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慶大・日吉キャンパスでインタビュー受けました

土曜日、東横線・日吉駅。改札を出て、待っててくれたのは慶大生、
五名。新入生です。教育学の授業で集まった彼ら。現在、
教育に携わってる人にインタビューしよう、という企画。
安藤ゼミ。

その「教育に携わってる人」として、なんと私が登場。日吉キャンパスで
インタビュー受けることになりました。

塾講師になった経緯、その仕事内容。そこから始まり、文学、哲学、
はては経済、金融、投資の話まで。聞く耳あらば、私にも一家言。
若い知性に伝えておきたいこと、たくさん。話すべきこと、
話しておきました。

二時間、あっという間に経過。今回、慶大生フレッシュマンの
お役に立てたでしょうか?

水
water

劇団森2016・DOLL

劇団森(しん)の定期公演、早大・戸山キャンパスで開催されました。
土曜日・午後二時。演目は"DOLL"。

登場人物は五人の女子。鎌倉の寄宿学校。高校生。なぜか一人、
男子キャスト。それが「きょうこ」と呼ばれます。しかも劇中では
「オレ」と男子言葉。この謎は、最後まで解かれることありません。

舞台は通常の形でなく、登場人物たちが向きあわない設定。
コミュニケーションの不可能を表します。

ストーリーを追うことより、キャスト演技、ダンスに注目させる劇。
最終公演は今日。このブログでネタバレしては、いけません。
これ以上のストーリーは、やめておきましょう。

気球
sky

慶大SFCの昼休み

新緑、眩しい季節、久しぶりに訪問したSFC。周囲には、森と畑、
そして、ため池。ため池は「カモ池」と呼ばれ、周囲でまったりすること、
「カモる」。今回、新しい造語を学びました。

聞けば、SFC。昼休みありません。通常の休憩時間のまま、
朝から晩まで。だから、昼に空き時間、作れればよいのですが、
そうでない場合、食事時間、なし。

その代わり、なんと、授業中、食べていい、という暗黙のルール。
ホンと? 信じられない。けれど、お昼どき、外から教室を覗くと、
食べてる、食べてる。

一体、SFC、昼休み設定しない理由は、何でしょう? 食べながら、
授業を聞いて、理解、深まるとでも? 昼休みなしにして、諭吉、
以来の何かの理念、達成できるのでしょうか?

慶大SFC、授業中に食べてよし。これからの受験生にとっても、
入学前に、知ってとくべきことです。

色
Campus

劇団森2016・さらば 愛しの箱根駅伝

劇団森(しん)の定期公演が早大・学生会館で行われます。私も、いそいそと
出かけました。開演は午後二時。主催者から、確認メールが前日、
何度も届く徹底ぶり。これは、行かないわけにはいきません。

日吉から西早稲田まで東横線、副都心線で一本。出口を出て、
学習院女子の瀟洒な校舎を右に歩いていると、ありました。
早大・学生会館。B203は、地下二階。こんな場所で。

会場は既に暗く、観客でいっぱい。やがて始まった定期公演。
テーマはズバリ、箱根駅伝。

紅葉大・マラソン部主将の走(はしる)。走たち十名は、箱根駅伝のため、
学生生活の全てを捧げてきました。けれど練習中、部員の一人にケガ。
ここから、走の苦悩が始まります。箱根駅伝への出場を諦めるか
どうか、その決断が、彼に託されました。

走には父親がいません。苦悩の末、辿りついたのは父の墓前。
そこで彼は、父・登(のぼる)と友人だった勇作という人物に遭遇。
二十年前、父・登と勇作は、ちょうど今の走のように、箱根駅伝を
目指すランナー。それぞれの大学に属しながら、競いあう好敵手。
どうやら勇作は、父の死の原因についても、知ってるそぶり。

そして、シーンは二十年前の父・登と勇作。二人は、ふとしたことから、
知りあい、互いの実力を認めあいます。目標は、箱根駅伝。勇作のチームで
女子マネを務めるラン。彼女は相手チーム主将の登に思いを寄せます。
結局、登とランは結ばれ、ランは、走の母親に。

現在と過去が交差。走が率いる紅葉大。父・登と友人・勇作が率いる、
それぞれの大学チーム。そして謎の鶴見大チームも加わり、
四つどもえの箱根駅伝がスタート!

走は登、勇作と共に十区を走ることなりました。その結果は?
そして走は父から、どんなメッセージを受け取ったでしょうか・・・

二時間を超える公演。早大生が時間をかけ、練ったストーリー。
ぼうっとしてると、ついていけなくなります。

シュールなようでいて、最初と最後をキチッと合わせ、統一感を出しました。
最初の山神の決闘。最後で、その二人が学生服の中学生として
走りさる、まとめ方は、相当、苦労したはず。

最後に流れるのはTOTOの"Africa"。
なんと、80年代ポップを、こんな場所で、流すとは。

教え子・女子も出演。彼女も体当たりの演技。主役を盛りたてました。
塾に通ってた頃、早稲田に入ったら、演劇やりたいと言ってた女子。
その夢を叶えました。劇団森。これからも公演が続くとか。
こんなできばえなら、私ももっと足を運ばなくてはなりません。

森1
forest

生田キャンパス・登戸研究所

小田急線・生田駅から歩く明大・生田キャンパス。実はこの場所、
戦前は「登戸研究所」。この名前すらコード・ネーム。
正式には第九陸軍・技術研究所。

「秘密戦」に関する研究が行われました。秘密戦というのは、諜報、謀略を
使った戦いのこと。研究対象は軍事機密だったり、非合法だったりしたため、
登戸研究所の存在そのものが秘密にされました。

風船爆弾、生物兵器、偽札製造など、登戸研究所で行ってた研究は多岐。
参加した研究員も軍関係者だけでなく、特務機関から集められました。
当時の陸軍の秀才ばかり。

戦後、登戸研究所は解散し、昭和三十年、跡地を明大が購入。
工学部、農学部をここに置きました。というわけで今、農学部・校舎の
隣に、登戸研究所・史料館があります。生田キャンパスを訪問するなら、
ついでに見ておきたい施設。大東亜戦争の裏側を見ることができます。

あじさい
June

横浜祭2014・ウォーター・フットプリント

港北ニュータウンにある私のマンション。ポストに都市大・横浜祭のチラシ。
見れば六月七、八日。牛久保(うしくぼ)にある横浜キャンパスは、
歩いて行ける距離。土曜日、雨模様の中、足を運んでみました。

都市大・横浜キャンパスには環境学部、メディア情報学部。
環境学部には環境創生学科、環境マネジメント学科。メディア情報学部には
社会メディア学科、情報システム学科。他にも世田谷キャンパス、
等々力キャンパスがあります。

第十八回・横浜祭。屋台の食べ物は、どうせ他大学と同じ。
研究室・展示を見ていきましょう。やはり、と言うべきか、
環境学部の展示が秀逸。

里山づくり 水の浄化 香りの芝生・・・

環境保全をそれぞれの視点から研究、展示。研究室が思い思いに
展示しても、全体が一つにまとまるのはスゴイ。しかも環境保全は
日本だけでなく、世界が最も必要とするテーマ。英文学、仏文学といった
何の役にも立たないヒマつぶしとは、わけが違います。

外に出てみると、テント展示。パネルをボンヤリ見てると。

ウォーター・フットプリントって聞いたこと、ありますか?

都市大・女子が話しかけてきました。「ううん」と言うと、説明し始めました。
ウォーター・フットプリントとは、ある製品が完成するまでに、それに
要した水量を数値化したもの。私たちの周囲にある全ての製品は、
その生産過程で水が関わってます。その値をはじき出した数字。

1950年代から伸び始め、1980年代から急激になるウォーター・フットプリント。
説明する彼女の声にも力が入ります。特に1980年代からの伸びでは、
アジアの存在感。中国の影を見ることはたやすいでしょう。

世界各国の深刻な水不足。いちいち写真を使って説明。
ちなみに日本はどうか聞いてみると。

日本は違いますね。水の確保が簡単です。

日本は世界でも稀に、清水の豊かな国。蛇口をひねって水が飲める国は、
実はほとんどありません。しかも隣国に真っ黒な中国。
思わず顔を見合わせてしまいます。

聞けば、彼女。メディア情報学部とか。文系、理系どちらから進学するかを
訊ねると、両方いるとのこと。入試科目が柔軟になってて、文系、理系どちら
からも受験できるよう。確かに、環境保全に文系も理系もありません。

地味な大学らしく、派手さのない横浜祭。けれど普段のマジメな学習を
展示しようという試みは買うべきでしょう。ツマラナイ文学部など、
設置してないおかげで、横浜祭のテーマも時代の要請にあってます。
都市大。また行事をやってれば、行ってみましょう。

夢
creation

神奈川大学

東急東横線・白楽駅(はくらく えき)から南へ伸びる
ふれあいのまち・商店街。オリジナルな店が多い通り。
この商店街は六角橋・交差点で終わります。

交差点から住宅街を上った所に神奈川大学。丘の上にあります。
「神大」(じんだい)と呼ばれる私大。近くには捜真女学校も。
白楽からだけでなく、反町から行くこともできます。

設立は昭和三年。米田吉盛(よねだ よしもり)が横浜に
法律・経済を教える専門学校を開きました。横浜専門学校。
当時、横浜には「Y専」という市立の商業学校がありましたが、
私学では横専が最初。

ちなみに戦前、横専とY専は野球の定期戦を行ってました。
戦績は残ってませんが、ライバル校どうしの対戦。
さぞ盛り上がったことでしょう。

戦後、横専は神大に、Y専は横市になりました。新制大学に
なるに当たり、両校とも「横浜大学」を名乗りたかったのですが、
横国まで横浜大学を主張したため、三校いずれにも使わせない
という痛み分けで終わりました。

