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ゆめラジオ、四境戦争をアップ!

幕末、維新回天の引き金となった四境戦争。教科書では第二次・
長州征伐とも書かれてあります。どんな戦いだったでしょうか?
ぜひ、ご視聴ください。

四境戦争

ゆめラジオ、禁門の変をアップ!

幕末を揺るがした禁門の変。蛤御門の変とも。
どんな事件だったのでしょうか? ゆめラジオで
語りました。ぜひ、ご視聴ください。

禁門の変

ゆめラジオ、井伊直弼をアップ!

幕末、桜田門外の変で斃れた井伊直弼。その目は遠く未来を
見つめていました。愚かな尊王攘夷を廃し、開国を実行した直弼。
ゆめラジオで語りました。ぜひ、ご視聴ください。

井伊直弼

ゆめラジオ、本能寺の変をアップ!

光秀の真意はどこにあったのでしょうか? これまで小説、時代劇、
映画で何度も取り上げられたテーマ。ゆめラジオが迫りました。
ぜひ、ご視聴ください。

本能寺の変

ゆめラジオ、ジャーデン・マセソン商会をアップ!

幕末、大きな役割を果たしたジャーデン・マセソン商会。
イギリスの会社です。どんな役割を果たしたのでしょうか?
ぜひ、ご視聴ください。

幕末のジャーデン・マセソン商会

家康、生涯最大の危機

家康にとって生涯最大の危機は、本能寺の変の後、堺から本拠地・
三河へ帰還する伊賀越えだったと、よく言われます。
けれど、ホンとにそうでしょうか。

伊賀越えの間、光秀の追手が家康を探しにきた、という記述は、
歴史書にありません。家康が三河に戻った後、光秀を討とうと
挙兵準備を始めた、ということも聞きません。

というより、家康は本能寺の変で命拾いした、
というのが正解ではないでしょうか。

信長が天下布武を唱えた時、東には北条、上杉、武田といった
有力武将がゾロゾロ。信長にとって、バッファーとしての家康との
同盟は、どうしても必要。織田・徳川同盟あればこそ、信長は
幾度もの包囲網を蹴散らし、天下統一に王手をかけることが
できました。

ところが天正三年、長篠の戦いで武田軍を破り、天正六年、
上杉謙信が死去するにつれ、信長にとって、家康は
しだいに不必要、いや目障りになってきました。

この頃になると、家康は武将としての個性を発揮し始めてました。
家康は織田・家臣ではありませんから、独自の動きをします。
信長にとって、そのような者は、いつ自分の敵になるか、
分かったものではありません。

信長にとって、勝家、秀吉、光秀といった、命令を忠実に実行する
家来こそ、必要。個性ある武将など、ジャマなだけ。

天正七年、信長は家康に、正室と長男が武田に通じた、と
言いがかりをつけ、切腹を命じました。家康はなんと、
この命令を受け入れ、実行。武将として、なんたる屈辱。
しかし、信長に逆らう力など、ありません。

信長は、家康が命令拒否すれば、叩き潰すつもりだったでしょう。
けれど、あてが外れてしまいました。織田・徳川同盟は、
異常な緊張感の中、さらに続きます。

そして天正十年、武田の滅亡。多くの有能な武田家臣が、この時、
路頭に迷いました。家康は、そんな武田家臣の多くを召し抱えました。
武田家臣など、皆殺しにしてしまえ、と言ってた信長には、
こんな行動の一つ一つが、癇に触ります。

そして五月、信長は、家康を安土城に招待。一説では、
家康の膳に毒を盛って、殺そうとしてた、とも。

もちろん、そのへんの事情は、家康も承知。戦国期、他武将の城に
入ることは、殺されても文句なし、ということ。そして、この時、
やはり家康には、信長に逆らう力など、ありません。

結局、安土城・接待は、信長が光秀に料理の難癖をつけ、
叱責する形で終わり、家康は三河に戻ります。

そして六月二日・未明に発生した本能寺の変。
信長の野望は、光秀によって、断たれました。

光秀が立った真意は、分かりません。けれど、本能寺に向かった
光秀軍の多くは「敵は三河殿」と考えてた、と歴史書にあります。
それほど、家康は信長に目をつけられ、そのことは、
末端兵士まで伝わってたわけです。

家康、生涯最大の危機。それは本能寺の変の後でなく、
本能寺の変の前。光秀が変を起こしてくれたおかげで、
家康は九死に一生を得ました。変なくば、家康は遅かれ、
早かれ、信長によって滅ぼされてたでしょう。

透明
transparency

光秀の家康・接待

本能寺の変は天正十年・六月に起こりました。前月の五月、
明智光秀は、徳川家康の接待役を命じられました。安土城です。

この接待の時、信長が光秀に「汁が薄い」「魚が腐っている」と非難。
光秀を罵倒、魚を安土城の堀に捨てさせた、と記録に残ってます。

とはいえ、よく考えれば、奇妙な話。光秀は京の事情に通じ、
家康を接待するにあたり、味を京風にしたことは、すぐに分かるはず。
ましてや、当時のピリピリした織田・家中の雰囲気を考えれば、
魚が腐るという不注意は、ありえません。

実は、信長の非難には「どうして、この機会に、家康の膳に毒を
盛らなかったんだ」という意味が込められてた、とよく言われます。

信長は既に、家康に正室、長男を殺させてました。織田・徳川の
同盟といいながら、当時、信長・家康の関係は緊張ピーク。
本能寺の変すら、光秀の兵士の多くは「敵は三河殿(家康)」
と思ってたほど。

本能寺の変なくば、果たして家康は家康たりえたか、
これは、考えてみるに値するでしょう。

花火
summer night

尼子・新宮党

山陰の覇者、尼子氏(あまご し)。最初は出雲一国を治める
豪族でしたが、子経久(あまご つねひさ)の時、対外進出を始めます。

当時、西国は山口の大内氏が権勢を誇ってましから、
尼子の対外進出は当然、大内との戦いを意味しました。

大内との戦いで、功を挙げたのが、尼子の新宮党(しんぐう とう)。
優れた武士団で、尼子の対外進出を助けます。新宮党の働きもあり、
経久が始めた対外進出は、息子・晴久の時、大きな実りをもたらします。

晴久の時代、尼子は出雲だけでなく、伯耆、美作など八カ国を治める
大大名に成長。この頃、毛利氏も力をつけてましたから、中国地方は、
西から大内、真ん中に毛利、東に尼子、という三大勢力。

