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ゆめラジオ、総力戦研究所をアップ!

昭和十六年の夏、大東亜戦争の趨勢をみごとにシミュレートした、
総力戦研究所。どんな人たちが集まり、どんなレポートを
出したのでしょうか? その精度は?

ぜひ、ご視聴ください。

総力戦研究所

ゆめラジオ、満州事変をアップ!

戦前、日本社会の流れを劇的に変えた満州事変。
昭和六年のこと。その意義は? その影響は?
ゆめラジオで語りました。ぜひ、ご視聴ください。

満州事変

ゆめラジオ、松岡洋右をアップ!

大東亜戦争の原因を考える時、外せない人物、松岡洋右。
彼が日本の近現代史で果たした役割は? その影響は?
ぜひ、ご視聴ください。

松岡洋右

満州事変と統帥権干犯

統帥権干犯について、日本史では、昭和五年のロンドン条約を習います。
対米七割を主張した海軍。一方、政府、海軍省は、対米6.975で妥結。
ほぼ満額回答なのに、海軍は七割でないと、ダメ。天皇大権の一つ、
統帥権を持ちだし、干犯を主張。濱口首相の頃。

そもそも対米七割という数字すら、昭和天皇が言いだした数字では、
ありません。それに届かなくても、統帥権と関係ありません。
海軍からの言いがかり。

昭和六年・九月の満州事変こそ、もっと露骨な統帥権干犯。昭和天皇を、
ないがしろ。関東軍の板垣征四郎・大佐、石原莞爾・中佐が、謀略を計画、
実行。戦闘行為に。着任したばかりの本庄繁・大将は、なんとなく
戦闘行為を了承。昭和天皇の裁可ありません。

東北部の張学良軍。関東軍だけでは、とても手に負えませから、
石原中佐は朝鮮軍・支援を要請。軍越境は、戦線布告に等しい行為。
けれど、林銑十郎・大将。石原中佐にほだされ、軍越境を了承。
こうして、満州事変は本格的に始まりました。あいかわらず、
昭和天皇は、蚊帳の外。

昭和三年の張作霖・爆殺事件に始まり、満州事変を通じ、昭和天皇の
統帥権は、陸軍・左官によって、干犯され続けました。なぜか、
この干犯について、当時も、後の歴史家も、問題にしません。

満州事変の統帥権干犯が前例となり、以降、左官クラスが、
将官クラスをつきあげ、自分たちに、おもしろい方向へ政治を
変えていく風潮。やがて、泥沼の支那事変、対米戦争。
日本を破滅させたのは、この陸軍による統帥権干犯です。

港
port

石原莞爾

今は一万人ほどですが「国柱会」(こくちゅう かい)という宗教団体が
あります。日蓮宗・一派で、戦前、大きな影響力を持ちました。

冬夜に「寒修行」と称し、太鼓、打ち鳴らし、法華経、唱え、
花巻をねり歩いた宮沢賢治。賢治が所属したのも、国柱会。

賢治は、その奇行で、素封家だった父親の顔に泥を塗り、
故郷にいられなくって、上京。東京で頼ったのも、国柱会・本部。
賢治が描いた、幻想童話は、国柱会・思想が、根幹。

そんな国柱会。軍人も多く、入信。最も有名な人物が、石原莞爾。
「いしわら かんじ」と読みます。山形出身で陸士・二十一期、陸大・
三十期。陸大は、首席卒業のはずでしたが、石原では、天皇陛下の
前で何を言いだすか分からない、ということで、二位に。

帝国陸軍エリート。三十才の頃、国柱会に入信。国柱会は、日蓮宗らしく、
末法思想。もともと、神がかっていた石原が見た、世界最終戦争の
ビジョンと、ピタリ。石原の国柱会・入信は、運命でした。

石原にとって、世界最終戦争は日米間の戦争。時期は1970年代。
その前に、日本はソ連と、アメリカはドイツと戦い、それぞれ、
勝ちあがって、世界最終戦争。

当面の敵はソ連だから、満州を押さえることが、必要。昭和六年の
柳条湖事件、続く満州事変は、こんな思想の下、実行。石原中佐は、
板垣征四郎・大佐を説得。板垣は、石原の未来ビジョンに、ぞっこん
惚れこみ、決行を許可。板垣は生涯、石原にふりまわされました。

戦争指導も、強かった石原。事変拡大で、中国軍に対峙しても、
我が方に二十倍する敵を、圧倒。その名を高めました。

満州事変こそ、その後、日本が破滅へ向かう発端。国際連盟・脱退、
支那事変、対米戦争・・・石原は、その張本人。今も多数いる、
石原・信奉者、これを、どう考えるでしょうか?

満州事変は、満州国・建国という目的を達し、石原は、国民の間で、
絶大な人気。けれど、満州事変。佐官が将官をたきつけ、自分たちにとって、
おもしろい方向へと、政治、軍事を勝手に動かす先例となりました。
この点で、板垣、石原の罪は、重い。

石原は関東軍から東京の参謀本部に戻り、作戦部長の要職に。
ちょうど廣田内閣、倒れ、宇垣一成が組閣しようとした頃。

宇垣は軍縮派。宇垣内閣、成立すれば、対ソ戦・準備、できなくなると
考えた石原。宇垣つぶしに動きます。結局、陸軍が陸相を出さず、
宇垣は組閣できずに、退陣。「流産内閣」と呼ばれました。

この時、宇垣内閣、誕生してれば、後の戦争もなかったろう、
と推定されます。宇垣は軍縮派。蒋介石とも、対等に話せた器量。
石原自身「宇垣のオヤジを潰したのは、生涯の不覚」と後に、述懐。
ここでも、石原の罪は、重い。

林内閣、近衛内閣という無能内閣が続き、日本と中国、そしてアメリカの
関係は、ドンドン険悪に。石原にとって、対米戦争は、遥か先の話。
まずは、対ソ戦。支那事変など、論外。北支の戦争など、やめろ、
と説いてまわります。

耳、傾ける者など、一人もいません。下僚で、作戦課長だった
武藤章は、北支・不拡大を唱える石原に、平然と。

閣下が、満州でおやりになったことを、我々は北支で、
やっているだけで、あります。

他の課員は哄笑。石原は絶句。こんな口のきき方は、帝国陸軍で、
許されるものでは、ありません。一階級も上なら、絶対服従。この時、
石原は既に、梅津、東條のラインに睨まれ、出世コースから、逸脱。

機を見るに敏な武藤、それを意識しての返答。石原も、この時、
陸軍内で発言権ないこと、悟ったでしょう。ほどなく、予備役・編入。
石原は支那事変、対米戦争を、ただ見ている他、ありませんでした。

そして、日本は破滅。その発端を作った大罪人ながら、対中戦争、
対米戦争に奇妙に反対したことから、石原は、東京裁判で、不起訴。
戦後、すぐに、死去。

帝国海軍の山本五十六と同じく、日本に仇なす軍人でありながら、
戦後、フシギに祀りあげられ、今も、ファン多い、石原。
その評価を、再考すべき時です。

野原
Feld

二・二六事件

二・二六事件は四日で収束。事件そのものは、大きくありません。
陸軍・上層部には、決起軍人たちにシンパシーを感じた者も、
何名かいたようです。けれど、昭和天皇にどやされて、シュン。

反乱部隊は原隊復帰。決起・首謀者の尉官たちは逮捕され、
一度の軍法会議。そして銃殺。

要人も殺されました。国家運営で損失だったのは、高橋是清・蔵相の死亡。
岡田首相の死亡報は、すぐに流れましたが、高橋蔵相の死亡報は
伏せられました。株式市場への影響が心配されたからです。
後に、岡田首相は生存と判明。

