら)を含め、
数名を除外。死んでよいものだけを連れ、河内を出陣。湊川で
尊氏軍を待ち受けました。

三万五千の尊氏軍に、七百の正成軍。数十での斬りこみを数次に
わたって敢行。数を恃む尊氏軍も、正成軍の鬼気迫る斬りこみに、
動揺。戦いは長引きました。

漸減した正成軍。七十ばかりになった時、戦いを断念。この時、尊氏軍は
進軍を止め、周囲は、戦場とは思えないほど、シンとした静けさに。
尊氏の、武士の情け。正成は近くの民家で弟・正季(まさすえ)と
刺し違え、自決。その首は河内の息子・正行のもとへ、
丁重に届けられました。

実は正成。戦い前、後醍醐天皇に、尊氏と和睦するよう強く忠言。
一笑に付されました。それでも正成。決死の戦いを引き受け、
ついに湊川で討死。後から見れば、正成の政治センスは
正しかったことが分かります。

湊川の戦いから六百年ほど経った二十世紀。米軍が沖縄に迫ってきました。
大本営は「国体護持」のために特攻作戦を発令。「菊水作戦」と名づけられ
ました。この「菊水」こそ、楠正成の家紋。その昔、後醍醐天皇に忠義を
尽くした正成の姿が、国家存亡をかけた時、思い出されました。

今も正成の凛々しい騎馬武者姿は、皇居・濠端に見ることができます。

公園
park

ニューギニアの戦い

戦地から帰ってきて、私は誰にも同情しなくなった。

「ゲゲゲの鬼太郎」で有名な漫画家・水木しげるの言葉です。
彼はニューギニア戦線に送られ、九死に一生を得ました。

ニューギニアでは、動員兵・二十二万名のうち、生還兵は二万名。
損耗率は実に、九割以上。こんな戦いは、普通、ありえません。
どうして、こうなったのでしょうか。

どんな戦いでも、ホンとに負けると思ったら、司令官が降伏を決定し、
敵軍にそれを伝えて、終了。ところが降伏、投降を許されなかった
日本兵。文字通り、死ぬまで戦いました。最後は銃剣と手榴弾。

そもそも日本軍は、資源もなく、戦略的・重要性もない、こんな島で、
どうして、これほどの大軍を展開したのでしょうか? 戦争するなら、
もっとしかるべき場所で、しかるべき戦いがあったのでは?

海軍の山本五十六が立てた、あきれた作戦によって、こうなりました。
ハワイ作戦の後、発令されたミッドウェー作戦。作戦範囲は北は
極寒の孤島から、南は赤道の密林まで及びました。

風呂敷を広げすぎたものだから、ニューギニアにしても「米豪遮断」
という目的で守備しなければならなくなりました。大本営・作戦部の
誰一人、ニューギニア地形に詳しい者など、いないのに。

もともと帝国陸海軍。アメリカと戦争するとしても、フィリピンか小笠原で
待ちうける作戦。向かってくる米艦隊を優秀な航空兵力、水雷部隊で、
漸減させ、ヘトヘトにしてから、戦艦大和、武蔵、長門、陸奥の砲門で、
こっぱみじんにすること。明治期・以来、このための猛訓練でした。

ところが、山本の愚かなハワイ作戦、ミッドウェー作戦により、全て台なし。
日本軍は戦線を広げ、逆に、米軍は適当な時に、適当な場所で、適当な
方法で攻撃できるようになりました。戦線が広がりすぎたため、
主導権が攻める側に、移ったわけです。

日本軍の補給は続かず、兵士は飢えと熱帯病でバタバタ倒れます。
そして作戦の杜撰。ニューギニアでは、日本軍はニューギニア北端に
上陸し、南端ポートモレスビーまで行軍、そこで米豪軍を撃滅する、
という作戦でした。

けれど、大本営・作戦部。地図を見ただけで、この作戦を決定。
ニューギニアの北端と南端の間には、実際には3000m級の山脈。
日本兵は、それを横切る形で踏破しなくては、なりません。

作戦部は地図の距離から糧秣、弾薬の量を計算。それだけ持たせて、
送りだしました。当然、行軍の途中で糧秣が尽き、日本兵を、
飢えと病いが襲いました。

フラフラになって、やっとポートモレスビーまで到達した日本軍。
待ちかまえる米豪軍の近代兵器の前に、なすすべありません。
無意味な突撃死、そして自決。それらを遥かに上回る餓死、病死。

こんな愚かな戦いをしても、大本営には、全く反省なし。ひたすら責任回避。
負け戦は、これ以降、何度も繰り返されました。上層部が無能では、
現場の兵士がいくらガンバっても、勝てません。
現代の潰れる企業にも、言えることです。

こんな戦いを戦後、知らされ、日本人が戦争はこりごり、軍人は悪だと
思ったとしても、ムリないことでしょう。そんな時、GHQが提示した
平和憲法。日本人は、とびつきました。

戦後・七十年。日本人は、大東亜戦争のトラウマを引きずったまま。
国際社会では、武力なき国など、侮られるだけ。けれど、それが今の
日本人には、どうしても分かりません。自国が非武装になれば、相手国も
信頼してくれて、戦いなど起きない、という平和ボケが、国民を席巻。
安保に関する、国際的な常識を口に出すことすら、できません。

もみじ3
autumn red

暁星高校(3)

渋谷教室の水曜日は私立クラス。ずっと女子ばかりで勉強してきました。
男子も何名か、来るには来たのですが、あまりの女子力に圧倒されてか、
定着しませんでした。

そこに二学期、暁星・男子が登場。一番後ろで授業を受け始めました。
どうせ、今までの男子と同じく、一度、来てやめちゃうのかな、
そう思ってた私。その予想に反し、継続。しかも、
答案を見てると、けっこう英語力。

そう。見る目ある人には、価値がシッカリ分かる授業を展開してます。
そう評価できるだけの力が、彼には備わってました。
これは嬉しいことです。

女子ばかりでは、どうしてもキャピキャピして終わります。ホンとの
力強さは、男子の力強い腕の引きに、かかります。その意味で、
暁星・男子の存在は貴重。たくさんの女子の中で、彼が気まずい
思いをしないよう、私も気を配りましょう。