とはいえ、毛利はもともと大内の家来筋。なにかと理由をつけて、
大内の戦いに駆り出されてました。そこで毛利の独立戦争ともいうべき
「厳島(いつくしま)の戦い」が、天文二十四年(1555年)に始まります。

この戦いでは、毛利が圧倒的に不利。しかも、背後を尼子に突かれれば、
万事休す。毛利の負けは決まります。そこで毛利元就(もうり もとなり)。
得意の調略で尼子を翻弄。新宮党の長だった尼子国久(あまご くにひさ)の
謀反の手紙をデッチ上げ、それを当主・晴久に、届かせる作戦。

晴久は、この手に引っかかり、国久はじめ、新宮党を一挙粛清。
国久は晴久の義父でしたが、戦国期、そんなことは関係ありませんでした。

尼子・新宮党は滅亡。尼子は重要な武士団を失い、以降、厳島の戦いを
制した毛利に押され、急速に衰えていきます。元就は身内には結束を
要求しながら、敵には分断をもたらす方法で、のし上がりました。

白
white

秀吉の朝鮮出兵

一体、晩年の秀吉は耄碌(もうろく)した故に、明・征服という、
トンデモナイ暴挙を着想したのでしょうか? そして、部下の反対にも
かかわらず押し切り、コテンパンにやられ、スゴスゴ手を引いたのでしょうか?

ほとんど知られてないことですが、当時、日本と明の人口を比較すれば、
僅かですが、日本の方が多い状況。国力では明に負けてませんでした。

加えて、日本では戦国期、戦争技術が発達。科学技術の点でも、
ひけを取りません。国力、技術力で、十分に勝算があったわけです。

「朝鮮出兵」と言いますが、朝鮮はただの通り道。李氏朝鮮の軍隊など、
日本の歴戦の武将に敵ではなく、初戦の連勝も当たり前。
明に攻め込み、本格的に戦っても、互角だったでしょう。

ではなぜ、朝鮮出兵は失敗したのでしょうか?

鎌倉期・以降、日本の武将が戦場で戦う理由は、ただ一つ。
土地の恩賞です。それあればこそ、武将は命を賭けて、
主君に忠義を尽くしました。

ところが当時の武将、明や朝鮮に百万石の土地を与えると言われても、
ピンとこないし、欲しいとも思いませんでした。彼らが戦場で、
本気になれなかった最大の理由は、ここにあります。

日本の武将が本気を出してれば、明とも互角。
けれど恩賞に魅力なく、気合いが入りません。

しかも朝鮮半島を深入するにつれ、故郷・日本から離れ、
郷愁の念ばかり。結局、朝鮮出兵は失敗に終わりました。

失敗とはいえ、二度の朝鮮出兵は明を疲弊させ、
ほどなくして、明はヌルハチに倒され、滅亡。清が後継。
秀吉の勝算は間違ってませんでした。

信長の頃から、日本に本格的に入った南蛮人。秀吉は、
彼らから世界の趨勢を聞き、植民地獲得がトレンドだと知りました。

先見の明ある秀吉が、このトレンドに乗らないはずありません。
秀吉は天正十八年に小田原を攻め、日本統一した後、すぐさま
朝鮮出兵の構想に着手。決して思いつきではありません。

ただ、その理念を、他の武将と共有せず、秀吉が説明に時間を
割かなかったことが失敗につながりました。現代でも、どんなに上司の
アイデアが素晴らしくても、理念を部下にキチンと伝達しない場合、
プロジェクトが破綻する場合と、同じ。

秀吉の先見の明は、国内で存分に発揮されましたが、海外では、
全く歯が立ちません。しかも江戸期、鎖国政策が取られ、異国と
交流しない方がいい、という考えが主流になるにつれ、いつしか
秀吉の朝鮮出兵は「失敗」の一言で片づけられてしまいました。

庭
Japanese garden

逃げの小五郎

幕末の京都・三条河原の橋の下。ここに、ある乞食がいました。当時、
この場所の乞食は珍しくありませんでしたが、この乞食にはなぜか、
美しい芸妓が毎夜、握り飯を密かに運んでました。

この乞食こそ、誰あろう、長州藩・要職にあった桂小五郎(かつら こごろう)。
文久四年のことです。前年、長州藩は馬関(ばかん:現・下関)から異国船に
砲撃を加え、攘夷を実行。開国を唱える幕府と、真っ向から対立。

長州藩士は京都で新撰組から狙われる存在に。桂が乞食だったのも、
その探索を逃れるため。やがて桂は、居所を新撰組に知られ、近藤勇から
同行を求められました。この時、とっさに「厠(かわや)に行きたい」と
言い出し、近藤たちが対策を思案してるうちに逃走。難を逃れました。

五月、池田屋に新撰組が踏み込んだ時も、桂は不在。
彼がいるべきはずの会議でしたが、新撰組が池田屋を囲んだ時、
そこに桂の姿はありませんでした。いつしか桂は「逃げの小五郎」という
不名誉なあだ名で呼ばれるようになりました。

七月、禁門の変。長州藩士は薩摩、会津にコテンパンにやられました。
京都にいられないと判断した桂。変名を使って、但馬・出石(いずし)に
逃走し、潜伏。「逃げの小五郎」真骨頂です。

この時、桂が京都にとどまってれば、いつか新撰組に捕縛されたでしょう。
長州に帰ったとしても、正義派・家老の一人として、第一次・長州征伐の
責任を取らされたはず。いずれにせよ、死は免れません。

常に身を隠す卑怯者のようでいて、桂は、
無駄に命を使ってはならないと自戒してました。

命には、かけ時がある。

十二月、高杉晋作が功山寺で決起。幕府に反旗を翻しました。
この時、それまで全く行方が分からなかった桂は、何気ない
顔をして突然、長州に現れ、高杉と行動を共にします。

慶応元年、桂は坂本龍馬の仲介で、犬猿の仲だった
薩摩藩と同盟を画策。新式銃・輸入契約を結びます。

慶応二年・八月、第二次・長州征伐。長州藩はイギリスから輸入した
銃を駆使し、幕府軍を圧倒。大村益次郎の用兵が勝利をもたらしました。
この大村を抜擢したのも、桂です。

慶応元年から一年半で、桂と高杉は、まず長州藩・俗論派を駆逐。
同時に、一万丁の銃を購入するとすぐ、大村を使って奇兵隊に軍事訓練を
施し、幕府軍の襲来に間に合わせました。まさに奇跡的と言うべき速さ。