二・二六事件の歴史的意義は、映画に描かれる決起ドラマでなく、
この事件によって、陸軍内で皇道派が一掃され、統制派が実権を
握ったこと。統制派は「対支一撃論」を唱えてましたから、翌年の
盧溝橋事件は、起こるべくして起きたと言えます。

盧溝橋事件、支那事変がなければ、地獄の対米戦争もなかった
わけですから、統制派・拡大が日本史に与えた影響こそ、
二・二六事件の反省として、語り継ぐべきでしょう。

統制派を率いた永田鉄山は前年、暗殺。一期下の東条英機は
第一次・近衛内閣で陸相。政治家でした。事実上、対支一撃論を
支えたのは、後輩、武藤章(むとう あきら)。

参謀本部で作戦部長だった石原莞爾は、支那事変に関し、
拡大をやめろと叫びましたが、下僚の作戦課長・武藤は、平然と。

石原閣下が満州でおやりになったことを、我々は北支で
やっているだけで、あります。

石原は二の句が告げませんでした。結局、泥沼の支那事変、
対米戦争は、こうして始まります。元を辿れば、二・二六事件。
二・二六事件こそ、大東亜戦争の始まりだと見るべきです。

ちなみに、武藤が東京裁判で、中将でありながら、処刑されたのも、
この中国進出・推進を咎められてのことです。

すすき
Herbst

永田鉄山

永田の前に永田なく、永田の後に永田なし。

陸士・十六期、陸大・二十三期の永田は、その優秀さを、陸軍内で、
こう表現されました。ずば抜けた頭脳。試験勉強せずとも、
いつも首席。

陸士・十六期は永田の他、小畑敏四郎、岡村寧次といった逸材が
いたのですが、勉強では、全く永田に歯が立ちません。陸士を
首席卒業。陸大は、二位卒業。陸大の首席は、梅津美治郎
(うめず よしじろう)。終戦時の参謀総長。

軍政に進む者は、試験秀才が重宝されました。永田は同期の中で
最速で出世。その過程で、しだいに「統制経済」にのめりこみます。
まず経済力。そして軍の近代化。永田には、ソ連に歩兵で突入しよう
という皇道派が、時代遅れに見えました。永田は、いつしか
統制派トップに。

永田の主張は、ソ連と戦うなら、まず飛行機、戦車を拡充しようと
いうもの。この軍近代化は正しいでしょう。当時、ソ連は極東に大型の
爆撃機を数十機そろえ、いつでも満州・各都市を爆撃できる体制。
昭和六年、関東軍が満州事変を起こしたのも、この年、ソ連・
極東空軍の戦力が、看過できるレベルを超えたからです。

永田は、対ソ戦をめぐって皇道派トップの小畑と、陸軍の幕僚会議で
大ゲンカ。昭和八年のことです。永田の経済優先、軍近代化は
決して間違ってないのですが、なぜか永田。ソ連・攻撃の前に
中国に一撃を加え、屈服させようと主張。

陸士で後輩だった東条英機と共に、この「対支一撃論」を唱えた点で、
試験秀才・永田の歴史的評価は決まります。なぜ、北進論を捨て、
中国と戦わねばならないのでしょうか? 陸軍の仮想敵国は、
明治期の「帝国国防方針」以来、ずっとソ連だったのでは
ないでしょうか?

ひょっとして、永田。統制経済に心酔するあまり、統制経済の中心、
ソ連にシンパシーを感じてたのでは? もしそうなら、それは
ゾルゲ事件の尾崎秀美と、何が違うでしょうか?

永田の出世は止まらず、昭和九年、軍務局長に就任。当時、
国家予算の半分が軍事予算。陸軍、海軍で折半するとして、
陸軍予算は国家予算の四分の一。その予算を胸一つで差配できる
ポスト。軍務局長は将来、陸相は確実。情勢しだいでは、首相も。

永田は軍務課長だった昭和七年、皇道派の領袖、真崎甚三郎・
教育総監を更迭。後任に統制派を送りこみました。そんな永田が
昭和九年、軍務局長になったとあって、皇道派が動きました。

剣道達人だった中佐を使い、永田を暗殺。白昼堂々、軍務局長室で、
日本刀で斬りかかるという前代未聞。このような大事件が、
中佐一人の単独犯なわけないでしょう。昭和十年。

永田をなきものにした皇道派。意気が上がります。翌・昭和十一年・
二月、ついに二・二六事件を決行。これは昭和天皇の不興を買い、
失敗。首謀者の左官クラスは銃殺。小畑も予備役に。
統制派の天下となりました。

結果的には、永田が主張した対支一撃論が採用され、北進は見送られ
ました。統制派の後輩だった武藤章が、中国進出を推進。日本は
泥沼の支那事変、対米戦争へと突入することになります。

桜島
nature

皇道派と統制派

昭和期・初め、「昭和維新」を掲げた陸軍軍人の一派がありました。
皇道派です。彼らは真崎甚三郎、荒木貞夫の大将を担ぎ、天皇親政を
目指しました。政党や財閥に任せては、日本は、たちゆかないという
強い危機感。昭和四年からの恐慌が、彼らを動かしました。

実は、天皇親政など、当時、既にムリだったのですが、皇道派は、
そう信じました。実質的に皇道派を仕切ったのは小畑敏四郎
(おばた としろう)少将。陸士・十六期の秀才。

天皇親政を掲げるからには、皇道派は徹底的な反共。ソ連をまず
倒そう、と主張。明治期の「帝国国防方針」以来、陸軍の仮想
敵国はソ連だったわけですから、これは当然の主張。

一方、財閥と組んで、統制経済で日本を強くしようと主張した一派も
ありました。統制派。彼らは満州に渡り、そこで彼らの言う統制経済を
実行。レーニン、スターリン、ヒトラーに心酔。陸軍・統制派は、半分、
共産主義者だったと言っても、過言ではありません。

陸軍内で、猛烈な路線対立が生じました。皇道派と違い、統制派は
「対支一撃論」。ソ連と戦う前に中国を倒すべきと主張。軍務局・
軍務課長だった永田鉄山が、林銑十郎・大将を担ぎ、
中国進出を説きました。

今、振りかえれば、皇道派の主張が通ってれば、日本はソ連とだけ、戦争。
西のドイツとの挟み撃ちによって、ソ連は降伏したでしょう。
当然、支那事変も対米戦争もありません。

統制派が陸軍の覇権を握り、半分、共産主義者みたいな軍人が権力を
取ってから、日本は破滅に向かいました。そう。皇道派が二・二六事件
さえ起こさず、皇道派が覇権を取ってれば、日本は悲惨な対米戦争を
経験しなくても、よかったのに・・・

今の教育では、テロリストみたいに教えられる皇道派が、
少し別の視点で見えてくることでしょう。

白
histoire

宇垣軍縮

大正から昭和にかけて、立憲政友会にかわって民政党が政権を
担当。幣原喜重郎を外相に起用し、平和協調の外交を展開。同じ
時期、陸相として軍縮を推進したのが、宇垣一成(うがき かずしげ)。
宇垣は今、もっと評価されていい軍人政治家です。

日露戦争から二十年も経つと、日本に目前の敵もなく、帝国陸海軍は、
いつしか無敵。ワシントン会議、ロンドン会議で、英米に六割、七割の
艦船保有を義務づけられたのも、もし日本が十割だったら、
帝国海軍が圧倒的に強くなるからです。それほど、
恐れられてました。