水平線
horizon

青山高校(49)

渋谷教室の授業前。青高・女子が講師室に。彼女が早大に
推薦入試の願書を出してたことは、知ってました。で、結果は。

決まりました・・・

なんと、まだ九月なのに、早々と早大・文化構想への進学が決定。
彼女が受験勉強が終わりました。三年前に教えたお姉さん。
そのお姉さんに薦められ、彼女が来塾したのが二年生・三学期。
以降、努力を続けました。

来年、彼女は早大・一年生。お姉さんは四年生。二人して、
早大に通うなんて、ちょっとカッコいいですね。

合格を決めた青高・女子。塾には最後まで来るようです。もちろん、
そうすべきです。これからは、受験の軛(くびき)から離れた、自由な
立場で勉強できるでしょう。それは、そのまま大学の勉強につながります。

秋の並木道
autumn promenade

柏陽高校(2)

一学期・途中、横浜教室に体験授業に来た柏陽・女子。夏期講習を経て、
スッカリ定着。塾になじんできました。一学期は一名だった理系女子も、
今は柏陽生を含め、三名に。クラスに多様性が出てきました。
やっぱり、いろんな人がいないと。

柏陽は県立高校として、そこそこの理系教育の実績。けれど、その分、
英語が弱い。彼女が来塾を決めたのも、その危機感あればこそ。

本郷台の柏陽からは、横浜までJR根岸線で一本。これは便利。
二学期は、始まったばかり。あせらず、一歩一歩。

緑
adolescence

川和高校(2)

港北で翠嵐に次ぐ進学実績を叩きだす県立高校といえば、川和(かわわ)。
野球部が強く、神奈川大会でも、調子よければ、三回戦くらいまで、
勝ち進みます。

そんな川和生が二学期から横浜教室に通い始めました。男子です。
一度、体験授業に来て、入塾を決めました。これまで塾に来なかった
割には、実力ある男子。過去問演習では、古参の女子たちに
負けない点数も。これは有望。

横浜市営地下鉄グリーン・ライン。都筑ふれあいの丘駅・近くにある
川和。横浜駅・西口まで来るのは少し遠いけど、学校とは一味も
二味も違う切磋琢磨。塾まで来る手間に十分、みあうもの。
継続しましょう。

緑の滴
youth

暁星高校(2)

新宿教室の月曜・一限。国立クラスです。一番後ろに座る暁星・男子。
二学期になり、力がついてきました。英語力の進捗を見たければ、
確実なのは、自由英作文。こればかりは、ごまかしがききません。

そのできが、一学期とは、まるで違う。継続の賜物。
自分でも、実感してることでしょう。

できるようになった後の追撃戦こそ、受験勉強に限らず、一番、
おもしろいもの。戦いと同じで、一気に状況が動きます。今は九月。
追撃戦のための時間は十分。ここぞ、と見極め、全エネルギーを
集中しましょう。点数がおもしろいほど、伸びていくはずです。

朝の光
morning sunshine

沖縄の戦い

沖縄の戦いといえば、牛島満(うしじま みつる)中将が有名ですが、
実際に戦いを仕切ったのは、八原博通(やはら ひろみち)大佐。
八原大佐が立案し、牛島司令官、長参謀長が同意する指導体制。

無口な牛島司令官には、何も言わなくても、テキパキ仕事をこなし、
統率力あった八原大佐は、ありがたい部下だったでしょう。

昭和二十年、硫黄島が陥落し、米軍の次の攻撃目標は、沖縄。
大本営は三個師団・守備を決定。三十二軍が設立されました。

精鋭部隊を沖縄に移動。県民も協力し、兵員配置、陣地構築はドンドン
進捗。士気は上がりました。八原大佐は後年、この時の状況を
「なすべきことが、当たり前になされていく状況」と回想。

ところが、戦いも間近という時に、大本営から急に、最も強い師団、
一万四千名を台湾へ移動する、という命令。三十二軍・司令部は
耳を疑いました。

地図を開いて、米軍侵攻ルートを辿れば、台湾上陸などありえない
ことが、誰にでも分かります。ところが戦争末期の大本営。
完全に、頭がいかれてました。

士気は落ち、作戦も最初から練り直し。もし、あのまま三個師団で
守備してれば、沖縄の戦いは実際よりも、よほど日本軍に有利となり、
六月末の陥落などなく、恐らく八月の終戦まで、もちこたえただろう、
というのが八原大佐の、戦後の見立てです。

沖縄の戦いについて、米軍の圧倒的物量の前に、日本軍の竹槍部隊が
突撃して負けた、みたいな書かれ方がありますが、とんでもない。米軍も
補給が続かなかったり、作戦に失敗したりで、しばしば後退。米軍の
評価では、沖縄の戦いは、硫黄島の戦いと同じく、日本軍は
善戦した、となってます。

鉄血勤王隊など、応集兵が戦線に立ったのも、一個師団の削減が
原因。八原大佐が言うように、三個師団で戦ってれば、県民の協力も
あり、戦いの経緯は、全く違ったものとなったでしょう。

一個師団・移動を命じた大本営・作戦部。ニューギニア、ガダルカナルから
始まり、一連の無謀な作戦を次から次へと発令し、あたら若い兵士を
死なせました。そして責任も取りません。私たちが今、
真に糾弾すべきは、大本営です。

一個師団を引き抜かれ、弱体化した三十二軍。「戦略持久」に転換。
それしか方法がありませんでした。三つあった飛行場のうち、北、中の
飛行場を放棄。読谷への上陸は、ほぼ確実でしたから、上陸後、南へ
引きつけるだけ引きつけ、司令部があった首里城の手前で叩く作戦。

硫黄島の戦いとも、似てます。八原大佐も、硫黄島の栗林中将と
同じく、アメリカ駐在経験があり、米軍の実力を熟知。
合理的思考の持ち主でもありました。

マキン、タラワ、ペリリュー、サイパン・・・こんな島々でも、穴を掘って
持久戦を取れば、米軍侵攻は、もう半年は遅れたでしょう。

ところが、サイパン守備隊の司令官・南雲中将。地下壕建設など、
思いもよらず「わしは、どうせ、ここで死ぬんだから」と従軍看護婦と
毎日、テニスの日々。司令官がこれでは、勝てるわけありません。

