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岐阜大学

織田信長は1567年(永禄10年)斎藤氏を排して稲葉山城(いなばやま じょう)
に入城。この地を「岐阜」と名づけ、以降1576年(天正4年)に安土城に
移るまでの九年間、ここを居城としました。

武力で天下を統一するという「天下布武」(てんか ふぶ)を、信長が
唱えたのもここ。岐阜時代、信長は楽市・楽座を開いて国を富まし、
さまざまな戦いを勝ち抜いて、領土を拡大していきました。

そんな岐阜にある国立大・岐阜大学。地元では「岐大」(ぎだい)。
駅から自転車を走らせても三十分以上。キャンパス周囲には田んぼ。
教育学部を除くと、文系学部は地域科学部のみ。
理系学部は医学部、工学部、応用生物科学部。

川の向こうに医学部。そして附属病院。
川のこちら側に大学本部。そして他の全ての学部。

地域科学部は地域政策学科、地域文化学科に分かれます。
公務員や地元企業・就職者のための学部。

応用生物科学部には共同獣医学科も。小規模ながら、
附属動物病院がキャンパス内にあります。

工学部では機械、電子、化学から環境、生命まで、一通りのことは
学べる体制。地方の工学部らしく「ものづくり」を重視。

全体が一つのキャンパスにあるのは良いのですが、岐大。
何となく小さくまとまってしまいました。大学としての
メッセージやインパクトがありません。

失敗を恐れず、世間にアピールする姿勢をもう少し打ち出しても、
いいのではないでしょうか。例えば、医学部と工学部が一つの
キャンパスにあるのだから、医工融合のセンターなり、研究所なりを
設立して、再生医療を研究する、なんてどうでしょう?
医学部はともかく、工学部の偏差値は急上昇するでしょう。

今、岐阜は街を挙げて、地域の英雄・信長をアピール。ならば岐大。
信長にならって「岐大、ここにあり」とまず天下に名乗りを上げ、
ドンドン新しい試みを示していくべきでしょう。

傘
umbrella

昭和十二年度の国家予算

昭和十二年七月、盧溝橋事件(ろこうきょう じけん)によって
支那事変が勃発。日本はその後、泥沼の対米戦へ向かいます。

この昭和十二年の税収は13億円。これに対し一般会計・歳出は27億円。
一般会計・歳出での軍事費は12億円でした。事変勃発により、
20億円の臨時軍事費・特別会計が組まれました。国債発行。
これにより軍事費は12+20で32億円。

一般会計・歳出と特別会計を合わせれば47億円。
その47億円に占める軍事費32億円の割合は約70%。
国家予算の七割が軍事費に占められてました。

この後、大東亜戦争・終戦まで、およそ七割台の軍事費・支出が
続きます。昭和十九年には一般会計・歳出+特別会計は、
なんと860億円。軍事費はその86%の740億円。

ところが、この額ですら、広い中国大陸で百万人・規模で展開してた
帝国陸軍を養うには全く足りませんでした。では、その賄えない額を、
日本政府は当時、どうやって調達してたのでしょうか? 一体、
日本の戦争経済は、どのようなものだったのでしょうか?
この問題については、また次に考えてみましょう。

ひなぎく
spring

岐阜高校

JR岐阜駅は名古屋から新快速で十分ほど。南口を出た所にレンタ・
サイクル。一日・百円。これを利用しましょう。自転車に乗って北口へ
行くと、大きな広場。金色像。見上げると信長。右手には種子島
(鉄砲)左手には西洋兜(せいよう かぶと)を持ってます。

通りを行き交う岐阜バスにも信長の姿が。しかもバスごとに違う絵柄。
岐阜駅から北へは二つの大通り。長良橋(ながらばし)通りと忠節橋
(ちゅうせつ ばし)通り。忠節橋通りをしばらく北上して真砂・
交差点を左へ曲がると岐阜高校。地元では「岐高」(ぎこう)。

岐阜中学が前身。戦後、岐阜高女とくっついて、男女共学の岐阜高校に。
四階建ての白い校舎に窓が大きく設計されていて、外光が入り、明るい。新しい校舎で、
校舎ができてからまだ二年。

正門前には管理棟。この棟に職員室があります。書道室、美術室、
生物室といった特別教室も。管理棟から渡り廊下でA棟、B棟、C棟。
A棟は一年生、B棟は二年生、C棟は三年生の教室。C棟向こうは
大きな体育館。体育館は昨年できたばかり。

校舎の中に入ると、廊下と教室の間もガラス張り。廊下から教室の様子が
一目で分かります。A棟とB棟をつなぐ渡り廊下。なんと、ここに図書室。
入口には、ちょうど二・二六事件の特集が組まれてました。問題意識の
ない高校では、決してこのような特集が組まれたりしません。

岐高生の一日は十分間の「朝の読書」から始まります。
何でもいいから本を読む時間。集中力を付けるのが狙い。

それから六十五分授業が午前中に三つ、午後に二つ。
五十分授業より多くの授業時間となります。その成果は
岐高の進学実績にも現れていて、毎年、東大に十名程度、
京大にも二十~三十名の合格者を出してます。
もちろん岐阜No.1。

大きな窓からはグラウンドが見渡せます。広いグラウンド。
野球とサッカーが同時にできそうです。向こうには堤防。
そして長良川(ながら がわ)。

このグラウンドを利用して部活動も盛ん。野球部は毎年、
県大会ベスト8、良ければベスト4くらいに入ります。ただ、
さすがに県代表として甲子園に行くまでは至らないようです。

陸上競技部も東海大会までは進みます。
時にはインターハイ出場も。

文化部では自然科学部を挙げるべきでしょう。生物班が県内の
サンショウウオの研究・保護活動で評価されてます。カラドジョウの
生息を初めて確認したのも、この生物班。高度な学会にも参加し、
大学、研究機関とも協力してるとか。

音楽部は毎年のように全国大会に出場。
2007年(平成19年)には金賞を受賞。

環境は抜群。伝統の裏打ちもあり、進学実績もいい。部活動の実績も
申し分なし。岐高の人気は、これからも続くでしょう。

岐阜城
Gifu Castle

公文国際学園・高等部

JR大船駅・西口。大きな白い観音像が山上に。バス・ターミナルへは、
しばらく歩きます。四番乗り場。公文国際学園・行きのバスが出発。

道の両側はすぐに畑に。野菜が売られてます。やがてバス停。
神奈中バスではあっても、直通なのでノン・ストップ。
バスを降りると、上へと続く小径。
森の中みたいな道を歩きます。

視界はパッと開け、公文国際学園の正門。設立は新しく1993年(平成5年)。
国際社会で貢献できる人材輩出を目指して「国際」の言葉が校名に
加えられました。確かに「公文学園」だと、いかにもドリルばかり
やらされそうですね。「国際」を付けたのは正解でした。

中高一貫で、高校からの入学はありません。六年間を三つのゾーンに分けます。
基礎期がイエロー・ゾーン。充実期がグリーン・ゾーン。発展期がブルー・ゾーン。

確かに六年間を3・3と分けるより、2・2・2と分けた方が、よりメリハリある
学園生活になります。もちろん勉強も進みます。今後、中高一貫校は、
おしなべて、この制度の方へ移っていくでしょう。

正門を入って左のイエロー・ゾーンに行くと、まさにイエロー。下駄箱も壁も。
自分の現在の立ち位置が、色でクッキリ分かるようになってます。
そしてグリーン・ゾーン。下には人工芝のグラウンド。
円形の食堂も。ガラス張りで中は明るい。

寮も充実。食堂の向こうには男子寮・えんじゅ寮。ブルー・ゾーンの向こうは
女子寮・こすずめ寮。女子寮生は食事の時だけ男子寮に向かいます。
男子寮生は女子寮に向かう用事がありません。
これでよいのですね。

中一は全員、四か月の「寮体験プログラム」を課せられます。
入寮期は四月~夏休みか、九月~冬休み、のどちらか。

プログラム中は四人部屋で生活し、協調性を養います。
土日は自宅に帰れます。プログラム終了後、自宅が
近くにある人は通学し、遠ければ寮生活を続けます。

一旦、寮生活に慣れると、通学時間がいらないなど、メリットに気づき、
自宅が近くても、そのまま寮生活を続ける生徒もいるとか。
人生のこの時期、慣れることさえできれば、
寮生活は大きなプラスでしょう。

公文式も取り入れた効率的な勉強の結果、公文国際はそこそこの進学実績を
出してます。昨年度・実績で東大11名。早大57名。慶大22名。
一学年が百六十名であれば、いい数字でしょう。

けれど公文生。勉強ばかりしてるわけではありません。
運動部では昨年、ビーチ・バレー部が全国大会で優勝。
校内にはビーチ・バレー専用コートも。

文化部で秀逸なのは科学技術研究部。栃木で開かれる
「HONDAエコマイレッジ・チャレンジ大会」に毎年、出場。
自分たちで作った乗り物を出品してます。

五月の体育祭。十月の表現祭(文化祭)。表現祭では企画から実行まで、
全て生徒の手で行います。昨年十月、教え子から表現祭のパンフレットを
もらった私。他校の文化祭とかぶって行けませんでした。

彼女も公文生。実家は福井。寮生活です。公文生は私服。
もちろん彼女も私服。土曜日の横浜教室。終わった後、駅まで
よく一緒に帰りました。学校の話。福井の話。将来の話・・・
寮に友人はいても、やはりサビしかったのでしょう。
土曜日の勉強の後、少し息抜きがしたかったのかもしれません。

冬期講習にも直前講習にも姿を見せなかった彼女。
どうしてるのでしょうか。きっと自分なりのペースで勉強を続けたはず。
もうすぐ結果報告に来てくれるでしょう。

キャベツ畑
field

海城の卒業生

海城・卒業生が二人、新宿教室に。と言っても、教えてたのは
かれこれ、もう五年前。一人は一浪して東大に。もう一人は
現役で横国に。東大の男子は大手・総合商社に就職を決めたとのこと。
食糧部門で活躍したいようです。

横国・男子は今、大学院。これから就活。通信を専攻してるから、
ソリューションを専門としてる外資・大手を目指すとか。

教えてた頃と比べて、スッカリ大人になってました。一瞬ビックリ。
二人とも五年経って、フッと塾のことを想い出したのですね。
そこで習った、チョッピリ変わった先生のことも。

塾の勉強、少しは役に立った?