けれど神大。名前だけ聞けば、まるで神奈川の国立大のよう。
首都圏以外で「神奈川大学」と聞けば、そう取られるのでは
ないでしょうか。

ということは神大。神奈川を背負って立ち、ゆくゆくは全国に
飛翔できる命名でもあったわけです。学部も伝統的な法、経済、
経営に加えて、早くから外国語学部を設置。

理系も理学部、工学部を揃え、確かに神奈川の
私立総合大学としてはトップを行きます。

けれど神大。箱根駅伝で走ってる以外、ほとんど存在感がありません。
横浜に住んでいても、です。それなりの歴史・伝統があり、
六角橋のロケーションも悪くありません。少なくとも、
東京のMARCHに匹敵する地位は得られたはず。

ところが神大。教員か公務員を輩出するのが、せいぜい。
その名にかかわらず、神奈川を背負って立つことはできてません。
今も「神大」と言えば、全国的には「神戸大学」を指すでしょう。

偏差値でも日東駒専レベル。数だけは多い平均値。日大ならば、
社長を輩出する気風もあるのですが、神大には、それもありません。
OBとしても軍学者の兵頭二十八(ひょうどう にそはち)くらい。

四月の今、神大に行くと、学生がゾロゾロ。広いはずの敷地も
狭く感じられます。これでは「ここしか受からなかった」
学生以外、支持を集められないでしょう。

そう。神大はコンテンツを高め、それを発信するべきです。
横浜にいて「給費生試験」のポスター以外、神大の情報が
来ないとは、どういうことでしょう。

マグロ養殖や植物工場、そしてオリンピック選手輩出によって、
ステータスを急上昇させてる近大が、参考になるでしょう。
神大も社会に有用で、話題になる研究を早く確立すべきです。

近代マグロにしたところで、研究が始まって四十年。
当時、紅顔の学生たちは今、初老に。世間に認められる
研究というのは、それほど時間がかかるもの。

神大の財務には、まだ余裕があります。受験生も二万人近く、
集めてます。とはいえ偏差値50~55程度の学生を拾ってるだけ。
このレベルの学生なら、数には困りません。

けれど大学が選ばれる時代。そんな集め方をしては早晩、
学生に見放されます。同レベルの東海大が電気自動車や
ロボットの研究で、一定の評価を集めてることからしても、
神大も危機感溢れる改革を、スタートさせるべきでしょう。

今のうちに未来を見据えた先行投資ができるなら、神大の
地力をもってすれば、もっと大きな飛翔が可能。少なくとも
平塚の山中にある東海大は軽く抜き去ることができるはず。

設備はキレイで、横浜駅からも遠くない。神大のポテンシャルは
大きいだけに、今のように小さくまとまってるのは惜しいと
言わざるを得ません。

夜桜
la nuit de printemps

近大が受験者数でトップに

今年度の大学入試で受験者数トップに立ったのは大阪の近畿大学。
7462人増えて10万5890人に。二位は明大、三位は早大と続きました。

農業・漁業での実用的な研究。オリンピックでの近大生の活躍。
そして広くて明るい校舎。かつてのバンカラな近大が、
オシャレな大学に生まれ代わりました。この人気は、
大学側の周到な準備によるもの。当分、続くでしょう。

首都圏の大学が関西圏の大学にトップを明け渡しました。
今、私大の勢力図が大きく変わろうとしてます。時代について
いけない大学は取り残されるばかり。顧客である受験生は、
それをシッカリ見つめてます。

水面
water

慶大SFC

町田でJR横浜線から小田急線に乗り換えましょう。箱根湯本・行と
片瀬江の島・行の二つがありますから、注意が必要です。

片瀬江の島・行の快速に乗ると、相模大野、中央林間、大和と続いて、
湘南台駅(しょうなんだい えき)ここで降りましょう。

西口を出ます。ここはもう藤沢市。駅前には低い建物しかありません。
しばらく歩けば、神奈中バス・一番乗り場。ここから慶大行のバス。
慶大と言っても、慶大SFC。総合政策学部と環境情報学部。
ちなみにSFCとは"Shonan Fujisawa Campus"のこと。

バスはすぐに畑が続く道に入ります。十分もしないうちにSFCキャンパス。
典型的な郊外型キャンパス。周囲には大学以外、何もありません。

バスを降りて右に本館前。アルファ館。左に大講義室棟。オメガ館。
その向こうにメディア・センター。ここはミュー館。SFCでは、
このように建物にギリシア・アルファベットが付けられてます。

SFCは平成二年に「文理融合」を目指して、ここ藤沢に設立されました。
当初は全人的な教育を受けた学生がいる、ということで大いに注目されました。
けれど都心からあまりにも遠い立地が敬遠され、偏差値がドンドン低下。
やがて慶大で最も偏差値が低い学部に。

とはいえSFC。当初からコンピューターやITに関する教育を充実。
その教育を受けた卒業生がIT最先端で活躍し始めるにつれて、
今一度、勢いを取り戻しつつあります。

学生がパソコンを教室に持ち込むことが多く、教員の何気ない一言を
すぐに検索する姿が目立ちます。中でも注目すべきは環境情報学部の
村井純・研究室「インターネット」という枠組みで、さまざまな研究。

村井は日本のインターネットの草分け。日本とアメリカの回線を
初めてつないだのも村井。彼の下に多彩な学生が集結。東大や京大では、
逆立ちしてもできない、アイデア溢れる研究が生まれてます。
もう文系も理系も関係ありません。

インターネットは今や、社会の隅々に使われてます。それ故、
インターネットを枠に使えば、そのまま従来の「社会学」の枠を
設定できるわけです。起業を意識する学生も多く、今、
日本の文系学部が総じてダラしない中、SFCは
いい線を行ってると言っていいでしょう。

私の教え子からも毎年、数名がSFCに進学。都心からは遠いけど、
それが気にならないなら、面白い学び舎です。

森の池
the pond in forest

山村再生プロジェクト

東京農大の国際食料情報学部。その食料環境経済学科が
打ち出したプロジェクト。

山村の農業。個人でやろうとしても採算が取れません。

作物を作れば、シカやイノシシに食べられ、
果物を作れば、サルに食べられます。

「限界集落」という言葉もでき、耕作放棄地も増大。
高齢化が加わって、山村がますます荒廃。

この状況に対して食料環境経済学科。若者の力を使って、
地域再生に取り組もうとしてます。プロジェクトが
課題として挙げてる項目を見ると。

1・伝統再生によって地域の魅力を高める。
2・都会の若者と山村との接点を多くする。
3・地産地消を促し、地域力を高める。
4・農村での女性起業をバック・アップする。

どれもこれも必要なことばかり。農業に特化した東京農大としては、
取り組まざるを得ない課題。実践の場が必要ですね。

長野県・長和町(ながわ ちょう)。ここで行われてる山村再生プロジェクト。
農大生が活躍してます。魅力的な商品の企画・立案。農業体験。環境保全体験。
そして販売体験も。実学を打ち出す農大ならでは。

山村を復興させ、日本を蘇(よみがえ)らせようというプロジェクト。
始まってからまだ数年。実を結ぶのはこれからです。

子犬
little dog

大阪医科大学

京都と大阪の間にある高槻(たかつき)。ここに大阪医大はあります。
阪急・京都線の高槻市駅からすぐ。キャンパス隣には高槻高校の校舎も。
1927年(昭和2年)に大阪高等医学専門学校として設立されました。
関西の私大・医学部としては最古。

正門を入ってすぐ右に歴史資料館。なんとイスラム様式。
装飾もアラベスク。医学専門学校時代の校舎を、ここに移設。
2003年(平成15年)高槻市で初めて国の有形文化財に指定。

大阪医大の特色はPBLチュートリアルに力を入れてること。
三年次から始まります。小人数での演習と研究発表。
2005年(平成17年)に竣工した新講義実習棟。
ここではPBLチュートリアルのための教室が42室。

五年次から始まる実習はキャンパス隣にある附属病院で。
29の診療科、915の病床数を誇ります。
学習環境としては申し分ないですね。

自由な校風で、それが学生、卒業生、教員の誇りになってます。
とはいえ自由だから勉強しなくていい、ではありません。
大阪医大の建学の精神は「学を離れて医はない」。

実は大阪医大。近くにある大阪薬大と関西大・工学部との間で、
医・薬・工の連携を目的とした共同学部を構想。
2010年(平成22年)に設立予定でした。これができれば、
現在、求められてる医薬連携、医工連携に道筋ができます。

けれど文科省によってクレームがつけられ、頓挫。
その後、どうなったかニュースも聞こえてきません。

関西では官学の勢力が強く、医学の世界でも私大は一段下に見られがち。
けれど家に、そこそこの資産があるなら、こういう大学を
目指してもいいでしょう。学費は六年間で約3100万円。
学費に見合う教育は受けられそうです。

五月
May

立命館アジア太平洋大学

九州・大分にある別府市。湯煙り上がる温泉街で有名。良質な温泉が
あちこちに。全部、回るためには半年くらいかかりそう。

そんな鄙(ひな)びた街に2000年(平成12年)4月、立命館アジア太平洋大学が
設立されました。英語では"Asia Pacific University"。略して"APU"
(エー・ピー・ユー)と呼ばれます。

英語では「立命館」という名前が入らないように、
京都の立命館大とは、ほとんど交流がありません。

APUの特徴は留学生が多いこと。設立当初から九月入学を実施。
海外からの留学生を誘致します。現在、日本人学生・二千五百名に対し、
留学生・二千四百名で、ほぼ同数。海外でよほどのPRをしないと、
ここまで留学生を集められないでしょう。ちなみに、
日本人学生の大半は四月入学です。

