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大倉喜八郎

越後(現・新潟県)で生まれました。渋沢栄一、安田善次郎と同世代。
江戸に出てきて、乾物屋で修業。鰹節を売ってたわけです。

明るい性格と、勤勉な働きぶりで、喜八郎には婿養子の話が、
あちこちから舞いこみました。けれど、キッパリ断り、事業に邁進。

やがて幕末、喜八郎は武器需要が高まると直感。横浜で鉄砲屋を開業。
大量の鉄砲を仕入れます。これが、当たりました。戊申の役で、
新政府には、鉄砲がいくらあっても足りません。

喜八郎は津軽藩(新政府側)に鉄砲を二千五百丁、融通。東北には、
奥羽越・列藩同盟が結ばれ、佐幕派が頑強に抵抗しましたから、
喜八郎の鉄砲なくば、新政府も、どうなったか分かりません。

喜八郎は巨利を得ると同時に、新政府に大きな貸しを作りました。
明治四年の欧米視察に、喜八郎が民間人として唯一、
参加できたのも、維新の功を認められてのこと。

この欧米視察で、喜八郎の目は、広く海外に開かれました。帰国後、
明治の富国強兵政策にのり、さまざまな事業を展開。そこからは、
大成建設、東京電力、大倉商事、帝国ホテル、サッポロビール・・・

けれど、喜八郎。なぜか銀行だけは作りませんでした。恐らく、
資金移動を生業とする銀行業を、虚業と軽蔑したのではないでしょうか。

この金融軽視が、仇となりました。昭和の恐慌は、大倉財閥を直撃。
鈴木商店のように倒産こそ、しなかったものの、大倉財閥は解体。
それぞれの会社が独立。大倉商事は戦後も存続しましたが、
結局、平成不況で倒産。

けれど、この世でホンとに普遍性を持つのは文化事業。喜八郎が
設立した大倉商業学校。それは今、東京経済大として、有為の青年を
社会に送りだしてます。東京経済大の国分寺キャンパスに行けば、
今も進一層館の前に、颯爽と立つ喜八郎の像。

彼は今、どんな実業よりも、この学校を設立したことを、
誇りに思ってることでしょう。

銀杏
ambition

岩崎弥太郎

岩崎弥太郎は土佐に生まれました。龍馬とは、ほぼ同い年。時代劇では、
幼少期から、弥太郎と龍馬が、ライバルとして競いあった、と描かれ
ますが、そんな記録はありません。

勉強好きだった弥太郎。努力が認められ、身分の低い武士ながら、
長崎で土佐藩の貿易を命じられます。計算が得意でした。

当時、朱子学の影響が強く、武士は利益追求など、してはならない、
という考え方が支配的。けれど、弥太郎には、朱子学など関係ありません。
幕末の激動を前に、どんな理想も、資金なくして達成できない、と確信。
「土佐商会」を設立。貿易を始めました。

長崎で、亀山社中を経営してた龍馬との交友が始まります。記録が
残るのは、ここから。弥太郎と龍馬は、同郷のビジネス・パートナー。
龍馬の行動は破天荒でしたから、その後始末に、弥太郎が
駆け回ることも、しばしば。

龍馬は当時、薩長同盟の締結、グラバーからの武器輸入に奔走。
弥太郎と龍馬が密接だったのは、この長崎の日々だけ。けれど、
弥太郎。生涯を通して、長崎時代を懐かしみ、龍馬を敬慕。
龍馬との会話を通して、世界への目が開かれたからでしょう。

龍馬なければ、弥太郎の人生も、小粒なものとなり、
後の三菱財閥も、なかったかもしれません。

慶応三年・十一月、龍馬の死を、弥太郎は大坂で、後藤象二郎から
聞くことになります。以降、土佐の貿易は、弥太郎の双肩に。
弥太郎は土佐商会を大坂に移し「つくも商会」に改称。
やがて「三菱商会」に。

維新後、海運業にのりだしました。社名も「三菱蒸気船会社」。
明治七年の台湾出兵で、新政府に協力。船を拠出し、政府からも
船を借り受けました。この借り受け船を出兵後も、借り続ける
交渉に成功。三菱は、ここで国内海運業のトップに。

ここから、海外航路をめぐって、外国の海運業者との熾烈な競争。
当時、日本と海外の航路は、全て外国の海運業者が握ってました。
そこに、殴りこみをかけた弥太郎。熾烈なダンピングを開始。
値段を下げることしか、方法がありませんでした。

長い闘争の果て、三菱はとうとう上海航路を獲得。弥太郎は、
龍馬が夢見た海外雄飛へ、一歩、近づきました。けれど、この時、
弥太郎の体は、激務と心労にボロボロ。明治十八年、五十才で没。
三菱のサンフランシスコ航路は、弥太郎の死後、開始。

三菱財閥は、弟の弥之助、息子の久弥の代に、本格的な多角経営。
弥太郎は、海運業を軌道に乗せるところまでしか、できませんでした。

日本の礎を築いた弥太郎。なのに、なぜか時代劇では良く描かれません。
弥太郎が主人公の時代劇がなく、坂本龍馬や渋沢栄一を描いた
時代劇に登場する場合も、なぜか悪役。

平成二十二年の大河ドラマ「龍馬伝」。香川照之、扮する弥太郎は、
最後まで、龍馬に嫉妬する頭パーとして描かれました。いくら福山雅治を
引き立てるためとはいえ、これはヒドイ。明治の富国強兵。富国を
支えたのは、弥太郎。もっと、評価されるべき先人です。