私は聞いてみました。すると。

今まで受けた中で、一番楽しかったです。

テヘヘ。話半分としてもウレシイ限り。これから広い世界に出て行く二人。
塾、そして大学で、眉を知性で濡らしました。その想い出を胸に、
これから広い世界へ羽ばたいて下さい。

竹
bamboo

近大みかん

和歌山県・湯浅町にある近大の附属農場・湯浅農場。
ここでは、温暖な気候を利用して、熱帯果樹類の
実用化栽培に関する研究・開発が進められています。

ここで栽培された「近大みかん」は、有機肥料で栽培。
木の間隔を広く取り、背丈も低くし、太陽の光を
シッカリ浴びて育ちます。

近大・農学部・農業生産学科の三年生が集中実習で、
みかんの収穫、選別、箱詰を行います。一つ一つ、
形と熟れ具合いを見ながら、丁寧に収穫。

「近大みかん」として販売されます。このみかんを使った
無添加みかんジュース「100% 近大です」も。

同農場では他に「近大マンゴー」も出荷予定。
品種改良の結果、糖度を高めることに成功しました。

近大は「学問は世の中に貢献してこそ意味がある」という
ポリシーの下、企業と合同でさまざまな商品を開発。

「リエゾン・センター」が大学研究と企業の
橋渡しをしてます。特許の出願、企業への研究成果アピールなど、
このリエゾン・センターが仲介となって行われてます。

理系だけでなく文系の学生が提案したビジネス・モデルの
事業化、デザイン・コンセプトの紹介も。

近大の勢いは止まりません。同志社や関学が古い
キリスト教・体質から抜け出せず、欧州凋落のあおりを受け、
今後、衰退が予想される中、実利を追求する近大の姿勢は
目を見張るものがあります。

今後、十年ほどで関関同立を抜く可能性も
出てきました。勢いというのは、そういうものです。
関西・私大の雄、近大。

昔、近大・卒業生と言えば、大相撲の大関・朝潮
(現・高砂親方)のイメージでした。

けれど、それも一変。昨年のロンドン・オリンピック。
競泳陣が日本を沸かしました。背泳ぎで活躍した
入江陵介(いりえ りょうすけ)選手は近大・法を卒業。

それもあって、今年の私大・志願者数ランキングでは、
近大は大幅に順位を上げました。東京の私大、たとえば、
早大・慶大・明大などが志願者数を減らす中、
近大は大健闘。未来ある大学です。

花々
flowers

西南学院大学

修猷館高校から道を隔てたすぐ北にあります。両校に何かつながりが
あるのか調べてみましたが不明。ヤフー・ドームの近く。福岡タワーも。
最寄駅は地下鉄・西新駅(にしじん えき)。

神学部。文学部。商学部。経済学部。法学部。人間科学部。国際文化学部。
いろいろあるようでいて、全て文系。それ故、一つのキャンパスに
まとめることができたようです。

キリスト教の「人間愛」に基づく教育を目指し、1916年(大正7年)に
設立されました。学内にはチャペルまで。都内の青学大、
明学大のような大学が、福岡にもできた、と言えば、
分かりやすいでしょう。

さて西南大。昨年度の入学者は1401名。このうち、福岡県内から1055名。
九州・沖縄地域から1316名。入学者のほとんどが九州・出身者。
当然、卒業生の就職先も地元の公務員、教員、JR九州、
九州電力などが目標。

地方の国立大は地元のリーダーを輩出する役割を果たしてます。
西南大も私学ながら、その役割を果たしてるということでしょうか。

ただし、この目標設定。そこそこ歴史のある西南大としては、ちょっと
低すぎないでしょうか? もう少し全国を見据えた大学運営をしても
いいのではないでしょうか?

小さくまとまった西南大からは、全国レベルの研究も出ず、ニュースも
発信されません。恐らく教員も、生え抜き研究者を出せず、九大や
他の有力大の植民地になってるのではないでしょうか。

そう。西南大。東京・大阪から、もっと学生を引っ張ってくる努力を
すべきです。そうでないと「九大落ちたけど、浪人もイヤだし」という
学生ばかりで占められるでしょう。見渡せば九州・出身者だらけ。
雰囲気も高校と変わらなくなります。

学部が文系だけということも、他者と接触できない、という点で
マイナス。西南大では本質的な驚きや発見を期待できません。

とはいえ西南大。この点にはシッカリ気づいたようです。
理系学部を二つ、設置予定だと発表しました。定員は500名。
早ければ2014年にもスタートさせたい、とのこと。

東京オフィスも設置。場所は東京駅・八重洲口。駅からすぐの
サピア・タワー十階。東京での足掛かりに。西南大が動き始めました。
大学も進化しなくてはなりません。

西南大が今後、全国的な研究をドンドン発表し始めれば、
それは東京、大阪の大学にも大きな刺激となるでしょう。

花
spring

福岡大学

福岡にある国立大は九州大。福岡大は私学です。福岡市の南、
七隈(ななくま)という、博多駅から西鉄バスで五十分もかかる場所。

周囲は住宅街。そこにキャンパスが広がります。ヤフー・ドームが
四十四も入る広さ。しかもワン・キャンパス。文系・四学部、理系・四学部、
それにスポーツ科学部を揃えた九学部。堂々たる陣容。もちろん医学部も。

九学部の一年生から四年生(六年生)までが全員、この七隈キャンパスで
学びます。総勢二万人。官学・私学を問わず、こんな大学は「福大」
(ふくだい)だけ。キャンパス中央に医学部・附属病院・新館。
その隣には医学部・付属病院・本館。

文系学部は「文系センター棟」という高層棟にコンパクトにまとめ、
敷地の大半は理系学部が占めます。キャンパス内には大きな池も二つ。

昨年七月、中央図書館も完成しました。一階は広いラウンジ。
ラウンジに入ると「知の大地」「光の森」といったオブジェが
訪問者を驚かせます。ガラス・ケースには稀観本の展示。
ヨーロッパ法に関する書物。あるいは江戸時代の漢詩文・・・

二階から図書館。座席数・二千。収容本・二百二十万冊。書架、机、椅子、
全て木製。検索端末も充実。施設としては申し分ないでしょう。
福大が全学部を一か所にまとめた意義は大きい。
そう言わざるを得ません。

大学が活性化するためには、まず人文が理念を醸し出し、
他学部に浸透させていくことが不可欠。偏差値の低い
人文がガンバらないといけないわけです。

けれど都内の私大を見ても、地方の国立大を見ても、
キャンパスがバラバラ。数十㎞離れて点在する場合も。

これでユニバーシティもおこがましいでしょう。
牽引役の人文は本来の役割を忘れ、低い偏差値に甘んじ、
理系はと言うと、理念を抜きにして、単なるスキル向上に
いそしむことになります。

結果、よい技術、よい製品は出せても、それをアピールできない、
価値創造を伝達できない、という情けない状況に。しかも
これは日本の大学だけでなく、外から見た時の
日本社会そのものではないでしょうか?

それに対して福大。人文が他学部に理念を広めるためのインフラを
シッカリ整えました。人文だけではありません。医・薬・理・工の間でも
今どき連携は不可欠。研究を進めれば進めるほど、法とのつながりも
出てくるはず。学際研究へと道が開かれます。

見たこともないものに接することでの自己崩壊。
これまで思いもしなかった地平線の発見。

学部を問わず、大学でやらねばならない作業は本来、
そういうものです。しかし残念なことに、日本の大学では、
教員・学生、上から下まで、そんなことを思いもしないのが現状。

各自、自分が壊れることを恐れ、専門分野を小さく作って、そこに
閉じこもりたがります。タコ足キャンパスが、その傾向を一層、助長。

ここは一つ、福大の奮起に期待しましょう。
「真のユニバーシティはこうだ」と大々的に世間に
アピールするのです。それを見て、慌てふためく大学も
多いのではないでしょうか。

福大の規模なら財務も安定してるでしょうから、東京・大阪など、
主要都市で福大の魅力をガンガン発信していけばいいのです。
そんな広告の方が、目ざわりで下品な予備校・広告より、
よほど社会の啓蒙にもなるでしょう。

九州という土地は辺鄙なようでいて、古来、たびたび日本の歴史を
動かしてきました。閉塞した日本の大学。この現状を福大が変えて
くれるかもしれません。今はまだ、実力を秘めながら、
眠ったままの福大。いつ目覚めてくれるか、
注目しておきましょう。

白梅
ume

国士舘大・二十一世紀アジア学部

小田急線・鶴川駅(つるかわ えき)。駅を降りるとバス・ロータリー。
二番乗り場から小田急バスに乗りましょう。
どのバスに乗っても国士舘大に行きます。

え、国士舘って世田谷にあるんじゃ?

ここ町田にもキャンパスがあります。国士舘大・二十一世紀アジア学部。
バスはドンドン住宅街に。そして国士舘大学前。けれど降りても周囲は
都営住宅ばかり。キャンパスらしきものはありません。

ウロウロしてると看板が見えてきました。通りから引っ込んだ所に正門。
その向こうにキャンパスが広がってるのでした。二十一世紀アジア学部の
校舎は正門から歩いて行った、かなり奥まった場所。国士舘大の中でも
一番新しい学部。2002年(平成14年)4月に開学。

未来を予測する研究をしよう。アジアを全体的に捉えよう。

これが学部設立のグランド・コンセプト。三つのコースがあります。

交流アジアコース アジアビジネスコース アジア探求コース

国際関係論からアジアを研究したければ「交流アジアコース」。
貿易や実務に興味があるなら「アジアビジネスコース」。
文化や歴史を探求するなら「アジア探求コース」。

将来、ビジネスをやるにしても当該地域・文化への洞察は不可欠。
そういう考えが見えますね。語学としては中国語、韓国語、タイ語、
ベトナム語、インドネシア語、ロシア語、アラビア語を揃えてます。

在学中に留学し、現地でインターンとして働き、帰国して
卒業することが可能。現地での働きぶりが評価されれば、
卒業後、改めて就職するという道も。

今後、アジアの時代が到来するのは間違いありません。しかも重心は、
中国から次第にインド、東南アジアへと移っていくでしょう。

その時、このような学部を設立した意味が出て来ます。未来を
見据えた学部。国士舘大の試みは、今後、注目するに値します。

花束
bouquet

奈良高校

奈良には東大寺学園という男子校、西大和学園という共学校があり、
両校ともに京大・合格者ランキングの上位に位置してます。どちらも私立校。

けれど県立では断トツで奈良高校。戦前の奈良中学を前身とします。
地元では「奈高」(なこう)。もちろん男女共学。

奈良市を東西に走る一条通り。「奈良高校」というバス停。JR奈良駅からも
近鉄・奈良駅からも行けます。そのバス停を降りて、北へ200mほど歩くと、
ありました。奈高。正門から入ると、すぐに玄関。校舎はベージュ色。
玄関を入ると、すぐに中庭が見えます。中庭の向こうに北館校舎。

この中庭。「堅義の庭」と呼ばれてます。噴水。そして二人の彫像。
近寄ってみましょう。なんとプラトンとアリストテレスだとか。どうして、
ここにギリシアの哲学者が登場するのか、分かりませんが、
とにかく奈高。この中庭を誇りにしてます。

校訓はありませんが「自主創造」が学校の方針。確かに校舎を歩いてると、
よく見かける言葉。そんな奈高生。九割以上が部活動をします。

運動部ではアーチェリー部がインターハイの常連。1999年(平成11年)には、
インターハイで優勝するまでに。昨年度もアーチェリー部、
そして卓球部がインターハイに出場しました。

野球部も1991年(平成3年)春のセンバツに出場。甲子園・初出場。
ですが、この時には初戦で群馬代表・桐生第一高校に
6-10で負けてしまいました。

文化部ではロボット研究会が秀逸。2011年(平成23年)には全国大会で優勝。
その後、トルコ・イスタンブールで開かれた、ロボカップ世界大会に進みました。

運動も知性も磨ける奈高。東大寺や西大和に負けてません。
進学実績でも京大33名。阪大62名。神大47名。

奈高で授業を受けてると、東大寺や興福寺から鐘の音が聞こえてくるとのこと。
奈良は710年、元明天皇が遷都してできた街。平城京(へいじょう きょう)
として誕生。それ以来、多くの文化遺産を抱えて、今日に到ってます。
そんな遺産に囲まれての奈高生活。羨ましいですね。

大仏
Nara

桐光高校

川崎市・麻生区にあります。小田急・唐木田線(からきだ せん)で
新百合ヶ丘から二つ目の駅・栗平(くりひら)。ここが最寄駅。
駅を出るとすぐに住宅街。そして畑。桐光へ続く一本道。
田舎風景。一本道の向こうに、やがて桐光学園。
「とうこう がくえん」です。緩い坂道。

左に女子棟、右に男子棟。女子は男子棟に自由に入れますが、
男子は教員の付き添いがないと、女子棟には入れません。
部活動、学校行事は同じですが、授業は別々。
学園としては「男女別学」と自称。

1991年(平成3年)まで男子校でしたが、以降、女子も受け入れるように
なりました。中高一貫。けれど高校から入ることもできます。ただし、
高入生の場合、最初の一年間は別クラス。中学から勉強してきた
生徒とは、どうしても学力に開きがあるからです。

私が訪問したのは、ちょうど下校時。桐光生が校舎からゾロゾロ。
そんな校舎を歩いてると、野球部員がユニフォームを着て。

コンチハ!