慶応三年、形勢は完全に逆転し、薩長が幕府を睥睨。
この年の終わり、大政が奉還されます。

あたら命を散らすことなく、不利な時には、体裁を構わず逃走し、
けれど、いざという時サッと現れ、必要な施策を次々と実行。
桂が「維新三傑」に数えられるのは、当然です。

川辺
early summer

元文金銀

「げんぶん きんぎん」と読みます。「江戸期のアベノミクス」とでも
呼べそうな政策。徳川吉宗の治世、その後期に鋳造された貨幣。
「元文丁銀」とも呼ばれます。

吉宗といえば、将軍在職中、米価安定のために奔走したリーダー。
米価安定といっても、たいていは豊作による米価下落で、
武士の生活が困窮することが原因でした。

米が豊作になれば、社会の富が増す、と考えがちですが、貨幣経済が
発達し、米が市場で取引されるようになれば、話は別。希少性が
薄れれば、当然、米価も下落します。当時の武士は俸禄を米で
受け取ってましたから、米価下落は、そのまま生活困窮に
つながりました。

米価に翻弄される吉宗を、見るに見かね、南町奉行・大岡忠相
(おおおか ただすけ)が献策。それが、貨幣流通量を増やし、
人工インフレを起こして米価下落を止める政策。

この時、鋳造された貨幣が「元文金銀」。吉宗は当初、貨幣流通量を増やせば、
物価高騰を招く、と危惧。しかし実行してみれば、米価下落は止まり、
混乱も生じませんでした。

思えば、享保時代。元禄バブルの後始末で、倹約が普及。その倹約を
率先したのが将軍・吉宗。けれど緊縮政策は物価下落を招き、
それまで、ついぞ起きなかった一揆も、多発するようになりました。

やむにやまれぬ状況で、それまでの倹約令と真逆のインフレ政策。
吉宗の心中も、穏やかではなかったでしょう。けれど、貨幣流通量が増え、
物価が下がらない、という信念が広がるにつれ、経済活動が再び活発に。
江戸は活気を取り戻しました。

春
April

明智と徳川

光秀の軍が本能寺を取り囲んだ時、表門は開いたまま。静まり返った寺。
信長は光秀を全く警戒してませんでした。この時、光秀の軍に
編入されてた兵たち。行き先を知らないまま。それどころか、
「敵は三河殿」と思ってた者が少なからず。

本能寺の変は一種のクーデタ。秘密に事を運ばなくてはなりません。
時代劇に出てくるように、光秀が「敵は本能寺にあり」などと、
兵の前で叫んだはずありません。

「三河殿」とは家康のこと。兵の間にすら、信長が次に討伐するのは
家康だろう、という話が広まってました。時は天正十年(1582年)六月。

この年の四月、信長は六万の兵を率いて、武田氏を討伐。
武田勝頼は天目山で、一族、従者もろとも自死。鉄の団結を
誇った武田氏は、ここに滅亡。

東の憂いがなくなった時、それまで機能してた織田・徳川の同盟も、
無意味に。それどころか、信長にとって、家康は急に、天下取りを
脅かすかもしれないライバルとして浮上。信長は光秀より家康を警戒。

この三年前、信長は家康に言いがかりをつけ、家康の妻・築山殿、
長子・信康を自死に追いこんでます。家康はこれを「恥の極み」と
書き残しました。とはいえ、信長に対して、なす術ありません。
当時の家康は、信長に睨まれれば一ひねり。

そんな中、起きた本能寺の変。光秀は無防備の信長を攻撃。
天下を取りました。光秀の心には、家康は同心してくれるだろう、
という読みがあったはず。家康はいつ信長に攻めこまれても、
おかしくない状況。自分の決起に家康が与力すると、
光秀が考えたとしても、フシギではありません。

家康は本能寺の変を堺で聞き、命からがら、伊賀越えで三河に
戻った、ことになってます。けれどこの時、光秀の軍が家康を
討伐しにきた、という史料もありません。それもそのはず。
光秀はこの時、むしろ家康をあてにしてたわけですから。

本能寺の変をなしとげた後、光秀にとって、いつか秀吉が中国から
戻ってくることは、明らかでした。けれど、その前に明智・徳川の同盟を
結んでおけば、十分に拮抗可能。実際、この読みは妥当なものでした。
秀吉の「中国大返し」があれほど素早かったことを除けば。

秀吉は備中・高松城を水攻めしてる最中。本能寺の変を聞き、秀吉は
城主・清水宗治の切腹だけ、という破格条件で毛利氏と和睦。そのまま
兵を返し、姫路を起点に怒涛の勢いで大坂を目指します。この時、
軍師・黒田官兵衛の策により、毛利氏から軍旗を、もらいうけ、
自軍の後衛に掲揚。

誰が見ても、毛利氏が秀吉の味方になった風景。秀吉の軍は、
大坂に近づくにつれ、ドンドン膨れ上がりました。この時、秀吉、
四十六才。馬上で完全に未来が見えてたでしょう。

あまりに早い秀吉の帰還に、光秀は狼狽。数カ月かかる、
と思ってた敵が、目前に出現。しかも自軍の二倍。
光秀の天下は終わりました。

その後、秀吉と対抗し得たのは家康のみ。二年後の小牧・長久手の
戦いでは、互角の勝負で引き分けに。家康はその後、秀吉の軍門に
下りますが、関ヶ原の戦いで、西軍に勝利。
ついに天下を手中にします。

一生かけて勝ち取った覇権。それを手にした時、家康の心に
浮かんだのは、なんとなく不幸だった光秀の姿だったでしょう。

明智殿があの時、変を起こさずば、遅かれ、早かれ、
それがしは織田殿に滅ぼされしこと、必定。

光秀も家康も沈思黙考・武将。出会う機会こそ、少なかったものの、
お互い、シンパシーを感じてました。まして、今や天下人となった家康。
光秀への恩義は敬慕に変わったはず。

家康は光秀・係累の女性、おふく(春日局)を孫・竹千代の養母に
登用。竹千代が元服した時、彼に「家光」という名を与えました。
「光」の字がどこから来たか、もう明らかでしょう。

時代劇でほとんど触れられない、明智と徳川の秘めた関係。
新しい史料で、今、ようやく明らかになりつつあります。

さくらんぼ
cherries

徳川吉宗と重農主義

社会が貧しい段階では、食料増産は、そのまま富の増大を意味します。
餓死してた人が生き残れるようになり、人口も増加。農業を重視して
国力を上げることを「重農主義」または「農本主義」と呼びます。