秋の鳥
October

浅野総一郎

明治四年、若き総一郎は、東京に出て、妻と一緒に水の売買を始めました。
場所はお茶の水。今では信じられないかもしれませんが、当時のお茶の水は
おいしい水が取れる清泉として、有名。原価がかからない水に注目し、
これは売れると判断し、実際に売り歩いた総一郎。資金を得ました。

現金を持っても、意味がない。

これが口癖だった総一郎。資金をドンドン事業に回しました。時代は
明治維新。日本の工業化が急がれました。総一郎は東京から川崎、横浜
へと続く、遠浅の海岸線に着目。工業地帯を作るなら、ここだ、と判断。

渋沢栄一、安田善次郎といった銀行家の協力をとりつけ、東京湾の
埋めたてに着手。土地ができれば、すかさず工場を建設。建設された
工場は、日本の工業化に、なくてはならないものばかり。

製鉄業、石油精製業、セメント業、貿易、保険まで、総一郎が設立した
浅野コンツェルンは、多岐に及びました。今、京浜東北線、京急線から
見るコンビナートは、全て、総一郎の発案によるもの。

JR鶴見線に乗れば、結節点で「浅野駅」。駅だけではありません。
扇島、扇町といった地名は、浅野家の家紋、扇に由来します。

成功した実業家、総一郎。彼が最後に手がけたのが文化事業。
浅野学園の設立。工業地帯を見下ろす子安台にあります。設立当初、
学内には工場まで、ありました。実学を重んじる総一郎の、たっての希望。
工場は今も、浅野工学専門学校として、継承。

学園内を校舎と反対の方角に歩くと、少し上り坂。やがて、大きな銅像。
なんと、ステッキを持ち、帽子をかぶった総一郎。こんな場所に。
像の裏に回れば、徳富蘇峰が書いた総一郎・伝。

浅野学園の文化祭・打越祭。この時には、学園が開放されます。
近くの人は足を運んでみましょう。総一郎の銅像が、迎えてくれます。

麦
September

渋沢栄一

JR高崎線・深谷駅。電車からは「渋沢栄一の故郷・深谷」という看板。
「日本の資本主義の父」と呼ばれた渋沢は、ここで生まれました。

江戸に出て、一橋家に出仕。利発さを認められ、パリ万博に経理担当
として随行。資本主義の経済一般、特に銀行業、株式会社の仕組みを
学びました。

経済だけではありません。電力、上下水道といった社会インフラも、学習。
パリの役人に頼みこんで、パリの下水を巡りました。渋沢の好奇心には、
下水の匂いも、なんのその。ナポレオン三世にも謁見して、帰朝。

パリでの経験をもとに、静岡で「商法会所」(しょうほう かいしょ)を設立。
日本最初の株式会社。融資から利子を得る業務も行ってましたから、
日本最初の銀行とも言えます。

そんなことをしてるうちに、渋沢は大蔵卿・大隈重信に請われ、新政府の
大蔵省で働き始めました。けれど官僚勤めが全く肌に合わず、内務卿・
大久保利通とも仲たがい。再び民間人として、銀行経営を目指しました。

そして、設立したのが「第一国立銀行」。現・みずほ銀行。日本に
本格的な資本主義が始まりました。当時、銀行の仕組みが世間に
浸透しておらず、借りる人はいても、貸してくれる人は皆無。渋沢の
第一国立銀行は、最初から暗礁に乗り上げます。

とはいえ、志ある青年の、未来への努力には、どこからともなく援助の
手が差し伸べられたのが、明治期。やがて、第一国立銀行の経営は
軌道に乗り、渋沢は、その資金を使って、製糸業にのりだしました。
日本の発展にとって、情報を伝える紙の重要性に着目。現在の
大王製紙、王子製紙は渋沢が設立した会社です。

その後、日本のインフラを整えるべく、次々と会社を設立。東京電力、
東京ガス、石川島播磨、JR、東京証券取引所、NHK、日経新聞、
帝国ホテル、サッポロビール・・・渋沢が設立した会社の数は、
五百を超えたとか。

渋沢の経営哲学を表す言葉として、よく「論語とそろばん」が
挙げられます。まずは人のため、社会のため、という目標があり、
その次に、そろばんをはじいて、利益を出そうという哲学。

個人の利益よりも、まず公益。確かに、渋沢が設立した会社群は、
私たちが今、普通に生活してれば、お世話になるものばかり。

明治の実業家らしく、私生活では謙虚を貫いた渋沢。飛鳥山に
あった自邸で開いたパーティーでは、来客の一人一人に、
丁寧に頭を下げる渋沢の姿が、映像で残ってます。

教育にも力を入れた渋沢。日本女子大、東京女学館の設立に、尽力。
今年、渋谷教室には、女学館生がたくさん。一度、彼女たちに、
設立者・渋沢が、どう語り継がれてるか、聞いてみましょう。

コスモス
cosmos

安田善次郎

JR鶴見線には「安善駅」(あんぜん えき)。安田善次郎の「安」と「善」を
取って付けられました。明治期、安田善次郎は、浅野総一郎と組んで、
横浜、川崎の埋立に着手。それで現在、彼の名前が鶴見線に。
地名にも「安善町」があります。

地名だけではありません。東大・安田講堂。この名前も、善次郎の
資金援助を記念。みずほ銀行も、元を辿れば、安田銀行。一体、
安田善次郎は、どんな人物だったのでしょうか。

善次郎は幕末、富山の農家に生まれます。商売に興味があった彼は、
江戸に出て、両替を始め、それが当たりました。やがて明治維新を迎え、
新政府が新貨を発行。明治四年の新貨条例です。