挨拶して、そばを通り過ぎます。桐光・野球部! 彼らの後について行くと、
野球部・専用のグラウンド。広い。ここなら思いきり練習できそうです。
見てると、野球部員。グラウンドに入る前、帽子を脱ぎ、
一礼し、大きな声で挨拶「オッス」。さすが。

松井クンはいないかな。

探しましたが、見つけられませんでした。桐光の歴史を辿れば、
1980年頃、高校、中学が相次いで設立されました。新しい学園。
青葉台にある桐蔭学園がモデル。桐蔭理事長・鵜川昇(うかわ のぼる)を
理事に招き、そのシステムを模倣しながら発展していきました。
校名も桐蔭に対して桐光。光と陰のペア。

1980年頃は、ちょうど桐蔭が進学実績と運動部の活躍で全国に
名を馳せてた頃。桐光もそのシステムを採用し、進学実績を伸ばします。
東大・合格者を出せる高校に。早慶は言うまでもありません。

やがて運動部が活躍し始めました。スポーツ推薦枠を設け、運動に秀でた
生徒を鍛えて、全国大会に出場させ、学校の知名度を上げる。
まさに桐蔭式。サッカー部が、全国高校サッカー選手権に
度々、出場するまでになりました。

1997年(平成9年)には決勝まで残ります。相手は市立船橋。これで勝てば、
優勝でしたが、1-2で惜敗。涙を呑みました。野球部については、やはり
昨夏の甲子園を挙げるべきでしょう。二年生投手・松井。

初戦では二十二個の三振を奪い、注目を集めます。愛媛代表・今治西は
甲子園の常連校。決して弱い相手ではありません。その打者に
左腕の松井が、手際よく三振を奪います。

見たこともないスライダーが来た。

今治西。打席から帰ってきた打者が口々に。その後の試合でも松井は
三振の山を築き、迎えた準々決勝。相手は青森代表・光星学院。

松井は中盤まで無得点に抑え、味方の援護を待ちます。けれど終盤、
光星の打線につかまり、三点を奪われます。連投の疲れは
隠せませんでした。結局、打線の援護はなく0-3で敗れ、
松井の夏は終わりました。

注目されても表情を変えず、マウンドで淡々と投げ続けた松井投手。
けれど負けが決まり、相手校・校歌が流れ始めると、少年のように
オイオイ泣き始めました。あのシーンを見て、もらい泣きした人も
多かったことでしょう。

今春のセンバツには桐光、出られないようです。けれど桐光ナイン。
夏の甲子園に照準を合わせてるはず。もちろん松井投手も準備してる
でしょう。今年七月。私は結構、休みが取れそうです。神奈川大会で
松井投手を見にいかなくてはなりません。

松井がこの夏、どんな投球を見せてくれるか、
今から楽しみにしてます。

幻
phantasy

予備校の広告

今日は、どこの予備校というのでなく、
広告が予備校業界に持つ意味について、
皆さんと一緒に冷静に考えたいと思います。

A予備校が莫大な資金を使って、派手な広告を打ったとします。
しかも、あちこちに。どこに行ってもA予備校の広告を見ます。
テレビ、新聞、駅の看板、そして改札まで。

心理学、あるいはサブリミナルに少し通じた人なら、
人の行動は良い・悪い、正しい・間違いなどでなく、
ある情報にどれだけ多く接したか、で決まることを
知ってるでしょう。

A予備校は力技(ちからわざ)とも言える広告によって、
受講生を集めるのに成功! これはマーケットにおいて、
何ら咎(とが)められることではありません。

けれどA予備校とて資金が無限ではありません。
広告に多くの資金を投じれば投じるほど、
他分野への投資ができなくなります。

講師待遇は悪化し、テキスト改訂や
システム改善もできません。

A予備校の派手な広告を見て、入学した受講生は、
高い学費に全く見合わない、低サービスを
受けることになります。

資金が無限でない以上、予備校広告が派手である、
ということは、そういうことを意味します。

ここまでなら、A予備校と、そこに入学した
愚かな受講生の話ですみます。外部者がとやかく
言う筋合いの話ではありません。

けれど、もしA予備校の集客状況を見て、
B予備校、C予備校も同じ広告路線に走り始めたら、
どうなるでしょうか?

講師の低待遇がB予備校、C予備校にも広がります。
予備校講師のサラリーマン化・代替可能化が生じるわけです。

これまで予備校講師はサラリーマンや公務員と比べ、
かなり高い時給をもらってきました。その背景には、
無保証と実力主義があります。

来年、クビにするかもしれないから、
今のところ、高い時給をあげる。

でも、そうである故に、予備校講師の門を叩く者も現れました。
保証なんかいらない。実力で勝負したい。高給なら、なおいい。
何より、自由に生きていきたい。。。

高給と自由に支えられ、ただでさえ個性的な予備校講師が、
さらに個性を磨き、高校でも大学でも見ることのできない世界を
感受性豊かな受講生に披露しました。

思えば、予備校業界が少子化にも関わらず、これまで
連綿と生き残ってきたのも、個性的な講師が各予備校で、
こうした奮闘を重ねてきたからに他ありません。
これを否定できる人はいないでしょう。

ところが予備校の広告重視。それは必然的に講師待遇を
悪化させます。もしこれが予備校業界・全体のトレンドに
なるなら、優秀な講師こそ早々と見切りをつけ、
別な世界を模索し始めるでしょう。

予備校講師のサラリーマン化は、
経営陣にとって決して悪い状況ではありません。

まず人件費を抑えられます。かつ講師が代替可能になることで、
現在、山ほどいる低人材を低時給で雇うことができます。

講師の質も、テキストのレベルも、システムの利便性も
全く関係なく、広告だけで予備校の雌雄が決する状況。

振り返れば、予備校講師はこれまで実力本位でした。
頼るのは我が腕のみ。のし上がるためには、
どんな手段を使っても構わない。

プライド・自己保身でガチガチに固まった高校・大学の
一般教員では、全く不可能な世界を予備校講師は展開。

和を重んじ、建前だらけの日本社会における、
予備校講師が果たした役割を決して過小評価してはなりません。

そう。どこでもいいから、予備校に通ったことのある人なら、
理屈抜きに分かるでしょう。予備校でしか見れない、
そして聞けない世界があったことを。

これがなくなり、予備校が一般社会と同じツマラナイ、
下らないサラリーマンで占められるとしたら!

こんな哀しいことはありません。

A予備校が派手な広告を打つ。それだけなら
見てて気分悪いな、騙される受講生が可哀そうだな、
だけで話はすみます。

けれど、そのトレンドが予備校業界・全体に広がるなら、
こんな寂寞(せきばく)なことはありません。

春
spring

長田高校

兵庫には灘、甲陽学院、白陵といった全国的な私立の進学校があります。
けれど県立No.1はと言うと、神戸高校、姫路西高校を抑えて、ここ長田高校。
神戸市・長田区にあります。

JR神戸線・兵庫駅。三宮から姫路方面に乗って、元町、神戸の次。
駅・北口からは市バス。四番系統。バスはすぐに住宅街に入ります。
やがて「長田神社前」。そこで降りて、西へ五分ほど歩けば、
長田高校の体育館が。

白い四階建ての校舎は、まるで博物館のような佇まい。
正門すぐ右にはタワー。上は三角形。

正門を入ると、すぐに中庭。その中庭を囲むように校舎が立ってます。
玄関に大きな円柱。それをくぐって校舎に入ります。

生徒たちは私服。自由な校風です。とはいえ制服がないわけではなく、
始業式・終業式には、制服の着用が義務づけられてます。
校訓は「知・徳・体」。要するに、全て揃えましょう、
ということ。勉強ばかりではダメ。

というわけで長田。進学校なのに運動が盛ん。野球部は全国屈指の
激戦区・兵庫大会で、ここ二年、連続してベスト8。

昨年では陸上競技部、ダンス部がインターハイ出場。
男子バレー部、男子バスケ部、水泳部も近畿大会に。

長田のグラウンドは校舎から少し離れた所にあります。広いグラウンド。
野球場。陸上競技コースまで。周囲は緑に囲まれていて、ボールが
グラウンド外に飛び出す心配もありません。ここなら思い切り、
体を動かせそうです。

部活動だけでなく通常の体育でも、長田では「周回走」といって、
男子ならグラウンド六周、女子ならグラウンド五周、体育の授業前に走ります。

周回走は一年生から三年生までずっと行われ、結果は記録されます。
三年間で鍛えられるのか、三年生になる頃には長田生、見違えるような
タイムが出るとのこと。運動への取り組みはハンパではありません。

とはいえ、勉強もします。昨年の進学実績では京大25名。
阪大39名。神大43名。全国的に見ても、良い数字でしょう。

文化部では音楽部が関西合唱コンクールで優勝。全国大会に出場。
音楽部は毎年、数多くの賞を受賞してます。

長田は自由な校風。茶髪もピアスも自由。制服も普段は着用義務なし。
けれど部活動に参加する人が多い長田生は、部に入れば、
たいてい茶髪も禁止され、結局、普通の高校生。
自由とは何をしてもいいことでは、ないのですね。

神戸の高校らしく、勉強も運動も、そして文化も嗜(たしな)もうという長田。
多くの企業・経営者や文化人を輩出。ダイエー設立者・中内功(なかうち いさお)
映画評論家の淀川長治(よどがわ ながはる)が有名でしょう。

少し離れた場所には須磨海岸。瀬戸内の穏やかな海が広がります。
向こうには淡路島、そして四国。こんな場所で青春時代を過ごすのも、
悪くないでしょう。

桃梅
ume

群馬大学

前橋市を南北に貫く国道十七号線。駅から北へ向かうと、左に群馬大学・
附属病院が見えてきます。正門から入ると、右に附属病院。
左に医学部キャンパス。医学科だけでなく、保健学科も。
戦前は前橋医専。