けれど社会が徐々に成熟し、食料が商品として流通する社会では、
どうでしょうか? 食料増産は食料価格を下落させ、農家は疲弊。

ましてやその食料が通貨の役割を果たしてるなら、食料価格の下落と
通貨価値の下落というダブル・パンチ。豊作によって
社会が困窮するという矛盾が発生。

江戸期、この矛盾に直面したのが八代将軍・徳川吉宗。日本は当時、
商品流通が発達した近代社会へと変貌しつつありました。

ところが、昔ながらの重農主義。新田開発、品種改良に励み、
米増産に邁進。けれどその努力を続けた結果、米価は下落し続け、
幕府財政が行き詰まります。これに倹約令が加わり、
日本経済は完全にデフレ状態に。

重農主義の行き詰まりを打破するためには、貿易で利益を上げる
「重商主義」しかありません。増産した生産物を貿易し、他地域から
利益を得てはじめて、社会を富ませることができます。

貿易相手がいる限り、生産物の増産は富の増大につながります。
江戸期、上杉鷹山(うえすぎ ようざん)が漆などの商品作物・増産で
藩財政を立て直せたのも、それを買ってくれる他藩がいたからです。

ところが吉宗の時代、日本は鎖国政策を実施。重商主義を実行する
ためには、鎖国政策を捨てねばなりません。さすがの吉宗にも、
これは、できない相談。結果、吉宗は生涯、米価に悩まされ続け、
「米将軍」というあだ名までつけられるほど。

吉宗の後、老中職についた田沼意次。彼が在職中、貿易を増大させ、
開国を画策したのも、重商主義しか道はないことを、ハッキリ悟ったからです。

ところが田沼の開明的な政策が、朱子学でこりかたまった他の幕閣に
理解されるはずもありません。松平定信たちの陰謀により、田沼は失脚。
日本が真に重商主義を歩き始めるのは、明治期になってからです。

無題
Yoshimune

高野長英

私が心密かに「語学の師」と仰ぐのが高野長英(たかの ちょうえい)。
日本史では「蛮社の獄」(ばんしゃの ごく:1839年)で登場。

長英は1804年(文化元年)東北・水沢に生まれました。幼い頃より
頭脳明晰。一度聞いたことは、決して忘れない記憶力の持ち主。
その秀才ぶりは周囲の注目を集めます。

当時、西洋から輸入された蘭学が注目されてました。
道徳ばかりで役に立たない朱子学より、現実世界をキチンと
説明できる蘭学の方が遥かに魅力的に見えたわけです。

蘭学では機械を発明したり、病気を治したりできる。

若き長英が自分の進む道を蘭学と定めたのも、当然でした。
折しも長崎にシーボルトが来日。鳴滝塾を開いて、最新の
オランダ学を教授。その噂を聞いて、長英はいても立っても
いられません。周囲の反対を押し切って遊学を決意。
鳴滝塾の扉を叩きます。

鳴滝塾でも長英の優秀さは群を抜き、宇和島・出身の二宮敬作
(にのみや けいさく)とトップを争うほど。今も鳴滝塾に行けば、
長英がシーボルトに提出したオランダ語レポートが残ってます。

几帳面な文字で書かれたレポート。真摯な学問姿勢が窺えます。
とはいえシーボルト。「学問」と称してさまざまな情報収集。
弟子の長英から見ても、その行動は「学問」の域を超え
「国禁」に触れる恐れが明白でした。

二宮敬作と、その不安を語り合った長英。結局、鳴滝塾を
離れることを決意。数年後に「シーボルト事件」が発生し、
関係者が連座されるわけですから、この時の長英の判断は
正しかったことになります。

長英は江戸に出て町医者・蘭学者として自立。最新の学問を
修めた長英には弟子が集まります。弟子への教授を通して、
長英の語学力には、ますます磨きがかかりました。

教授だけではありません。蘭学を通して広く世界に目を向けた長英。
日本の海に列強の船が遊弋(ゆうよく)する状況に危機感を募らせます。
長英だけでなく当時、目が見えた蘭学者には、共通して
国防意識が芽生えてました。

彼らは結束して国防充実を訴える著作を発表。長英も「戊戌夢物語」
(ぼじゅつ ゆめものがたり)を著して海岸線防衛を説きました。
ところがこの動きが、南町奉行・鳥井耀蔵(とりい ようぞう)の
逆鱗に触れ、蘭学者たちが次々に逮捕。1839年(天保10年)。
世に言う「蛮社の獄」。

長英も小伝馬町の牢に閉じ込められました。同じ蘭学者の渡辺崋山
(わたなべ かざん)は自死。孤独な長英の前には
乱雑と異臭の牢風景が広がります。

こんな所で時間をムダにするわけにはいかない。

長英は脱獄を決意。牢屋番の少年に命じて火事を起こさせ、
その隙に逃亡。ここから長英の逃亡生活が始まります。
まず故郷の水沢に帰って母親に面会。事件のことも、
脱獄のことも言わずに水沢を後にします。

その後、幕府の追手を一瞬の差でかわしながら、四国・宇和島に到達。
そこには鳴滝塾の同門・二宮敬作が待ってました。

開明的な藩主・伊達宗城(だて むねなり)が治めてた宇和島。
その庇護のもと、長英はつかの間、安らぎを得ます。実は長英。
逃亡中も寸暇を惜しんで海岸線防衛に関するオランダ書を翻訳。
伊達宗城が長英をかくまったのも、その業績が耳に入ってたからでした。

ところが宇和島にも幕府の追手が迫ってきます。長英は敵中に
飛び込むつもりで江戸に帰還。沢三伯(さわ さんぱく)と変名。
町医者を始めます。とはいえ1850年(嘉永3年)幕府に見つかり、
その場で撲殺。逃亡生活は六年間に及びました。

JR宇和島駅から歩いて行ける川のほとりに、長英潜伏を表す碑が
立ってます。今では足を止める宇和島市民もいません。けれど、
ここで長英。海の向こうに思いを馳せながら翻訳に没頭。

一方、長英を撲殺した江戸幕府。三年後にペリーが現れ、驚愕。
急いでお台場を作り、海岸線防衛に着手。幕閣たちは慌てて、
禁書にしてた長英の翻訳をめくり始めます。

長英がもう二十年、遅く生まれてたら、新生・日本を背負う秀才として、
大きく羽ばたいたことでしょう。まさに運命と言わざるを得ません。
長英の切歯扼腕(せっしやくわん)が見えるようです。

語学から得た広い知識と視野。それを世間に役立てんと行動。
身の危険も顧みなかった長英。逃亡中すら、自ら課した翻訳を
次々に完成させ、伊達宗城や島津斉彬に届けた使命感。