強い軍隊。高い道徳性。そして勤勉な国民。日本は極東にたてこもり、
貿易だけ続けてれば、それだけで世界の覇権を握れる立場に
ありました。当然、英米は警戒。日本に軍縮を要求。

軍縮は、日本にも決して悪い話ではありません。軍備増強が国家予算を
圧迫し始めてたからです。ここで、陸軍でも開明派で、政治家とも話が
できる宇垣に、白羽の矢が立ちました。宇垣も期待によく応え、
陸軍予算を削り、人員を減らしました。いわゆる「宇垣軍縮」。

しかも、宇垣。単なる予算縮小でなく、来るべき航空戦争に備え、陸軍の
航空予算は、逆に増やしました。今、振り返っても、みごとな先見性。
一機の戦闘機が、百名の歩兵に勝る。確かに、第二次世界大戦は、
そんな戦争。日本がアメリカに負けたのも、飛行機の性能が
劣ったからです。

とはいえ、いつの世も、既存体制には利権。宇垣軍縮に、陸軍は猛反対。
宇垣にしても、現役のまま、武官を退いて政治家になったため、
戻るべき陸軍の立場が、なくなりました。

清浦、加藤高明、第一次・若槻の内閣で、軍縮を進めた宇垣。その後、
陸軍で立場がありません。昭和十二年、廣田内閣の崩壊後、次は
宇垣大将で、ということになり、大命降下。けれど、陸軍が「宇垣なら、
陸相は出さない」と言いだし、組閣できず。「流産内閣」と呼ばれました。

宇垣は第一次・近衛内閣でも入閣しましたが、外相。何もできずに、
日本が大東亜戦争に突入するのを見るだけ。現役武官制では、
やはり、軍縮は予備役にやらせるべきです。

軍縮実績のある宇垣が首相になってたら、あるいは大東亜戦争は、
防げたかもしれません。宇垣内閣の流産は、宇垣だけでなく、
日本にとっても不幸でした。

秋の空
autumn sky

大森銀行ギャング事件

昭和七年に起きた、日本初の本格的な銀行強盗。映画の中だけの
存在だった「ギャング」が、日本に実際に登場したことで、
話題になりました。

大森銀行に押し入ったのは、日本共産党員。活動資金を得る
ためだけでなく、治安を乱そうという意図がありました。

彼らはスターリンが革命前、郵便馬車を襲って資金を奪い、革命に
資したひそみにならい、自分たちも革命の先駆けたらんと、強盗に
及んだようです。こういうのを「前衛」と呼ぶのでしょうか。

日本共産党は大正十一年、非合法団体としてスタート。この出発は、
これまで、むしろ党の誇りとして語られることが多かったようです。
戦前の暗黒時代、非合法の烙印を押されながらも、唯一、
反戦平和の団体として産声を上げた日本共産党・・・

けれど、非合法とされた理由は、日本共産党が結成当初から、
内乱を志向した団体だったから、でもあります。その好例が、
この大森銀行ギャング事件。

稚拙な強盗は失敗し、関係者は全員、逮捕。同じ年の
熱海事件で、事実上、戦前の日本共産党は壊滅。

ただし、日本共産党のために一言付け加えると、このギャング事件。
実はシナリオを描いたのは、特高警察(現・公安警察)。

日本共産党は、昭和三年の大弾圧で、組織は既に崩壊。
特高警察による弾圧のひどさは、小林多喜二が「一九二八年
三月十五日」で描き出したとおり。

その頃から"M"という特高警察・工作員が党内に入りこみ、実権を
握ります。党員の誰も、Mが工作員とは疑いませんでした。

このMが党員をそそのかし、ギャング事件を起こさせたわけです。
特高警察のこうした卑劣さは、戦後も公安警察という形で、
みごとに引き継がれてます。

いずれにせよ、日本共産党。戦前から反戦平和を貫いた、
と今、主張してますが、実際にやってたことは、ギャング事件。

Mにそそのかされたとはいえ、党員がついていかなければ、
ギャングなど、起きようがありません。Mが強制的にやらせた
わけでも、ありません。現在の日本共産党の主張を聞く時、
心に留めておくべき事件です。

滴
water drops

南京大虐殺の大嘘(2)

戦後七十年の今年、中国が南京大虐殺をもっと大々的に宣伝してもいいのに、
やけに静かだな、とフシギに思う人はいないでしょうか?

帝国陸軍が南京攻略したのは、昭和十二年・十二月。その五カ月前の七月、
盧溝橋事件(ろこうきょう じけん)が発生。それが拡大して支那事変に
なりました。日本政府は、戦争にしたくなかったため、「事変」と呼び、
宣戦布告もなく、戦争でないということで、各国の介入を招きました。

ドイツ、アメリカといった国が、公然と蒋介石軍に武力援助。
戦争ではありませんから、日本は何の抗議もできませんでした。

後に、ドイツと三国同盟を結んだ日本。泥沼の対米戦争に突入。
けれど、ドイツは中国大陸で、全く日本の味方ではありませんでした。

一発の銃声で始まった盧溝橋事件。当時、誰もこの事件が、何年も続く
支那事変の始まりになろうとは考えませんでした。けれど、上海で起きた、
日本海軍士官・殺害事件で、米内海相が激怒。海軍陸戦隊の派遣を
決定し、事変が拡大。

米内光政(よない みつまさ)は、戦争に反対した海軍・良識派のように
言われますが、この第二次・上海事変では、全く強硬論を主張。翌年、
昭和十八年・一月、近衛首相に「国民党政府を相手にせず」という声明を
出させ、事変をさらに長引かせたのも、米内。米内は平和主義者
という固定観念は、今、疑われるべきです。

さて、陸海軍共同で実行された南京攻略。そこで二十万人とも三十万人とも
いわれる民間人・大虐殺があったということですが、これは大嘘。
数字そのものも、時代によってドンドン変化。信憑性がありません。

当時、上海租界には、世界各国のメディアが集合。当然、支那事変に
ついても、連日、報道されました。南京にも大勢、各国ジャーナリストが
いたはずです。しかし、彼らの誰一人、大虐殺など報じません。

というより、南京大虐殺は、戦後の東京裁判で、初めて出てきた話。
関係者は寝耳に水。しかも、この時の裁判はヒドイもので、
南京大虐殺といいながら、何一つ証拠は提出されず、
証言一つあったのみ。

その証言すら、裁判で追及されると、伝聞だったと判明。関係者の注目は
南京攻略の責任者・松井岩根(まつい いわね)大将に集まりました。

しかし、東京裁判。肝心の松井大将の証言部分は、今だカット。どれほど、
歴史家や学者が開示を求めても、アメリカ政府は応じません。応じないのも
当然で、大虐殺など、そもそもないからです。

帝国陸軍の兵士は、北清事変(義和団の乱)の頃から、その統率と、
道徳の高さで、各国の耳目を集めてました。組織的に
民間人虐殺を始めるなど、ありえません。

そもそも、そんな大虐殺があったのなら、どうして各国メディアは、九年間も
沈黙したのでしょうか? 当時、アメリカで派手な反日キャンペーンを
展開した宋美齢たちも、南京大虐殺など一言も口にしてません。

戦後だって、蒋介石、毛沢東、周恩来、鄧小平。彼らの誰一人、
南京大虐殺など、言いだしません。そんなものは、なかったからです。
昭和四十七年の日中国交交渉でも、南京大虐殺は、
話題にも上りませんでした。