群大はこの昭和キャンパスと荒牧キャンパスに分かれます。
荒牧キャンパスは十七号線をさらに北上した場所。
教育学部と社会情報学部。

一年次は全員、荒牧キャンパスで教養教育科目を学び、
二年次から、それぞれ分かれます。

さて医学部のある昭和キャンパス。正門から少し歩くと大学生協。生協・隣に
生体調節・研究所。向こうに重粒子線・医学センター。そう。群大・医学部は
地方大とは思えない専門センターを揃えてます。まずは生体調節・研究所。

設立は1963年(昭和38年)で「内分泌研究所」という名前でした。
群馬は海がなく海藻・摂取量が少ないため、甲状腺疾患が発生しやすい土地。
そのため甲状腺ホルモンを研究するセンターが、群大に設立されたわけです。
1994年(平成6年)従来の内分泌(ホルモン)だけに限定されない、
もっと視野の広い研究所「生体調節・研究所」として再出発。

研究所では生命活動を大きく分泌系(代謝系)と神経系に分け、全体として
捉える研究を目指してます。ホルモンだけでなく、増殖因子、脂質メディエーター、
神経伝達物質の研究まで。内分泌系の研究では、日本トップ・クラス。

もう一つの重粒子線・医学センター。重粒子線は炭素イオンを高速に
加速して病巣に当てるため、線量集中性が高く、ガン細胞を破壊する
力も大きい治療線。照射制度も高いため、健常細胞を温存することも可能。
副作用が従来の放射線治療に比べて少なく、治療期間も短くてすみます。

群大・医学部は放射線・治療研究が全国でも屈指であったため、
2010年(平成22年)3月、最初の重粒子線の治療センターがここに設立。
現在でも重粒子線・治療はここも含めて三か所のみ。

放射線・医学総合・研究所(千葉市)。
兵庫県立・粒子線・医療センター(たつの市)。

世界でも重粒子線・治療は開発中で、世界で見ても、この三か所だけ。

前橋は典型的な地方都市。街を歩いてても、あまり活気がありません。
何より、人の姿が少ない。県庁所在地なのに。

けれど群大・医学部。そんなことをものともせず、
日本や世界をリードする研究を進めてます。

木
tree

前橋高校

大宮から乗る高崎線。一時間半ほどで高崎に。高崎からは小山までの
両毛線(りょうもう せん)。両毛線に入ってからは北に雄大な赤木山。
冬の今、稜線がクッキリ見えます。

やがて前橋に到着。前橋高校に行きましょう。地元では「前高」(まえたか)。
駅そばにレンタサイクル「まえチャリ」。よし、前高へは自転車で行こう。
一日・二百円。

通りに沿って自転車をこぐと、だんだん田舎の風景。畑が広がります。
やがてNTTの大きな建物。向こうに前高。正門を入って、
自転車を止めました。大きな三本の松の木。二階へ続く玄関。

玄関を入って、右へ行けば、もう教室。男子ばかりの授業風景。
化学の授業。黒板にビッシリ化学記号。男子の黒い制服が力強い。

県立の男子校。女子の姿もなく、勉強と運動に専念できるのか、前高、
文武両面で実績を出してます。昨年度、東大9名。東北大33名。
地元の群大には46名(医12名)。

運動部では昨年度、卓球部、陸上競技部がインターハイに出場。
関東大会には剣道部、水泳部、テニス部、登山部が出場。

文化部でも音楽部、囲碁部、ギター・マンドリン部が度々、
全国大会に出場。面白い部としは大道芸部があります。

十月に高崎高校と行われる定期戦が、けっこう燃える行事だとか。
毎年、両校で交互に開催します。運動部の対抗戦。運動部に
所属しない生徒による一般対抗。一般対抗は綱引きや玉入れ。
応援合戦も。

さて前高・野球部。1978年(昭和53年)には春のセンバツに出場。
一回戦は滋賀代表・比叡山高校。試合前、比叡山・有利と見られてました。

けれど前高のエース松本投手。甲子園・初の完全試合を達成。
打者をキッチリ二十七人で打ち取りました。甲子園での完全試合は、
以降、春のセンバツで一人出ただけ。夏の甲子園では達成されてません。

投球数78。三振5。外野飛球は3。最終スコアは1-0。
試合後のインタビューで松本投手は。

相手チームに、申し訳ないことをしてしまいました・・・

松本は卒業後、筑波大・体育学類に進み、体育教師として母校・前高に
戻ってきます。当然、野球部・監督を務めました。そして2002年(平成14年)、
野球部を春のセンバツに導きました。完全試合から二十四年経っての快挙。

練習では打撃投手を務めることもある松本監督。甲子園では
「二十四年ぶりのマウンド」と期待されました。しかし。

スタンド・プレーは、したくありません。

高校時代と同じ謙虚で控えめな態度。
試合は熊本代表・九州学院に1-2で惜敗。

前高に入学したら、新入生はまず赤木山の施設で校歌指導を受けます。
伝統ある男子校だけにかなりバンカラな指導。けれど、そうした中で、
文武に秀でる前高生が形成されていくのでしょう。

自然
nature

坂本龍馬

幕末、薩長・両藩は極秘に留学生をイギリスに送りました。当時、異国に
渡ることは国禁。けれど、その留学生の中から、明治・新政府で
活躍する者が多く出ます。

長州の風雲児・高杉晋作も幕末、上海に密航。その悲惨なシーンを胸に、
日本を異国の植民地にしてはならないと奮闘。けれど一体、彼らは
どうして鎖国下の日本で、異国に行けたのでしょうか?
なんとなく行けたわけでは、決してなかったはず。

1858年(安政5年)、大老・井伊直弼(いい なおすけ)が列強と不平等条約を
結んで以来、英仏を筆頭に列強は「日本を植民地にせん」と横浜、長崎に
続々と人材を送り込み、情報収集させました。

けれど、ほどなくして、日本人は他のアジア人のどれとも異なり、独立、攘夷の
気概を持ち、手先が器用で、賢いことが判明。そして何より、他のアジア人には
ウヨウヨいた、白人に取り入る売国奴がいませんでした。
イギリスは早々と植民地・構想を断念。

日本を植民地にするのは、到底ムリ。
次世代を担うのは、徳川幕府ではない。

こう結論を出しました。結果、イギリスが接触すべきは、徳川幕府と
対峙してた薩長・両藩だったでしょう。日本国内で尊王攘夷が吹き荒れた
1860年代前半。薩長・両藩はイギリスと接触し、来るべき新政府の
グランド・デザインをイギリスから示されたのではないでしょうか。

1・イギリスは日本を植民地にしない。
2・イギリスは全面的に薩長・両藩を支援する。
3・新政府はイギリスの影響力をある程度、認めてほしい。

これが早い時期に薩長両藩に共有されたでしょう。そして1863年(文久3年)の
攘夷実行。長州藩、薩摩藩は異国船に砲撃を加え、翌年、その何倍もの砲火を
浴びて、攘夷の無意味を悟った、と歴史書には書いてあります。

けれど、この攘夷実行すらパフォーマンスで、最初から八百長。
イギリス艦隊は戦い後、長州藩からも薩摩藩からもすぐに姿を消し、
薩長・両藩に戦力上の実害は、ほとんどなし。

後の新政府・要人はこの時、フシギと前面に出て来ません。とにかく、
この攘夷失敗で薩長・両藩の攘夷派は一掃。幕府による第一次・長州征伐が
行われたのは1864年(元治元年)の夏。しかし戦うことなく長州は降伏。
やはり長州の戦力は温存されます

半年後の12月にはもう、高杉晋作が下関・功山寺で決起。伊藤俊介、井上聞太、
山縣狂介らが続きます。同じ頃、桂小五郎が長州藩の実権を掌握。

1865年(慶応元年)5月に長崎で亀山社中が発足。数ヵ月後、イギリスの
「ユニオン号」が七千丁の銃を積んで長州・馬関(ばかん)に到着。

よく考えてみましょう。1863年夏に薩長・両藩はイギリスと戦争。なのに二年後の
1865年にイギリスから軍艦、武器が薩摩名義で長州に到着。当時の交通事情を
考えれば、この早さは、あり得ないと分かるでしょう。しかも正反対の行動。
事前のグランド・デザインがあったに違いありません。

そう。幕末の早い時期から、イギリスが描いたグランド・デザインで、
明治維新は進みました。日本人は役割を演じただけ。

1866年(慶応2年)1月の薩長同盟。歴史書では、薩長・両藩がメンツにこだわり、
締結が遅れたことになってます。とはいえイギリスの力を十分に知ってた両藩。
今さらメンツにこだわるはずもありません。イギリスの代理人・龍馬の到着が
遅れたため、同盟締結も遅れた、それだけのことです。

薩長・両藩がイギリスによって動かされてることを龍馬は早くから知らされ、
両藩を結び付ける役割を与えられました。彼はそれを忠実に実行します。

けれど龍馬。明治・新政府に自分は加わらないと表明。これは薩長・両藩、
そしてイギリスにも心外だったでしょう。龍馬が新政府で要職を務めてこそ、
幕末から続くイギリス・コネクションの秘密が保てるのに、龍馬が自由人では、
今後、何をしでかすか、知れたものではありません。

ひょっとして将来、幕末からのイギリス・コネクションをペラペラ喋り始める
可能性も。当時、日本社会の成熟度では、権力の秘密を知った者は、
権力を全うして死ぬか、殺されるかの二つに一つ。

次は世界の海援隊でもやるぜよ。

明治・新政府に自分は加わらないことを小松帯刀(こまつ たてわき)に
問い糺(ただ)された龍馬は、爽やかに、そう答えたと時代劇は描きます。

けれど、もしそうなら、その言葉は新政府・要人には
「無私」ではなく「無責任」に聞こえたことでしょう。

ここまで来て、何を今さら。

龍馬が要職についてこそ、保てる権力の秘密。しかも自分は要職に就かないと
言ってるくせに、新政府・人事に早々と口を出した龍馬。今まで龍馬を
使ってきたイギリスには、看過できない状況。

徳川慶喜が1867年(慶応3年)10月に大政奉還。龍馬の実質的な役割は
終わりました。イギリスにとって、権力の秘密を知る龍馬が新政府に
加わるなら信頼もできますが、加わる気がない以上、余計なことだけ
知ってる、目障りな存在でしかありません。

11月15日。龍馬は京都の旅館・近江屋で中岡慎太郎と共に暗殺されます。
中岡は二日ほど延命しましたが、龍馬はその場で絶命。刺客が龍馬の部屋へ
どう上がって行ったか、そして殺害後、どう逃走したか全く不明。

土佐藩邸にも薩摩藩邸にも入れてもらえなかった龍馬。
当時、相当な警戒をしてたはず。高杉晋作からもらった
ピストルは肌身離さず持ち歩いてました。

前年の薩長同盟・成立直後、幕府・見廻組に襲われた時、
おりょうの機転とこのピストルで、龍馬は難を逃れてます。

まだ寝てもいない午後八時。中岡慎太郎を一緒にしての暗殺。新撰組や
幕府・見廻組では、とても、ここまでのことはできなかったでしょう。
必殺必中のヒット・マン。けれど、ここまで考えれば、
誰に雇われてたかは、もう明白ですね。