これほどの手本を見せてくれた語学者は日本史上、
他にいません。まさに語学の傑物です。

高野長英
translater

大塩平八郎

大坂・奉行所の与力、大塩平八郎(おおしお へいはちろう)。
奉行所の腐敗を目にして義憤に駆られて決起した、
そう歴史書には書かれてます。

しかし平八郎が経済通だったことを知る人は少ないでしょう。
というより、平八郎が奉行所や幕府へ不信を募らせていくのは、
経済問題からでした。

当時「無尽講」(ぶじん こう)という投資組合がありました。
無尽講の会員となり、掛金を払えば、配当を受け取れる仕組み。
これだけなら「頼母子講」(たのもし こう)などと同じで
特別、問題にはなりません。

けれど掛金・二千四百三十両に対し、配当千七百十三両。
七百十七両もの差額が無尽講・主催者に転がり込んでたことを、
平八郎は見抜きます。複雑な帳簿不正を見抜く経済リテラシーが、
平八郎にはありました。

この不正には大坂城代や京都所司代も関わっていて、
大規模な汚職事件に発展しかねない勢い。

ところがこの不正。幕府によってもみ消されます。何名かが罪を
かぶっただけ。その処分は、平八郎に「とかげのしっぽ切り」だと
見えたことでしょう。

平八郎は奉行所を退職して隠居の身に。私塾を開き、陽明学を教えました。
「知行合一」(ちぎょう ごういつ)を説く陽明学。弟子たちを前に、
平八郎の声にも力が入ったことでしょう。

1833年(天保4年)から三年続いた凶作。大坂の民は飢えに苦しみます。
けれど大坂・奉行所。大坂に入るはずの米を、なんと江戸に回し、
幕府に取り入る姿勢。民の困窮は無視されました。
平八郎は奉行所の姿勢に絶望。決起を決意します。

奉行所時代のつてで武器を購入。高槻藩から大砲。堺から鉄砲。
自らの蔵書・千二百四十一冊を売り払った代金・六百六十八両。
それを民に惜しみなく分配。賛同者を募ります。

1837年(天保8年)2月19日、弟子たちと共に立ち上がりました。
早朝からの決起。「救民」の幟(のぼり)を立て、大坂・奉行所へ。
命を捨てた行動。そばには長男・格之助がいました。

けれど決起情報をあらかじめ掴んでた奉行所。
決起軍をたやすく蹴散らします。決起は半日で終息。

平八郎は3月27日、潜んでた家屋を幕府に取り囲まれ、
長子・格之助と共に自ら家に火を放ちました。
平八郎の代表書「洗心洞察記」から。

正義と私利 誠と嘘偽り その境目をごまかして 過ごしてはならない
口先だけで 善を説くことなく 善を実践しなければならない

白
white

村田清風

幕末、長州藩の財政を立て直した政治家・村田清風(むらた せいふう)。
藩校・明倫館で学んだ時から頭角を現し、その後、藩主の小姓に
取り立てられました。江戸留学を経て、藩政の実権を握ります。

時の藩主は毛利敬親(もうり たかちか)。敬親は政治には無頓着で、
全て部下に丸投げ。結果、清風は思い切り手腕をふるうことができました。

当時、長州藩には莫大な借金があり、利払いだけでも四苦八苦。
清風は1843年(天保14年)この借金を無利子・長期契約にし、
事実上の棒引きに成功。しかし商人は、たまったものではありません。

そこで清風。長州藩の特産物・蝋(ろう)の専売制を廃止。
商人に自由な取引を許可。これで利益を確保させます。
しかも運上銀(うんじょう ぎん)が藩収入に。
今で言う「ウィン・ウィン」の関係。

さらに豪商・白石正一郎(しらいし しょういちろう)を登用。
下関に「越荷方」(こしにかた)を設置します。

下関には全国から多くの「越荷」が集まります。
この越荷を担保に貸し付けを行い、金利を稼ぎます。
一種の金融業で、一昔前の武士なら考えられない手法。

倉庫業も始めました。下関に蓄積されてた商品販売ノウハウを活用。
越荷の委託販売を引き受けます。商品の持ち主に代わり、
長州藩が売り捌くことで、確実・安全に商品販売が
できたわけです。ここでも莫大な利益が。

清風の財政改革により、長州藩の財政はみごと再建。
清風のもとには周布政之助(すふ まさのすけ)や
吉田松陰が度々、来訪。教えを受けました。

周布や松陰がその後、明治の元勲に与えた影響を考えれば、
幕末、長州藩の活躍は元をただせば、清風にあったと言えそうです。

第二次・長州征伐、戊辰戦争で長州藩が多くの武器を
揃えることができたのも、やはり清風による財政改革の賜物。
資金を持つ者は強いのです。いつの時代でもあてはまりますね。

清風の名は現在、大阪にある清風学園に受け継がれてます。

公園
park

田沼意次

十八世紀・後半、八代将軍・徳川吉宗の治世により、幕府財政は破綻状態から
持ち直しました。とはいえ享保の改革。その倹約令は人々を萎縮させ、
文化も停滞。そんな時期、幕政に登場したのが、田沼意次(たぬま おきつぐ)。
日本に資本主義の原型を築いたのは意次です。

意次は紀州藩・足軽の家に生まれました。父親が江戸に出仕することになり、
それに同行。その利発さは周囲の注目を集めます。

意次はやがて吉宗の長男・徳川家重(とくがわ いえしげ)の小姓となり、
身の回りの世話をすることになりました。同世代だった二人は、まさに意気投合。
将軍職を後継する立場にあった家重にとって、意次の存在は頼もしい限り。

やがて家重の治世となり、意次は側用人として幕政の実権を握ります。
老中・意次は既に五万石・大名。意次は享保の改革で行われた新田開発を
進めました。けれど開発できる土地には限界があります。

しかもこの時代、米がマーケットに組み込まれたことから、米価が大きく変動。
政策担当者は一様に、その変動に悩まされ続けます。
そこには確実に「資本主義の芽生え」がありました。

そこで意次。「重農主義」から「重商主義」へと舵を切ります。「株仲間」を
大々的に奨励し、彼らに独占権を与えることによって、商品流通を拡大。
流通する商品に「冥加金」(みょうが きん)「運上金」(うんじょう きん)と
呼ばれる税を課し、幕府財政を潤します。

独占的商売で利益を得てた商人にとっても、この課税は納得できるもの。
世の中も幕府も、豊かになっていきました。やがて世の中が豊かに
なるにつれ、学問、芸術が花開きます。