昭和二十年・四月一日、米軍は予想どおり、読谷から上陸。日本軍の
抵抗は、ありません。それまでの戦いで、上陸地点こそ、最も危ないと
死を覚悟した米兵は拍子抜け。「これはエイプリル・フールか?」
というジョークも出ました。

大本営は、沖縄の戦いを前に菊水作戦を発令。三月末から連日、鹿児島の
基地から沖縄の米艦船に向け、航空特攻。四月九日には、水上部隊も、
特攻出撃。戦艦大和が九州沖で沈みました。この時、大和には、
食料、弾薬だけでなく、薬品、生理用品、紙幣まで積みこまれました。

持久戦を続ける三十二軍。米軍侵攻を許しました。けれど空、海で繰り
広げられる特攻作戦。そして、大本営からの督戦。大本営が師団を
引き抜いたせいで、取らざるをえなくなった持久戦。なのに、
その大本営が督戦とは。

三十二軍・司令部では、このまま、たてこもるか、督戦にしたがって、
うって出るか、激論が戦わされました。八原大佐はもちろん、当初の
方針どおり、持久戦を主張。あと二週間、待てば、米軍が目標地点に
おびき出され、沈黙してた日本軍の砲弾が炸裂。米兵の頭上に
鉄の雨を降らせるはずでした。

けれど、軍は督戦されれば、主戦論に傾くもの。結局、五月になって、
三十二軍は攻勢に転じました。日本兵が地上に登場。死を恐れず、
突撃してくる日本兵に、米兵は驚愕し、狂人が続出。米兵の戦死者も
五千名に。米軍は沖縄に最新鋭の戦車を投入しましたが、その57%は、
日本軍によって破壊されました。

とはいえ、方針変更した準備不足は否めず、日本軍はジリジリ後退。
五月末に首里城が陥落。司令部は島南端に移動。同伴する県民。
「軍と一緒にいた方が安全」という意識が、強くありました。

首里城・陥落までの県民・戦死者は、およそ二万名。しかし、司令部と
ともに島南端まで移動した県民が多かったため、多くの悲劇を生みました。
五月末から一カ月で、県民の戦死者は十二万名に。一カ月で十万名、
平均して一日、三千名の県民が、首里城・陥落後、命を落としました。

六月、米軍・司令官バックナー中将が、前線視察中に、戦死。日本の
狙撃兵が、技量の正確さを見せつけました。大東亜戦争で、米軍司令官が
戦死したのは、この時だけ。復讐に燃える米軍。軍人、民間人の区別なく
殺し始めました。県民・戦死者が累増した原因は、これです。

米兵は民間人にも、平気で発砲。生き残った県民の証言では、
米兵はビールを飲みながら、発砲してきたとか。

そして、沖縄で初めて使われた火炎放射。火炎放射は数十mの範囲に
熱風を広げますから、火に当たらなくても、熱風で肺が焼かれます。
サトウキビ畑に隠れた民間人の多くが、こうして戦死。

六月末、島南端の司令部は、敗北を認めました。牛島司令官、
長参謀長は自決。海軍の太田少将は大本営に打電。

沖縄県民、よく戦えり。後世、特別のご高配を、賜らんことを。

太田少将も自決。八原大佐は民間人に変装、生き残りました。事実上、
沖縄の戦いを指揮し、県民を巻き添えにしながら、生き残った八原大佐に、
戦後、厳しい目が向けられました。八原大佐としては、所与の状況で、
最善を尽くしたのですが・・・

ちなみに、米軍は沖縄の戦いに五十四万名の兵力動員。戦闘部隊は
五万名ほどでしたから、十倍の兵站を準備。海外で戦争する、とは、
こういうこと。安保法案が「戦争法案」と呼ばれましたが、
五兆円の防衛費で、こんなことができるでしょうか?

琉大
Okinawa

安保法制、成立

安保法制の成立が、新聞に大きな見出しで出ましたが、そう大した話では、
ありません。米軍・後方、安全な場所で、自衛隊が活動できる範囲が、
少し広がった、というだけのこと。米軍も、最初から多くを期待してません。

平和憲法を押しつけてきたのは、そもそもアメリカ。アメリカが
自衛隊の本格的な独立を望むはずありません。

民主党、共産党、社民党などが、今回の法案を「戦争法案」と呼び、
徴兵制に道を開くとまで言ってますが、全くの嘘っぱち。彼らは、
そもそも戦争が何か、分かってません。騙される国民も、同様。

海外で戦争するためには、戦闘部隊の数倍、作戦によっては、
十倍ほどのロジスティクス(兵站)が必要。帝国陸海軍は、
この兵站を無視して戦ったため、負けました。

現在、自衛隊の人員は二十二万名。予算は、およそ五兆円。
こんな規模で、兵站線など、築けるはずありません。
米軍・後方についていくことが、関の山。

しかも、野党。ここ数十年ずっと、自衛隊員は、まるで非国民と言わん
ばかりの発言を繰り返してきたくせに、今回に限って、自衛隊員の
生命を守ろう。自衛隊・幹部からは、そんなに親切にしてくれるなら、
自衛隊員の安全のために、もっと防衛予算を増やしてほしい、
という皮肉な声も。野党の安保理論は、全くデタラメです。

しかも、そんな野党に同調し、国民の六割が安保法制に反対とは、
どういうことでしょう。自分の国を自分で守る、同盟を結んでるのなら、
同盟国と集団で守る、こんな当たり前の議論すら、日本では、
できません。

そもそも、外国の軍隊に駐留されてること自体、先進国としては、恥。
同盟を結んでる場合も、相手の軍隊・後方で、安全な仕事だけ、
やります、というのも、恥。しかも、そんな法案すら、通すのに、
すったもんだする国民。

もっとヒドイのは、日本共産党。米軍には即刻、出ていってもらい、
自衛隊も、ゆくゆくは廃止するとか。外交問題は、全て「話しあい」。
世界のどこに行っても、通用しない議論。