学部はアジア太平洋学部と国際経営学部の二つ。
アジア太平洋学部は次のようなコースに分かれます。

環境・開発 観光学 国際関係 文化・社会・メディア

国際経営学部は。

会計ファイナンス マーケティング 経営戦略・組織 イノベーション経済学

授業は日本語と英語。日本人学生と留学生が共同で受講する授業では、
留学生からの活発な授業参加に日本人学生が刺激され、
日本人どうしでは不可能なプレゼンテーション(発表)や
ディスカッション(討論)が行われます。

もちろん、これが成立するためには相当な英語力が必要。
APU生は入学後すぐ、徹底的な英語の訓練を課されます。

そのため「アジア太平洋」という呼び名で、フッと思い浮かべるような
アジア諸言語の習得には、あまり力を入れてません。

アジアと関わる場合、英語での意志疎通になる場合が多く、
将来、どの地域と関わるか分からないわけですから、
学生の段階では英語をものにしておこう、ということ。
それは正しい姿勢でしょう。

とはいえAPU。別府駅・西口から大分交通バスで四十分もかかる場所。
バスは住宅街から丘陵地帯に入り、周囲には緑以外、何も見えなくなります。

突然、丘の頂上みたいな場所に見えてくる広いキャンパス。
APU生は四年間、ほとんどここを出ずに過ごします。

キャンパス内にある学生寮APハウス。ハウス1とハウス2があり、
日本人学生と留学生、両方を収容。APU生が温泉巡りをするとも
思えませんから、結局、勉強に集中する環境。

都会の大学に通い、バイトしても、結局、いくばくかの
バイト代を手にして、疲れて終わるだけ。

ならば田舎に引きこもり、逆説的ながら、そこで留学生から
広い世界を吸収し、その知識と技能を四年後の就活で披露。
満を持して、都会に出て活躍する。

この戦略は素晴らしくはないでしょうか?

かくしてAPU。設立間もない地方大にも関わらず、
目覚ましい就職率を挙げてます。秋田の国際教養大学とともに、
全国の教育機関が注目する大学に。

伝統校が改革も自浄できずにいる今、しがらみのない
地方の私立大が意識的な大学運営を行い、素早く成果を挙げてます。
この機運は腰の重たい伝統校にも、いずれは波及していくでしょう。

紫陽花
hydrangea

獨協大学

長州出身の明治の元勲・品川弥二郎(しながわ やじろう)。彼の像は
九段・田安門にあります。隣には薩摩出身の大山巌(おおやま いわお)が
馬に乗ってる像も。

品川が1881年(明治14年)に発足させたのが獨逸学協会。当時、
ドイツ学はそのまま法学、哲学でもありました。二年後の1883年
(明治16年)獨逸学協会・学校が開学。これが獨協学園の始まり。
今も獨協学園の学祖は品川。

初代学長を務めたのは西周(にし あまね)。日本語に「哲学」という言葉を
導入し、それを皮切りに、さまざまな哲学用語を作り出した西。幕末、
西洋に学び、帰国後は徳川慶喜に西洋の制度を講義。

さて獨逸学協会・学校。神田にあったのですが、1900年(明治33年)、
校舎が火災で焼失。移転場所を探したところ、目白の椿山荘・前に
土地を確保。椿山荘と言えば、山縣有朋の邸宅。意外なところで
長州閥の力が発揮されました。今も獨協中・高は椿山荘・前に。

獨協大学が設立されたのは戦後、しばらく経ってから。1964年(昭和39年)に
天野貞祐(あまの ていゆう)が実業家の関湊(せき みなと)の協力を
得て設立。今も獨協大の正門を入ると、この二人の胸像。

天野は第三次・吉田内閣で文部大臣も務めた学者。カントの
「純粋理性批判」を最初に訳したのも彼。獨協大学・設立者として、
ふさわしい人物。では獨協大、どこにあるのでしょうか?

田園都市線は渋谷で半蔵門線に変わります。そのまま乗ってると、
スカイ・ツリーのある押上(おしあげ)に。押上からは東武東上線。
曳舟。北千住。草加・・・

草加で乗り換えれば一駅で松原団地。ここで降ります。駅を降りると、
ハーモネス・プラザ。それをくぐると獨協大・校舎が見えてきます。
新しい校舎。窓が大きく取られて、外の日差しが差し込みます。
明るい。廊下もトイレもピカピカ。

しかもあちこちにラウンジがあります。落ち着いて話せるスペースを確保。
学生目線に立ってます。東大や慶大の校舎は重厚。それはカッコイイようで、
昼間でも中は真っ暗。建て替えればすむ話ですが、時計台やら何やらが
象徴的な意味を帯び、今さら建て替えすらできません。

思えば、東大。駒場にしろ、本郷にしろ、校舎は汚く暗いまま。
ちょっとカワイソウ。その点、獨協。新しい大学である分、奇妙な象徴も
ありませんでした。それは良いことだったでしょう。廊下には到る所に
チャット・ルームの掲示。英、独、仏の言語だけでなくスペイン語や中国語も。
さすが「語学の獨協」と言われるだけあります。

外国語学部。国際教養学部。経済学部。法学部。これらが一つの
キャンパスに集まってます。でも獨協。東京にいると今ひとつ、存在感を
感じません。やはり外国語学部が法学部、経済学部を牽引し切れなかった
ことが、上昇を阻んだ大きな原因でしょう。

最初は外国語学部で人気を取っても、次第に法学部の国際関係法や
経済学部の国際経営が力を付けていく。文系の大学が全国に名を
馳せるには、このパターンがどうしても必要。

そして、そういう法学部、経済学部から総合商社、メーカー、銀行に
進む者がたくさん出てこそ、大学は活性化します。最初は人文。けれど、
その後には法、経が続かなくてはなりません。獨協では、その継承が
見られませんでした。西洋研究に終始。設立理念に、あまりに忠実。

で、獨協。これからどうするのでしょうか? 相変わらず西洋研究で
行くのでしょうか? そう。設立理念はとりあえず置いといて、
獨協もアジア研究へと舵を切るべきです。

確かに現代人の思考方法や社会システムの根本は、西洋に端を
発してますから、西洋を無視するわけにはいきません。
けれど、それはあくまで過去の話。未来はアジアから。
そちらにシフトしていくのは当然のことでしょう。

しかもその時、獨協が今まで培った西洋研究はムダにならないどころか、
より広いアジア研究の土台となってくれるでしょう。

それと獨協。ぜひ東武鉄道と話し合って「松原団地」というダサイ駅名を
「獨協大学前」と変えてもらいましょう。駅名を学校名に帰るだけで
周辺地価は上がります。松原団地・住人にも悪い話ではありません。

緑
green

近大みかん

和歌山県・湯浅町にある近大の附属農場・湯浅農場。
ここでは、温暖な気候を利用して、熱帯果樹類の
実用化栽培に関する研究・開発が進められています。

ここで栽培された「近大みかん」は、有機肥料で栽培。
木の間隔を広く取り、背丈も低くし、太陽の光を
シッカリ浴びて育ちます。

近大・農学部・農業生産学科の三年生が集中実習で、
みかんの収穫、選別、箱詰を行います。一つ一つ、
形と熟れ具合いを見ながら、丁寧に収穫。

「近大みかん」として販売されます。このみかんを使った
無添加みかんジュース「100% 近大です」も。

同農場では他に「近大マンゴー」も出荷予定。
品種改良の結果、糖度を高めることに成功しました。

近大は「学問は世の中に貢献してこそ意味がある」という
ポリシーの下、企業と合同でさまざまな商品を開発。

「リエゾン・センター」が大学研究と企業の
橋渡しをしてます。特許の出願、企業への研究成果アピールなど、
このリエゾン・センターが仲介となって行われてます。

理系だけでなく文系の学生が提案したビジネス・モデルの
事業化、デザイン・コンセプトの紹介も。

近大の勢いは止まりません。同志社や関学が古い
キリスト教・体質から抜け出せず、欧州凋落のあおりを受け、
今後、衰退が予想される中、実利を追求する近大の姿勢は
目を見張るものがあります。

今後、十年ほどで関関同立を抜く可能性も
出てきました。勢いというのは、そういうものです。
関西・私大の雄、近大。

昔、近大・卒業生と言えば、大相撲の大関・朝潮
(現・高砂親方)のイメージでした。

けれど、それも一変。昨年のロンドン・オリンピック。
競泳陣が日本を沸かしました。背泳ぎで活躍した
入江陵介(いりえ りょうすけ)選手は近大・法を卒業。

それもあって、今年の私大・志願者数ランキングでは、
近大は大幅に順位を上げました。東京の私大、たとえば、
早大・慶大・明大などが志願者数を減らす中、
近大は大健闘。未来ある大学です。

花々
flowers

西南学院大学

修猷館高校から道を隔てたすぐ北にあります。両校に何かつながりが
あるのか調べてみましたが不明。ヤフー・ドームの近く。福岡タワーも。
最寄駅は地下鉄・西新駅(にしじん えき)。

神学部。文学部。商学部。経済学部。法学部。人間科学部。国際文化学部。
いろいろあるようでいて、全て文系。それ故、一つのキャンパスに
まとめることができたようです。

キリスト教の「人間愛」に基づく教育を目指し、1916年(大正7年)に
設立されました。学内にはチャペルまで。都内の青学大、
明学大のような大学が、福岡にもできた、と言えば、
分かりやすいでしょう。

さて西南大。昨年度の入学者は1401名。このうち、福岡県内から1055名。
九州・沖縄地域から1316名。入学者のほとんどが九州・出身者。
当然、卒業生の就職先も地元の公務員、教員、JR九州、
九州電力などが目標。

地方の国立大は地元のリーダーを輩出する役割を果たしてます。
西南大も私学ながら、その役割を果たしてるということでしょうか。

ただし、この目標設定。そこそこ歴史のある西南大としては、ちょっと
低すぎないでしょうか? もう少し全国を見据えた大学運営をしても
いいのではないでしょうか?