東京裁判で、突如として出てきた南京大虐殺。一言で言えば、原爆投下、
日本の諸都市での民間人爆撃など、国際法を破りまくったアメリカが、
日本も、こんな悪いことをした、とデッチ上げ、自らの非道を
隠そうとした、というのが、真相。

東京裁判そのものが、事後法で裁く、という、およそ近代法学とは
かけ離れた裁判。全く正当性はありません。

戦後、日本で南京大虐殺が話題になったのは、昭和四十六年、朝日新聞・
記者だった本多勝一が「中国への旅」というルポを朝日新聞に掲載。
そこで宣伝し始めてからです。

十二月なのに夏服だったり、写ってる人の影がバラバラだったり、
という奇妙な写真が証拠として挙げられました。誰がどこで撮影したかも
分からない写真。虐殺現場に連行される市民の姿。けれど、その顔が
笑ってるという、漫画のような写真。

けれど、多くは残虐な写真だったため、本多の記事は日本人の心に、
強い印象を残しました。しかも当時、朝日新聞には大きな権威があり、
朝日新聞が掲載したから、事実だろうと受けとめられました。

慰安婦・強制連行といい、南京大虐殺といい、朝日新聞は戦後、
一貫して、デタラメ反日記事を掲載し、広めてきました。今も購読料を払って、
こんな新聞を読んでる人がいること自体、私には信じられません。

パク政権が二年前から慰安婦・強制連行を言いたて、それによって
嘘がばれ、昨夏、朝日新聞の二面を使った、大きな訂正記事につながりました。

そうです。もし今、中国政府が南京大虐殺を大々的に宣伝すれば、
慰安婦・強制連行と同じく、嘘がばれてしまうと、中国政府はシッカリ
気づいてます。だから、黙ってるわけです。

反日・朝日新聞のキャンペーンに、日本共産党や日教組がホイホイと乗り、
教育現場でも数十年間、ありもしない南京大虐殺を、日本の子供は教えられ、
祖先を貶められてきました。今も、教育現場は、ほとんど変わってません。
学校教員の頭は固いまま。

ただし、便衣兵(べんいへい)の話はしておかなくては、なりません。
便衣兵とは、軍人なのに民間人の服を着た兵士のこと。国際法では、
兵士は軍服を脱ぎ、民間人の服を着てはならない、と定められてます。
敵味方の区別ができなくなり、それこそ民間人虐殺につながるからです。

ところが蒋介石軍。日本軍の到来を予想し、軍服を脱いで逃走。
この時、彼らが脱ぎ捨てた山のような軍服。それはシッカリ写真として、
残ってます。そして民間人として、逃走。

けれど彼らは軍人ですから、そのような者たちを、日本軍が見つけだし、
処刑したことは、あるでしょう。その規模は、もう推定できません。
しかも、こうした処刑は、国際法で認められてます。

来月には、安倍首相が七十年談話を発表するとか。そんな談話、
そもそも出さなければいいのに、というのが、私の意見。

その時、中国政府は、どんな反応を示すでしょうか? 南京大虐殺の
大嘘を大声で言いたてるでしょうか? 冷静に見ておきましょう。

幻
lie

ゾルゲ事件

若くして政治局員となった宮本顕治が逮捕された昭和八年。日本共産党は、
事実上、活動停止。主だった党員のほとんどは投獄、虐殺、あるいは転向。
治安維持法の下、日本共産党には徹底的な弾圧が行われました。

特高警察は日本共産党の活動を封じ込めることによって、共産主義の浸透を
防げると判断。しかし、それは甘い考えでした。日本共産党とは全く別に、
もっと巧妙な方法で、共産主義者が日本の中枢で暗躍。
日本を破滅に導きました。それがゾルゲ事件。

立花隆は「日本共産党の研究」で戦前の日本共産党について、
たとえ司令部が壊滅しても、第二、第三の司令部が機能するよう
準備しておくべきだったと批判。けれど立花。ゾルゲ事件を
知らなかったのでしょうか? 

ゾルゲ事件を見れば、フロントとしての日本共産党が壊滅しても、
地下部隊としてのゾルゲ団が自由に跋扈し、諜報だけでなく、
世論操作まで実行したことが分かるはず。

日本共産党とゾルゲ団は相互に関係ありません。もちろん、
日本共産党史にゾルゲは登場しません。

とはいえ戦前、日本共産党もゾルゲ団もソ連の指示で動いてました。
元締めであるソ連から見れば、両者ともに手の中にある二つのカード。

今、世界の諜報学校で、ゾルゲ事件は、世界史を変えた諜報活動として、
詳述。けれど日本史では、ほとんど触れられず、どんな事件か
知らない人も多いでしょう。

リヒャルト・ゾルゲは十九世紀・末、ドイツに生まれます。1919年の
ドイツ革命によって共産主義に目覚めました。カール・リープクネヒト、
ローザ・ルクセンブルクが活躍した頃。

やがて共産主義への傾倒は確信へと変わり、ソ連に渡ります。
そこで諜報員として活動することを命じられました。ソ連にいる間、
ゾルゲはソ連女性と結婚し、一女をもうけてます。

ドイツ帰国後、ゾルゲは新聞社に就職。ジャーナリストとしての肩書を
得ます。その特派員として、上海経由で東京にやって来ました。上海で
ゾルゲの手引きをしたのが「八路軍・従軍記」著者アグネス・スメドレー。

昭和八年、日本共産党が壊滅したのと同じ年、東京に着いたゾルゲ。
六本木・鳥居坂に居を構えます。今は東洋英和の校舎がある場所。
当時は高いビルもなく、国会議事堂も見えたとか。

同じくソ連の指示を受けてた協力者たちと、ゾルゲは東京で接触。
相手確認には破れたドル札を使い、それがピッタリ合えば、
協力者と分かる方法を取りました。

こうしてゾルゲ団ができあがります。協力者の一人、尾崎秀実
(おざき ほつみ)。尾崎は一高、帝大を出たエリート。朝日新聞の記者を
してました。けれど、裏の顔は筋金入りの共産主義者。彼も上海で、
スメドレーからゾルゲに協力するよう指示を受けます。

尾崎は一高、帝大の、そして新聞記者となってからの人脈をフルに
生かし、時の権力者・近衛文麿(このえ ふみまろ)に近づきます。
朝飯会、昭和研究会といった近衛を囲む会に積極的に参加。
情報収集を始めます。そうして得た情報をゾルゲに報告。
ゾルゲはそれを漏らさず、モスクワに打電。

ゾルゲは特派員としてドイツ大使館に食い込みます。人たらしだったゾルゲ。
相手の心を掴むのがうまく、ドイツ大使オットーの全幅の信頼を得ます。

当時、ドイツ大使館には帝国陸軍・将校が自由に出入りしてました。
第二次世界大戦が始まる直前、日独の蜜月時代。帝国陸軍・将校は
ドイツ国防軍・将校に極秘の軍事機密を漏らし、ドイツ国防軍・将校も、同じ。
そばで、それを知り得る立場にあったゾルゲ。一言一句を聞きもらしません。

昭和十四年八月、ヒトラーとスターリンは突如、独ソ不可侵条約を締結。
日本の平沼騏一郎(ひらぬま きいちろう:赳夫の義父)内閣は
「欧州情勢は複雑怪奇なり」の言葉を残して瓦解。

この間、ソ連・指導部の関心事は日本が満州を超えて、ソ連に侵攻するか
どうかでした。昭和十四年から帝国陸軍は大号令をかけ、満州に兵を集結。
「関特演」と呼ばれる軍事演習を行ってました。それはソ連侵攻の準備。