俳諧を芸術に高めた与謝蕪村。
近代物理学の草分けとなった平賀源内。
錦絵を流行させた喜多川歌麿。
「解体新書」を著した杉田玄白・・・

とはいえ意次の重商主義には、別の場所から敵が現れました。
利益追求を罪悪視する朱子学です。朱子学者から見れば、意次の治世は
トンデモナイ利権政治。意次の出自がそれほど高くなかったことも、
彼への嫉妬を助長。

意次は後継者と見込んでいた長男を殿中で刺殺され、失脚。
失意のうちに亡くなります。黒幕は松平定信と言われてますが、
ハッキリした証拠があるわけではありません。

賄賂(わいろ)で私腹を肥やす悪徳政治家。
歴史書では、そんなふうに描写される意次。

しかし曇りない目で見れば、田沼時代、世の中は豊かになり、
華やかになりました。マーケットと文化の両方の意味をシッカリ
理解してた、近代的な政策担当者だったと言っていいでしょう。

それまでドンブリ勘定だった幕政に「予算」という概念を導入したのも意次。
悪役イメージも、浅間山・噴火という、意次とは直接関係ない出来事によって、
恣意的に貼られたレッテル。今、江戸研究が進むにつれて、
意次を再評価する機運が高まってます。

道
future

徳川宗春

尾張藩・七代藩主・徳川宗春(とくがわ むねはる)。
今、彼について、どれだけ知られてるでしょうか?

時の八代将軍・吉宗に逆らった反逆者?
二十五年間の蟄居を命じられた不遇な政治家?

けれど今、名古屋に住んでる人なら理屈抜きに知ってるはず。
トヨタに代表される「ものづくり」の原点が宗春にあったことを。

藩主の二十男に生まれ、政治の表舞台に立つことなど、
全く叶わないはずの宗春。兄の急逝で藩主の座が巡ってきました。

折しも十八世紀・前半。華やかだった元禄時代が終わり、不景気な享保時代。
思いもかけず藩主の座に座った宗春。「温知政要」(おんち せいよう)を著し、
政治の要諦を説きます。

行きすぎた倹約は過酷な政治となり、民を苦しめる。
品々に規制をかけると粗悪となり、かえって出費がかさむ。

宗春は江戸に一カ所しかなかった遊郭を、尾張には三カ所作らせ、
年一度だった芝居も百回以上、開催させました。

特に力を入れたのは「祭」。山車(だし)を充実させ、
いつしか尾張の山車には「からくり人形」が登場。

この「からくり人形」。現代の目で見ても、卓越した技術が使われ、
「ものづくり」で知られる名古屋の基礎を作りました。世界で名を知られる
トヨタも、宗春にその精神を負ってます。

宗春の積極政策により、全国から芸人、職人がその技を磨かんと
尾張に集まり、自らの業を披露。宗春自身は紅色の羽織を来て、
紅色の帽子。3mもの長いキセル。藩主自ら耳目を引く服装。
尾張の活況は当然の結果でした。

とはいえ時の将軍・徳川吉宗。全国に「倹約令」を布告し、質素を徹底。
一方、尾張藩の宗春は「質素」とはまるで無縁。彼の治世は、吉宗に
認められるものではありません。尾張では毎日のように、
花火が打ち上げられてました。

結局、家の取り潰しを恐れた家臣によって「お家騒動」が発生。
これを咎められた宗春は「蟄居」を命じられます。そして宗春は。

謹んで、お受けいたす。

「温知政要」で幕府政策を痛烈に批判した宗春。

幕府の金庫に、金がいくら蓄えられても、民が苦しんでは、
真の倹約にあらず。

幕府の詮議に対しても。

自分は民と共に世を楽しんでいるが、それで問題は起きておらぬ。

みんながサビしく貧乏になってくデフレの享保時代。そこにパッと花を
咲かせようとした徳川宗春。今、名古屋市民が彼をしのび、
その業績を称(たた)えてるのも、当然のことでしょう。

自然
nature

井伊直弼

幕末、浦賀に四隻の黒船が突然やって来て、どうしていいか誰にも分からず、
時間だけが過ぎ、大国アメリカとの間にイヤイヤ不平等条約を結んだ・・・

今ではこんな歴史描写が全く嘘っぱちだと分かりますね。江戸幕府は当時、
長崎から入ってくる情報から世界情勢を掴んでました。ペリー来航についても、
日付、時間帯まで把握。

幕府の分析では、当時、日本にとっての最大脅威はイギリスかロシア。
清もインドもオスマン・トルコも、この両国によってむしり取られました。

一方、アメリカは五大国にも入らない新興国。大老の地位にあった
井伊直弼(いい なおすけ)が開国に向けてアメリカとの交渉を進めたことは
合理的な判断でした。アメリカとの交渉を決裂させてたら、イギリスか
ロシアとの間で、もっと過酷な条約を結ばされてたでしょう。

1858年(安政5年)に調印された日米修好通商条約。しばらくして
始まった安政の大獄。井伊は「強圧的な独裁者」というイメージを
植えつけられました。一方、井伊によって処断された志士たちは英雄に。

しかし、当時、志士たちが叫んでた「攘夷」など、全く実行不可能。
無責任な浪士ならともかく、政策責任者として井伊が開国を決断し、
時間を稼ぐ形で不平等条約の改正、国力の充実を図ろうとしたことは、
実に先見的な態度でした。

これこそ、まさに明治・新政府が「富国強兵」というスローガンで
達成しようとしたこと。反動政治家のように言われながら、
井伊は五十年先をシッカリ見つめてました。

明治になってからアメリカは日本にとって最大の友好国に。岩倉使節団の
最初の訪問地はアメリカ。行く先々で大歓迎。使節団の目的の一つ
だった不平等条約の改正にも、アメリカは最初に応じてくれました。

日露戦争ではセオドア・ルーズベルト大統領が仲介役を買ってでます。
余力のなかった日本にとって、その仲介は何よりありがたい援助。

明治初めから1921年(大正10年)のワシントン条約まで、五十年間、
日米関係は蜜月状態。広い太平洋を挟んだ両国は、基本的に戦う
理由のない相手。ところが、昭和になり、軍人の傲慢と外交官の無能、
そして政治家のトンデモナイ誤算によって対米戦争が始まりました。

それも失敗に次ぐ失敗でそうなったもの。日米関係の悪化は、
普通にやってれば起き得ないものでした。

直弼は彦根藩・藩主の十四男として生まれます。兄が多く、藩主になる見こみは
ありません。自らの屋敷を「埋木舎」(うもれぎのや)と名づけ、茶道、芸術の
世界に閉じこもりました。