小さくまとまった西南大からは、全国レベルの研究も出ず、ニュースも
発信されません。恐らく教員も、生え抜き研究者を出せず、九大や
他の有力大の植民地になってるのではないでしょうか。

そう。西南大。東京・大阪から、もっと学生を引っ張ってくる努力を
すべきです。そうでないと「九大落ちたけど、浪人もイヤだし」という
学生ばかりで占められるでしょう。見渡せば九州・出身者だらけ。
雰囲気も高校と変わらなくなります。

学部が文系だけということも、他者と接触できない、という点で
マイナス。西南大では本質的な驚きや発見を期待できません。

とはいえ西南大。この点にはシッカリ気づいたようです。
理系学部を二つ、設置予定だと発表しました。定員は500名。
早ければ2014年にもスタートさせたい、とのこと。

東京オフィスも設置。場所は東京駅・八重洲口。駅からすぐの
サピア・タワー十階。東京での足掛かりに。西南大が動き始めました。
大学も進化しなくてはなりません。

西南大が今後、全国的な研究をドンドン発表し始めれば、
それは東京、大阪の大学にも大きな刺激となるでしょう。

花
spring

福岡大学

福岡にある国立大は九州大。福岡大は私学です。福岡市の南、
七隈(ななくま)という、博多駅から西鉄バスで五十分もかかる場所。

周囲は住宅街。そこにキャンパスが広がります。ヤフー・ドームが
四十四も入る広さ。しかもワン・キャンパス。文系・四学部、理系・四学部、
それにスポーツ科学部を揃えた九学部。堂々たる陣容。もちろん医学部も。

九学部の一年生から四年生(六年生)までが全員、この七隈キャンパスで
学びます。総勢二万人。官学・私学を問わず、こんな大学は「福大」
(ふくだい)だけ。キャンパス中央に医学部・附属病院・新館。
その隣には医学部・付属病院・本館。

文系学部は「文系センター棟」という高層棟にコンパクトにまとめ、
敷地の大半は理系学部が占めます。キャンパス内には大きな池も二つ。

昨年七月、中央図書館も完成しました。一階は広いラウンジ。
ラウンジに入ると「知の大地」「光の森」といったオブジェが
訪問者を驚かせます。ガラス・ケースには稀観本の展示。
ヨーロッパ法に関する書物。あるいは江戸時代の漢詩文・・・

二階から図書館。座席数・二千。収容本・二百二十万冊。書架、机、椅子、
全て木製。検索端末も充実。施設としては申し分ないでしょう。
福大が全学部を一か所にまとめた意義は大きい。
そう言わざるを得ません。

大学が活性化するためには、まず人文が理念を醸し出し、
他学部に浸透させていくことが不可欠。偏差値の低い
人文がガンバらないといけないわけです。

けれど都内の私大を見ても、地方の国立大を見ても、
キャンパスがバラバラ。数十㎞離れて点在する場合も。

これでユニバーシティもおこがましいでしょう。
牽引役の人文は本来の役割を忘れ、低い偏差値に甘んじ、
理系はと言うと、理念を抜きにして、単なるスキル向上に
いそしむことになります。

結果、よい技術、よい製品は出せても、それをアピールできない、
価値創造を伝達できない、という情けない状況に。しかも
これは日本の大学だけでなく、外から見た時の
日本社会そのものではないでしょうか?

それに対して福大。人文が他学部に理念を広めるためのインフラを
シッカリ整えました。人文だけではありません。医・薬・理・工の間でも
今どき連携は不可欠。研究を進めれば進めるほど、法とのつながりも
出てくるはず。学際研究へと道が開かれます。

見たこともないものに接することでの自己崩壊。
これまで思いもしなかった地平線の発見。

学部を問わず、大学でやらねばならない作業は本来、
そういうものです。しかし残念なことに、日本の大学では、
教員・学生、上から下まで、そんなことを思いもしないのが現状。

各自、自分が壊れることを恐れ、専門分野を小さく作って、そこに
閉じこもりたがります。タコ足キャンパスが、その傾向を一層、助長。

ここは一つ、福大の奮起に期待しましょう。
「真のユニバーシティはこうだ」と大々的に世間に
アピールするのです。それを見て、慌てふためく大学も
多いのではないでしょうか。

福大の規模なら財務も安定してるでしょうから、東京・大阪など、
主要都市で福大の魅力をガンガン発信していけばいいのです。
そんな広告の方が、目ざわりで下品な予備校・広告より、
よほど社会の啓蒙にもなるでしょう。

九州という土地は辺鄙なようでいて、古来、たびたび日本の歴史を
動かしてきました。閉塞した日本の大学。この現状を福大が変えて
くれるかもしれません。今はまだ、実力を秘めながら、
眠ったままの福大。いつ目覚めてくれるか、
注目しておきましょう。

白梅
ume

国士舘大・二十一世紀アジア学部

小田急線・鶴川駅(つるかわ えき)。駅を降りるとバス・ロータリー。
二番乗り場から小田急バスに乗りましょう。
どのバスに乗っても国士舘大に行きます。

え、国士舘って世田谷にあるんじゃ?

ここ町田にもキャンパスがあります。国士舘大・二十一世紀アジア学部。
バスはドンドン住宅街に。そして国士舘大学前。けれど降りても周囲は
都営住宅ばかり。キャンパスらしきものはありません。

ウロウロしてると看板が見えてきました。通りから引っ込んだ所に正門。
その向こうにキャンパスが広がってるのでした。二十一世紀アジア学部の
校舎は正門から歩いて行った、かなり奥まった場所。国士舘大の中でも
一番新しい学部。2002年(平成14年)4月に開学。

未来を予測する研究をしよう。アジアを全体的に捉えよう。

これが学部設立のグランド・コンセプト。三つのコースがあります。

交流アジアコース アジアビジネスコース アジア探求コース

国際関係論からアジアを研究したければ「交流アジアコース」。
貿易や実務に興味があるなら「アジアビジネスコース」。
文化や歴史を探求するなら「アジア探求コース」。

将来、ビジネスをやるにしても当該地域・文化への洞察は不可欠。
そういう考えが見えますね。語学としては中国語、韓国語、タイ語、
ベトナム語、インドネシア語、ロシア語、アラビア語を揃えてます。

在学中に留学し、現地でインターンとして働き、帰国して
卒業することが可能。現地での働きぶりが評価されれば、
卒業後、改めて就職するという道も。

今後、アジアの時代が到来するのは間違いありません。しかも重心は、
中国から次第にインド、東南アジアへと移っていくでしょう。

その時、このような学部を設立した意味が出て来ます。未来を
見据えた学部。国士舘大の試みは、今後、注目するに値します。

花束
bouquet

杏林大・医学部

吉祥寺から南へ伸びる吉祥寺通り。左には井の頭公園の森。上連雀、
下連雀・・・道は三鷹の街を南北に走ります。やがて右に都立・三鷹高校。
その向こうに大きな杏林大学・病院。「きょうりん」と読みます。

キャンパスへの行き方が分からず、ウロウロして、やっと裏門から入れました。
キャンパス中央には医学・資料情報棟。ここが本部棟。
隣には医学部・附属図書館。

杏林大の三鷹キャンパスです。ここでは医学部、保健学部・看護学専攻の
学生が学びます。少し離れた所には医学部附属・看護専門学校も。

杏林大にはもう一つ、八王子キャンパスがあり、そこには外国語学部、
総合政策学部、保健学部の看護学専攻以外の学科があります。
1966年(昭和41年)に設立された新しい大学。

三鷹キャンパス・本部棟の玄関には「真・善・美」の文字。校訓になってる
ようです。校舎のプレートには、「杏林」という名前の由来も。

昔の中国。ある医師が患者から治療費を取らず、杏(あんず)だけを、
もらってました。そして、その杏を一つ一つ植えていったところ、
いつか杏の林になった、という故事。そんなプレートを
ボンヤリ見てると、向こうから女子。

あ、先生。

駆け寄ってきます。なんと昨年まで教えてた女子。
すっかり学生らしくなって。

おお。

私たちは附属病院・外来棟の上にあるレストランに。
このレストラン、眺めがよく、遠く新宿・高層ビル群も。

「救急医療がやりたい」と杏林大に進んだ彼女。確かに第一病棟の向こうには
高度・救命救急センター。三次・救急医療まで受け持つ大きなセンター。
附属病院そのものが大きく、入院ベッド数は千床以上。
これなら杏林大で研修するとしても、十分な規模。

医学部は一年次から三鷹キャンパス。八王子キャンパスとは、ほとんど
交流なし。大学側としては、医学部と他学部の連携を強調してますが、
やはりムリがあるようです。

大学の語学について聞いてみました。すると。

中学の英語みたいです。

教員も学生もやる気がなく、学部としても、語学で学生を疲弊させない
方針とか。これはマズイ。来たるべきグローバリズムの中で、英語も
使えない医師は、活躍の場が大きく制限されるでしょう。
六年次、卒業する頃には英語で診断、治療が
できるくらいにならないといけないのに・・・

英語、やっとけよ。

私からは、そう言うのが精一杯。思えば彼女。高二から英語を
習い始め、高三、浪人時代にも塾に来ました。杏林大に
受かった時は、二人して喜んだものです。

そんな杏林大。学費は六年間で三千八百万円。決して安くはありません。
けれど、彼女。その教育投資を遥かに上回る医師になってくれるでしょう。

気球2
baloons

自治医科大学

概ね半径4㎞以内に五十名以上住んでいて、医療機関がなく、
かつ容易に医療機関を利用できない地区

厚労省は「無医地区」をこう定義してます。こうした「僻地」での医療を
充実させるため、各都道府県が出資し、1972年(昭和47年)栃木県に
自治医科大学が設立されました。「自治医」(じちい)と呼ばれてます。