北朝鮮のように、話しあいなど全く通用しない国に、自国民を拉致されたら、
あるいは攻撃されたら、どうするのでしょうか? 攻撃された時、
日本共産党は責任を取ってはくれません。それどころか、戦争は怖い、
と言いながら、真っ先に逃げだすのが、日本共産党ではないでしょうか。

安保法制が成立しても、自衛隊員が、今までより少し胸を張れるだけで、
日本の屈辱的な安保体制は、何も変わりません。もっと根本的に、
憲法改正を議論すべきです。そして防衛費増強が、それでもイヤなら、
もっと対等な形で、アメリカと同盟を結ぶべきです。

安保法制・反対者には、中国の脅威には個別自衛権で対応すればいい、
と主張する者も。けれど、五兆円の防衛費では、米中間で、とても
個別自衛権など、行使できません。これも、現実を見ない空論。

留学経験者も多い、最近の若者。一度、海外に出れば、海外の
安保議論が、日本のものとは全く違うことに気づくはず。なのに、
彼ら留学経験者は今、何をしてるのでしょうか?

身も蓋もないことを言ってしまえば、留学など、形だけ。道のきき方と、
買い物のしかた、いくつかの俗語を覚えて、帰ってきただけ。何も
身に付いてはいません。これこそ、島国根性。その島国根性が、
もろに出た安保法制・議論。海外の有識者は、笑ってることでしょう。

傘
umbrellas

横田夫妻の三十八年間

ある日、突然、中学生の娘が部活から帰らず、翌朝になっても、
戻らなかったら、両親は、どうなるでしょうか? その兄弟は?

新潟県警が総力を挙げ、捜索しても、何一つ見つからず、どの警察犬も
ある電柱で止まったまま、動こうとしないなら、両親は、どう思うでしょうか?
無責任な人は「神かくし」にあった、などと嬉しそうに言ってきます。

ドンドン月日は流れ、二十年もしてから、突然、北朝鮮から、大人に
なった娘の写真が送られてきたら? そして、取り返そうと運動を
始めたら、北朝鮮から「娘さんは、自殺しました。」

証拠として送られてきた遺骨は、DNA鑑定で、全くの偽物。その後、
何を言っても、なしのつぶて。外務省もあてにならず、それどころか、
拉致被害者の家族は、北朝鮮との国交樹立の妨げと言わんばかり。
旧・日本社会党は「拉致問題は、家族のでっちあげ」。

普段は人権を大声で叫ぶ日本共産党も、全く沈黙。拉致問題を
突きつめれば、平和憲法に原因があることが、明らかになるからです。

三年間の民主党政権。どの首相も「拉致問題は、最重要課題」と
言いながら、何もしませんでした。北朝鮮ベッタリの国会議員が
ウヨウヨいる民主党。もちろん、拉致被害者を取り返すつもりなど、
最初から、ありません。口で言っただけ。

毎年、拉致被害者の集会では、さまざまな政治家が登壇し「今年こそ、
命をかけて」と発言。けれど、現実は動きません。共産党、社民党は、
そんな集会に、代表者すら、送ってきません。在日朝鮮人の集会には、
幹部が毎年、出席するのに。

横田夫妻の、そんな三十八年間。毎夜、眠りに就く前に「今日も、ダメだった」。
どうして、日本人は、この同胞に対し、かくも冷淡なのでしょうか? 国会前に
集まり、戦争反対を叫んでる護憲派。彼らはなぜ、侵略して、連れて
いかれた同胞について、一言もないのでしょうか?

お涙ちょうだいの報道は、もうたくさん。

横田さきえさんは、そう言います。昔はキレイだった彼女も、三十八年間の
心労で、やつれてしまいました。めぐみさんは三人兄弟ですが、二人の
兄弟の人生も、拉致対応で過ごされました。どうして、日本人は、
それをわがことと、考えないのでしょうか?

日本人が全体的に、愚かになってると言わざるをえません。学校教員の
無能。教育現場の堕落。公立の小学校、中学校では、学級崩壊が当たり前。
そのくせ、教員たちは、左翼運動には熱心。国会前デモを見ても、日教組の
旗ばかり。教育そっちのけで、こんなことに、うつつを抜かす者たち。
彼らが垂れ流す南京大虐殺、慰安婦・強制連行・・・

学校教員は、いくら学級を壊そうと、授業中に教室を飛び出そうと、
辞めさせられることは、ありません。大阪の橋下市長が「あまりにヒドイ
教員には、辞めてもらう」と発言したのは、正しいことです。

拉致問題に戻りましょう。やつれた横田夫妻の姿を、私たちはシッカリ
見つめるべきです。夫妻だけでなく、数百名とも言われる拉致被害者の
家族に、思いをはせるべきです。北朝鮮が最も、恐れてるのは、
日本の世論。政党も、メディアも、あてになりません。
ネットの力を使う時です。

緑
green

國學院高校(7)

渋谷教室の授業後。國學院・女子が講師室に。
てっきり、過去問演習の質問かと、思いきや。

早稲田に受かりました。
え?

なんと、推薦入試。第一志望の早大・文化構想に合格したとか。
受験勉強が終わりました。四年前に教えてた、彼女のお姉さん。
やはり早大・文化構想に進学。今は四年生。同じ学部に
行くことになりました。姉妹そろってとは、スゴイ。

塾は最後まで、おいでよ。

コクンと頷く女子。せっかく本物に巡りあって、ここでやめては、
あまりにもったいない。私の教え子たるもの、最後まで、
やりぬかないと。

さあ、しし座・女子。やらなくても、よくなった時こそ、真の勉強。
他の塾生は、まだ必死。合格など、おくびにも出さず、続けましょう。
いろいろ、見えてくるものがあるはずです。

お茶
iced tea

國學院久我山高校(3)

渋谷教室の木曜・二限は国立クラス。休憩時間に、久我山・女子に
呼び止められました。聞いてると、文系・大学院に進学を考えてるとか。
私も文系・大学院の出身者。そのお粗末さについては、一家言あります。

けれど、今から、およその研究テーマを決め、それを体系的に
学んでいこうという久我山生。聞いてるうちに、文系・大学院なんて
腐ってる、とは言えなくなりました。

将来、研究職に就きたいなら、院の修了書は一種、免許の役割を
果たします。私が進学したのも、そのため。彼女の研究テーマを
聞いてるうち「それもいいかな」ということになりました。

学部の四年間で、目標が変わるかもしれませんが、研究職を
目指すなら、確かに、準備は早いにこしたことはありません。

事実上、今の文系・大学院は、就職できなかった社会不適応者の
吹きだまり。負け組ばかりが集まる場所で、切磋琢磨など、
ありえません。しかも、出てくる教員の怠慢といったら!