この閉ざされた空間が直弼の心を磨きます。兄たちが次々に急逝し、
藩主の座が回ってきた時、直弼は冷徹な視線と不動の心を備えた
指導者に成長してました。若い頃に芸術で心を磨くことが、
いかに大切かの好例でもあります。

誰に理解されなくてもいいから、国のためになることをする。

大老になり、国家の運営を任されてからも直弼の信条は変わりません。
安政の大獄では、むしろ反動的だった志士たちを断固処罰。
「行きすぎ」との声にも耳を貸しません。

世界情勢を読めない尊王攘夷派にとって、直弼はいつしか不倶戴天
(ふぐ たいてん)の敵に。けれど直弼。暗殺の危機が迫っても、
泰然自若(たいぜん じじゃく)。いつでも死ぬ覚悟はできてました。

1860年(安政7年)3月3日、彦根藩の屋敷から登城途中、
直弼は十数名の浪士に襲われます。「桜田門外の変」。

浪士の大半は尊王攘夷を唱える水戸藩士。雪の降る朝、警備の武士たちは
すぐに抜刀できず、直弼はとうとう薩摩藩士に首を打たれます。

線路
railway

日米修好通商条約

1858年(安政5年)大老・井伊直弼の判断の下、日本はアメリカと
不平等条約を結びました。日米修好通商条約。その後、西洋列強と
次々に似たような不平等条約を結びます。武力をちらつかされながら、
開国を迫られた幕府には、他に方法もありません

明治になっても、不平等条約の効力は続き、治外法権を押しつけられ、
関税自主権のない日本は、ことあるごとに西洋列強に苦しめられます。

関税自主権が第二次・桂内閣の外相・小村寿太郎によって
回復されたのは、ようやく1911年(明治44年)になってからのこと。

西洋列強は日露戦争における日本の勝利を見てはじめて、日本を対等な
交渉相手国とみなしました。日米修好通商条約の調印以来、
実に五十年以上が経過。

かくも多大な犠牲により獲得された関税自主権を、日本はいとも簡単に
放棄しようとしてます。日本が主体的に関税を決められないTPPへの参加。

日清、日露の戦争は、日本が西洋列強と対等になるための戦争。
多くの若い命が失われました。けれど、そんな損失も、日本がその後、
享受した恩恵と比して、これまで正当化されてきました。

そして今回のTPP。そうした過去を全く踏みにじるもの。不必要な過去ならば、
踏みにじってもいいのでしょうが、関税自主権は目先の損得とは関係ない、
国家主権に関する問題。簡単に決めていいはずありません。

秋空
sky

坂本龍馬

幕末、薩長・両藩は極秘に留学生をイギリスに送りました。当時、異国に
渡ることは国禁。けれど、その留学生の中から、明治・新政府で
活躍する者が多く出ます。

長州の風雲児・高杉晋作も幕末、上海に密航。その悲惨なシーンを胸に、
日本を異国の植民地にしてはならないと奮闘。けれど一体、彼らは
どうして鎖国下の日本で、異国に行けたのでしょうか?
なんとなく行けたわけでは、決してなかったはず。

1858年(安政5年)、大老・井伊直弼(いい なおすけ)が列強と不平等条約を
結んで以来、英仏を筆頭に列強は「日本を植民地にせん」と横浜、長崎に
続々と人材を送り込み、情報収集させました。

けれど、ほどなくして、日本人は他のアジア人のどれとも異なり、独立、攘夷の
気概を持ち、手先が器用で、賢いことが判明。そして何より、他のアジア人には
ウヨウヨいた、白人に取り入る売国奴がいませんでした。
イギリスは早々と植民地・構想を断念。

日本を植民地にするのは、到底ムリ。
次世代を担うのは、徳川幕府ではない。

こう結論を出しました。結果、イギリスが接触すべきは、徳川幕府と
対峙してた薩長・両藩だったでしょう。日本国内で尊王攘夷が吹き荒れた
1860年代前半。薩長・両藩はイギリスと接触し、来るべき新政府の
グランド・デザインをイギリスから示されたのではないでしょうか。

1・イギリスは日本を植民地にしない。
2・イギリスは全面的に薩長・両藩を支援する。
3・新政府はイギリスの影響力をある程度、認めてほしい。

これが早い時期に薩長両藩に共有されたでしょう。そして1863年(文久3年)の
攘夷実行。長州藩、薩摩藩は異国船に砲撃を加え、翌年、その何倍もの砲火を
浴びて、攘夷の無意味を悟った、と歴史書には書いてあります。

けれど、この攘夷実行すらパフォーマンスで、最初から八百長。
イギリス艦隊は戦い後、長州藩からも薩摩藩からもすぐに姿を消し、
薩長・両藩に戦力上の実害は、ほとんどなし。

後の新政府・要人はこの時、フシギと前面に出て来ません。とにかく、
この攘夷失敗で薩長・両藩の攘夷派は一掃。幕府による第一次・長州征伐が
行われたのは1864年(元治元年)の夏。しかし戦うことなく長州は降伏。
やはり長州の戦力は温存されます

半年後の12月にはもう、高杉晋作が下関・功山寺で決起。伊藤俊介、井上聞太、
山縣狂介らが続きます。同じ頃、桂小五郎が長州藩の実権を掌握。

1865年(慶応元年)5月に長崎で亀山社中が発足。数ヵ月後、イギリスの
「ユニオン号」が七千丁の銃を積んで長州・馬関(ばかん)に到着。

よく考えてみましょう。1863年夏に薩長・両藩はイギリスと戦争。なのに二年後の
1865年にイギリスから軍艦、武器が薩摩名義で長州に到着。当時の交通事情を
考えれば、この早さは、あり得ないと分かるでしょう。しかも正反対の行動。
事前のグランド・デザインがあったに違いありません。

そう。幕末の早い時期から、イギリスが描いたグランド・デザインで、
明治維新は進みました。日本人は役割を演じただけ。

1866年(慶応2年)1月の薩長同盟。歴史書では、薩長・両藩がメンツにこだわり、
締結が遅れたことになってます。とはいえイギリスの力を十分に知ってた両藩。
今さらメンツにこだわるはずもありません。イギリスの代理人・龍馬の到着が
遅れたため、同盟締結も遅れた、それだけのことです。