けれど、新政府が軌道に乗らない時期。新貨には信用がなく、
新政府は途端に困窮。この時、新貨を大量に購入したのが、善次郎。
やがて、新政府が次々と改革案を打ちだし、それが実を結び始めると、
新貨の価値も上がっていきます。善次郎も大儲け。その資金を
使って、銀行業にのりだしました。

善次郎のもとには、新政府から、銀行救済の案件が、次から次へと
もちこまれます。銀行が他の銀行を救済することは、実は難しい作業。
へたをすれば、共倒れ。しかし、善次郎。経営不振の銀行を次々、救済。
自行の店舗網を広げなくても、安田銀行には、ドンドン支店ができ、
ついに安田財閥は、三井、住友、三菱と並ぶ四大財閥。

善次郎は、当時の国家予算の、なんと八分の一を持つ資産家に。
いつしか善次郎は「銀行王」と呼ばれるようになりました。銀行を主体に
財閥を形成したことは、正解でした。好況時はともかく、不況時、ものを
言うのは現金。昭和の恐慌時、銀行を持たなかった鈴木商店は倒産。
大倉商事も傾きました。一方、銀行を持ってた四大財閥は、今も健在。

とはいえ、善次郎。「銀行王」という呼び名の他に「守銭奴」という呼び名も。
大金持ちのくせに、生活はいたって質素。客が来ても、お茶は出すが、
一杯だけ。茶菓子を出したことは、決してなかったそうです。

この守銭奴ぶりは、周知のこととなり、仲がよかった渋沢栄一、
大倉喜八郎たちからも、揶揄されました。

とはいえ、投資家、実業家として、ホンとに成功したいなら、私生活は
トコトン切りつめ、資金を投資、実業に回すべき。しかも、善次郎。
各種の寄付、資金援助を人知れず、実行してたわけですから、
その守銭奴ぶりも、ひょっとしたら公共精神の表れだったと、
見ることもできます。

椅子
chair

野口遵

野口遵(のぐち したがう)は1873年(明治6年)金沢で生まれました。
家は貧しい士族で、野口は苦学しながら一高、帝大と進み、
電気化学を学びます。

帝大・卒後、ドイツ・ジーメンスの日本支社に就職。当時、ドイツの
化学は世界最先端。それをシッカリ見抜いての就職でした。

会社勤めをして十年ほど経ち、野口は自分で事業を起こそうと思うように
なりました。そのままジーメンスの技術者として活躍することも
できたのでしょうが、もっと大きな舞台を夢見たのでしょう。
しかもその夢を支えるだけの知識が彼には備わってました。

野口は「カーバイド」(炭化カルシウム)を製造する工場を建てます。
そこで製造したカーバイドを空気中にある窒素と結び付けて、
肥料を生産しようと考案。

当時、カーバイドと窒素を結び付ける特許を持ってたのはドイツ人カロー。
ここでジーメンス時代の野口の人脈が生きることに。野口は早速、渡欧。
ジーメンス日本支社・時代に友人だった二人のドイツ人から、
カローへの紹介状を書いてもらいます。

こうして1908年(明治41年)肥料生産工場が熊本・水俣に登場。
「日本窒素肥料・株式会社」(日窒)。

最初は日本の農民に化学肥料という概念が広まらず、日窒の経営も
順調ではありませんでした。ところが1914年(大正3年)欧州大戦の勃発。
爆薬の原料となる琉安(硫化アンモニア)、チリ硝石、ソーダの需要が増し、
価格暴騰。これらの素材はちょうど、日窒の技術転用で生産できる
ものばかり。注文が殺到し、日窒の経営は、みるみる改善。

野口はすかさず、利益を人絹(じんけん:レイヨン)生地工場・設立に回します。
「旭絹糸」(あさひけんし:現・旭化成)。人絹糸(じんけんし)の処理で
得られる硝煙も、有事には軍事転用・可能。

大戦後、野口はイタリア人カザレーから特許を買い、アンモニア製造に
乗り出します。場所は宮崎。もちろん肥料用。現在、日本の総合商社が
現在、アンモニア肥料のビジネスに乗り出してますが、遥か昔に
その先鞭を付けたのは野口だったのですね。

やがて野口の目は朝鮮半島に向かいます。半島北部の豊富な
水資源に目を付けました。化学工業は莫大な電力を必要とします。
鴨緑江の豊かな水を堰き止め、ダムを作り、その電力を使って
化学コンビナートを作ろうとしたのです。

野口は朝鮮に渡り「朝鮮水力電気」と「朝鮮窒素肥料」二社を設立。
当時の朝鮮総督・宇垣一成(うがき かずしげ)との間に強力な
パイプを作ります。朝鮮銀行の強力な融資を背景に大きなダム、
下流に工場群を建設しました。アルミ、石炭、窒素火薬、大豆化学、
石油・・・これらの工場は、今も北朝鮮で稼働してます。

野口は半島事業で成功した数少ない日本人の一人。三千万円あった
財産を二千五百万円と五百万円に分け、二千五百万円を
野口研究所の設立に使い、五百万円を朝鮮奨学会に寄付。

現在、北朝鮮でも韓国でも、野口の事業が教えられることはありません。
なんとなくダムや工場ができたことになってます。ましてや野口の
朝鮮奨学会については全く無視。

野口の事業からは積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業などが誕生。
野口は技術者としての目の確かさに加え、経営判断もできる希有な人物。
特許を買い、ビジネスへとつなげていくには、技術者だけでなく、
経営者の手腕も必要。その二つの能力を併せ持つ人物でした。