日本最初のカンパニー「亀山社中」。龍馬はそれを発展させ
「土佐・海援隊」を設立。中岡も「土佐・陸援隊」を設立。
彼らが共に暗殺されたのは、決して偶然ではありません。

この後、イギリス・コネクションは明治、大正、昭和と
日本を翻弄し、パール・ハーバーへとつながっていきます。

虹
rainbow

杏林大・医学部

吉祥寺から南へ伸びる吉祥寺通り。左には井の頭公園の森。上連雀、
下連雀・・・道は三鷹の街を南北に走ります。やがて右に都立・三鷹高校。
その向こうに大きな杏林大学・病院。「きょうりん」と読みます。

キャンパスへの行き方が分からず、ウロウロして、やっと裏門から入れました。
キャンパス中央には医学・資料情報棟。ここが本部棟。
隣には医学部・附属図書館。

杏林大の三鷹キャンパスです。ここでは医学部、保健学部・看護学専攻の
学生が学びます。少し離れた所には医学部附属・看護専門学校も。

杏林大にはもう一つ、八王子キャンパスがあり、そこには外国語学部、
総合政策学部、保健学部の看護学専攻以外の学科があります。
1966年(昭和41年)に設立された新しい大学。

三鷹キャンパス・本部棟の玄関には「真・善・美」の文字。校訓になってる
ようです。校舎のプレートには、「杏林」という名前の由来も。

昔の中国。ある医師が患者から治療費を取らず、杏(あんず)だけを、
もらってました。そして、その杏を一つ一つ植えていったところ、
いつか杏の林になった、という故事。そんなプレートを
ボンヤリ見てると、向こうから女子。

あ、先生。

駆け寄ってきます。なんと昨年まで教えてた女子。
すっかり学生らしくなって。

おお。

私たちは附属病院・外来棟の上にあるレストランに。
このレストラン、眺めがよく、遠く新宿・高層ビル群も。

「救急医療がやりたい」と杏林大に進んだ彼女。確かに第一病棟の向こうには
高度・救命救急センター。三次・救急医療まで受け持つ大きなセンター。
附属病院そのものが大きく、入院ベッド数は千床以上。
これなら杏林大で研修するとしても、十分な規模。

医学部は一年次から三鷹キャンパス。八王子キャンパスとは、ほとんど
交流なし。大学側としては、医学部と他学部の連携を強調してますが、
やはりムリがあるようです。

大学の語学について聞いてみました。すると。

中学の英語みたいです。

教員も学生もやる気がなく、学部としても、語学で学生を疲弊させない
方針とか。これはマズイ。来たるべきグローバリズムの中で、英語も
使えない医師は、活躍の場が大きく制限されるでしょう。
六年次、卒業する頃には英語で診断、治療が
できるくらいにならないといけないのに・・・

英語、やっとけよ。

私からは、そう言うのが精一杯。思えば彼女。高二から英語を
習い始め、高三、浪人時代にも塾に来ました。杏林大に
受かった時は、二人して喜んだものです。

そんな杏林大。学費は六年間で三千八百万円。決して安くはありません。
けれど、彼女。その教育投資を遥かに上回る医師になってくれるでしょう。

気球2
baloons

SEG

新宿・副都心には高層ビルが林立。その北、少し外れた場所にSEGはあります。
「科学的教育グループ」。英語にすれば"Scientific Education Group"。
頭文字を取って"SEG"。「エス・イー・ジー」と読みます。

設立は1981年(昭和56年)。東大の理学部・数学科、あるいは東大・医学部を
卒業したけど医師にならなかった若者を中心に、新しい数学、
理科の世界を広めんとできた塾。

心に広がる数学の世界を!

そんなキャッチ・フレーズがパンフレットに載りました。彼ら若手が繰り広げる
理数の世界は受験範囲を遥かに超え、大学・教養部の範囲に踏み込むほど。
新興勢力の台頭に、大手予備校は震え上がったことでしょう。

とはいえSEG。1997年(平成9年)の四百名台を天井に、
東大・合格者数をドンドン減らし始めました。2000年代に入ってから
凋落の一途。ついに百名台。

どうして、こうなったのでしょう?
SEGの何が、いけなかったのでしょうか?

それを真剣に考えることは塾、予備校が日本社会で今、
果たすべき役割について考えることにもなるでしょう。

私は理数科目に立ち入ることはできません。けれど英語については、
ある程度、理解が及びます。ちょうど2000年頃、SEGは講師募集で、
英語については「留学経験があること」を応募の必須条件にしてました。

英米の大学に留学した経験がないと応募できない仕組み。
受験指導と留学経験は全く別物。その別なものを一緒にする姿勢に、
私は当時、疑問を持ったものです。

予備校はサービス産業。顧客ニーズに敏感でなければなりません。
自分の思い込みにしがみつき、現実を見ず、トンチンカンな理想を
ふりかざせば、マーケットに一蹴。

SEG英語科。受験生に全く相手にされずに終わりました。
そして、この理想重視、マーケット軽視は、
理数科にも見られたのではないでしょうか。

SEGは当時「理数講師にノウハウを伝授」みたいな広告も出してました。
塾講師として芽が出ない理数講師に、SEG講師が伝授する、というもの。
塾講師に教えるなんて、相当な自信があったのでしょう。

けれど一体、何人の理数講師がそんな講座に応募し、
どんな教授法を学んだでしょうか?

こうしたことがSEGに何のメリットをもたらしたでしょうか?
自己満足だけに終わらなかったでしょうか?

独りよがりは、サービス業で通用しません。東大を出てても、
学問研鑽を積んでても、マーケットを無視して塾は成立しません。

思えばSEG。合格実績だけを喧伝する予備校業界に風穴を開けようと奮闘。
その意気や、よし。実力はあるのだから、もっとマーケットに向き合うだけで
いいのです。SEGの今後、注目しないわけにはいきません。

道1
road

三国丘高校

大阪・堺にある仁徳天皇陵。日本最大の古墳。その仁徳天皇陵から、
北にすぐの所に三国丘高校があります。「みくにがおか」と読みます。
前身は府立二中ですから、名門。

ちなみに大阪の府立一中は現・北野高校。府立三中は現・八尾高校。
府立四中は現・茨木高校。府立五中は現・天王寺高校。

正門を入るとモダンな校舎。三階建て。三角形の屋根が三つ。
丸い窓がいくつも並びます。玄関の上には、やはり三角形の校章。
玄関から中に入ると絨毯。上からは丸いガラスの照明。
学校とは思えない空間。

戦前は堺中学。今は男女共学の府立高校。しかも進学実績は全国屈指。
大阪・北部の秀才は北野や豊中、大手前に行くとして、
南部の秀才を天王寺と奪い合ってます。

受験時点で文理学科、普通科に分かれます。文理学科は前期入試、
普通科は後期入試。文理学科は大阪のどこに住んでても受験可能。
文理学科は他県の理数科に相当するもので、
英、数、理を重視したコース。

三国丘はSSHに指定されたこともあり、完全に理系重視。
京大、阪大への一日体験入学。もちろん法学部、文学部という
役に立たない学部でなく医学部、理学部。

三国丘セミナー、三国丘カレッジなどの行事では、三国丘OBが
最先端の研究について後輩に語りかけます。もちろん、これも理系。
京大、阪大だけでなく、府大、市大の研究者が講演。

他にも、病院へのインターンシップ、堺市・大産業祭での
プレゼンテーションなど、三国丘生には、高校の枠を超えた、
早熟な機会が多く用意されてます。こうした行事が、三国丘生の
知性を高め、それが進学実績にハッキリ現れてます。

昨年度では京大26名。阪大40名。神大23名。
他に府大27名。市大47名。府立・御三家に次ぐ数字。

三国丘生。勉強ばかりしてるわけではありません。文化祭、体育祭も盛ん。
九月の体育祭では赤団、青団、白団、黒団の縦割り四団の対抗戦。
クラス対抗ではありません。恒例の応援団の演武。
各団・男子がさまざまな衣装で登場。

部活動にも一生懸命。水泳部は2010年、2011年と続けて
インターハイに出場。野球部も毎年、大阪大会の三回戦、
四回戦くらいまでは進みます。

その野球部。1984年(昭和59年)なんと春のセンバツに出場。
PL学園と並んでの出場。進学校の甲子園出場にメディアも注目。

投げるのはエース松田。胸には校章の三角形。秋の大阪大会・決勝では
PL・桑田と投げ合い0-1で惜敗。清原もいた強打PL打線を
一点に抑えました。

地元・大阪から進学校が出場するとあって甲子園は五万人の大観衆。
相手は静岡代表・日大三島。三国丘はまず二回・表に先制点。
波に乗るかと思われました。けれど三回に一点、
四回にも一点取られ、逆転されます。

そして迎えた五回・表。三国丘にチャンスが巡ってきました。走者をおいて
打席にはエース松田。ところが相手投手の投げたボールが、
松田の右肘を直撃。松田は倒れ込み、しばらく起き上がれません。
その後、立ち上がった松田。一塁へと走り出します。
大きな拍手が起こりました。

三国丘はヒットを重ね、二者を返し3-2。逆転に成功。
後は松田の投球しだい。けれど五回・裏、松田の球威は
明らかに落ち、味方のエラーもあって3-3の同点。

六回・表、三国丘はスクイズを二度、決めて5-3と再びリード。その後、
松田は落ちた球威を、なんとか制球でしのぎ、六回、七回、八回を無失点。
そして迎えた九回。この回を凌(しの)げば、三国丘の甲子園・初勝利。
スタンドは騒然。

ところが松田。もう限界だったようです。先頭打者から三連続ヒットで
無死満塁。そして打席には日大三島・四番打者。一球目。カーブが外れます。
二球目。直球でしたが、ボール。三球目のカーブも外れ、3ボール。
甲子園を揺るがす「松田コール」。

四球目もボール。押し出しで4-5。一点差まで詰め寄られます。
マウンドでしゃがみこむ松田。もうダメだと悟りました。ここで投手交代。
救援投手が2ベース・ヒットを打たれ、二者生還。日大三島に5-6と
ひっくり返され、サヨナラ負け。試合終了サイレンが非情に鳴り響き、
甲子園は悲鳴に包まれました。

思えば、五回にデッド・ボールを受けた時点で
投手交代が考えられました。けれど松田投手。

投げられます。

その言葉で続投が決められました。九回の限界まで耐えた
彼の姿に、多くの人が勇気をもらった試合でした。

鳥
spring

東洋英和女学院・高等部

六本木・鳥居坂(とりい ざか)。テレビ朝日の方から登っていくと、
右に大学院。そして中等部・高等部。左には小学部。東洋英和女学院です。
繁華街から、あまり離れてないのに静かな通り。

白い建物は三階建てで、玄関はアーチ型。扉は黒。重厚な造りです。
明治期、マーサ・カートメル校長が設立。キリスト教に基づく女子教育を開始。
「敬神奉仕」を校訓とします。制服は紫の長いリボン。昔の東洋英和生の
写真を見ても、戦前、既にこの制服は採用されてたようです。