薩長・両藩がイギリスによって動かされてることを龍馬は早くから知らされ、
両藩を結び付ける役割を与えられました。彼はそれを忠実に実行します。

けれど龍馬。明治・新政府に自分は加わらないと表明。これは薩長・両藩、
そしてイギリスにも心外だったでしょう。龍馬が新政府で要職を務めてこそ、
幕末から続くイギリス・コネクションの秘密が保てるのに、龍馬が自由人では、
今後、何をしでかすか、知れたものではありません。

ひょっとして将来、幕末からのイギリス・コネクションをペラペラ喋り始める
可能性も。当時、日本社会の成熟度では、権力の秘密を知った者は、
権力を全うして死ぬか、殺されるかの二つに一つ。

次は世界の海援隊でもやるぜよ。

明治・新政府に自分は加わらないことを小松帯刀(こまつ たてわき)に
問い糺(ただ)された龍馬は、爽やかに、そう答えたと時代劇は描きます。

けれど、もしそうなら、その言葉は新政府・要人には
「無私」ではなく「無責任」に聞こえたことでしょう。

ここまで来て、何を今さら。

龍馬が要職についてこそ、保てる権力の秘密。しかも自分は要職に就かないと
言ってるくせに、新政府・人事に早々と口を出した龍馬。今まで龍馬を
使ってきたイギリスには、看過できない状況。

徳川慶喜が1867年(慶応3年)10月に大政奉還。龍馬の実質的な役割は
終わりました。イギリスにとって、権力の秘密を知る龍馬が新政府に
加わるなら信頼もできますが、加わる気がない以上、余計なことだけ
知ってる、目障りな存在でしかありません。

11月15日。龍馬は京都の旅館・近江屋で中岡慎太郎と共に暗殺されます。
中岡は二日ほど延命しましたが、龍馬はその場で絶命。刺客が龍馬の部屋へ
どう上がって行ったか、そして殺害後、どう逃走したか全く不明。

土佐藩邸にも薩摩藩邸にも入れてもらえなかった龍馬。
当時、相当な警戒をしてたはず。高杉晋作からもらった
ピストルは肌身離さず持ち歩いてました。

前年の薩長同盟・成立直後、幕府・見廻組に襲われた時、
おりょうの機転とこのピストルで、龍馬は難を逃れてます。

まだ寝てもいない午後八時。中岡慎太郎を一緒にしての暗殺。新撰組や
幕府・見廻組では、とても、ここまでのことはできなかったでしょう。
必殺必中のヒット・マン。けれど、ここまで考えれば、
誰に雇われてたかは、もう明白ですね。

日本最初のカンパニー「亀山社中」。龍馬はそれを発展させ
「土佐・海援隊」を設立。中岡も「土佐・陸援隊」を設立。
彼らが共に暗殺されたのは、決して偶然ではありません。

この後、イギリス・コネクションは明治、大正、昭和と
日本を翻弄し、パール・ハーバーへとつながっていきます。

虹
rainbow

トマス・グラバー

ジャーディン・マセソン商会という商社があります。イギリス・東インド会社を
母体とし、植民地貿易で巨万の利益を得ました。十九世紀、イギリスが清と行った
アヘン貿易。それにもジャーディン・マセソン商会は深く関わります。

取引量が増えるにつれて、決済部門を独立させる必要が生じ、銀行を設立。
それが、今も世界金融に君臨する香港上海銀行(HSBC)。

日本が幕末、横浜港を開いた時、横浜に真っ先に支店を出したのは、
ジャーディン・マセソン商会。今も横浜のシルクセンターの隣に、ジャーディン・
マセソン商会の碑が立ってます。当時、ここは「英一番街」と呼ばれました。

抜け間ない彼ら。インド、清で大儲けしたのと同じ方法で、日本を
カモにしようと考えたのでしょう。ジャーディン・マセソン商会の代理人として、
長崎に派遣されたのが、まだ二十代だったトマス・グラバー。
独立してグラバー商会を設立。

長崎の街を見下ろす高台に建てられたグラバー邸は和、洋、中が
溶け合った独特の趣き。美しい庭園とも調和し、今では観光スポットに。

けれどグラバー邸で実際に行われた商談は、武器取引。薩摩藩・名義で
軍艦、銃をイギリスから購入し、それを長州藩に流す密輸。
馬関(ばかん:現・下関)の港から上がる税と利益で
長州藩には資金があり、それが使われました。

坂本龍馬が長崎に設立した日本初の商社、亀山社中(かめやま しゃちゅう)が、
この取引を仲介。1965年(慶応元年)のことです。恐らく龍馬に株式会社、
商社、そして資本主義を指南したのは、グラバーでしょう。

龍馬の師だった勝海舟も、民主主義や共和制について、いくらかは
語ったかもしれません。けれど勝にしたところで、やっとのことで
アメリカに着き、その表面をサッと見てきた程度。
商社が何かまでは分からなかったでしょう。

実際、亀山社中はグラバーとの取引だけを行った商社。
言ってしまえばグラバー商会の代理店。

約束通り、イギリスから軍艦「ユニオン号」が薩摩藩に到着。馬関に渡ります。
それと共に最新のミニエー銃、ゲベール銃が七千丁、輸入されました。

この実行力に驚いた薩長・両藩。龍馬を通して急速に接近。薩長同盟を結び、
倒幕に大きく踏み出します。その証文の裏書には龍馬による朱筆の裏書き。

龍馬は土佐の脱藩浪士。何の権力もなかったはず。その龍馬を西郷吉之助、
桂小五郎が必要としたのは、龍馬の背後にいるグラバー、
そしてジャーディン・マセソン商会の力が必要だったからです。

倒幕に先立つ数年前、薩長・両藩はイギリスに留学生を送ってます。

長州藩からは、伊藤俊介(博文)、井上聞太(馨)・・・
薩摩藩からは、五代友厚、寺島宗則・・・

この留学を斡旋したのもジャーディン・マセソン商会。歴史や時代劇では、
若き日本の志士たちが、自らの意志でやり遂げたことになってる明治維新。
ですが背後にはグラバー、そしてジャーディン・マセソン商会がいました。

外国人だったグラバーは、当時、日本を自由に移動できませんでした。
それ故、柔軟な頭脳を持ち、脱藩して身軽な龍馬を使ったのでしょう。

グラバーは三才年上の龍馬に、さまざまな商才を教え、この世のからくりも、
話しました。とはいえ、この詳しい事情は歴史の闇にに埋もれたまま。

後に龍馬・発案とされる大政奉還や船中八策にしても、
グラバーからの示唆だったのではないでしょうか。

グラバー邸
Nagasaki
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