ゾルゲはそれぞれの情報源から、日本には当分、ソ連に侵攻する準備は
ないと判断。モスクワに打電。この情報は正確で、ソ連・指導部は、これに
もとづいて赤軍を東部戦線に移動させることができたはず。
そうしておけば、独ソ戦・初戦の大敗北はなかったでしょう。

ところがソ連・指導部はゾルゲ情報を信用せず、
ソ満国境に多くの赤軍を残したまま。

そして昭和十六年・春、ゾルゲはドイツ国防軍が六月、独ソ不可侵条約を
破ってソ連に侵攻するという決定的な情報を掴みます。ゾルゲはモスクワに
「侵攻日は六月二十一日」と打電。実際には六月二十二日でしたから、
一日違い。その精度は驚くべきもの。

この情報もスターリン、モロトフに届けられましたが、ソ連・指導部は
やはり無視。当時、ソ連・指導部が注目してたのは羊毛市場。
羊毛価格が上昇してませんでした。ソ連・指導部はドイツが
冬装備せずに侵攻してくるはずないと踏んでたのです。
ところがヒトラーは。

ソ連は腐ったドアのようなものだ。一蹴りしてやれば、倒れる。

冬装備せずともモスクワを落とせるつもりでした。そして昭和十六年、
六月二十二日、ドイツ国防軍の怒涛の侵攻。ソ満国境から兵を移動させず、
ドイツはまだ来ない、と思ってたソ連・指導部は不意をつかれます。
ここではじめて、ゾルゲ情報に信頼が寄せられました。

とはいえソ連・指導部。ドイツ国防軍が冬装備してないわけですから、
持久戦に持ち込めば、冬が来て、ドイツ国防軍は退却すると判断。
ナポレオン戦争と同じく、徹底的な焦土作戦を実行。スターリングラードで
踏ん張り、やがて冬の到来。予想通り、ドイツ国防軍は退却を始めます。

同じ昭和十六年。日本では北進論、南進論の議論が戦わされてました。
支那事変を講和してソ連に侵攻するか、支那事変を続行して
南部仏印に侵攻するかの議論。

南部仏印に侵攻すれば、アメリカとの関係は決定的に悪化しますから、
ソ連と戦争するか、アメリカと戦争するかを議論してたわけです。

ここで尾崎秀実。言論人としての立場を生かし、南進論を展開。
他の言論人を巻き込んで「暴支膺懲」(ぼうし ようちょう:暴れる中国を
懲らしめよう)キャンペーンを張ります。

帝国陸軍がソ連に侵攻すれば、さすがのスターリンも二正面・作戦は
取れません。万事休す。心の故郷・ソ連を壊滅させてなるものか、と
尾崎たちは南進論を精力的に展開。それが奏功して御前会議で
南進論が決定。七月、帝国陸軍は支那事変を続行したまま、
南部仏印へ進駐開始。事実上の対米戦が始まりました。

この頃、ゾルゲ団に憲兵、特高の目が光り始めます。
ゾルゲ団はモスクワへの打電において、車中に無線機を設置し、
東京のあちこちに移動して打電。特定を防いでました。

ところが不審電波があまりにも頻繁に、モスクワ方面に打電されるのを
帝国陸軍・情報部がキャッチ。ゾルゲ団が浮かび上がりました。

日本人・協力者の一人が逮捕。彼の自白から芋蔓式に協力者が判明。
ゾルゲ、尾崎も逮捕されます。ゾルゲが最後にモスクワに打電した内容は。

日本軍は、港湾を想定した攻撃を準備。

ゾルゲ団の自白から、帝国陸軍は事件の大きさを知り、驚愕。
ゾルゲ事件は最高機密として扱われました。裁判の結果、ゾルゲ、
尾崎は死刑。昭和十九年十一月に執行。ゾルゲは最後まで、
ソ連が自分を救いに来てくれると、言い続けました。

実はゾルゲ。二十才ほど年下で、ウェイトレスをしてた石井花子を
愛人にしました。まだ外人が珍しかった当時の東京。ゾルゲは石井に
優しいジェントルマンを演じ、うぶな石井は、ぞっこん惚れこみます。

ゾルゲは石井にワーグナーのレコードをプレゼント。
二人で河口湖へも行ったとか。

やがてゾルゲ逮捕。石井の前から姿を消します。ゾルゲは石井に
諜報活動について何ひとつ話してませんでした。防諜の意味も
ありますが、露見した時、石井に累が及ばない配慮でした。

石井にはワーグナーのレコード、そして河口湖での何枚かの写真だけ。
戦後になっても、石井はゾルゲを忘れられなかったようです。結婚せず、
独身を通しました。処刑場に埋められたゾルゲの死体を掘り起し、
多磨霊園に埋葬。墓石裏にはそっと「妻 花子」と刻まれました。

ひなぎく
tenderness

南京大虐殺の大嘘

昭和十二年・七月に発生した盧溝橋事件(ろこうきょう じけん)。
北京で日中・両軍が衝突し、戦争に発展。最初の銃弾を撃ち込んだのが、
どちらなのか、今だ確かめることはできません。

宣戦布告なく「支那事変」と呼ばれました。第一次・近衛内閣が
発足した直後。内閣は「不拡大方針」を発表しますが、現地軍が暴走。
事変は拡大し、帝国陸軍は十二年末、中華民国・首都、南京に迫りました。
司令官は陸軍大将・松井岩根(まつい いわね)。

帝国陸軍は首都・南京を攻略せず、講和に持ち込むべきでしたが、
南京に侵入。軍人・民間人を問わず、数十万人が帝国陸軍に虐殺された、
と中国は主張。日本もそれを受け入れて「南京事件」とか
「南京大虐殺」とか呼んできました。

とはいえ南京事件は昭和十二年に発生したはずなのに、
本格的に話題になったのは戦後の極東軍事裁判から。
そこで中国が出してきた主張に日本人・被告は唖然。
初めて聞く話ばかりでした。

松井大将の証言に注目が集まります。けれど、その映像にはアメリカの
検閲がかかってて、今だ見ることはできません。証言者という人物も
何名か呼ばれましたが、全て伝聞情報。自分で大虐殺を目撃した、
という証言は皆無。結局、連合国による一方的・断罪で裁判は終了。
南京事件が認められてしまいました。

1970年代、今度は日本人が南京事件を大々的に報道。
先頭を切ったのは本多勝一(ほんだ かついち)。

大手メディア記者だった本多は「中国の旅」という著作で支那事変・
以降の帝国陸軍の蛮行をつぶさに描写。南京事件を広めました。
いつしか本多の文章は国語の教科書に掲載されるまでに。

本多に続いて森村誠一(もりむら せいいち)が「悪魔の飽食」を発表。
七三一部隊の人体実験を告発。本多、森村の著作を日本の教職員が読み、
それを学校教育で伝える形で、南京事件は既成事実に。

1980年代からは中韓が「教科書論争」を起こし、日本の教科書に
日本軍の蛮行を書くよう主張し始め、南京事件はさらに強く浸透。
決定打となったのは、アメリカ人・作家アイリス・チャンが
1997年(平成9年)に発表した「ザ・レイプ・オブ・南京」。

この本によって、ボンヤリ広まってた南京事件が世界中に拡散。
南京事件などなかった、と言えない状況を作り出しました。
ちなみに作家チャンはその後、謎の自死を遂げてます。
南京事件の被害者数はドンドン増えていき、現在では
三十万人とも四十万人とも。

とはいえ南京事件など、全くの捏造。引き合いに出される写真も
偽物ばかり。冬なのに夏服。人物の大きさが不揃い。人物の影も
バラバラ。まともな証拠写真は一つもありません。

