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ゆめラジオ、グラックス兄弟の改革をアップ!

紀元前ローマ、挫折したグラックス兄弟の改革。
ゆめラジオで取り上げました。ぜひ、ご視聴ください。

グラックス兄弟の改革

ゆめラジオ、ベルリン会議をアップ!

十九世紀後半、ビスマルク提唱により、開催されたベルリン会議。
欧州列強は、この会議以降、第一次世界大戦まで身動き
とれなくなり、結果的に平和。これぞ、パワー・バランス。
ぜひ、ご視聴ください。

ベルリン会議

ゆめラジオ、パリ・コミューンをアップ!

ゆめラジオでパリ・コミューンを取り上げました。十九世紀・後半、
パリで一瞬おきた社会主義コミューン。ぜひ、ご視聴ください。

パリ・コミューン

ゆめラジオ、大陸封鎖令をアップ!

ナポレオン失脚のロシア遠征。その背景に経済政策があったこと、
あまり知られていません。ゆめラジオで語りました。
ぜひ、ご視聴ください。

大陸封鎖令

ゆめラジオ、ビスマルクをアップ!

ゆめラジオでドイツの政治家、ビスマルクを取り上げました。
鉄血宰相と呼ばれながら、戦争は最小限に抑え、
外交力で欧州平和を達成した政治家。

その日本史への影響は?
ぜひ、ご視聴ください。

ビスマルク

ゆめラジオ、ドイツ国民に告ぐをアップ!

フィヒテが1807年~1808年、フランス占領下ベルリンで行った講演会。
それが「ドイツ国民に告ぐ」。今回、ゆめラジオで取り上げました。
ぜひ、ご視聴ください。

ドイツ国民に告ぐ

教皇は太陽 皇帝は月

カトリック教会の頂点に位置する教皇。俗人を破門する権利がありました。
どんな皇帝、国王も、破門されれば、生きていけません。教皇への
従順をよぎなくされます。

叙任権闘争で、教皇グレゴリウス七世に、はむかった神聖ローマ帝国皇帝
ハインリッヒ四世。けれど最終的には、雪の日、裸足で教皇に許しを請う
はめになりました。教皇に破門されれば、皇帝でいられなくなります。
1077年のこと。世にいう「カノッサの屈辱」。

グレゴリウス七世の後、ウルバヌス二世がクレルモン公会議で、
十字軍・派遣を決定。諸侯はみな、この決定に従い、教皇権は、
ますます伸長。

そして十二世紀、インノケンチウス三世の登場。その権力は絶大で、
少しでも気にいらない皇帝、国王をすぐに破門。神聖ローマ帝国皇帝
オットー四世、フランス国王フィリップ二世、イングランド国王ジョンを、
次々と破門。

破門されても、彼らは何もできませんでした。これを評して「教皇は太陽
皇帝は月」。ちょうど日本では源頼朝が鎌倉幕府を開き、朝廷権力が
弱まり始めた頃、欧州では教皇権が絶頂に達したわけです。

とはいえ、インノケンチウス三世が提唱した第四回・十字軍は大失敗。
貨幣経済が発達するにつれ、カトリック教会のよりどころだった荘園制も、
崩壊。何より、カトリックの教義は、世の中を合理的に見つめたい、
という人々の気持ちに、全く応えられませんでした。

インノケンチウス三世の後、教皇権は急速に衰退。十四世紀の
アナーニ事件、教皇のバビロン捕囚、シスマへとつながります。

滝
Geschichte

スペイン継承戦争

今に続くスペイン・ブルボン朝。始まったのは十八世紀・初頭。
カルロス二世・崩御の後、スペイン・ハプスブルク家が断絶。

フランスはルイ十四世の治世。老獪な彼は、スペイン王家・断絶の時を
のがさず、孫のフェリペ五世を即位させました。ルイ十四世の妻は、
スペイン・ハプスブルク家・出身。孫のスペイン王・就任には、
とりあえず、正当性がありました。

当時、フランス陸軍は欧州一。スペイン陸軍は二番目。この両国が
「同君連合」を結んで、事実上、一つの国になれば、周辺国は、
たまったものではありません。

時あたかもパワー・バランスの時代。イギリスを中心に周辺国の同盟が
成立。そして起こった戦争。「スペイン継承戦争」と呼ばれました。

戦争は十二年ほど続き、ユトレヒト条約で和解。フェリペ二世の即位は、
認められましたが、フランス、スペインの同君連合は不可。結局、
ルイ十四世の野望は達成されませんでした。

この時、フランス・スペイン連合国が誕生してたら、世界史は、大きく
変わり、北米進出は、主にフランス。今頃、フランス語が、世界の
共通語になってかもしれません。

一方、イギリスはイングランド、スコットランドの同君連合が認められ、
「グレイト・ブリテン」が出現。事実上、英仏戦争だったスペイン継承戦争。
イギリスの勝利と言っていいでしょう。イギリスは統一され、頭角を表し、
十八世紀・後半から、世界の覇権国となります。