JR宇都宮線。大宮から一時間ほどで小山に。小山は関ヶ原の戦い・前、
家康が上杉・討伐を一旦、中止し、西へ戻る軍議を開いた場所。

その小山から二つ目の駅が「自治医大」大学名が、そのまま駅名に。
駅を出ると、自治医への接続バス。百六十円。五分ほどで自治医のタワーが
見えてきます。自治医のタワー以外、周囲に高い建物はほとんどなく、
大学でもってる町。駅名が大学名なのも理解できますね。

バスは附属病院に到着。この病院は専門病院で紹介・予約がないと
診てもらえない科ばかり。病院の向こうに、さっきから見えてた
自治医のタワー。キャンパスはここ。

タワーは右が記念棟。左が教育・研究棟。向こうにはグラウンド。
そして学生寮。学生寮は白い建物。キャンパス周囲には
木立と野原が広がり、他に何もありません。
医学を勉強するためだけの六年間。

味気ないな、と思うかもしれません。けれど六年間の学費、
二千三百万円は全て貸与。入学金・授業料など一切かかりません。
私大カテゴリに入る自治医ですが、各都道府県が出資して
設立した特異な経緯のため、こうなってます。

卒業生は研修期間を経て、自治医・在学期間の一・五倍の期間、
出身・都道府県の命じられた場所で働くことが義務づけられます。
六年間で卒業したなら、九年間ですね。しかも、その九年間の半分は、
知事が命じた僻地で働きます。この義務を満たせば、
貸与された学費が免除される仕組み。

各都道府県から二~三名の枠。東京・大阪は人口が多いから
枠も広いかというと、そんなことはありません。ただし、
地元・栃木県からは五名。結果、全寮制となります。
学生寮が完備してるのも、頷けますね。

僻地・一歩手前みたいな自治医キャンパス。このロケーションも、
僻地医療の心構えを学生に植え付ける狙いがあるのでしょう。

都会の灯が恋しい。

そんなメンタリティでは、とうてい僻地医療などできません。
年限は九年間と定められてはいても、九年経っても、
そのまま僻地にとどまり続けることが、期待されてます。

学費が全くかからず、奨学金については月額・五万円が、ほぼ無条件に
認められます。家庭の経済状況によって七・五万円、十万円、
十二・五万円、十五万円と増額されます。

寮に住み、周囲に何もないのですから、実質、学費・生活費が無料。
僻地医療を充実させたい、という地方自治体の姿勢が現れてます。
例えば東京都の枠で入学したなら、卒業後、都立病院で研修を行い、
そして三宅島や大島みたいな場所で医療に従事します。

学費がどうこうより、最初から僻地医療が目標で、大学を探してたら、
自治医を見つけ、ここだ、と思って受験する。これが自治医への
ベストの進路選択。学費がかからないし、とか、一定年数経ったら
都会に帰ろう、とか思って入学しても、いつか挫折するでしょう。
というより、そんな受験生は、そもそも面接で、はじかれるはず。

医学部・受験を学費面だけで考えるなら、自治医より、
通常の国公立大・医を目指すべき。通常の国公立大・医でも、
家庭が困窮し、成績優秀なら、学費免除や奨学金があります。

僻地医療に一生を捧げよう。

思いつきでなく、心からそう思う受験生こそ、
自治医の門を叩くべきです。生半可な気持ちでは、
いつか後悔するでしょう。

噴水
fountain

東京慈恵会医科大学

東京・芝にある慈恵大学病院。すぐ向こうには大学・一号館。
二つの建物が競うように建ってます。東京タワーはすぐそこ。
虎ノ門、新橋にも近い場所。まさに東京・一等地。

もちろん医大の価値は土地価格で計られるものではありません。
けれど不動産・価値だけで言うなら、都内一、日本一はここでしょう。

さて、ツマラナイ不動産・話はおいといて、慈恵医大。どんな大学か、
中に入ってみましょう。まずは病院から。入るとすぐに。

病気を診ずして 病人を診よ

設立者・高木兼寛(たかき かねひろ)の言葉。医師は病気や症状だけでなく、
患者の全体を診るべきだという、今日では当たり前のことが、明治期に
語られたのでした。今では信じられないことですが、当時、
帝大・医学部スクールを中心に、患者を
研究材料とみなす風潮がありました。

イギリスに学び、人道主義に基づく医療を目の当たりにした高木は、
そんな風潮に肯ずることなどできません。高木が慈恵医大の前身・
成医会講習所を開いたのは1881年(明治14年)のこと。

以来ずっと「患者目線に立つ」ことが慈恵医大では連綿と受け継がれて
きました。病院、看護婦・教育所も次々と新設され、慈恵医大は発展。

ちなみに高木は、もともとは海軍・軍医。イギリスへの留学も
海軍からの派遣。帰国後の高木は、当時、軍で流行していた
脚気(かっけ)の撲滅に尽力。今では有名な「海軍カレー」も、
脚気・予防のために高木が考案した料理。軍人としてよりも、
心優しい医師だったのでしょう。

そんな高木の遺志に忠実たらんと、慈恵医大。今も病院入口に
高木の言葉を掲げてます。診察を待つ患者さんたち。忙しく動き回る医師。
その後をついて回る医学生。いかにも医大病院・待合室の風景です。

病院をつっきると大学・一号館。ロビーには、さまざまな臓器の標本。
といっても、何かに漬けてあるわけでなく、干からびて収縮。
結局、展示用なのでしょう。

慈恵医大のキャンパスは二つあります。ここ西新橋キャンパスと
国領キャンパス。京王線・つつじヶ丘駅の二つ向こうに、
国領(こくりょう)という駅がありますが、そこ。

国領キャンパスでは医学科・看護科の全ての一年生が学びます。
看護学科は二年次以降も、そのまま国領キャンパス。
医学科は二年次からは西新橋キャンパスに。

慈恵医大。伝統ある大学だけに、これまで輩出した医療人も多く、
卒業生は医療のあらゆる分野で活躍してます。国家試験の合格率も
昨年度で95.2%。全く問題ないでしょう。

学費は六年間で二千三百万円。私大・医学部の中では、
かなり安い方。今後も慈恵医大の人気は続くでしょう。

木1
tree

順天堂大学

箱根駅伝で毎年、結構いい成績を出す順天堂大。

スゴイなー。医学生なのに、あんなに早く走れるなんて。

そう思ってる人はいませんか? 箱根を走ってる順大生は
「スポーツ健康科学部」の学生。千葉にキャンパスがある学部。いちいち
確認してませんが、順大ランナーの中に医学部生はいないでしょう。
ましてや医療看護学部、保険看護学部の男子が走ってるとは、
とても思えません。

お茶の水にある順天堂大には医学部のみ。隣には順天堂・医院が
聳(そび)えてます。シーボルトが長崎に鳴滝塾を開き、西洋医学を
教える鳴滝塾を最初に開いたのが1824年(文政7年)。

それに遅れること十四年。1838年(天保9年)に佐藤泰然
(さとう たいぜん)が日本橋に西洋医学塾を開いたのが、
順天堂の始まり。

1853年(嘉永6年)ペリーが黒船・四隻で来航。以来、日本では
全国的に尊王攘夷・思想が広がります。西洋のものは全て悪い、
と言わんばかりに、西洋医学も敵視されることに。

佐藤の医学塾も日本橋で続けていくのは危険となり、千葉・佐倉に疎開。
ここほど田舎なら、大丈夫だろう、というわけでした。

佐倉の地で正式に「順天堂」と名乗り始めました。
易経の「順天応人」から取られてます。天の意志に従い、
人々の期待に応える、というほどの意味。

こんな田舎にありながら、順天堂の名は
全国にとどろき、各地から俊英が集まりました。

日新の医学 佐倉の林中から生ず

その後、明治維新後、順天堂も東京に戻ってきました。
優秀な堂主、そして教授たちが学園を盛りたて、私立・医学校
として揺るぎない地位を獲得。今日に至ります。

学是は「仁」。患者への思いやりの心を叩き込まれます。医師として
当然のことでしょう。順天堂の特色としては、早くから医学とスポーツの
連携に着目したことが挙げられます。戦後、早々と体育学部を設立。
それが現在、スポーツ健康科学部に。

この学部からは「美しい体操」の範(はん)を世界に示した、
男子体操の富田洋之(とみた ひろゆき)が出ました。

男子団体でアテネ・オリンピックで金メダル、
北京・オリンピックで銀メダルを獲得します。

医学部に戻りましょう。順大・医学部では国家試験・合格を
大きな目標に掲げてます。当たり前のことですが、国家試験に
合格しなければ、医師にはなれません。しかも毎年、落ちる人が
一割ほどは、いるのです。国試くらい、キチンと合格しましょう。

当たり前の目標を順大・医学部は掲げ、実行。結果、国試・合格率では
全国の官学・私学の医学部のうち、常にベスト5に入るまでに。

六年間の学費は二千百万円。慶大・医学部に次ぐ安さ。この安さこそ、
順大・医学部の実力を物語ってます。毎年、志願者が殺到。
慶大・医学部、慈恵医大と並んで私大・医学部の御三家です。

色
colors

昭和大学

私が住んでる横浜・港北ニュータウン。センター南にある昭和大・北部病院。
高度な専門医療を受けられる病院として、市民の安心の源となってます。

田園都市線を長津田・方面に行くと、ここにも昭和大・藤が丘病院。
このように港北にいると、イヤでも昭和大の存在に気づかされます。

一体、昭和大とは、どんな大学なのでしょう?