とはいえ、ポンコツ教員、ヘタレ院生に目もくれず、自分の
研究テーマを掘り下げていくなら、研究職も夢ではありません。
今は、選択肢の一つ、としておきましょう。

チョコ
Chocolade

田園調布雙葉高校(17)

自由英作文の課題が出ました。「日本人はもっと早く結婚すべき」。
百二十~百五十字のエッセイ。横浜教室の田雙生が取り組みました。
誰でも、この課題を与えられれば、真っ先に思い浮かぶのが、両親。

田雙生も、お母さんから聞いたことを基にして「結婚は、人生の経験を
積んでからの方がいい」と論じました。大きな課題でも、自分の足元から
積み上げることこそ、自由英作文に限らず、論展開の鉄則。
それを忠実に実行しました。

まだまだ、スペル・ミス、文法ミス。けれど、この訓練を続ければ、
受験英語なんて、軽く超えられます。毎回、というわけにはいきませんが、
これからも何度か、自由英作文を実施しましょう。新しい自分、新しい
世界を発見するはずです。それこそ、語学の意義。
無意味な留学など、全く必要ありません。

空
autumn sky

フェリス女学院高校(9)

フェリス生が二学期から新宿教室に通い始めました。一学期まで、
ずっと横浜教室。しかも、二年生の春から。通い慣れた横浜教室を
離れ、夏期講習は渋谷教室に。そして二学期は新宿教室。
横浜に閉じこもってた彼女の世界が、少しずつ広がります。

いつも同じメンバーでは、どうしても緩みが生じます。フェリス生、
それを感じたのか、新しい場所を求めました。どうせ大学生になれば、
東京に出てくるわけですから、今のうちに慣れておくことは、
悪い話では、ありません。

ゆくゆくは、東京と言わず、世界を視野に入れて、ビジネスを
展開しなければ。横浜に、とどまってはいられません。

新宿教室には、ほとんどいないフェリス生。だからこそ、緊張感も
生まれます。ドンドン自分に負荷をかけていきましょう。

花畑
flowerbed

進まない日朝交渉(5)

安保法制の参議院・採決が大詰め。国会前では、あいかわらず護憲派の
デモ。結局、国会論議で、拉致問題が語られることは、ありませんでした。

憲法九条あればこそ、拉致され、そして数十年間、取り返せなかった同胞。
その問題が、全く取り上げられなかったことが、私にはフシギでなりません。

護憲派は「戦争法案」と言いながら、北朝鮮による拉致については、
一言もありません。中国の南シナ海への進出についても、沈黙。
人権だの戦争反対だの言うなら、まず朝鮮総連や、中国大使館に
デモをかけるべきでは、ないでしょうか?

もちろん、彼らに、そんな度胸は、ありません。首相官邸や、国会前なら、
何もしてこないと安心してるから、どんちゃん騒ぎ。

最近、社民党の集会で「拉致より憲法」という言葉が飛びだしました。
いかにも、彼らが言いそうなこと。この倒錯を、誰も、何とも
思わないのでしょうか?

社民党の前身、旧・日本社会党は、北朝鮮ベッタリ。彼らは平成十四年、
五名の拉致被害者が帰ってくるまで「拉致問題は、家族のいいがかり」
と言い続け、HPでも、堂々と掲載。その後、謝罪の言葉も、
ありません。

護憲派の真の姿は、こうした親北、親中。自分でどう思ってるかは
分かりませんが、外国勢力に、いいように操られてます。

護憲派=平和を愛する人でなく、護憲派=親北・親中。
共産主義者です。日本より、北朝鮮、中国が好きな者たち。
日本人がどうなろうと、何とも思ってません。

与党は、どうして、反対派の親北、親中姿勢をあぶりだし、拉致被害者を
国会に呼んで、日本に憲法九条があるから、取り返せない、
と証言させなかったのでしょうか?

今、インテリジェンスの間では、北朝鮮が、生きてる拉致被害者を殺し、
その体液を、別な死体に混ぜ、証拠として出してくるのではないか、
という話が囁かれてます。北朝鮮なら、やりかねないでしょう。

戦争法案だの、徴兵制だの、愚かなデマに騙されてはなりません。
今回の安保法制では、今までと、ほとんど何も変わらないし、せいぜい、
米軍の後方で、機雷除去や補給活動ができるだけ。安全な場所に
限定します、などという、国際的に笑われるような法案。

本来なら、自衛隊の違憲性をシッカリ見つめ、自衛隊を必要と思うなら、
日本国民は今、改憲に動くべきです。それが筋です。

けれど、安保法制ごときで、これほど愚かな反対運動が起きるのを
見れば、与党のやり方も、やむをえなかったのかな、
そう思わずにいられません。

収穫
rice field

雙葉高校(7)

月曜・一限の新宿教室。国立クラスに毎週、来てる雙葉生。
一学期から一度も休んでません。先週から続いた自由英作文の
課題「日本人はもっと早く結婚すべき」。それに対し、賛成の
立場から英文を書いてきました。

早く結婚すれば、子供を産むことができます。子供は喜びを
与えてくれ、人生の意味も教えてくれる。いかにも女性らしい、
優しいエッセイ。しかもスペル・ミス、文法ミスが、ほとんど
なくなりました。

そんなエッセイを書いてても、彼女自身の将来は、バリバリと
キャリアを積んでいく人生のはず。でも、心には女性としての幸せ。
両立は難しいけれど、不可能でもありません。彼女の、
これからの人間力しだいです。