樹氷
winter
三菱商事・ブルネイでアンモニア生産

金子直吉

金子直吉(かねこ なおきち)は江戸末期、四国・土佐に生まれます。
最初は政治家を志しました。当時の土佐で成長すれば、
青年は皆、そういう気持ちになったのでしょう。

二十才で神戸に出て来て、砂糖問屋の鈴木商店に入ります。主人は
鈴木万太郎。万太郎は若い直吉に目をとめ、いろんな仕事を任せます。
直吉はその仕事を先輩・富士松とともに楽々とこなしていきます。
鈴木商店の業績が、みるみる上がり始めました。
万太郎は自分の目が確かだったことを悟ります。

万太郎が亡くなった時、これで鈴木商店を閉めるという話が出ました。
その時、未亡人となった鈴木よねが一言。

直吉はんが、いてはります。
富士松はんも、ようやってくれよります。

この時から直吉と富士松が両輪の番頭として鈴木商店を盛り立てる
ことになりました。直吉はまず三つの商品に目を向けます。

鈴木商店がもともと強かった砂糖。
虫よけに必要な樟脳。そして米。

これらは「三白」と呼ばれてました。このうち砂糖と樟脳の大生産地と
なりつつあったのが、当時の台湾。日清戦争以降、日本の植民地。
直吉は台湾に飛び、民政長官・後藤新平と話をつけ、
樟脳の専売権を部分的にではあれ、獲得しました。

こうして手に入れた樟脳を直吉は外国への輸出に回します。
それが飛ぶように売れました。台湾から砂糖を買いつけ始め、
事業はドンドン拡大。この頃から、鈴木商店と台湾銀行の
深いつながりが始まります。

直吉は台湾銀行から資金を借り、それを使ってさまざまな企業を買収。
多角経営を狙ったのです。こうして買収した企業からは、
後の日本を支える企業が数多く出ました。

神戸製鋼所。帝人。日商岩井(現・双日)。
石川島播磨。昭和石油。サッポロビール・・・

鈴木商店はついに1914年(大正三年)三井、三菱を抜く日本一の
コンツェルンとなります。信じられない早さでした。しかも欧州大戦の勃発。
「こんな戦争すぐに終わる」という大方の楽観論とは裏腹に、
直吉は戦争は長期化すると予想。

船を造り、鉄を買い占めます。欧州はその後、長引く戦争により、
生産力が低下。船が不足します。もちろん鉄も。満を持して、直吉は
船と鉄を売り払い、鈴木商店には巨額の利益が転がり込みました。
この時が直吉の絶頂期。

ですが1918年(大正7年)日本で米騒動が起きます。この時、鈴木商店に
「米の買い占め」という疑惑が持たれました。全くの濡れ衣だったのですが、
直吉ならやりそうだ、という人々の判断でした。

しかも直吉が全く反論しなかったことにより、なんとなく事実のように
受け取られ、鈴木商店の評判が落ちていきます。多角化した事業も、
あちこちで傾き始めました。

鈴木商店の息の根を止めたのが1927年(昭和2年)の金融恐慌。
メイン・バンクだった台湾銀行が危なくなったのです。鈴木商店は
台湾銀行から当時、二億円の融資を受けてました。その融資を
返すように求められたのです。どこを探しても、
そんな資金はありませんでした。

思えば直吉。どうしてまだ余裕のある時に、自前の「鈴木銀行」を
設立しておかなかったのでしょうか? 直吉ほどの人なら、
その有利さに誰よりも早く気づいたはずなのに?

これは大倉喜八郎がやってた大倉商事にも言えること。
銀行さえ設立しておけば、潰れることはなかったのに。
大倉商事は「ホテル・オークラ」に、その名が残るだけとなりました。

恐らく、直吉や大倉のような実業家には、銀行業という虚業に魅力が
感じられなかったのでしょう。近代・資本主義における銀行のホンとの
意味を、身にしみて理解したかどうか。これが彼らと、
今も生き残ってる財閥との差異となりました。

万策尽き、直吉は鈴木商店を倒産させる決意。責任感の強い
直吉にはその時、自死の考えがあったことでしょう。

おかみさん、もうあきまへん。

直吉は畳に頭をすりつけます。ところが、よねは。

直吉はん。仕方おまへんやないか。わてはな、あんさんが
生きてくれはりさえすれば、それでええのや。
上り下りは世の常やないか。

それを聞いた直吉は、そのまま声を上げて泣いたといいます。
万太郎の息子・万次郎も「直吉はんは、鈴木の功労者です。」

倒産処理にも直吉のスピードと鋭敏さが発揮されました。従業員を
一人も路頭に迷わせないよう、引き継ぎをシッカリ行ったのです。

従業員は、家族なんやから。

直吉の死後、その財産のあまりの少なさに周囲は目を見張りました。
金銀一つ、土地一つありませんでした。まさに事業に全財産を
突っ込んだ人生。

番頭ごときが、自分の懐を肥やすんは、盗人と同じや。

生前、そう言ってたそうです。

砂糖
sugar

五島慶太

東急電鉄の設立者で、小林一三と並び「西の小林、東の五島」とまで
いわれます。反面、「ごうとう けいた」という、あだ名も。なぜ鉄道・
経営者が「強盗」と呼ばれるようになったのでしょうか?