田園都市線に乗ってると「医療の総合大学」という広告をよく目にします。
どんな大学なのか、見に行った方が早いですね。場所は東急・大井町線の
旗の台駅。二子玉川で乗り換えて、急行に乗れば「自由が丘」の次。

降りると旗の台・商店街。その向こうにドーンと聳える昭和大・病院。
病院は二棟に分かれてます。大学らしき建物はありません。
総合受付で聞いてみました。すると。

この裏ですよ。左へ曲がって、もう一度、左です。

大学は病院の裏。病院を出てよく見ると、周囲は薬局ばかり。
そして医学書店。さながら医療・城下町の風情。

言われた通りに行くと、ありました、昭和大。中庭を挟むように
校舎がコの字に。事務局が分からずにモタモタしてると、
事務の制服を来た女性が。

ご案内いたします。

優しい心遣い。私は何とか事務局に辿り着くことができました。
さて昭和大。医学部、歯学部、薬学部、保険医療学部の四学部。
この四学部があるのは全国でここだけ。「医療の総合大学」と
胸を張るのも頷けます。

上條秀介(かみじょう しゅうすけ)が1928年(昭和3年)に
設立した「昭和医学専門学校」が前身。今も昭和大の学祖は上條。
以降、八十年余、昭和大は連綿と医療人を世に送り続けてきました。

そんな昭和大の特色を言えば「学部間の連携」。
四学部間で連携した教育を行うことを一年次から目指します。
それ故、一年次には、全学部生が富士吉田キャンパスで
学びます。しかも、なんと全寮制! これはスゴイ。

富士吉田で昭和大生は、それぞれの学部に関係なく、医療人としての
資質を体得していきます。とかく医療系の学部は、医学部を頂点に、
次に歯学部、薬学部、看護学部が続きます。その差は歴然。

たいてい学部間で対立関係が生じ、ケンカばかりするのが
普通のパターン。ましてや看護学部、看護学科に至っては
医学部・学生の恋人探しの場所、ぐらいにしか思われてません。

なのに昭和大。学部の垣根を超えて一緒の生活をさせることで、
下らない偏差値・思考を捨て去らせ「一緒に医療を学習しよう」という
姿勢を植えつけます。

これは医学部・学生に余計なプライドを持たせないだけでなく、
他学部・学生にも、医療人としてのキチンとした
誇りを与えることになります。

医療現場では、患者の全体を見なければなりません。その際、
医学の知識だけでは、どうしようもなく、歯学、薬学、看護学の知識も
求められます。今どき、医療人は他分野との協力なしには、
一歩も進むことができません。

このことをシッカリ認識した昭和大。医療人・輩出という点で、
生き生きした学び舎となってます。ちなみに医学部でも
六年間の学費は二千七百万円。安い方でしょう。

官学・医学部への入学のために、心身を消耗し、歪んでいくより、
適当な受験勉強で昭和大あたりに入学し、そこで早くから幅広い訓練、
切磋琢磨を経験する方が、うんと良いでしょう。

私大・医学部には昭和大のように、素晴らしい学び舎がたくさん。
私もこのブログでプッシュせざるを得ません。

梅
ume

大東文化大学

池袋から東武東上線に乗って七つ目の駅。東武練馬。駅前の大東文化会館。
そこからはスクール・バス。板橋キャンパスには五分ほどで到着。
三、四年生がここで学びます。一、二年生は同じ東武東上線で
一時間ほど向こうの東松山キャンパスに。

ただし国際関係学部とスポーツ健康科学部は、四年間ずっと
東松山キャンパス。この二学部は新しく、板橋キャンパスでは
十分なスペースを確保できなかったようです。

さて板橋キャンパス。正門から入るとすぐに裏門。隣には
大東文化第一高校。敷地自体は消して広くはありません。

中央にある図書館を囲むように校舎が。ただしメインは
左右に長く続く三号館。一~三階が教室。四~五階が研究室。
ガラス張りの明るい雰囲気。壁面にはソーラー・パネル。
太陽光発電までやってるのですね。

戦前、九段に「大東文化学院」という小さな学校がありました。
その名の通り、漢籍研究から始まり、大きくアジア全体を学ぼうという学校。

ところが大東亜戦争。そして終戦。大東文化学院は戦後、新制大学への
許可を求めるにあたり「大東」という文字を取り、別名で申請しました。
大東文化学院そのものは、大東亜思想と関係なかったのですが、
GHQに国粋的な学校とみなされたくなかったのでしょう。

とはいえ「大東文化」という校名への愛着は卒業生、関係者に根強く、
新制大学となっていくらも経たないうちに「大東文化大学」に戻り、
今に至ってます。戦後のドサクサで校舎を転々とし、現在の板橋キャンパスに
落ち着いたのは1950年代。その後、学生数・増加により、板橋キャンパスも
手狭となり、東松山キャンパスが設立されました。

このような経緯から大東文化大。今も中国研究、アジア研究、
そして国際関係学がメインです。文学部に加え、外国語学部、
国際関係学部まで。あとは通常の法、経済、経営。
新しい学部としては環境創造学部、スポーツ健康科学部。

文系だけの学部構成なので、狭い大学でも、これだけの学部を詰め込む
ことができたのでしょう。その点では武蔵大と同じく、大東文化大は、
規模拡大に走らなかった故に、バブル以降の後遺症に苦しむことも
ありませんでした。文学部と外国語学部には似てる学科も多く。

日本文学科と日本語学科 中国学科と中国語学科
英米文学科と英語学科

これらを揃えられること自体、大学としての厚みを感じます。
やはり文系に特化した分、このような余裕もできたのでしょう。

さて大東文化大。いいことばかりではありません。特色ある大学なのに、
偏差値がまるで上がりません。50行くか、行かないかの程度。
「大東亜帝国」の一角で、そもそも「大学」と呼べるスレスレのライン。

キャンパスのロケーションという、どうしようもない構造的課題は、
ひとまずおきましょう。やはり対外アピールのマズサが、
上昇を見込めない原因ではないでしょうか。

これからのアジアの時代。大東文化大が誇れるものはいろいろあり、
それに興味を抱く受験生も多いはず。けれど電車で、たまに見る
大東文化大の広告。アジア研究に強いことすら、全く見えてこず、
「緑の中の学び舎」みたいなトンチンカンな打ち出し方。

戦後の危機がよっぽどこたえて、今もアジア研究を口にしにくいのでしょうか?
歴史、伝統、学部陣容が揃ってるのだから、工夫しだいでMARCHはともかく
日東駒専くらいは十分に追いつけるはず。どうして、
こう打ち出さないのでしょう。

アジア研究なら我が大学へ! 大東文化大。

大東文化大は、大学としては珍しく、キャラクターを持ってます。
ピーター・ラビット。学びの森で共にガンバりましょう、という趣旨。

自然をアピールすることは大いに結構。けれど大学は文系、理系を問わず、
文化を扱う場所であることを忘れてはなりません。

大東文化大では、入学時・偏差値の割には就職率は良く、しかも大学として
教員養成に力を入れてます。確かに平凡な教育学部でツマラナイ訓練を受け、
何も面白くない教員より、大東文化大で中国研究や国際関係学部に触れ、
その後、英語や社会を教えることになった教員の方が、遥かに面白く、
アクティブな授業ができそうです。

もっと効果的にアピールすればいいのに。

大東文化大にそう感じる人は、私だけではないでしょう。

滴
drops

武蔵大学

根津嘉一郎(ねづ かいちろう)という「鉄道王」がいます。明治、大正、
昭和を生き抜いた実業家。東武鉄道の経営で有名。東武鉄道と東上鉄道を
合併したのも根津。関西では南海電鉄の経営に加わりました。

根津は明治期、アメリカを視察した際、現地の資産家が慈善事業に
多額の資金を投じてる姿勢を目の当たりにし、「社会で得た利益は
社会に還元すべし」という強固な信念を持つに至りました。

根津は1922年(大正11年)旧制・武蔵高校を設立。晩年のことです。
とはいえ、社会にダイレクトに恩恵を与えられる教育に参加できたことは、
根津には本望だったでしょう。

戦後、武蔵高校に大学ができたのは、必然でした。武蔵大学は1949年
(昭和24年)新制・大学として発足。経済学部、人文学部、社会学部の
三学部で構成されます。

西武・池袋線の江古田駅(えこだ えき)が最寄り。駅を出て
ゴチャゴチャした商店街を抜けると千川通り。
右へ歩けば、すぐに武蔵大のキャンパス。

1970~80年代、多くの私学がユニヴァーシティを夢見て、理系学部を設立し、
場所が足りずに郊外に。一方、武蔵大はそのトレンドに乗らず、
江古田で三学部を堅持し続けました。2013年(平成25年)の今、
郊外に出てった私学の多くは、規模拡大による弊害に苦しんでます。

伝統が途切れ、かつての面影を失くした文系学部。
志願者が集まらず、不良資産化した理系学部。

その点、無謀な規模拡大に走らなかった武蔵大の経営姿勢はみごとでした。
どこの私学も郊外に進出してる時に、一人踏み止まるには、
それだけの理念と根性が必要だったでしょう。

さて、そんな武蔵大の特徴を挙げるなら、何と言っても「ゼミの充実」。
通常、一・二年次には「一般教養」という名前で高校の延長みたいな授業を
受けます。この一般教養。有名大を含め、普通の大学では、たいてい
教員から学生への一方通行。まともな授業も、面白い授業もありません。

第二・外国語という科目も、ここに含まれますが、その外国語が全く身に
付いてないことを見ても、一般教養の無意味さが理解できるでしょう。

三年次に、ようやくゼミ。けれど文系の場合、ゼミに入らず、卒論も書かずに
卒業することが可能。たとえゼミがあっても、たいていは課題図書の講読。
外国語の場合、訳読中心。高校の英語授業と、ほとんど変わりません。

いずれにせよディスカッション(議論)など行われず、課題図書を読んで
おしまい。訳読の場合、一度の授業で一ページほど。一年で三十ページ。
この分量で一体、何を学ぶというのでしょう?