聖書の授業が週一度、設けられてます。「奉仕」としては「ディアコニア」
という時間があり、点字や車いすの体験学習。とはいえ東洋英和生が
積極的に学外に出て、地域の人々や困ってる人々と交わり、
言葉を交わし、奉仕作業をする、ということはないようです。

六本木の街で、そんなことをすれば、すぐに挟雑物が発生。実際、
東洋英和のセキュリティは頑丈で、中に入れてもらうのに一苦労。
外の世界からシャット・アウト。奉仕どころではありません。

東洋英和で特徴的なのは、部活動とは別に課外教室があること。
週一度のペースで、本格的なレッスンを受けられる時間があります。

ピアノ科 オルガン科 器楽科 英会話科 日本舞踊教室 華道教室

個人で習えば、一時間・数万円もするようなプロ講師がレッスンを
つけてくれます。オルガン科の場合、中級以上になれば、講堂の
パイプ・オルガンで練習。パイプ・オルガンは東洋英和のシンボル。
それを使っての練習ですから、心も引き締まるでしょう。

塾で見かける東洋英和生。おとなしい感じの人が多く、積極的に
発言したり、質問したりはしません。礼儀正しく、静かに勉強して、
適当な私大に進学していきます。

六本木という面白い場所にありながら、女子校であるが故に周囲から
隔絶され、なんとなくロケーションの有利を生かせてない東洋英和。

テレビ朝日とのコラボレーション。森ビルへの企業訪問。

地の利を生かして、面白い企画はいくらでも出せそうですが、東洋英和から
そんな話を聞くことはありません。伝統とキリスト教の縛りがきつくて、
なかなか自由な動きができないのでしょう。

とはいえ赤坂や六本木、青山に住所があり、安心して女子を預けられる
女子校を探した場合、やはり東洋英和は一つの選択肢となるでしょう。

チョコ
chocolate

高槻高校

大阪から京都にJRで向かう時、新大阪、吹田、茨木、高槻(たかつき)、
そして京都となります。高槻は京都寄り。とはいえ大阪~京都間は
三十分もかかりませんから、高槻は大阪へも二十分ほどで行ける距離。

府立高校のような名前ですが中高一貫の男子校。高校からの募集は
2004年(平成16年)で停止。現在は中学入試のみです。

JR高槻駅からも阪急京都線・高槻市駅からも行けます。
高槻市駅からだと五分ほど。国道171号線を渡ってすぐの所。
白い三階建ての建物。時計台も見えます。

隣に大阪医科大学。今、高槻高校がある場所は、もともとは
大阪医大の土地。そこを譲り受ける形で学校をスタートさせました。

この経緯から、高槻高校と大阪医大の間には交流があり、医学部・
志望者も多くなります。昨年度では国公立大・医への進学者は24名。
ちなみに京大26名。阪大36名(医2名)。神大28名(医1名)。

「まじめに 強く 上品に」が校訓。学校を歩いてると、
この校訓が彫られたプレートが。「真のジェントルマン」を
輩出することを目標にしてます。

学校全体としては文武両道を目指していて、全国大会まで進む部は、
さすがに少ないものの、部活動はそれなりに盛んです。

アメリカン・フットボール部「ワイルド・イーグルス」。
中学部は昨年「甲子園ボウル」で優勝。高校部も大阪大会で
春ベスト8、秋ベスト6。中高合わせて部員・百名以上の大所帯。

さて高槻。中高一貫のため、高校受験をする必要がなく、
余計な時間を割かなくてすみます。その結果、
余裕あるカリキュラムを組むことができ、
それが進学実績につながってます。

大阪・中津で教えてた頃、高槻生が一人。最初は同じクラスの
北野生に押されて、なかなか実力を発揮できずにいました。
けれど夏期講習が終わり、二学期になってから、
正確な和訳を作ってくるようになりました。

京大・英語なんて結局、和訳と英作文だけ。和訳が得意になれば、
英作文は後からついてくるのですから、対策は簡単。
最後の授業では握手して別れました。
今頃、活躍してることでしょう。
 
芽生え
leaves

清風学園高校

阪神なんば線・大阪上本町駅(おおさか かみほんまち えき)。
駅を出ると目の前に近鉄百貨店。向こうに新・歌舞伎座。

やがて清風学園が見えてきます。「せいふう」と読みます。
中高一貫の男子校ですが、高校からの枠も。

正門からすぐの所にある円形の建物。清風のシンボルと言って
もいいでしょう。校舎かと思いきや、これが円形・体育館!
しかも敷地内には別の体育館もありますから、清風、よっぽど
スポーツに力を入れた学園だと類推できますね。

そう。清風では文武両道が徹底してて、その徹底ぶりは全国的にも
珍しいほど。統計もないのでハッキリしたことは言えませんが、
文武両道では、ここが日本一でしょう。

近畿の私立高校には、進学実績もいいけど、別にスポーツ枠を設けて、
そこで実績を出す学校もチラホラあります。

昨年度、甲子園で春夏連覇を遂げた大阪桐蔭学園などは、その例。
要するに、勉強する人と運動する人が別々。これは
真の文武両道とは言えません。

けれど清風。インターハイにも出るけど、京大、阪大も狙うという
生徒を集めてます。これは注目に値しますね。

階段を上がって二階から円形・体育館に入ると、まず目を引くのは
器械体操部。オリンピック・金メダリストも輩出した部。
体育館いっぱいに体操器具を広げながら、ムキムキの
生徒たちが黙々と練習。

その様子は圧巻。ホンとにオリンピックで見るような
技を繰り出してます。練習ですから、失敗しながら
やってるのですが、技の難易度が明らかに高い。

しかも何となく、みんなカッコいい。中学生はまだ子供の顔なのに、
鍛え上げられた体はみごとなもの。聞けば、一日に六時間も
練習するとか。インターハイの常連で、優勝することもある、
そう聞かされても、なるほど。

器械体操部の隣では新体操部。あまりスペースを取らせてもらえない
ようです。とはいえ黒いシャツには「清風魂」。男子が体を
しなやかに動かしてます。大阪でも男子・新体操部があるのは
清風だけ。インターハイでも常にトップ・クラス。

バレーボール部も、全国大会で毎年、上位に食い込む強豪。
ちなみに新体操部は全面を使った演技練習をする時には、
バレーボール部の練習が終わった後にマットを敷いて
練習するとか。場所のやりくりはタイヘンです。

そして陸上競技部。1978年(昭和53年)から三十一年間、連続で
全国高校駅伝に出場しました。ここ三年ほど、出場から
遠ざかってますが、その再出場を狙って猛練習。

他にもアメリカン・フットボール部。柔道部。
ヨット部。ボート部。日本拳法部・・・

文化部も負けてません。例えば生物部。絶滅危惧種のニッポン・
パラタナゴという魚に着目。パラタナゴはドブガイに卵を
産みつけて孵化。ドブガイがいないと絶滅するわけです。

清風・生物部ではドブガイが吐き出す水を解析。そこに特殊な
アミノ酸が含まれてることを突き止めました。このアミノ酸を
含んだ水を人工的に作り、ペットボトルで作った人工のドブガイに、
その水を流したところ、パラタナゴが産卵・孵化しました。

この快挙に内閣総理大臣賞が送られました。
高校生とは思えない分析力。

月に一度は八尾にある保護地で水質調査をするとか。

魚が住みやすい環境を作る!

他にも鉄道研究部。電気部。なんと茶道部まで。こうした部活動を
やりながら、京大、阪大、神大に毎年、二十~三十名の合格者を
出してるのだから、まさに驚き。

中一から、部活動もするけど、受験を視野から外さないように、
学園全体で統一された意志疎通があるようです。

そんな清風。もともとは高野山・真言宗をバックに
設立されました。戦後「清風学園」と名乗り始めます。

仏教校らしく、朝礼は般若心経の読経から。歩行が学校行事と
なっていて、一年間に四回ほど、昼間や夜間に歩行・行事があります。
10㎞から30㎞。三月には総決算として、学園から
高野山までの100㎞歩行。

仏教には経行修行(きんひん しゅぎょう)と言って、
歩きながら瞑想する修行がありますが、それを念頭においた行事。
他の宗教的行事としては。

中一・高一・・・高野山・修養行事。
中二・高二・・・法隆寺・修養行事。
中三・高三・・・伊勢神宮・修養行事。

校則は厳しく、頭はたいてい丸刈り。散髪検査も厳しい。
清風に茶髪・長髪は一人もいません。周囲には女子の姿もありません。
ですから硬派がイヤなら、もっと自由な府立高校を選ぶべきでしょう。

けれど馴染めるなら、まさに文武両道の
お手本みたいな学園生活となります。

毎年1月14日に行われる「四天王寺どやどや」。
清風の有志が参加します。ふんどし・白足袋で、
お堂の上から投げられる護符(魔除けの札)を奪い合います。

わっしょい わっしょい

最初は寒さに震えてた体も、ぶつかり合い、
声を出し、奪い合いになるにつれて、火照ってきます。
水がかけられるのですが、湯気となって立ち上るほど。
終わった後には爽快感が残るとか。

仏教戒律に、ある程度の理解があり、校則が厳しくても構わない、
と理解して入学するなら、いろんな人がトップ・レベルの知性や
技を見せてくれる、面白い学園生活となるでしょう。

春
spring

トマス・グラバー

ジャーディン・マセソン商会という商社があります。イギリス・東インド会社を
母体とし、植民地貿易で巨万の利益を得ました。十九世紀、イギリスが清と行った
アヘン貿易。それにもジャーディン・マセソン商会は深く関わります。

取引量が増えるにつれて、決済部門を独立させる必要が生じ、銀行を設立。
それが、今も世界金融に君臨する香港上海銀行(HSBC)。

日本が幕末、横浜港を開いた時、横浜に真っ先に支店を出したのは、
ジャーディン・マセソン商会。今も横浜のシルクセンターの隣に、ジャーディン・
マセソン商会の碑が立ってます。当時、ここは「英一番街」と呼ばれました。

抜け間ない彼ら。インド、清で大儲けしたのと同じ方法で、日本を
カモにしようと考えたのでしょう。ジャーディン・マセソン商会の代理人として、
長崎に派遣されたのが、まだ二十代だったトマス・グラバー。
独立してグラバー商会を設立。

長崎の街を見下ろす高台に建てられたグラバー邸は和、洋、中が
溶け合った独特の趣き。美しい庭園とも調和し、今では観光スポットに。

けれどグラバー邸で実際に行われた商談は、武器取引。薩摩藩・名義で
軍艦、銃をイギリスから購入し、それを長州藩に流す密輸。
馬関(ばかん:現・下関)の港から上がる税と利益で
長州藩には資金があり、それが使われました。

坂本龍馬が長崎に設立した日本初の商社、亀山社中(かめやま しゃちゅう)が、
この取引を仲介。1965年(慶応元年)のことです。恐らく龍馬に株式会社、
商社、そして資本主義を指南したのは、グラバーでしょう。