五島は小林より少し遅く、長野に生まれます。家は貧しく、学費を
期待することができません。そこで学費のいらない東京高等師範学校
(現・筑波大)を卒業し、教職に就きます。

しかし実業への夢は断ちがたく、東大に入り直して官僚を目指します。
当時、バックのない青年がのし上がるには、軍人か官僚の道しか
ありませんでした。軍人になるには、五島はもう遅すぎたのです。

東大・卒業後、鉄道院に職を得て実務に携わります。けれど、出世しても
先が見えてきます。そんな五島に「武蔵電気鉄道を建て直してみないか」
という話が来ます。武蔵電気鉄道は当時、経営難に陥っていて、
再建する白羽の矢が五島に立ちました。官職に飽いてた五島は
「渡りに舟」とばかり、この話に乗ります。

武蔵電気鉄道に入社してから、渋沢栄一との出会いがありました。
渋沢は目黒から蒲田へ鉄道を引く計画を立て、それを五島に委託。
五島は武蔵電気鉄道・再建の仕事に加え、目黒蒲田鉄道の敷設に尽力。

1923年(大正12年)に関東大震災が起き、焼け出された人たちが、
こぞって郊外の沿線に移り住んできます。五島の仕事は震災によって前進。
社名を「東京横浜鉄道」へと変え、ますます都市開発にのめり込みます。
この時、土地取得をかなり強引に行った結果、「ごとう」ならぬ「ごうとう」
というあだ名を受けることになりました。

実際、白昼に札束を抱えたカバンを持って、土地・所有者に乗り込み、
札束を見せながら、その場で話をつけることも多かったとか。

渋谷にも東横百貨店(現・東急百貨店)を構えました。後押ししようと、
五島は、なんと「三越」の乗っ取りを画策。三越を買収し、東横百貨店と
結び付けようとしたのです。さすがに三越のバックにいる三井が
黙っておらず、買収は頓挫。

五島の業績で特筆すべきは、東横線沿線に多数の教育機関を誘致したこと。
教員・経験があった五島は、教育に深い理解を持ってました。自分が
開発した沿線への教育機関の誘致を躊躇いませんでした。
もちろん学生が増えれば、街も発展するという
打算があったことは言うまでもありません。

大岡山の東工大 日吉の慶大 新丸子の日本医大 あざみ野の都市大
下馬の附高(当時は青山師範)・・・

これらを誘致したのは全て五島。結果、東急線・沿線には知的な雰囲気が
漂い、イメージが洗練され、都内でも、ずば抜けたブランド力を
持つ沿線となりました。代官山。自由が丘。田園調布・・・
これらの街の魅力について、あえて言う必要はないでしょう。

「強盗」という荒っぽい呼び名とは少し違う、洗練された大人の
ビジネスマンという像が浮かび上がってきます。そう。五島はなにも
荒っぽいことを、好きでやってたわけでは、ありません。

時間と戦ってた彼は、仕事を早く進めるために現金の力を使って、
手っ取り早く物事を解決する必要があったまででしょう。
五島の洗練さは世田谷・上野毛(かみのげ)にある
五島美術館に行っても分かります。

古典の絵巻。仏典の原本・・・相当な目利きがないと、
あのようなコレクションは作れません。

知と行だけではダメだ。「誰にも負けない」信念が必要だ。

五島の言葉です。その信念に忠実に、東京西部の都市開発に邁進。
東急だけでなく、小田急、京王、営団地下鉄まで傘下に。

三十年の年齢をくれるなら、全財産をあげてもいい。

後年、そう言ってたそうです。

東急
Tokyu

小林一三

阪急電鉄の設立者で「こばやし いちぞう」と読みます。明治が
始まって少し経った頃、山梨に生まれました。福澤諭吉が
学長を務めていた慶応義塾で商科を学びます。

ただこの時は小説家になりたかったらしく、在学中たくさんの小説を
書きました。若い頃に文学・芸術の才能を磨いたことが後年、
小林のビジネスに大きな実りをもたらします。

慶応・卒後、三井銀行に入行。エリート・コースでした。しかし、
もともと器が大きかった小林には、ずっとサラリーマンを
続けることはムリでした。三十代で退職します。

その頃、小林の実力に目を付けた実業家が「箕面有馬・鉄道軌道」の
経営に参加するようもちかけます。小林はすぐに乗り、
関西に飛びました。ここから小林の活躍が始まります。

まず長ったらしい社名を捨て「阪神急行鉄道」とスッキリさせました。
今の阪急です。傾きかけていた経営を立て直し、鉄道に対する
それまでのイメージを一新。それまで鉄道は移動手段にすぎず、
需要ある所に鉄道を引くという発想でした。

ところが小林は鉄道を引けば、人が集まり需要もできると
発想を転換したのです。この転換は画期的でした。

都心に近いが、何もないタダ同然の土地を買い占め、鉄道を引き、
住宅地を整備し、店を出し、遊園地を作れば、自然と人が集まり、
土地価格も跳ね上がります。やがてこれが「田園都市」という
発想につながっていきます。当時、増大しつつあった人口動態に
着目してのことだったことは言うまでもありません。

乗客は電車が創造する。

小林は言い放ちました。庶民をターゲットにしましたから、すぐに
土地・家を買えない人のために、住宅を割賦販売する事業も始めました。
住宅ローンの始まりです。今となっては当たり前のことですが、
当時、そういう発想をする人は誰もいませんでした。

しかも単に郊外に人を移すだけではダメ。郊外・都心が有機的に
結びつかねばなりません。そこで梅田駅に百貨店をオープン。
阪急百貨店です。郊外から都心へ買い物に行くという
行動様式がこうして誕生しました。