しかも課題図書の選定には、教員が、たまたま興味を持った図書が
使われます。恣意的も、いいところ。今の学生に何が必要なのか、
という視点から、課題図書が選ばれたしません。

結果、ゼミとは名ばかりの白けた時間が続きます。しかも、情けないことに、
このダラけた空間は、怠けたいだけの教員、学生、双方にとって、
ぬるま湯の、実に心地良い空間。その堕落ぶりは、まともな判断力あれば、
心震えるはず。今の日本の大学は、冷静に見れば、そういう状況。

たまに教え子の大学生から、話を聞くことがあります。そんな彼らは一様に
「大学が楽しい」。私も場を壊すわけにはいきませんから、笑って流してます。

けれど「楽しい」という彼らの言葉。よく聞いてると「ディズニー・リゾートが
楽しい」という意味と、ほとんど変わらないことが分かってきます。

自己の崩壊。それに伴う視野の拡大。

真の知的作業とは、こういうものでしょう。けれど、そういう知的作業とは、
およそ無縁の、その場限りの喜びに包まれた、平穏な大学。
このような大学に全く意味はありません。
というより、害ですらあります。

武蔵大を見てみましょう。ここでは全学部で一年次にゼミに入ります。
入学後、オリエンテーションがあってゼミが開始。課題図書なり、
研究テーマなりを与えられ、研究が始まります。秋には
プレゼンテーション。自分の研究結果を発表。

教員はディスカッションが逸れないように注意し、自らの専門知識を
生かして、ディスカッションに足りない部分を補います。

これこそ理想。しかも武蔵大のスゴイ点は、そのゼミが三学部を跨いで
行える点です。その名も「三学部・横断型・ゼミナール・プロジェクト」。

確かに、~学部、~学科は便宜的な区分けにすぎません。
この世の事象は、そんな区分けより遥かに複雑。

その複雑さ、多様性に対して、たいていの大学教員は目をそむけ、
専門に閉じこもります。それ故、社会で何の役にも立たない言葉しか、
彼らから聞くことはできません。要するに時間の無駄。

武蔵大が三学部とはいえ、学部横断のプロジェクトを立ち上げたことは、
まさに日本の大学史で画期的! どうして今、誰もこれを
取り上げないのでしょうか?

東大が自らの機能不全を突き付けられ、秋入学にして留学生を増やし、
その留学生を通して、達成したい目標も、およそ、このようなもの。
その目標を武蔵大が今、やすやすとこなしてます。

なのに武蔵大の偏差値はMARCHと日東駒専の間ほど。一方、東大の
偏差値は相変わらず、断トツ。東大・文系では、まともなディスカッションも、
行われていないのに。一体、私たちはこの現実をどう分析し、
どう説明するべきでしょう?

畢竟、ディスカッションこそ、知性を発展させる原動力。ヘーゲル弁証法を
持ちだすまでもないことです。ディスカッションの過程で、コミュニケーション力、
自己管理力、チーム・ワーク力、リーダーシップを鍛えることができます。
こうした力は、社会のどこに行っても必須のもの。

当然と言うべきか、武蔵大は、ここ数年、企業の人事・担当者、
高校の進路・指導者から注目を集めるようになりました。
偏差値の割に「お買い得」というわけです。

大学の序列とて、時代とともに変わります。学生にまともな教育サービスを
提供できない大学は、官学、私学を問わず、淘汰されていくでしょう。
いわゆる有名大、国立大に、この危機意識が全く共有されてない
場合が多いのです。特に文系で。

社会と何の接点もない退屈なテーマを、時代錯誤の教員が傲慢(ごうまん)に
押しつけ、批判力のない学生も、その退屈さに感化され、小さくまとまり、
結果、社会で何の活躍もできない卒業生がゾロゾロ出てくる・・・

有名大を卒業しながら、就職もできず、何の能力もない、
かわいそうな若者を、私たちは今、目にするようになりました。
それは、こうした表れです。

武蔵大が投げかけてるテーマは、日本の大学が総じて、本気で考えなくては
ならないテーマ。それを世に示してくれただけでも、そのカリキュラムには
意義があります。

東大など「秋入学にします」と言ったきり、その後、何の発表もできてません。
このグズで、ヘタレな姿勢こそ、これまで数十年間、国立大が、やらねば
ならないのに、目をつぶってきたことを、シンボリックに示してます。

幕末。それまで全くどうでもよかった外様の薩長に、
最終的には日本の未来が託されました。

それと同じように今、大学改革は本丸の東大では到底ムリで、武蔵大のような
私学にガンバってもらわないと、いけないのかもしれません。

雲
sky

慶大・医学部

慶應義塾に医学所が設立されたのは1870年(明治3年)のこと。
この医学所からは多くの医師が巣立ったものの、十年後の1880年に廃所。

ところが1917年(大正6年)慶應義塾は改めて初代・学部長に北里柴三郎
(きたざと しばさぶろう)を迎え、医学部を設立しました。
皇室から三万円が下賜されたということですから、国家的にも
慶大・医学部への期待は大きいものでした。

慶大・医学部。この期待に、みごとに応え、戦後には日本の医学界の双璧を
東大と争うまでに。東大や東京医歯大といった官学・医学部を僅差で落ち、
浪人生活を嫌って慶大・医に進む受験生が毎年、必ずいたわけですから、
慶大・医学部のレベルが上がるのも、当然でした。

六年間で学費が二千万円と、私大・医学部の中では最も安く
設定されます。私大・医学部では学費と偏差値は反比例。
学費が安ければ安いほど、偏差値は上昇します。

JR総武線・信濃町駅(しなのまち えき)。キャンパスは駅前にあります。
とはいえ駅を出てドーンと見えてくるのは慶大病院。そこには「附属」の
文字もありません。その向こうに隠れるように慶大・医学部の建物。
まるで慶大病院・附属医学部の趣き。

実はこの光景こそ、慶大・医学部が抱える課題をシンボリックに
表してます。地方の国立大・医学部なら、附属病院が幅をきかせるのも、
やむを得ないでしょう。研究よりも臨床に進む者が圧倒的に多く、
地域医療に貢献するのが第一目的だからです。

けれど東大と並び立つと自負する慶大なれば、臨床だけでは、当然、
不十分なはず。例えば今、医学の最先端である細胞研究。私大・医学部で
シッカリした発表をできてるのは、慶大のみ。他の私大・医学部は
医師養成で手一杯。とても余裕はありません。

研究における慶大の役割は大きいと言えるでしょう。
医学部が付属病院に圧倒されてはなりません。

慶大・医学部は戦後、武見太郎(たけみ たろう)という政治力に
優れた医師を輩出しました。武見が母校の慶大・医学部のために尽力し、
結果、ステータスが上がったのは間違いありません。

けれど政治力と研究レベルは、あくまで別。慶大・医学部が研究レベルで
国立大と競り合い、リードできるかどうかが、今問われてます。

青
blue

北里大・医学部

2004年ですから、今から八年前。恵比寿教室の二年生・東大クラスに
一人の男子生徒。土曜日のクラスでした。その後、三年生の東大クラスでも
一緒。やはり土曜日。なんとなく話すようになりました。

よく聞いてると、なんと新潟から毎週、通ってるとか。ガンバったものです。
その後、受験結果の報告は聞かず、時が流れました。

けれど先日、ひょっこり彼が渋谷教室に訊ねてきました。聞けば今、
北里大・医の大学院生だとか。博士課程に在籍。マーク・シティ・五階の
バーに彼を誘いました。その後のこと。今の研究のこと。

肺ガンを防ぐ効果のある細胞(肺ガン・血清)を研究してる、とのこと。
そう聞いて私は「なぜ肺ガンになるか」の研究はしないのか、
聞いてみました。すると。

その研究、やるんだったら、国立大の医学部に行かなきゃ、ムリですよ。

「なぜ~の病気になるのか」の研究には、膨大な資金が必要とのこと。
やはり、最後はお金の話になるのですね。

ボクが書いた論文です。

英語で書いた論文をくれました。その論文が評価され、博士課程・修了までの
二年間、学術研究員として、資金が出ることになったそう。

彼のくれた論文。読もうとしてもチンプンカンプン。けれど、この論文の原点に
塾での勉強があったのなら、私も少し自慢してもいいのでしょうね。

雪柳
late winter

日大・医学部

池袋・西口から「日大病院」のバスが出てます。それに乗ってみましょう。
要町(かなめちょう)千川(せんかわ)・・・有楽町線の駅名が通り過ぎます。

やがてバスは板橋の住宅街。そんな住宅街に、突然見えてくる白い
大きな建物。日大・板橋病院です。正門を入り、右へ行けば病院。
左へ行けば医学部・校舎。しばらく歩くと本館。歴史を感じさせる建物。

とはいえここは記念撮影をするための場所。授業で使われることは、
あまりありません。本館・裏にある教育棟やリサーチ・センターは
新しい清潔感ある校舎。医学部だから当たり前。さてカリキュラムは。

一年次・・・医学序論 社会体験学習
二年次・・・基礎医学系ブロック講義
三年次・・・PBLチュートリアル
四年次・・・診断学 医療総論

四年次が終わった時点で「客観的臨床能力試験」"OSCE"。
そして「コンピューター試験」"CBT"。

五年次~六年次・・・臨床実習。臨床講義。

日大・医学部の特徴としては「医学英語」への特化を挙げることができます。
六年間ずっと「医学英語」が必須。しかも「文学」や「文法」といった
実用と関係ない英語でなく、まさに「医学英語」。