しかも残酷な写真の多くは、中国軍が日本人・居留民に行った蛮行を
日本軍の所業と称して掲載してる場合がほとんど。このような
プロパガンダに免疫のない日本人は、簡単に信じこんで
しまいましたが、捏造であることに変わりありません。

アメリカ人が大東亜戦争・末期に落とした二発の原爆。
その非道は完全に国際条約・違反。それを覆い隠すために
デッチ上げたのが、実は南京事件。中国がこのデッチ上げに
飛びついたことは言うまでもありません。

数十年に亘り、反日・日本人によって教育されてきた南京事件。
死体の目をくりぬき、腸を引き出す写真は中国ではよくあることですが、
日本にそんな風習はありません。南京大虐殺・記念館に展示され、
さまざまな本に掲載されてる写真は、まさに中国の風習。

しかも、そんな記念館を、痛ましい顔して訪問する日本の元首相たち。
今後の若者に、こんな捏造教育を許してはなりません。しかも今になって
ようやく捏造認識が次第に広がり始め、遅きに失したとはいえ、
教科書・記述を変更しようという動きも出始めました。

中韓の醜い反日運動は、彼ら自身の姿でもあります。しかも
それを背後からサポートするアメリカの影。その構図に、
多くの日本人が気づき始め、疑問を持ち始めてます。
この動きはもう止められないでしょう。

困るのは、今までウソばかりつき続けてきた中韓。
日本人は彼らの狼狽を静かに見てればいいだけのことです。

青
blue

桜田門事件

昭和七年一月、犬養内閣ができたばかりの頃。桜田門外で
昭和天皇が乗った馬車に爆弾が投げられ、爆発する事件が起きました。
「桜田門事件」と呼ばれます。爆弾は副車で爆発し、
昭和天皇に大事はありませんでした。

犯人は朝鮮人。彼は不敬罪で逮捕され、同年、処刑。
背景に大きな意志があったと思われますが、今となっては
分かりません。犬養内閣は動揺し、責任を取って辞職を
決定しますが、昭和天皇が慰留。内閣は続きます。

実はこの事件に先立つ大正十三年、皇太子(昭和天皇)が乗った
自動車が狙撃されるという事件が起きました「虎の門事件」です。
この時、第二次・山本内閣に辞職するよう迫ったのが犬養毅。

野党時代には内閣辞職を求めながら、自らの内閣で似た事件が
起きても辞職しなかったことを問い糺され、犬養首相は。

修練による心境の変化でございます。

追求した民政党議員も絶句。犬養内閣は存続します。ちなみに
この桜田門事件。中国・国民党の機関紙「民国日報」が
「不幸にして僅かに副車を炸く」と報道。

天皇が無事だったことを「不幸」と表現。満州事変後の緊迫した
国際情勢で、日中対立は決定的となりました。
すぐ後に第一次・上海事変が起きます。

竹
bamboo

焦土演説

昭和七年八月に外相・内田康哉(うちだ やすや)が行った演説。
前年に満州事変が起き、その後、満州国・建国。とはいえ満州国・承認を
巡って国際世論は紛糾。その状況で国会答弁に立った内田外相は。

たとえ国を焦土としても、この主張を徹する。

満州国を守ろうとする、政府としての固い決意を表しました。
けれど、この演説から十三年後の昭和二十年八月、日本はホンとに
「焦土」となるわけですから、この意味は重いでしょう。

明治・大正・昭和を通して何度も外相を務めた内田。しかし、
これといった業績はなく、この「焦土演説」で知られるのみ。
内田は数年後に亡くなりますが、もし長生きして焦土になった
日本を見たら、勇ましい自分の演説を心から恥じ入るでしょう。

結局、焦土演説が引き金となって日本は国際社会で孤立。
ジュネーブで開かれた国連総会で松岡洋右が脱退宣言をするのは、
翌年のことです。日本は破滅へと突き進みました。

秋
late autumn

満州事変

昭和六年九月十八日、満州に展開してた帝国陸軍が奉天
(ほうてん:現・瀋陽)の線路を爆破して「柳条湖事件」
(りゅうじょうこ じけん)が発生。第二次・若槻内閣の頃です。

この事件は中央の意志に反して拡大し「満州事変」と
呼ばれるようになります。その後の展開は帝国陸軍の作戦通り。
板垣征四郎(いたがき せいしろう)大佐、石原莞爾(いしわら
かんじ)中佐が指揮しました。

結局、中央も関東軍の独走を追認。翌・昭和七年三月、
満州国が成立。皇帝は溥儀(ふぎ)。

満州国には日本から優秀な若手の軍人・官僚が多く配置され、
「五族協和」のスローガンの下、早急な国作りが進められました。
その早さには調査に来たイギリスのリットンも舌をまいたほど。

軍人としては東條英機、官僚としては星野直樹、岸信介。
満鉄総裁・松岡洋右(まつおか ようすけ)鮎川財閥の鮎川義介
(あいかわ よしすけ)も。五人の名前の下の字を取って、
当時「二キ三スケ」という言葉が流行りました。

とはいえ満州事変。佐官クラスが上層部を無視し、自分たちに
面白い方へ軍を動かす、という先例を作ってしまいました。
官僚がどれだけガンバろうと、満蒙開拓団がいくら努力しようと、
軍の佐官がやりたい放題して、ブチ壊し始めたわけです。

その後の二・二六事件、支那事変、ノモンハン事件など、
全て上層部や中央は反対してるのに、現地の将官・佐官クラスの
判断で決行され、日本を破滅に追いやりました。

日蓮宗への帰依が深く、ある程度、予知力もあった石原莞爾。
上官の板垣がメロメロにされたのも当然でした。けれど石原。
自分の行動が、小粒な後輩たちによって、どう模倣されるかまでは、
思い至らなかったようです。

もみじ2
relaxation

井上準之助

東京帝大・法から日銀に入行した井上準之助(いのうえ じゅんのすけ)。
卓越した実務力、実行力でメキメキ頭角を表します。三十代で大阪支店長、
営業局長、ニューヨーク支店長を歴任。

1919年(大正8年)日銀・生え抜きから初の総裁就任。それまで日銀総裁は
大蔵省からの天下りか、三菱からの派遣。そこに、生え抜き総裁の誕生。
井上の力を、誰もが認めたからこその快挙。

1923年(大正12年)関東大震災の復興にあたった第二次・山本内閣。
井上はこの時、山本に請われて蔵相に就任。この時の内閣では、内相・
後藤新平の活躍が、今もよく語られます。しかし蔵相・井上の、
金融面からの震災復興も、見逃してはいけません。

震災の報を聞くやいなや、井上蔵相はモラトリアムを発表。全ての
金融決済の「猶予」を宣言します。これで多くの中小企業が救われ、
結果的に金融暴動も抑えられました。

この手腕を見た高橋是清。後に1927年(昭和2年)政友会の田中義一・
首相に請われて蔵相を引き受けた時、日銀総裁に井上を指名。

当時は金融恐慌の時代。難局を乗り切るため、大蔵省の相方である
日銀総裁には、井上しかいないと見込んでの抜擢。井上としては、
二度目の総裁就任。

後の政策対立から、対照的に論じられる是清と井上。けれど、真っ向から
対立したのは、昭和恐慌時だけで、それ以前は、お互い、相手の力量を
十分に認めあう師弟のような間柄。ここを見落としてはいけません。

さて、1929年(昭和4年)民政党・濱口内閣が発足すると、井上は蔵相として
再入閣。井上はそれまで政友会に所属してましたが、蔵相就任と同時に、
民政党に入党。このサプライズが当時、話題を呼びました。