小林の経営姿勢はトコトン顧客目線に立ったものでした。
理念・理想を振り回しても、独りよがりになるか、時代遅れに
なるかが関の山。そんなものでなく、小林は顧客が求めているものを
少し先に行きながら見抜き、それを提供していこうとしたのです。
ドラッガーなど読まずとも、経営哲学の真髄を体得してました。

電車の宙吊り広告を思いついたのも小林。現場にはいつも
細かな指示を出したと言います。大きなことを成しながら、
細部にもこだわることができる真のエリートでした。

鉄道を引き、住宅地を整備した後、今度は「夢」が必要。そこで小林は
なんと「宝塚歌劇」を作り、ロクに娯楽もなかった当時の庶民に、
幻想的なロマンスの世界を垣間見せました。小林は自分で歌劇の脚本を
書いたと言います。学生時代、ボツにされ続けた文学修業が、
こんな所で花開きました。万年筆を持つ手にも力が入ったでしょう。

歌劇だけではありません。小林は後に映画会社も設立。それが現在の
「東宝」となりました。プロ野球チーム「阪急ブレーブス」を作ったのも、
甲子園球場を作ったのも小林。まさに八面六臂の活躍。

金儲けの手腕だけでなく、文化の意味、生きることの意味を
シッカリ理解していた、稀代の経済人と言っていいでしょう。

百歩先を見る者は狂人扱いされる。
五十歩先を見る者は犠牲者にされる。
十歩先を見る者が成功する。
現在を見る者は落後する。

小林の言葉です。この哲学を彼は恐らく若い頃の文学・哲学修業で
得たことでしょう。たとえ実務に携わるとしても、文化の勉強が
いかに大切かを身をもって示してくれた経済人です。

小林の後「鉄道を引いて街を開発する」という方式を多くの
実業家が模倣。戦後、それを最も大規模に行ったのが田中角栄でした。

阪急
Hankyu

ホリエモン

福岡に生まれ、県内有数の中高一貫校、久留米大学附設高校に入学。
しかし九州だの博多だのでは、若きホリエモンの好奇心に応えられません。
彼は東京に出ることを決意。けれど実家の資金援助は、なし。

二十三区内じゃなきゃイヤだ。そう思って地図を見ると、
総合大学は東大しかなかった。

そう自伝は語ります。ホリエモンの受験勉強が始まります。一年ほどの
受験勉強。自伝には効果的な受験勉強について、自説が述べられてますが、
ホリエモンしかできない方法。一般・受験生に紹介できる方法ではありません。

東大は人脈を作るだけの場所。ホリエモンは割り切ります。五月で東大に
行かなくなり、バイトを始め、そこから起業家へと成長。結局、東大も中退。
ホリエモンの経営哲学をまとめてみると。

1・最初は借金して企業しよう。人のお金を使った方が早く成長できる。
2・一定の大きさになったら株式を発行しよう。多くの資金が集まってくる。
3・もっと大きくなったら、他企業を買収しよう。短時間で事業を拡大できる。
4・株式をできるだけ多く発行し、一株当たりの単価を下げよう。

実は、これらはどれ一つとっても妥当なものであり、パトロンのいない若者が
最短距離で成功するには、どう考えてもこれらの方法しかありません。
さすがホリエモン。

実際、ホリエモンはこれらの法則を自分の人生を使って忠実に実行。
インターネット・ビジネスに参入して大成功。「オン・ザ・エッジ」という
会社を経営してましたが、「ライブドア」を買収。その後、多くの株式を
発行し、ライブドアの時価総額は飛躍的に増大。

2004年、近鉄バッファローズ球団買収への試み。
2005年、日本テレビへの買収の試み。

これらはいずれも失敗しましたが、ホリエモンの名を大いに高めました。

2005年、衆議院選挙への出馬、落選。
2006年、ライブドア事件による逮捕。

ライブドア事件から、もう五年も経ったのですね。ところでホリエモンて
一体、どんな悪いことをしたっけ? そう思った時、すぐに答えられる人が
いるでしょうか? というより「ホリエモン、検察にハメられたんだな」
そう思ってる人が大半でしょう。

証券取引法・違反ということですが、別にインサイダー取引をしたわけ
でもなく、何の罪かよく分かりません。というよりホリエモン自身、
何が罪なのかよく分からないことを記者会見、裁判で
繰り返し述べてます。

お金で買えないものはない、という扇情的な言葉の背後には、
お金のことばかり考えるのやめようよ、という呟きがこもってました。
その呟きを聞きとることができた人は、騒がしい世の中で皆無。

この世ではお金を愛し、お金をしっかり稼いではじめて、
お金以外のこと、人生、恋愛について考えることができます。
それを彼は身を持って体現し、広めたかったのでしょう。

お金を軽蔑し、お金に支配され、借金取りに追われ夭折した石川啄木。
生活力がなく、女性一人、幸せにできず窓から飛び降りたモディリアーニ。

一体、彼らは幸せだったでしょうか? 私たちが彼らの作品に
感動するのはいいとして、彼らのように生きるべきでしょうか?