語学教員も文学部を出たような使えない教員でなく、現役医師として
英語を使ってる教員。あるいは医系英語の翻訳、通訳を
専門にしてる教員。

ああ。これまで大学院で英文学を専門にした語学教員が理系・学生の前に
立ち、不必要な英文学を読ませ、どれだけ若い頭脳を辟易(へきえき)させた
ことでしょう。「一般教養・英語」なんて何の役にも立ちません。
語学教員に職を与えた、という以外には。

ですから日大・医学部が今、時代遅れな語学教員を排除し、使える英語、
医学英語をホンとに教えられる教員を揃える努力をしてることには、
私も大賛成! 今までのダラけた語学教育にはハッキリ「ノー」。

さて日大・医学部。このカリキュラムを組み、卒業時には全員が。

1・英語で医学・教科書が読めること
2・英語で診察できること

この能力を身に付けるよう特訓されます。実際、教育棟を歩けば、
壁に貼ってある掲示の半分くらいは英語。日大・医学部。本気で
実用英語に取り組んでます。医療ボーダーレスを考えれば、
これは非常によいことです。

学費は六年間で三千三百万円。私大・医学部としては平均的。

すぐ隣には日大病院。けれど駿河台にも日大病院。日大・医学部は、
もともと駿河台で1925年(大正14年)に始まったわけですから、
駿河台に病院があるのも当然ですね。   

朝顔
morning glory
日本大学

東京医科大学

新宿駅・東口からタクシーに乗ってみました。東京医科大学へ。
靖国通りを市ヶ谷方面に疾駆(しっく)。やがて小さな道を北へと曲がります。

いくらもしないうちに東京医科大学の正門。中に入って少し歩くと、
右に大きな講堂。ここで入学式、卒業式が行われるそうです。
狭い敷地。校舎は三階建てで外壁は白。中は古く、いつ頃、
建てられたのかな、と思うほど。

設立は1916年(大正5年)9月。同年5月、日本医学専門学校
(現・日本医科大)が四百五十名もの退学者を出す状況が生じてました。
この四百五十名が新しい医学校を設立せんと作ったのが東京医学講習所。
東京物理学校(現・東京理科大)の校舎を借りて授業が行われました。

この学校が東京医学専門学校となり、戦後、東京医科大学に。
現在の定員は百二十名。カリキュラムを見ると。

一年次・・・一般教養 外国語
二年次・・・解剖学 生理学 生化学 病理学 免疫学 寄生虫学
三年次・・・薬理学 病理学 微生物学 医用電子工学  
四年次・・・社会医学 臨床医学

一年次から四年次までは「医学英語」という科目が必修。英語で情報を
受信、送信できる人材の輩出を目指してます。四年次・終わりには"OSCE"
という「客観的・臨床能力試験」。それにパスすると、
五年次~六年次で臨床医学。

附属病院は新宿駅を挟んだ西新宿にあります。高層ビルが立ち並ぶ
副都心の近代的な病院。他にも八王子と茨城に医療センター。とはいえ
附属病院、八王子・茨城の医療センターで研修を受ける学生は全体の41%。
残りの59%は学外で研修を受けてます。

学費は六年間で三千万円。私大・医学部としては平均値。
敷地の狭さ、校舎の古さが問題ですが、それを気にしなければ、
新宿のロケーションといい、伝統といい、悪くない医大でしょう。

道路
road

早大のナノばんそうこう

早大・先進理工学部の武岡真司(たけおか しんじ)教授の研究室が
ナノばんそうこうを開発。その名も「ナノ・プラスター」。

ナノ・プラスターの薄さは約60ナノ・メートル。
ちなみにナノは十億分の一を表します。

材料は時間が経てば人体に吸収されます。プラスター自体が
皮膚とピッタリくっつくため、接着剤がいりません。

今回のプラスター。保護シートとしての利用が期待できます。
傷ついた臓器にプラスターを貼れば、時間が経過して、
臓器が回復してきた頃に、プラスターも消滅してるという仕組み。

従来の保護シートは厚さが数ミリ・メートルもあったため、
臓器と癒着しやく、使いものになりませんでした。
ナノ・プラスターは、この欠点を克服できます。

ただし、ナノ・プラスター。欠点もあります。

薄すぎて、見えない。

あまりにも薄いため、治療効果を確かめにくく、
うまく貼れたかどうか、はがれてないかどうかも、
見極められません。実用化への課題です。

とはいえ医工連携の一環。
早大には医学部がない分、理工学部で、
医学への貢献をしてほしいですね。

階段
stairs

日本医科大学

本郷通りを東に入ったところにあります。地名は千駄木(せんだぎ)。
昔、お茶の水にある順天堂の隣に「済生学舎」という
私立の医学校がありました。そこを前身とします。

済生学舎を設立したのは長谷川泰(はせがわ やすし)。
1876年(明治9年)のことです。長岡藩の軍医だった長谷川。
戊辰戦争では河井継之助(かわい つぎのすけ)に最後まで従いました。

継之助は長岡藩・軍師として幕府側に。早くから西洋の武器を揃えた
先見性では薩長も顔負け。継之助が導入したガトリング砲。用兵でも
際立ってました。官軍(薩長軍)は多数の死傷者を出すことに。

北越戦争の終わり、継之助も被弾。最後を迎えます。その最後を
看取ったのが、軍医・長谷川。そんな長谷川が設立した済生学舎。
多くの医師、医学研究者を輩出。

細菌学で世界的な業績を上げた野口清作(英世)。
東京女医学校を設立した吉岡弥生。
破傷風・毒素の研究を進めた浅川範彦(あさかわ のりひこ)。

設立者・長谷川は下水道法を整備し、都市の衛生向上に尽力。
京都帝国大学・設立を建白したのも彼。しかし、そんな長谷川の活躍を、
面白くないと思ってた人物がいました。時の権力者・山縣有朋です。
自ら戊辰戦争を戦った山縣は、北越戦争でも多くの部下を死なせました。

山縣には長岡出身の長谷川が目ざわりでなりません。陰に陽に圧力を
かけます。山縣だけではありません。帝大・医学部スクールに属する
森林太郎(鴎外)らにしても、たかが私立の医学校である済生学舎が
多くの人材を輩出することに危機感を覚えます。

一時は、日本の医師の半数近くを輩出してた済生学舎は1900年(明治33年)、
女子の募集を停止。1903年にはとうとう廃校に。涙を呑んだ卒業生は
多かったことでしょう。

しかし卒業生も黙ってはいませんでした。彼らを中心に済生学舎を
復活させようという動きが。廃校・翌年1904年には日本医学校が湯島に誕生。
次第に発展し、日本医学専門学校に。1926年(昭和2年)日本医科大学に昇格。
卒業生たちの喜びは、いかばかりだったでしょうか。
この日本医科大学からは。

丸山ワクチンを開発した丸山千里(まるやま ちさと)。
コレラ・チフスと戦い、殉死した肥沼信次(こえぬま のぶつぐ)。

多くの偉大な先人を日医大は送り出してきました。今も千駄木キャンパスを
歩けば、あちこちに彼らの銅像。大学全体として誇りにしてるのですね。
そんな日医の校訓は「克己殉公」(こっきじゅんこう)。
自分を人々のために投げ出そう、という精神。

ドイツ・リーツェンの研究所で研究中に、自らチフスに罹り、斃(たお)れた肥沼。

桜が見たいなあ。

看護師にそう言って、息を引き取ったとか。彼が閉じる瞼(まぶた)に思い
浮かべた桜は湯島、上野の桜だったでしょう。そんな肥沼らの精神が
今も息づいてます。実際、日医生の声を聞くと、二言目には
「患者さんのため」が出てきます。

日ごろの授業、学園生活の中で叩きこまれてるのが分かります。
私大・医学部の良い点が出てますね。官立・医学部、特に帝大・医学部を
出た医師の中には、何をカン違いしてるのか、エラそうな態度の人が
時々います。ところが日医の殉公精神からは、少なくとも、そういう人が
出にくくなります。

一学年はずっと百名程度でしたが、最近、文科省の指導もと、徐々に定員を
増やしてます。今年の入学者で百十四名。医師・増産時代です。

一年次は新丸子キャンパス。二年次以降は千駄木キャンパス。
千駄木キャンパスの隣には附属病院。附属病院は今、大きな工事が
行われてて、平成三十年には十五階建の新病院ができる予定。

附属病院の隣には緑溢れる根津神社。その向こうに大学院棟。
とはいえ、大学院棟といっても、ここは実質的には実験室、演習室。
それ故、学生たちは教室棟と大学院棟を行き来する羽目に。その都度、
附属病院の地下を潜り、根津神社を通り抜けねばなりません。

先輩が後輩を教えるチューター制度も、日医ならでは。訪問した時にも、
先輩の男子学生が女子学生・三人を相手に人形を使って、蘇生方法。
六年次からは五~六人で個室を使えるようになります。学生目線に
立った学校運営。学費は六年間で二千八百万円。
私大・医学部としては安い方。

もう、これ以上、下げられないんですよ。

教務の人に聞くと、そう言ってました。私大・医学部は今、どこも学費の
ダンピング競争。寄付をほとんど期待できない日医では、この額が限度。
聞いてる私も、頷かずにいられません。

かくして日医。お薦めの医大。二千八百万円なんて、腕の立つ医師になれば、
一年で稼げる額。医学部・特有のおかしなエリート意識に染まることなく、
若いうちに「他のために生きる」ことを叩きこまれる日医。私も、もう一度、
学生になれるなら、親に頼みこんで、学費を出してもらい、
こんな大学で学びたい。そう思えたほどです。

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