秋の日
autumn forest

FRBの利上げ時期(2)

FRB(連邦準備銀行)が今週中に発表するFOMC議事録。九月の
利上げがあるかどうか、明かされます。世界の金融関係者は今、
そのゆくえに注目。この一週間、FRB幹部はメディアと一切、
接触なし。「ブラック・アウト」と呼ばれる期間。

今回の発表内容によって、為替、株価は大きく動きます。
インサイダー情報でもあれば、大儲けできるのですが、私に
そんなコネは、ありません。予想もできません。市場予想でも、
利上げするかどうかについては、半々で拮抗。

発表を待ちましょう。それから動いても、遅くはありません。
目先、日米の株式市場は軟調。利上げとなれば、さらに下がり
ますから、日経平均が1万5000円台も覚悟すべきです。

野原
Feld

二・二六事件

二・二六事件は四日で収束。事件そのものは、大きくありません。
陸軍・上層部には、決起軍人たちにシンパシーを感じた者も、
何名かいたようです。けれど、昭和天皇にどやされて、シュン。

反乱部隊は原隊復帰。決起・首謀者の尉官たちは逮捕され、
一度の軍法会議。そして銃殺。

要人も殺されました。国家運営で損失だったのは、高橋是清・蔵相の死亡。
岡田首相の死亡報は、すぐに流れましたが、高橋蔵相の死亡報は
伏せられました。株式市場への影響が心配されたからです。
後に、岡田首相は生存と判明。

二・二六事件の歴史的意義は、映画に描かれる決起ドラマでなく、
この事件によって、陸軍内で皇道派が一掃され、統制派が実権を
握ったこと。統制派は「対支一撃論」を唱えてましたから、翌年の
盧溝橋事件は、起こるべくして起きたと言えます。

盧溝橋事件、支那事変がなければ、地獄の対米戦争もなかった
わけですから、統制派・拡大が日本史に与えた影響こそ、
二・二六事件の反省として、語り継ぐべきでしょう。

統制派を率いた永田鉄山は前年、暗殺。一期下の東条英機は
第一次・近衛内閣で陸相。政治家でした。事実上、対支一撃論を
支えたのは、後輩、武藤章(むとう あきら)。

参謀本部で作戦部長だった石原莞爾は、支那事変に関し、
拡大をやめろと叫びましたが、下僚の作戦課長・武藤は、平然と。

石原閣下が満州でおやりになったことを、我々は北支で
やっているだけで、あります。

石原は二の句が告げませんでした。結局、泥沼の支那事変、
対米戦争は、こうして始まります。元を辿れば、二・二六事件。
二・二六事件こそ、大東亜戦争の始まりだと見るべきです。

ちなみに、武藤が東京裁判で、中将でありながら、処刑されたのも、
この中国進出・推進を咎められてのことです。

すすき
Herbst

坂本弁護士一家・殺害事件

昭和六十四年・十一月、横浜・磯子の弁護士一家が突然、失踪する
という事件が起きました。翌朝、訪ねてきた母親が失踪に気づき、
通報。寝室の隅にオウム・バッジ(プルシャ)が落ちてたことから、
オウム真理教の関与が疑われました。

当時、オウム真理教と最も対立したのは日本共産党。坂本弁護士は、
党員ではありませんでしたが、所属する事務所は、人絹弁護士ばかり。
彼の妻も、宇都宮健児の事務所で働いてましたから、およその
思想傾向は分かるでしょう。

坂本弁護士はオウムを調査し、対立するようになりました。
教団幹部とも、接触したようです。

その一家が失踪したわけですから、当然、オウムが疑われました。
けれど、結局、さたやみに。わけが分からないまま、
時間だけ、流れました。

六年後の平成七年・三月の地下鉄サリン事件。この時、はじめて
オウム信者の自供によって、オウム犯行となり、自供にしたがって、
死体遺棄場所を掘ってみると、死体が三つ出てきました。
これで、この事件は確定。

掘り出した死体を車に乗せて運ぶ時、整列した警察官が、一斉に
帽子を取るパフォーマンス。神奈川県警は、捜査段階で、何も
できませんでしたが、こんなことでもして、やっとアピール。

信者証言では、午前三時ごろ、坂本弁護士アパートに押し入り、
坂本さんに馬乗りになって絞殺。妻、子も次々に殺していきました。
三つの死体をアパート二階から運び、車で持ち去ったとか。
いつしか、死体はドラム缶に入れられてました。

掘り出された坂本弁護士の死体。のど骨は折れてません。そして、
頭蓋に大きな陥没。この陥没が死因の可能性があるのですが、
裁判では、なぜかスルー。

磯子アパートは、どこにでもある、安アパート。上下、左右とも、
生活音は筒抜け。よく水道の音が聞こえた、ということです。
坂本弁護士は、写真からも分かるように、巨漢。それをいきなり、
押し入って、絞殺し、階下へに運ぶわけですから、相当な
物音がしたはず。

けれど、横の住人も階下の住人も、何の物音も聞いてません。
階下の住人は、ちょうど午前三時ごろ、授乳してましたが、
静かだったと証言。

裁判では、妻が「せめて子供だけは」と言うのを振り払って、妻、子に
手をかけたことになってます。しかし、この命がけの必死の叫びを、
安アパートの誰も、近所の者も、誰一人、聞いてません。妻は、
ささやくように、犯人の耳元で、こう言ったのでしょうか?

三つの遺体を運ぶ時、階段は、ミシミシ音を立てたはず。けれど、
そんな音を聞いた者も、いません。これは、どういうことでしょう。

現場に落ちてたプルシャ。一体、オウム信者たちは、犯行に及ぶ前、
プルシャを付け「さあ、やるぞ」と臨んだのでしょうか? 裁判では、
格闘の末、プルシャが外れたことになってますが、押収された
プルシャの留め金はまっすぐ。

そして殺害方法。絞殺だと、凶器は必要ありません。自供のみ。
しかも、実行犯たちの自供は、それぞれ大きく食い違い、
裁判過程で修正されるという、杜撰。

結局、実行犯の自供で、唯一、正確だったのは、一度しか行った
ことのない山中での死体遺棄場所。この正確さは、
何を意味するでしょうか?