龍馬の師だった勝海舟も、民主主義や共和制について、いくらかは
語ったかもしれません。けれど勝にしたところで、やっとのことで
アメリカに着き、その表面をサッと見てきた程度。
商社が何かまでは分からなかったでしょう。

実際、亀山社中はグラバーとの取引だけを行った商社。
言ってしまえばグラバー商会の代理店。

約束通り、イギリスから軍艦「ユニオン号」が薩摩藩に到着。馬関に渡ります。
それと共に最新のミニエー銃、ゲベール銃が七千丁、輸入されました。

この実行力に驚いた薩長・両藩。龍馬を通して急速に接近。薩長同盟を結び、
倒幕に大きく踏み出します。その証文の裏書には龍馬による朱筆の裏書き。

龍馬は土佐の脱藩浪士。何の権力もなかったはず。その龍馬を西郷吉之助、
桂小五郎が必要としたのは、龍馬の背後にいるグラバー、
そしてジャーディン・マセソン商会の力が必要だったからです。

倒幕に先立つ数年前、薩長・両藩はイギリスに留学生を送ってます。

長州藩からは、伊藤俊介(博文)、井上聞太(馨)・・・
薩摩藩からは、五代友厚、寺島宗則・・・

この留学を斡旋したのもジャーディン・マセソン商会。歴史や時代劇では、
若き日本の志士たちが、自らの意志でやり遂げたことになってる明治維新。
ですが背後にはグラバー、そしてジャーディン・マセソン商会がいました。

外国人だったグラバーは、当時、日本を自由に移動できませんでした。
それ故、柔軟な頭脳を持ち、脱藩して身軽な龍馬を使ったのでしょう。

グラバーは三才年上の龍馬に、さまざまな商才を教え、この世のからくりも、
話しました。とはいえ、この詳しい事情は歴史の闇にに埋もれたまま。

後に龍馬・発案とされる大政奉還や船中八策にしても、
グラバーからの示唆だったのではないでしょうか。

グラバー邸
Nagasaki

東進ハイスクールの映像授業

近くの東進ハイスクールに行ってきました。
「誰が」と言わず「入学を検討してる」と言えば、
若い男性スタッフがニコニコと応対。

あの、勉強してるトコも見たいんですけど。

快く承諾。教室に案内してくれました。生徒たちが
それぞれのブースに座り、50㎝ほどの前の映像を凝視。
たまに止めたり、巻き戻したり。知ってる制服もチラホラ。

ありがとうございました。

あまり邪魔せずに東進ハイスクールを後にしました。

思えば映像授業の始まりは、バブル期、代ゼミが
サテライン授業を始めたのがきっかけです。

当時、膨れ上がる受講生に有名講師の数が追いつかず、
有名講師の授業を衛星で他校舎に飛ばし、他校舎でも、
画面を通じて授業を受けられるようにしたのが始まり。
そもそもは苦肉の策でした。

東進ハイスクールが、その方法を洗練。
映像授業のためだけに誰もいない教室で、
授業を録画し、それを商品として全国に発送。

受講生はいつでも、どこでも、有名講師の
授業を受けられるようになりました。

これは地方の公立進学校の生徒には福音。
「名門」と自認しながら、ロクな授業もサービスも
提供できず、プライドだけ押し付ける
時代遅れの教員ばかりだったからです。
恐らく今もそうでしょう。

録画した授業は何度でも再生可能。
場所代・人件費が大幅に節約でき、
しかも受講料はライブ授業並み。

このビジネス・モデルは当たりました。
今や東進ハイスクール。ますます
フランチャイズを広げてます。

けれど東進の教室で見た、あの生徒たち。
彼らは地方にいるわけではありません。

学校の授業がヒドイと思ったなら、渋谷でも、
横浜でも、学校帰りにライブ授業に来れるはず。
なぜ、わざわざブースに閉じこもるのでしょうか?

いつからでも始められる。
自分のペースでやれる。
部活の遅れも一気に取り戻せる。

あるいは、こんな理由もあるかもしれません。

当てられて傷つきたくない。
発生する人間関係が煩わしい。

他者とのインテラクション(相互作用)
なくして、一体、何の人生でしょう?

要するに、自販機にお金を入れれば、
商品が出て来るのと同じ感覚で、
お金を払って知識も獲得しましょう、
というわけです。

私が誰でも、あなたが誰でも関係ありません。

そういう教室。それを教室と呼べるか
どうかは、もう疑わしいでしょう。

傷つきも感動もない手軽な映像授業。
それは確実に人間力を弱めます。そして
「一人カラオケ」や「一人焼き肉」に
行く大人の数を将来、増やすだけです。

森5
forest

自治医科大学

概ね半径4㎞以内に五十名以上住んでいて、医療機関がなく、
かつ容易に医療機関を利用できない地区

厚労省は「無医地区」をこう定義してます。こうした「僻地」での医療を
充実させるため、各都道府県が出資し、1972年(昭和47年)栃木県に
自治医科大学が設立されました。「自治医」(じちい)と呼ばれてます。

JR宇都宮線。大宮から一時間ほどで小山に。小山は関ヶ原の戦い・前、
家康が上杉・討伐を一旦、中止し、西へ戻る軍議を開いた場所。

その小山から二つ目の駅が「自治医大」大学名が、そのまま駅名に。
駅を出ると、自治医への接続バス。百六十円。五分ほどで自治医のタワーが
見えてきます。自治医のタワー以外、周囲に高い建物はほとんどなく、
大学でもってる町。駅名が大学名なのも理解できますね。

バスは附属病院に到着。この病院は専門病院で紹介・予約がないと
診てもらえない科ばかり。病院の向こうに、さっきから見えてた
自治医のタワー。キャンパスはここ。

タワーは右が記念棟。左が教育・研究棟。向こうにはグラウンド。
そして学生寮。学生寮は白い建物。キャンパス周囲には
木立と野原が広がり、他に何もありません。
医学を勉強するためだけの六年間。

味気ないな、と思うかもしれません。けれど六年間の学費、
二千三百万円は全て貸与。入学金・授業料など一切かかりません。
私大カテゴリに入る自治医ですが、各都道府県が出資して
設立した特異な経緯のため、こうなってます。

卒業生は研修期間を経て、自治医・在学期間の一・五倍の期間、
出身・都道府県の命じられた場所で働くことが義務づけられます。
六年間で卒業したなら、九年間ですね。しかも、その九年間の半分は、
知事が命じた僻地で働きます。この義務を満たせば、
貸与された学費が免除される仕組み。

各都道府県から二~三名の枠。東京・大阪は人口が多いから
枠も広いかというと、そんなことはありません。ただし、
地元・栃木県からは五名。結果、全寮制となります。
学生寮が完備してるのも、頷けますね。

僻地・一歩手前みたいな自治医キャンパス。このロケーションも、
僻地医療の心構えを学生に植え付ける狙いがあるのでしょう。

都会の灯が恋しい。

そんなメンタリティでは、とうてい僻地医療などできません。
年限は九年間と定められてはいても、九年経っても、
そのまま僻地にとどまり続けることが、期待されてます。

学費が全くかからず、奨学金については月額・五万円が、ほぼ無条件に
認められます。家庭の経済状況によって七・五万円、十万円、
十二・五万円、十五万円と増額されます。

寮に住み、周囲に何もないのですから、実質、学費・生活費が無料。
僻地医療を充実させたい、という地方自治体の姿勢が現れてます。
例えば東京都の枠で入学したなら、卒業後、都立病院で研修を行い、
そして三宅島や大島みたいな場所で医療に従事します。

学費がどうこうより、最初から僻地医療が目標で、大学を探してたら、
自治医を見つけ、ここだ、と思って受験する。これが自治医への
ベストの進路選択。学費がかからないし、とか、一定年数経ったら
都会に帰ろう、とか思って入学しても、いつか挫折するでしょう。
というより、そんな受験生は、そもそも面接で、はじかれるはず。

医学部・受験を学費面だけで考えるなら、自治医より、
通常の国公立大・医を目指すべき。通常の国公立大・医でも、
家庭が困窮し、成績優秀なら、学費免除や奨学金があります。

僻地医療に一生を捧げよう。

思いつきでなく、心からそう思う受験生こそ、
自治医の門を叩くべきです。生半可な気持ちでは、
いつか後悔するでしょう。

噴水
fountain

金蘭千里高校

大阪の地下鉄・御堂筋線(みどうすじ せん)北の最終駅が
千里中央駅。ここから伊丹空港へのモノレールが出発。
モノレールは千里の広い住宅街を遥か見渡しながら、
空港へ向かいます。

九州へ行くために、私は何度、このモノレールに乗ったことでしょう。
けれど、今日はモノレールには乗らず、駅・北口を出て
ロータリーから阪急バスに乗ってみましょう。

バスは十分ほどで「金蘭千里学園前」に。
「きんらん せんり」と読みます。
校名の由来は易経から。

二人 心を同じうすれば その利(と)きこと 金を断つ
同心の言(ことば)は その臭(かおり)蘭のごとし

女子の制服が印象的。三角マークが二つ並んだリボンを見れば、
一目で金蘭生と分かります。大阪・中津で教えてた時にも、
金蘭・女子の制服がひときわ目立ってたことを憶えてます。

とはいえ女子校ではありません。男女共学の中高一貫校。
かなり特色ある学校運営をしてます。

まずスポーツ。金蘭では校技が定められていて、男子はサッカー、
女子はバレーボール。各クラスごとに校内大会も行われます。

ですが、この校技があるためか、部活動は盛んではありません。
帰宅部生も多く、部活動で一生懸命にガンバりたいと思ってる
受験生は、そこをシッカリ考えた方がいいでしょう。

次に朝の二十分テスト。直前に習ったことを復習しましょう、
という朝勉強。とはいえ学園としては「知識の定着を図る」と重視。
対外的にもこの朝テストをアピールしてます。

そして最も大きな特色はクラス規模。三十名とかなり小さく設定。
生徒とのコミュニケーションを大切にしてます。確かに
クラス人数が少なくなればなるほど、教員・生徒の
意思疎通は図りやすくなります。

職員室に質問コーナー、交流ホールも。
生徒との対話、質問受けに機敏に対応できる体制。

保護者とのコミュニケーションも。月一度のペースで保護者会が
開かれます。保護者はかなり頻繁に学校に行かねばなりません。
子供を学校に預けて、それで終わり、ではすまないようです。

生徒と校長との懇談会まで。各学年のクラス委員が、
校長と一緒に昼食を取ります。その中で。

金蘭はどうあるべきか。今後、どう進むべきか。

を話し合うとか。ホンとにそんな場で話が弾むのか、
一度、見てみたいですね。このように、いろんなアスペクトで
生徒とのコミュニケーションを重視してる
金蘭の姿勢は実に正しいもの。

けれど、それが「コミュニケーションの押しつけ」に
なってはいけません。

あの先生と話したいな。相談に乗ってほしいな。

生徒・保護者が自発的にそう思った時、サッと対応することは、
とても大切なこと。けれど、その必要も感じてないのに
「キミたち、何か言うことはないかな?」なんて場を
何度も設定されると、生徒は正直「ウザイ。」