収監日、ホリエモンは有名企業の証券コードがたくさん書かれた
Tシャツで刑務所に向かいました。そのTシャツの意味を
理解できた人は僅かでしょう。

オレは決して悪くない。お金を大切にすることは、決して悪いことじゃない。
お金を大切にしてこそ、ホンとに幸福に生き、人を心から愛することも、
できるのだから。世の人を見ろ。タテマエでは、お金は汚いって
言ってるくせに、朝から晩までお金を考え、お金でケンカし、
面白くない職場にしがみついてるじゃないか。何だ、ソレ。

出所した彼は、恐らく数倍に成長してるでしょう。
その彼が何を言い、何をするか、今から楽しみですね。

キャベツ畑
green

ジェシー・リバモア

二十世紀初頭、アメリカで活躍した相場師。少しく相場に身を置いたなら、
伝説となっている彼の名前を聞くことになります。テレビ、ラジオのなかった
当時のアメリカでは、株式情報は電報で全米に配信されていました。

とはいえ、その情報を受け取る場所は一種の賭博場。ちょうど今の
パチンコみたいな場所、と言えば分かりやすいかもしれません。

電報は記号で送られてくるため、それをボードに書く人(チョーク・ボーイ)が
必要。家が貧しく学校も行けなかったリバモア少年は、
このチョーク・ボーイを始めました。

やってるうちに、株式の動きに規則性があることに彼は気づきます。
これなら自分もできると思い、チョーク・ボーイをやめ、少ないお金を
賭けてみました。それが当たりました。

ドンドン運用資金を増やしましたが、一定でストップ。賭博場に入れなく
なりました。面割れしたパチプロが入店を断られるようなもの。その後、
リバモアはニューヨークに出て、ウォールストリートで本格的に
投資を始めます。

当時、鉄道株に人気があり、株価は連日高値を更新。その株にリバモアは
売りをかけます。高値が続き、彼は踏み上げられますが、売りを継続。
案の定、鉄道株が暴落し、彼は大金を手にします。

売りを得意としていたリバモアは1907年(明治40年)の恐慌時にも、
株式市場で大きなショート・ポジションを取ろうとしてました。相場が
雪崩のように崩れる寸前で、リバモアは売りをしかけるだけでよく、
市場でも、リバモアが数日中に売りをしかけるだろうという
噂が広がっていました。

ところがそんな彼に来客がありました。見れば、アメリカ金融界を
仕切っていたJ・P・モルガンその人。

あなたが売りを出そうとしてらっしゃることは知っています。
ええ。

今、あなたが売りを出せば、アメリカ市場は暴落して立ち直れなくなります。
・・・
どうか、ここは売りを控えてもらえませんか。

リバモアはJ・P・モルガンの言葉に従い、売り注文を出さず、アメリカ市場は
救われました。いつしかリバモアに「キング」(帝王)という呼び名。

私生活も派手だったリバモア。欧州で豪遊。何度もの結婚、離婚。
売りが得意で1929年(昭和4年)の大恐慌時にも、売りをしかけて大成功。

ところが相場師の哀しい性(さが)。儲かってる時に相場をやめることが
できません。その後の投資で失敗し、結局、破産。市場の恐ろしさを
身をもって教えてくれる相場師です。

穀物
grain

是銀

本名は是川銀蔵(これかわ ぎんぞう)。大阪の相場師。
世間では「これぎん」。「最後の相場師」という別名を持ちます。
実際、大きなスケールを持った相場師は彼で最後でしょう。

もともと商才あった彼は、関東大震災時、復興需要を見込み、
トタン板を多く買い占めました。これが当たり、大きな利益を得ます。
ところが「人の不幸に基づいて儲けてはいけない」と、
利益の半分を大阪府に寄付。

金融恐慌で無一文になった後、彼は大阪・中之島の図書館に通って、
資本主義とは何か、投資とは何かを徹底的に研究。その後、
朝鮮半島に渡って製鉄会社を始めます。図書館での地道な研究が実り、
この会社は軌道に乗り、従業員・一万人を擁する
朝鮮屈指の企業となりました。

ところが日本の敗戦によって、それもパー。再び大阪に戻ってきます。
是銀を一躍有名にしたのが住友金属鉱山株の買占め。
「鹿児島に金鉱が発見された」という日経新聞・記事を見るやいなや、
彼は鹿児島に飛び、現地調査し、朝鮮での鉱山開発の経験から
金鉱の存在を確信します。

「もう二度とやらない」と決めてた株式投資を再開するため、
是銀は妻の了承を得ようとします。

あんたがそこまで言うんやったら。

妻は快諾しました。そばにいた娘まで。

お父ちゃん、やってみ!

是銀は金鉱開発を行ってた住友金属鉱山の株を猛然と買占めます。
この取引で巨万の利益を得て、その年、長者番付・一位にランク・イン。

ところが累進課税によって利益の大部分が消え、相場師の常として、
その後の投資で失敗し、結局、スッカラカンになってしまいました。
多くの慈善団体を作り、儲かっている時に莫大な寄付をした是銀。
確かに「最後の相場師」にふさわしい生涯でした。

緑
green

天下の糸平

江戸期から明治期にかけて活躍した相場師で、本名は田中平八。
子供の頃、乾物の行商をしていましたが、クジを作り、当たった人には
もっとおいしい魚がもらえるよう工夫。この工夫が当たって、平八が
売る乾物は完売が続いたそうです。商才あったのでしょう。

相場師の常で、ドン底も経験。ある程度の金を稼いだ後、平八は
大阪・堂島で相場を張りますが、海千山千の相場師に、いいように
やられて大損。その後、横浜に出て生糸・売買を始めました。
この売買で大儲けし「天下の糸平」と呼ばれるように。

糸平は横浜で銀相場に手を出し、買いを入れてドンドン値を
つり上げました。ところがそこへ、腰の入った売りが入ってきます。
糸平もすかさず買い向かいますが、売り方は一桁違う額の売りを
浴びせてきます。とても太刀打ちできなくなりました。

実はこの売り方こそ、香港上海銀行(HSBC)。糸平に勝ち目は
ありませんでした。ところが糸平は、ここで奇策に出ます。値段が
下がっても取引を続ける場合、買い方は追加証拠金(追証)を
要求されるのですが、その追証として糸平は鉄釘を金庫に入れ、
取引所に提出。