そう。この殺害事件は、不自然なことだらけ。そもそも坂本弁護士が
ジャマなら、一人だけターゲットにすればいいのに、どうして、
家族全員、道連れにしなければならないのでしょうか?

坂本弁護士は夜遅く帰宅することも多く、駅からアパートまでの
道には、拉致に好都合な暗がりが、いくらでもあったのに?

日本には、あまた事件記者がいるようですが、これらを指摘する
者は、皆無。メディアなど、何の役にも、立ちません。

有力な説として、一家は午前三時に絞殺されたのでなく、もっと早い
時刻、夕食がすんだ後くらいに、何らかの連絡が入り、あるいは
訪問者があり、一家で急いでアパートを出ていった、
という推論があります。

流し台には、夕食の食器が洗われず、積んだまま。妻が結婚以来、
毎晩、寝る前につけてた家計簿も、この夜は空白。アパートで、
就寝しなかった、と強く類推されます。

出ていった先で、何かの事件に巻きこまれた、ということ。出ていった
先での事件に、オウム信者がどれほど関わってるか、
私には、分かりません。

この夜、三人連れ家族を乗せたというタクシー証言があり、
懸賞広告にもなりました。これも、うやむやに。

では、誰が? 何のために? 裁判では、実行犯たちの自供が二転、
三転。結局、何も分からないまま。これでは、坂本さん一家は
うかばれません。遺族も納得できません。

そもそも地下鉄サリン事件と坂本事件は、関係ありません。なのに、
サリン事件が起きてから、突然、この事件。神奈川県警は一体、
六年間、何をしてたのでしょうか? 県民の税金を使って?

この事件は、謎だらけ。もっと光を当て、世論を喚起すべきです。

ひなぎく
Frieden

永田鉄山

永田の前に永田なく、永田の後に永田なし。

陸士・十六期、陸大・二十三期の永田は、その優秀さを、陸軍内で、
こう表現されました。ずば抜けた頭脳。試験勉強せずとも、
いつも首席。

陸士・十六期は永田の他、小畑敏四郎、岡村寧次といった逸材が
いたのですが、勉強では、全く永田に歯が立ちません。陸士を
首席卒業。陸大は、二位卒業。陸大の首席は、梅津美治郎
(うめず よしじろう)。終戦時の参謀総長。

軍政に進む者は、試験秀才が重宝されました。永田は同期の中で
最速で出世。その過程で、しだいに「統制経済」にのめりこみます。
まず経済力。そして軍の近代化。永田には、ソ連に歩兵で突入しよう
という皇道派が、時代遅れに見えました。永田は、いつしか
統制派トップに。

永田の主張は、ソ連と戦うなら、まず飛行機、戦車を拡充しようと
いうもの。この軍近代化は正しいでしょう。当時、ソ連は極東に大型の
爆撃機を数十機そろえ、いつでも満州・各都市を爆撃できる体制。
昭和六年、関東軍が満州事変を起こしたのも、この年、ソ連・
極東空軍の戦力が、看過できるレベルを超えたからです。

永田は、対ソ戦をめぐって皇道派トップの小畑と、陸軍の幕僚会議で
大ゲンカ。昭和八年のことです。永田の経済優先、軍近代化は
決して間違ってないのですが、なぜか永田。ソ連・攻撃の前に
中国に一撃を加え、屈服させようと主張。

陸士で後輩だった東条英機と共に、この「対支一撃論」を唱えた点で、
試験秀才・永田の歴史的評価は決まります。なぜ、北進論を捨て、
中国と戦わねばならないのでしょうか? 陸軍の仮想敵国は、
明治期の「帝国国防方針」以来、ずっとソ連だったのでは
ないでしょうか?

ひょっとして、永田。統制経済に心酔するあまり、統制経済の中心、
ソ連にシンパシーを感じてたのでは? もしそうなら、それは
ゾルゲ事件の尾崎秀美と、何が違うでしょうか?

永田の出世は止まらず、昭和九年、軍務局長に就任。当時、
国家予算の半分が軍事予算。陸軍、海軍で折半するとして、
陸軍予算は国家予算の四分の一。その予算を胸一つで差配できる
ポスト。軍務局長は将来、陸相は確実。情勢しだいでは、首相も。

永田は軍務課長だった昭和七年、皇道派の領袖、真崎甚三郎・
教育総監を更迭。後任に統制派を送りこみました。そんな永田が
昭和九年、軍務局長になったとあって、皇道派が動きました。

剣道達人だった中佐を使い、永田を暗殺。白昼堂々、軍務局長室で、
日本刀で斬りかかるという前代未聞。このような大事件が、
中佐一人の単独犯なわけないでしょう。昭和十年。

永田をなきものにした皇道派。意気が上がります。翌・昭和十一年・
二月、ついに二・二六事件を決行。これは昭和天皇の不興を買い、
失敗。首謀者の左官クラスは銃殺。小畑も予備役に。
統制派の天下となりました。

結果的には、永田が主張した対支一撃論が採用され、北進は見送られ
ました。統制派の後輩だった武藤章が、中国進出を推進。日本は
泥沼の支那事変、対米戦争へと突入することになります。

桜島
nature

皇道派と統制派

昭和期・初め、「昭和維新」を掲げた陸軍軍人の一派がありました。
皇道派です。彼らは真崎甚三郎、荒木貞夫の大将を担ぎ、天皇親政を
目指しました。政党や財閥に任せては、日本は、たちゆかないという
強い危機感。昭和四年からの恐慌が、彼らを動かしました。

実は、天皇親政など、当時、既にムリだったのですが、皇道派は、
そう信じました。実質的に皇道派を仕切ったのは小畑敏四郎
(おばた としろう)少将。陸士・十六期の秀才。

天皇親政を掲げるからには、皇道派は徹底的な反共。ソ連をまず
倒そう、と主張。明治期の「帝国国防方針」以来、陸軍の仮想
敵国はソ連だったわけですから、これは当然の主張。