濱口、井上のコンビは同年9月、かねてより国際社会から要請されてた
金解禁を発表。インフレ懸念の払拭、通貨の信認を訴えます。

とはいえ10月にニューヨークで大恐慌が発生して、その影響が世界に
飛び火。これを理由に金解禁を延期、停止することは可能でした。しかし、
濱口、井上にとって金解禁はイデオロギー問題。状況しだいで、
どうこうする話題ではありません。

この状況を見て東洋経済新報の石橋湛山(いしばし たんざん)は
「嵐の前に雨戸を開けるようなものだ」と猛烈に批判。
しかし濱口、井上は聞く耳を持ちませんでした。

1930年、予定通り、金解禁を断行。やはり予定通り、円高が進行し、
輸出産業に大打撃。景気が極端に悪化し、東北農村で身売りが続出。
この時の政策は、今も失政と語られてます。

その後、濱口が凶弾に倒れ、後継の第二次・若槻内閣が満州事変を
収拾できず、1931年(昭和6年)12月13日、犬養内閣が発足。政権が
民政党から政友会に戻りました。

犬養内閣・蔵相の是清は即座に金解禁を停止。井上のメンツは丸潰れ。
是清は大幅なリフレ政策を実行し、景気回復への道を開きました。

昨年からのアベノミクスが、この時の政策に酷似したことから、
是清、そして湛山の名前が巷間、よく語られてます。

巻き返しを図る民政党・井上。状況しだいでは将来、首相を狙える地位に
ありました。しかし1932年(昭和7年)2月9日、本郷の小学校で遊説中、
血盟団員によって背中から撃たれ、斃(たお)れました。

家族は生前の借金が出てこないか、真っ先に心配したとか。当時の
政治家は家族に内緒で、借金する場合が多かったのでした。

井上準之助
financial minister

金保有量・範囲内で財政をやりくりする金本位制は、確かに通貨信認には
ベストな政策。しかし国家運営は時に、民間では行えない財政出動により、
景気悪化を防ぐ役割も果たさねばなりません。その意味では、濱口、井上の
金解禁は、時期を誤った政策だったと言わざるをえないでしょう。

賀屋興宣

賀屋興宣(かや おきのり)は1937年(昭和12年)
第一次・近衛内閣で蔵相を務めました。大蔵省では
高橋是清の弟子筋に当たります。

蔵相・就任時、支那事変への対応を求められました。
そこで「賀屋・財政経済・三原則」を発表。国債増発と増税は
生産力に見合う範囲に限定すると言明。

1941年(昭和16年)の東條内閣でも、賀屋は再び蔵相に。
三原則がうまく機能したため、日本政府は大東亜戦争・終結まで
財政的に持ちこたえることができました。

東條に最後まで戦争をさせたのは私だ。

賀屋はそう自嘲してたとか。戦時中には華北での資源開発に着手。
ブロック経済により戦費調達を推進。極東裁判でA級戦犯に
指名されたのも、この理由によります。

終身刑となり、十年間、巣鴨プリズンに服役。自分の境遇には
恬淡(てんたん)としてました。獄中での規則正しい生活の
おかげで、持病だった喘息も完治。釈放後は
池田内閣で法相を務めました。

幻
eternity

昭和研究会

1932~33年(昭和7~8年)の大弾圧によって、
戦前の日本共産党は壊滅します。

同じ頃、スパイMによる大森ギャング事件や熱海事件も発生。
日本共産党の歴史はこの後、終戦まで空白に。

とはいえこの空白期間、全く別の場所でコミンテルンの指令を受けた
共産主義者が政権中枢で暗躍。「昭和研究会」です。

昭和研究会は近衛文麿(このえ ふみまろ)を囲む私的な研究会。
一緒に朝食を食べる行事も始まり、メンバーの結束は高まります。
若手エリートが顔を揃え、情報を交換し、国家運営を論じました。

ところがこの昭和研究会に共産主義者が多数、紛れ込み、ソ連に内通。
例えば、近衛内閣で内閣書記官長(現・内閣官房長官)まで務めた
風見章(かざみ あきら)。戦後は日本社会党に入党し、
左翼の大物政治家に。

あるいは尾崎秀美(おざき ほずみ)。朝日新聞・記者だった彼は、
昭和研究会で得た情報をドイツ人リヒャルト・ゾルゲに伝達。
その情報はゾルゲからモスクワに送られ、日本の動向は筒抜けに。

西園寺公一(さいおんじ きんかず)も。元老・西園寺公望の孫で、
極秘の政治情報を知り得る立場にあった西園寺。その情報を逐一、
尾崎に伝達。尾崎にとって貴重な情報源となりました。

内通者の頭にあったのは「敗戦革命」という思想。
たとえ対米戦争となり、日本がボロ負けしても、戦後、
共産主義革命が起きるなら、それでいいじゃないか、
というトンデモナイ亡国思想。まさに売国奴の思想です。

しかも信じられないことに、この敗戦革命という思想は、
「統制派」と呼ばれてた陸軍の若手軍人の間にも広がってました。

昭和研究会メンバーは情報内通だけでなく、情報操作も実施。
日本陸軍がソ連を攻撃しないよう南進論を展開。
さまざまなメディアで煽りました。

1937年(昭和12年)に始まった支那事変でも、中国への強行姿勢を主張。
陸軍はソ連に攻め込むことができなくなりました。

結局、支那事変は泥沼化。仏印進駐で日米関係は決定的に悪化。
昭和研究会の内通者たちはみごとな実行力と情報戦で、
日ソ開戦を防ぎ、対米戦争を勃発させたのでした。

後に近衛・元首相は「何か目に見えない力に操られてた気がする。」
お人よしで軟弱な近衛には、内通者たちの死を賭した極秘行動を
見抜くことなどできませんでした。

尾崎とゾルゲは戦時中、特高警察によって内通を見破られ、
死刑となります。けれど政権中枢に及んだ内通事件だっただけに、
公安当局はこの事実をひた隠し。昭和研究会の他のメンバーは
戦後を生きのびました。

葉
leaves

総力戦研究所

1940年(昭和15年)9月、第二次・近衛内閣で「総力戦研究所」という
機関が設立されました。三十代の軍人、官僚が集められ、
対米戦争をシミュレーションするよう求められました。

当時、きってのエリートたちは、それぞれ内閣総理大臣をはじめ
各大臣、企画院総裁、日銀総裁、朝鮮総督になり、机上演習を
繰り返しました。演習には当時の極秘データが使われます。

翌1941年(昭和16年)7月、結果が近衛首相らの前で発表。
対米戦争は緒戦は勝利するものの、兵站が続かないことにより、
その後、苦戦。最後は物量差によって敗戦すると予言。

この結果を聞いて、参加者はしばらく沈黙。当時、仏印侵攻が開始され、
対米戦争が不可避になり始めてました。と、その時、東條陸相が発言。

諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも
机上の演習でありまして、実際の戰争というものは、
諸君が考えているような物ではないのであります。

その後の対米戦争。その経緯は驚くほど、総力戦研究所の
予言どおりとなりました。当たらなかったのはハワイ奇襲と
原爆投下のみ。ソ連参戦すら当ててました。

当時、日銀から派遣され、机上演習で日銀総裁を務めた佐々木直
(ささき ただし)。彼は戦後、実際に日銀総裁に就任。
田中内閣の頃です。

佐々木を主人公として総力戦研究所を描き出した小説が
「昭和十六年・夏の敗戦」。猪瀬直樹(いのせ なおき)都知事が
若い頃に書いた小説です。

チューリップ
tulips

高橋是清

今、是清に注目が集まってます。その理由はなぜでしょうか?