この奇策によって売り方は総崩れとなり、糸平は事なきを得ました。
後にHSBCは糸平の不正を取引所に提訴しますが、ウヤムヤに。
一説によると、HSBCは糸平の行動に日本人の胆力を見て、
この民族を侮ってはならないと悟ったから、とか。

糸平の子孫が銀座の田中貴金属を設立したそうです。
私は銀座・田中で取引した時、そっと聞いてみました。

ひょっとして田中平八って人、ご存じありませんか?
このお店と、関係ある人らしいんですけど・・・

「ちょっと分からないですねえ」そう言われてしまいました。

並木道
avenue

ジム・ロジャーズ

ジョージ・ソロスとともに「クォンタム・ファンド」を共同設立したファンド・
マネージャー。クォンタム・ファンドは通貨、株式、債券を広く扱い、
毎年、驚異的な利回りを達成しました。

ヘッジ・ファンドのマネージャーは、自分の財産の大部分を
自己運用ファンドに入れますから、ロジャーズも大きな財産を築きました。
この後がこのロジャーズの面白いところで、ソロスと決別した後、
一旦、投資をやめて世界旅行に出ました。

通常の旅行でなく、バイクで砂漠や沼地を越えるといった、命がけの冒険。
数回の旅には、いつも女性を連れていったようですが、冒険記を読むと、
連れていく女性の名前が旅ごとに変わってます。

そういう冒険が、次の投資への情報収集だったことは間違いないでしょう。
再び投資の世界に戻って来た彼は、中国市場の騰勢を予測し、
中国株式の買いを推奨。それが当たりました。

ボックス圏にあった商品市場でも、今後、需要が高まると予言し、
商品へ注目。これも当たりました。もちろん彼は、人に勧める時は
自分も買っていて、莫大な利益を得たようです。

アメリカの野放図な財政規律に嫌気がさし、現在は家族でシンガポールに
暮らしてます。もちろん、シンガポールがタックス・ヘイヴンであることと
無関係ではないでしょう。

投資手法は、有望市場における「買い」が多く「売り」については
「時期の予測が難しいので苦手」と著書で述べてます。劇的な「売り」を
果敢に実行するソロスとは対照的で、この違いが、ソロスとの
決別理由だったのではないか、と私は個人的に推測しています。

今もロジャーズが講演会を開けば、各国の投資家が集まってきます。
ソロスのような政治力はありませんが、これまでの実績から、
やはり注目される人物です。

虹
rainbow

ジョージ・ソロス

世界経済を語る上で、ジョージ・ソロスという人物を避けて通ることは
できません。けれど政治家でも企業家でもない彼が、どうしてそれほど
大きな意味を持っているのでしょうか?

ソロスはハンガリー・ブタペストに1930年、ユダヤ人の子として
生まれました。家は比較的、裕福だったようです。少年になる頃、
ナチスがドイツで政権を取り、ハンガリーもナチス支配下に。

この時、ソロス少年はユダヤ人として、
ナチスのユダヤ人狩りに協力したと言われています。

もちろん、ソロス自身はこの時のことをあまり語りませんが、
さまざまな伝記から、そう推測できます。

結局、ソロス一家がナチスの迫害を生き延びることができたのは、
ソロス少年のナチスへの協力があったからなようです。

ソロスは戦後、ロンドンに渡り、カール・ポパーに師事。
ここで哲学と経済の基本を叩きこまれました。ソロスの唱える
「オープン・ソサイエティ」(開かれた社会)の概念も
ポパーから授かったもの。

教育を終えた後、彼はアメリカに渡り、本格的に投資の世界に
飛び込みます。ヨーロッパ情勢に詳しい運用者として注目されるまでに。
やがて「クォンタム・ファンド」を立ち上げました。
その時、右腕だったのがジム・ロジャーズ。

今では伝説となっているクォンタム・ファンド。
年率30%強のリターンを毎年叩き出し、ソロスは急速に
運用者および資産家としての地位を高めていきました。

ソロスの名を世界に知らしめたのは1992年のイギリス・ポンドへの介入。
ポンドが実質価値より割高と判断したソロスは、
猛然とポンド売りを仕掛けます。

もちろん、イングランド中央銀行はポンド防衛に回りましたが、
売り圧力はすさまじく、結局、ポンドは下落し、ソロスが手にした利益は
15億ドル。「中央銀行に勝った男」と呼ばれました。

1997年のアジア通貨危機でも、ソロスの名が再び世界に流れます。
経済成長で割高になっていたアジア各国の通貨に、
ソロスが強烈な売りを浴びせたのです。

マレーシアのマハティール首相はソロスを名指しで非難し、
ヘッジ・ファンドの売りを止めさせようとしましたが、
市場はソロスの思惑通り動き、ここでも巨利を得ます。
当時の行動について、アメリカ議会に呼ばれたソロスは。

ファンド運用者として、経済合理性に
沿った態度を取っただけです。

それはその通りで、誰も反論できませんでした。

篤志家としても知られており、世界中の慈善団体に莫大な資金を寄付。
毀誉褒貶の激しいソロス。彼は今年一月に投資から引退すると発表。
ですが弟子筋が今も市場に介入しており、背後にソロスの影を
見るのは容易でしょう。

スイスで毎年開かれるダボス会議でもソロスの一挙手一投足は、
各国首脳以上に注目されます。経済を理解したいのなら、
彼の動きをウォッチしておくべきでしょう。

牧場
green
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