そう。コミュニケーション重視は、まず学園・教員にそれだけの
コンテンツ(中味)とアトラクション(魅力)があってこそ。
一体、今の金蘭にそれだけの中味と魅力が備わってるでしょうか?
それは私でなく、現に通ってる金蘭生が判断すべきでしょう。

静けさ
tranquility

東京慈恵会医科大学

東京・芝にある慈恵大学病院。すぐ向こうには大学・一号館。
二つの建物が競うように建ってます。東京タワーはすぐそこ。
虎ノ門、新橋にも近い場所。まさに東京・一等地。

もちろん医大の価値は土地価格で計られるものではありません。
けれど不動産・価値だけで言うなら、都内一、日本一はここでしょう。

さて、ツマラナイ不動産・話はおいといて、慈恵医大。どんな大学か、
中に入ってみましょう。まずは病院から。入るとすぐに。

病気を診ずして 病人を診よ

設立者・高木兼寛(たかき かねひろ)の言葉。医師は病気や症状だけでなく、
患者の全体を診るべきだという、今日では当たり前のことが、明治期に
語られたのでした。今では信じられないことですが、当時、
帝大・医学部スクールを中心に、患者を
研究材料とみなす風潮がありました。

イギリスに学び、人道主義に基づく医療を目の当たりにした高木は、
そんな風潮に肯ずることなどできません。高木が慈恵医大の前身・
成医会講習所を開いたのは1881年(明治14年)のこと。

以来ずっと「患者目線に立つ」ことが慈恵医大では連綿と受け継がれて
きました。病院、看護婦・教育所も次々と新設され、慈恵医大は発展。

ちなみに高木は、もともとは海軍・軍医。イギリスへの留学も
海軍からの派遣。帰国後の高木は、当時、軍で流行していた
脚気(かっけ)の撲滅に尽力。今では有名な「海軍カレー」も、
脚気・予防のために高木が考案した料理。軍人としてよりも、
心優しい医師だったのでしょう。

そんな高木の遺志に忠実たらんと、慈恵医大。今も病院入口に
高木の言葉を掲げてます。診察を待つ患者さんたち。忙しく動き回る医師。
その後をついて回る医学生。いかにも医大病院・待合室の風景です。

病院をつっきると大学・一号館。ロビーには、さまざまな臓器の標本。
といっても、何かに漬けてあるわけでなく、干からびて収縮。
結局、展示用なのでしょう。

慈恵医大のキャンパスは二つあります。ここ西新橋キャンパスと
国領キャンパス。京王線・つつじヶ丘駅の二つ向こうに、
国領(こくりょう)という駅がありますが、そこ。

国領キャンパスでは医学科・看護科の全ての一年生が学びます。
看護学科は二年次以降も、そのまま国領キャンパス。
医学科は二年次からは西新橋キャンパスに。

慈恵医大。伝統ある大学だけに、これまで輩出した医療人も多く、
卒業生は医療のあらゆる分野で活躍してます。国家試験の合格率も
昨年度で95.2%。全く問題ないでしょう。

学費は六年間で二千三百万円。私大・医学部の中では、
かなり安い方。今後も慈恵医大の人気は続くでしょう。

木1
tree

順天堂大学

箱根駅伝で毎年、結構いい成績を出す順天堂大。

スゴイなー。医学生なのに、あんなに早く走れるなんて。

そう思ってる人はいませんか? 箱根を走ってる順大生は
「スポーツ健康科学部」の学生。千葉にキャンパスがある学部。いちいち
確認してませんが、順大ランナーの中に医学部生はいないでしょう。
ましてや医療看護学部、保険看護学部の男子が走ってるとは、
とても思えません。

お茶の水にある順天堂大には医学部のみ。隣には順天堂・医院が
聳(そび)えてます。シーボルトが長崎に鳴滝塾を開き、西洋医学を
教える鳴滝塾を最初に開いたのが1824年(文政7年)。

それに遅れること十四年。1838年(天保9年)に佐藤泰然
(さとう たいぜん)が日本橋に西洋医学塾を開いたのが、
順天堂の始まり。

1853年(嘉永6年)ペリーが黒船・四隻で来航。以来、日本では
全国的に尊王攘夷・思想が広がります。西洋のものは全て悪い、
と言わんばかりに、西洋医学も敵視されることに。

佐藤の医学塾も日本橋で続けていくのは危険となり、千葉・佐倉に疎開。
ここほど田舎なら、大丈夫だろう、というわけでした。

佐倉の地で正式に「順天堂」と名乗り始めました。
易経の「順天応人」から取られてます。天の意志に従い、
人々の期待に応える、というほどの意味。

こんな田舎にありながら、順天堂の名は
全国にとどろき、各地から俊英が集まりました。

日新の医学 佐倉の林中から生ず

その後、明治維新後、順天堂も東京に戻ってきました。
優秀な堂主、そして教授たちが学園を盛りたて、私立・医学校
として揺るぎない地位を獲得。今日に至ります。

学是は「仁」。患者への思いやりの心を叩き込まれます。医師として
当然のことでしょう。順天堂の特色としては、早くから医学とスポーツの
連携に着目したことが挙げられます。戦後、早々と体育学部を設立。
それが現在、スポーツ健康科学部に。

この学部からは「美しい体操」の範(はん)を世界に示した、
男子体操の富田洋之(とみた ひろゆき)が出ました。

男子団体でアテネ・オリンピックで金メダル、
北京・オリンピックで銀メダルを獲得します。

医学部に戻りましょう。順大・医学部では国家試験・合格を
大きな目標に掲げてます。当たり前のことですが、国家試験に
合格しなければ、医師にはなれません。しかも毎年、落ちる人が
一割ほどは、いるのです。国試くらい、キチンと合格しましょう。

当たり前の目標を順大・医学部は掲げ、実行。結果、国試・合格率では
全国の官学・私学の医学部のうち、常にベスト5に入るまでに。

六年間の学費は二千百万円。慶大・医学部に次ぐ安さ。この安さこそ、
順大・医学部の実力を物語ってます。毎年、志願者が殺到。
慶大・医学部、慈恵医大と並んで私大・医学部の御三家です。

色
colors

東工大・ものつくり教育研究・支援センター

東工大・入試では第一類から第七類まで。

第一類・・・理学
第二類・・・材料
第三類・・・応用化学
第四類・・・機械・制御・経営
第五類・・・電気・情報
第六類・・・建築・土木
第七類・・・生命

よく東工大チームがロボット作ってテレビに出てますが、それは四類。
理論だけでなく、ものづくりを奨励する東工大を代表する類。そんな東工大。
実は学内に「ものつくり教育研究・支援センター」。

中に入ると人力飛行機。手製のスピーカー。奥に加工場。
実際に材料を切ったり削ったりするための場所・工具。
テレビで見るロボットも、こんな場所で作られたのですね。

訪問した時にも、何人かの学生が加工作業に没頭。外人学生の姿まで。
訪問者には慣れてるのか、入っても、誰も気にしません。希望すれば、
加工作業に参加できるとのこと。開かれた東工大ならでは、ですが、
やめときました。偉業も、日頃の地道な作業があってこそ。
そのことをシッカリ教えてくれるセンターです。

鳥
bird

神戸女学院・高等学部

「神戸女学院」という名前ですが、西宮にあります。
西宮・北口からだと阪急・今津線に乗って宝塚方面へ。

「門戸厄神」(もんど やくじん)という駅で降ります。
周囲はすぐに閑静な住宅街。六甲山系の麓なので、山がすぐ近く。
西へ歩いて行くと、十五分ほどして神戸女学院の正門。
けっこう歩きます。

正門からは坂。敷地は「岡田山」という山にあるようで、
さながら登山。すぐに大学の校舎。けれど校舎というより、
まるで洋館。壁は落ち着いた色調。屋根は瓦ぶき。

音楽学部、人間科学部、文学部・・・
音楽学部の校舎上には「笛を吹く少年」の像まで。

大学の向こうに中高部。中高一貫の女子校。キリスト教に基づく
女学校として、明治期に設立。大学まで通えば、十年間、
ここに通うことになります。

とはいえ十年間、通っても、決して飽きない学園でしょう。
中庭に入ると、真ん中に噴水。東西南北に校舎。
やはり瀟洒(しょうしゃ)な建物。スパニッシュ・
ミッション・スタイルという様式だとか。

中庭・北にある講堂。1933年(昭和8年)に建てられました。
八百人以上を収容。ここで入学式、卒業式、礼拝が行われます。
照明は暗く、それだけで落ち着いた気持ちにさせてくれます。

講堂には「ソール・チャペル」と呼ばれる
礼拝堂があります。入ってみましょう。

ステンド・グラスから優しい光。一番前に十字架。向こうにアーチ窓。
白い柱が横にずっと並んでます。この礼拝堂も暗く、
内省のための空間が維持されてます。

ソール・チャペルを出ましょう。ただ急に明るい場所に出るから、
外光が眩しい。講堂から東に行くと「シェークスピア・ガーデン」。

シェークスピアの作品に出てくる植物が、百種ほど植えられてます。
ブラック・べりー、ラベンダー、オリーブ・・・
春には馥郁(ふくいく)たる香りが、漂います。
色彩の豊かさは言うまでもありません。

そして中高部の校舎。東西に長く続きます。北にはタルカット記念館。
南にはアンジー・クルー記念館。どの建物も周囲の緑の調和。
向こうには広い運動場。五面取れるテニス・コート・・・

溜息が出ます。こんなキレイな場所で青春時代を
過ごせるなんて羨ましいですね。

校訓は「愛神愛隣」神と隣人を愛しましょう、という意味。
これに基づいて中高部。春と秋には「子供会」を開いて、
学園を開放し、地域の子供たちを招待して、
一緒に食事したり、遊んだりします。

大阪の施設を訪問する行事も。施設の子供たちと食事したり、
話したり。クリスマスには施設の子供たちにプレゼントも。

年二回の「米の日週間」。全校生から米を集め、それを供出。
ですが、その供出先が、なんと大阪・西成の釜ケ崎!
 神戸女学院生が地域の食堂の炊き出しに協力。

他にも「プラン・ジャポン」と呼ばれる里親制度。
発展途上国の子供たちへの募金協力・・・

そう。神戸女学院。お高くとまった女子の輩出など目指してません。
社会の多様性に目を向け、自らの恵まれた状況を噛みしめ、
困ってる人に何をできるかを考え、どんなに小さくても、
一歩踏み出してみる。

そういうことを普通にやってます。キリスト教の女子校は
いろいろあれど、ここまでの学園は他にありません。

塾の話も。大阪・中津で教えてた頃、一番前に女学院生。
来塾し始めた頃は距離を取ってた彼女ですが、だんだん前に
座るようになり、二学期からは大教大附属・池田の女子と一番前に。

神戸女学院は私服。彼女もずっと私服でした。
京大クラスでしたから、もちろん彼女も京大志望。
教育学部に行きたい、と言ってました。

最後の授業で「京大、行くぞ!」私が渇を入れると「オー!」。
面白いクラス。もちろん彼女も「オー!」。
今でも時々は想い出してくれてるでしょう。

神戸女学院。文句なしの女子校。こういう学園こそ、
真のお嬢さん学校です。

花
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