安倍政権になって数カ月。金融緩和が奏功し、インフレ期待だけで、
円安・株高が出現。実体経済の具体的な指標も出てないのに、
円は100円を見るところまで下落。株も四割ほど上昇。
よほどの事件でも起こらない限り、この傾向は続くでしょう。

私も日経平均1万1000円のレベルを超えられるかどうかを
見てましたが、それをハッキリ超えた時点で、相場の底堅さを
確認した次第。昭和初期、蔵相を何度も務めた是清。

昭和二年の金融恐慌では大量のお札を刷って、信用不安を
食い止めました。昭和四年の昭和恐慌でも、金解禁をいち早く停止。
日本国債を日銀に引き受けさせるリフレ政策で、他の先進国に
先駆けて恐慌を脱出。FRB議長・バーナンキは、高橋財政を専門に
研究した経済学者。現在「無制限に緩和する」と豪語し、
アメリカの景気下支えに奮闘。

いざとなったら、ヘリコプターからお札をバラまいてもいい。

バーナンキはこう豪語するリフレ論者。是清から学んだリフレ手法を
確実に実行してます。現在、日本の論客でも是清を賞賛する人は多く、
当然、そういう人たちは現在進行中のアベノミクスも歓迎。

けれど高橋財政。今、振り返ってみて、ホンとに日本に幸福を
もたらしたでしょうか?

高橋財政で、確かに目の前の景気は良くなりました。
けれど国民の間には、こんな気持ちが。

お札はいくらでも刷れる。刷れば景気は良くなる。
じゃあ、もっともっと刷ろうじゃないか。

これが人工インフレの最も怖いところ。国民に
緩和への期待が常在し、歯止めが効かなくなること。

実は是清。この怖さを熟知してました。ですから、緩和効果が出る
やいなや、資金をすぐに市中から回収。通貨信認の下落を防ぎます。
けれど当時、予算のほしかった軍は「お札はいくらでも刷れる」と
見るや、さらなる金融緩和を強引に主張。そして是清は、
軍の主張に、今度は断固反対。

岡田啓介・内閣で軍の力がさらに強まりましたが、是清はただ一人、
軍事予算の拡大は認められないと主張。けれど二・二六事件で
是清は暗殺。反対者もいなくなり、日本はその後、
歯止めない緩和に突き進みました。

もし今、是清が生き返って、その後の歴史と現在の状況を
見れば、何と言うでしょう? それを考えることは、
今後の日本の行く末を考えることでしょう。

春門
spring gate

中央儲備銀行

戦争経済に対する姿勢は各国それぞれ異なります。歴史も政治体制も
違うからです。とはいえ、各国とも、戦争をするからには、
戦争経済に何らかの答えを用意しなければなりません。

昭和初期、日本は国際連盟・常任理事国だったとはいえ、貧しい島国
でした。昭和八年には、その国際連盟も脱退。

そんな日本が昭和十二年以来、広い中国大陸で百万人もの
軍隊を八年間、展開し続けたのですから、特別な金融システムが
あったに違いありません。

それが「中央儲備銀行」(ちゅうおう ちょび ぎんこう)。
略して「儲備銀」(ちょびぎん)帝国陸軍が
華中・華南で設立した傀儡銀行。

儲備銀と横浜正金銀行が「預け合い」という取引を行いました。
「預け合い」とは、銀行間で同額の資金を預け合うシステムです。
今で言う「通貨スワップ」の一種と考えればいいでしょう。

例えば「預け合い」が百億円なら、儲備銀から横浜正金へ儲備銀券が、
横浜正金から儲備銀へ日銀券が、それぞれ百億円ずつ動きます。
もちろん、これでは何も変わりません。

けれど帳簿上、横浜正金の口座には百億円分の儲備銀券が発生しました。
そして横浜正金はこれを引き出し、帝国陸軍に送金したのです。
このシステムの最大のポイントは、儲備銀は、自らの口座に
増え続ける横浜正金の日銀券を一切、引き出せないこと。

儲備銀の口座には横浜正金からの日銀券がドンドン膨れ上がりますが、
それは最初から引き出せない資金。日銀券を発行する必要もなく、
帳簿だけの現象。一方、横浜正金はいくらでも儲備銀券を手にできます。
そして獲得した儲備銀券を横浜正金は帝国陸軍に流し、
それが戦費として中国大陸で遣われました。

けれど「預け合い」なわけですから、いつかは銀行間で、資金を
戻し合わなくてはなりません。横浜正金が儲備銀券を使えば使うほど、
将来、返す時の資金も膨らみます。横浜正金の負債となるわけです。

帝国陸軍が儲備銀券で戦費を賄うにつれ、市中に出回る儲備銀券の
量が増え、価値が下落。当時、南京では日本の傀儡である汪兆銘が
支配してました。汪政権は帝国陸軍の意向を受け、米・小麦・石油など
生活必需品は儲備銀券でないと買えないように決めます。

けれど儲備銀券は所詮、裏付けのない通貨。価値はますます下落し、
最終的には二千八百億円もの戦費に使われ、紙くず同然に。三万倍の
ハイパー・インフレが中国大陸を襲います。通貨が価値を持たなくなり、
人々は勤労意欲を失い、道徳が乱れます。塗炭の苦しみが始まりました。

帝国陸軍は儲備銀だけでなく華北でも「中国連合・準備銀行」を設立して
朝鮮銀行との間に「預け合い」を行い、資金を調達。大東亜戦争・終結
までに帝国陸軍が「預け合い」によって作り出すした戦費は、分かってる
だけで七千五百億円を超えます。現在の価値では「京」単位になるでしょう。

この莫大な戦費があったからこそ、帝国陸軍は曲りなりにも戦争遂行できた
のです。しかもそれは中国人からの「収奪」以外の何物でもありません。
彼らが今もこのことを恨みに思ってるのもムリないことでしょう。

戦後、中国政府はこの負債を「賠償」ではなく、通常の「負債」として、
日本政府に要求することもできました。けれど昭和四十七年の日中国交・
正常化では、日本から何の資金も中国には行きませんでした。

儲備銀と「預け合い」を行った横浜正金は戦後、
東京銀行となり、現在は三菱UFJ銀行になってます。

空と道
sky and sea

昭和十二年度の国家予算

昭和十二年七月、盧溝橋事件(ろこうきょう じけん)によって
支那事変が勃発。日本はその後、泥沼の対米戦へ向かいます。

この昭和十二年の税収は13億円。これに対し一般会計・歳出は27億円。
一般会計・歳出での軍事費は12億円でした。事変勃発により、
20億円の臨時軍事費・特別会計が組まれました。国債発行。
これにより軍事費は12+20で32億円。

一般会計・歳出と特別会計を合わせれば47億円。
その47億円に占める軍事費32億円の割合は約70%。
国家予算の七割が軍事費に占められてました。

この後、大東亜戦争・終戦まで、およそ七割台の軍事費・支出が
続きます。昭和十九年には一般会計・歳出+特別会計は、
なんと860億円。軍事費はその86%の740億円。

ところが、この額ですら、広い中国大陸で百万人・規模で展開してた
帝国陸軍を養うには全く足りませんでした。では、その賄えない額を、
日本政府は当時、どうやって調達してたのでしょうか? 一体、
日本の戦争経済は、どのようなものだったのでしょうか?
この問題については、また次に考えてみましょう。

ひなぎく
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