一方、財閥と組んで、統制経済で日本を強くしようと主張した一派も
ありました。統制派。彼らは満州に渡り、そこで彼らの言う統制経済を
実行。レーニン、スターリン、ヒトラーに心酔。陸軍・統制派は、半分、
共産主義者だったと言っても、過言ではありません。

陸軍内で、猛烈な路線対立が生じました。皇道派と違い、統制派は
「対支一撃論」。ソ連と戦う前に中国を倒すべきと主張。軍務局・
軍務課長だった永田鉄山が、林銑十郎・大将を担ぎ、
中国進出を説きました。

今、振りかえれば、皇道派の主張が通ってれば、日本はソ連とだけ、戦争。
西のドイツとの挟み撃ちによって、ソ連は降伏したでしょう。
当然、支那事変も対米戦争もありません。

統制派が陸軍の覇権を握り、半分、共産主義者みたいな軍人が権力を
取ってから、日本は破滅に向かいました。そう。皇道派が二・二六事件
さえ起こさず、皇道派が覇権を取ってれば、日本は悲惨な対米戦争を
経験しなくても、よかったのに・・・

今の教育では、テロリストみたいに教えられる皇道派が、
少し別の視点で見えてくることでしょう。

白
histoire

光塩女子学院・高等科(7)

新宿教室の月曜・一限。国立クラスに光塩生が二名。一学期からの
女子に加え、夏期講習から一名。夏期講習からの女子は夏、
渋谷教室で受けてましたが、本科は新宿教室に来るようです。

肩からかかる光塩の制服が、新宿教室で並んで座ることになりました。
光塩生は毎年、来ても私立クラス。早慶のどこかの学部に受かれば、
よかったね、終わります。けれど今年は、国立クラスに二名。
青雲の志を秘め、女子が来塾。私も、襟を正さないと。

塾に来るだけあって、二人とも基礎はキッチリ鍛えられてます。
それ以上の応用は、学校でムリと判断して、来てるのでしょう。
分かりました。最短距離の方法を伝授しましょう。

道
Leben

青山高校(48)

渋谷教室の木曜・二限は国立クラス。二学期から青高・男子が
通い始めました。夏期講習に来て、手応えを掴んだようです。
授業後、帰りのエレベーターで彼とバッタリ。
外苑祭の話になりました。

今年、外苑祭・一位は「ユタ」。彼のクラスは「とりつかれ男」。
何位だったか聞いてみました。すると。

二位の後は発表されないんですよ・・・

順位はともかく、演じてて楽しかったという青高・男子。
今しかできない思い出を作りました。青高に行ったからには、
外苑祭の舞台に立たないと。

ちなみに外苑祭。毎年、人気が上がって、今年は過去最高の
入場者数。私も日曜日、行ってはみたのですが、長蛇の列。
スゴスゴ帰るはめに。あまり、人気が出すぎるのも、
考えものですね。

ネコ
Katze

ビリケン宰相

山縣有朋、桂太郎と続いた長州の陸軍閥。それを後継したのが
寺内正毅(てらうち まさたけ)。大正五年、第二次・大隈内閣の後、
組閣。第一次・世界大戦のまっただ中。山縣が推挙し、
大命が下りました。

成立過程が山縣の推挙とあって、立憲とは呼べません。
「非立憲内閣」と言われました。しかも、寺内。当時、はやってた
ビリケン人形にそっくり。いつしか「非立憲」とかけて
「ビリケン宰相」と呼ばれるようになりました。

ちなみに、今、ビリケン様といえば、大阪・通天閣。ビリケン様の
足に触るとご利益がある、ということで、足がすり減ってます。

寺内組閣から十三年経った昭和四年、濱口内閣が誕生。
この時も、濱口雄幸は「ライオン宰相」。勇猛だったからでなく、
単に顔がライオンに似てたから。当時の人は、首相の容貌に、
あけすけでした。

さて、寺内首相。長州、陸軍の期待を背負った割には、大した成果も
挙げられませんでした。大正六年のロシア革命後、シベリア出兵を
決めてますが、これを成果とは言い難いでしょう。

結局、富山の主婦が起こした米騒動で、退陣するという情けない
幕引き。この体たらくを見て、後輩の田中儀一は長州閥には、
もう頼れないと判断。立憲政友会の原敬に、接近し始めます。

羽
feather

世田学の二年生

渋谷教室の木曜・一限。二年生の東大クラス。世田学生が毎回、
出席。クラスを引っ張ってます。まだ十名弱のこのクラス。
二年生だから、欠席も多く、クラスは沈みがちに。

そんな時、いつも一番前で気をはいてる世田学生。彼の背中を
見て、ま、ちょっとガンバろう、と後続する塾生もいることでしょう。
そう。塾は一人で勉強する場所では、ありません。

切磋琢磨のためには、どうしても引っ張る塾生が必要。
今回、たまたま、世田学生がその役割に。

そこにいるだけで、周囲に刺激を与えること。これからの人生で、
大切なこと。塾で、その一端でも身に付けば、大したものです。

秋の山
autumn mountain

東京女学館高校(6)

水曜日の渋谷教室は私立クラス。テキストを解いた後、自由英作文。
課題は「日本人はもっと早く結婚すべき」。これに賛成、反対の
意見を英語で書きます。精鋭女子たちが、取り組みました。

そんな中、一番後ろに座ってる女学館生。賛成の立場から、
論を起こしました。学校では、五人兄弟の子がいて、その子を
見てると、兄弟が良い友人にもなってる、と観察。たくさんの兄弟が
そろうためには、当然、早婚が必要。そう書きました。

身近な話題を取り上げ、一般論へもっていくことこそ、
自由英作文に限らず、小論文でも、大学レポートでも大切なこと。
それを実行しました。手応えを感じたことでしょう。

今回は賛成の論しか書けませんでした。次回、もっと速く書いて、
両論、書けるようにしましょう。二学期の課題が、
一つ見つかりました。

コスモス
cosmos
プロフィール

ゆめラジオ

Author:ゆめラジオ
ユーチューブとリンク

リンク
最新記事
最新コメント
カテゴリ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学校・教育
121位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
塾・予備校
12位
アクセスランキングを見る>>
カレンダー
08 | 2015/09 | 10
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 - - -
検索フォーム
月別アーカイブ