イギリスはアン女王が支配した時期でしたから、スペイン継承戦争は、
「アン女王戦争」と呼ばれることもあります。

さて、ルイ十四世。十七~十八世紀、南ネーデルランド継承戦争、
オランダ侵略戦争、ファルツ継承戦争、そしてスペイン継承戦争。
そのどれ一つとして、成果を挙げられませんでした。

国内統治では、マザラン、コルベールを登用し、そこそこの善政を
しいただけに、彼の外交の失敗については、今一度、世界史の
設問として、真正面から取り組むべきでしょう。

葉
green

ヴィルヘルム二世

ドイツ最後の皇帝です。1888年、即位。

一つ前のヴィルヘルム一世の統治期、プロシアでは鉄血宰相ビスマルクが
外交を仕切りました。ビスマルク外交により、プロシアは普墺戦争、
普仏戦争を勝ち抜き、ドイツ統一。1871年のことです。

ビスマルク外交の要諦は、フランスとロシアの離反。普仏戦争でフランスを
負かしたものの、その恨みを恐れたビスマルクは、フランス、ロシアから
挟撃されないよう、細心の注意を払いました。

ロシア、オーストリアと三帝同盟を結び、フランスを牽制。
一方、フランスは、イギリスと英仏協商。
バランスが取れたわけです。

ところが、ヴィルヘルム一世を後継したヴィルヘルム二世。
ビスマルクが目障りでなりません。就任早々、ビスマルクを解任。
以降、ヴィルヘルム二世が外交を仕切りました。

ヴィルヘルム二世は、ロシアとの同盟を破棄。当然、ロシアは
露仏同盟を締結。欧州バランスは、これで崩れます。

そこでヴィルヘルム二世。ロシアからの攻撃を避けることに腐心。
この時、日清戦争に勝ったばかりの日本に目をつけます。
ロシア・ニコライ二世をたきつけて、日本に遼東半島を
清に返すよう迫りました。世にいう三国干渉。

日本の教科書は、三国干渉について、なんとなくロシアが主導したように
書いてますが、ヴィルヘルム二世こそ、真の黒幕。日本人は
「臥薪嘗胆」を合言葉に、この干渉を呑みました。

三国干渉・成功に味をしめたヴィルヘルム二世。ニコライ二世の極東進出を、
さらに後押し。この極東進出が、ついには日露戦争を惹起したわけですから、
日露戦争の黒幕も、ヴィルヘルム二世と言えるでしょう。

日露戦争は日本の勝利に終わり、ロシアが再び、欧州に進出する可能性が
出てきました。こんなことなら、ドイツは最初から、ロシアとの同盟を
破棄しなければよかったのですが、そんなことは、
ヴィルヘルム二世には通じません。

ヴィルヘルム二世はオーストリアとの同盟を強めます。
これは汎ゲルマン主義と呼ばれました。これにより、汎スラブ主義を
唱えるロシアとの対立が決定的となり、汎ゲルマン主義と汎スラブ主義が
バルカン半島で衝突。第一次・世界大戦の引き金となりました。

三国干渉、日露戦争、第一次・世界大戦。世界史を揺るがせた、
こうした事件が、全てヴィルヘルム二世に遠因を持つことを、
どうして高校・世界史で、もっと強調しないのでしょうか。

第一次・世界大戦の後、ドイツではキール軍港の水兵反乱から、
革命が勃発。カール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルクが
革命を指導。ヴィルヘルム二世は海外に亡命。
ドイツ君主制は、これで終了しました。

青い花
blue flower

マリア・テレジア

十五世紀、神聖ローマ帝国・皇帝をオーストリア・ハプスブルク家から
輩出することになりました。「ハプスブルク朝」と呼ばれます。

ハプスブルク朝で最も異彩を放ったのが、女帝マリア・テレジア。
世界史に詳しくない人でも、マリー・アントワネットのお母さん、
と言えば、分かってもらえるのではないでしょうか。

とはいえ、マリア・テレジア。1740年の即位は多難。プロイセンの
フリードリヒ二世が女帝・即位はけしからん」という理由で、
オーストリアに侵攻。鉄、石炭が豊富に取れる
シュレジェン地方を奪取。

即位したばかりで、力ないマリア・テレジアは、フリードリヒ二世に、
やられっぱなし。小娘のオーストリア君主が、老獪なプロイセン君主に、
なめられたわけです。「オーストリア継承戦争」と呼ばれます。

マリア・テレジアは1756年、シュレジェン奪還を目指して、
自らプロイセンに戦いを挑みます。フランス、ロシアを
味方につけての、万全の体制。

とはいえ、この時、イギリスがプロイセンに与力。これで戦力が
互角となり、戦いは七年間、続きました。「七年戦争」です。

マリア・テレジアは結局、シュレジェン地方を奪還できず、1763年の
パリ条約で七年戦争・終結。とはいえ、フリードリヒ二世に一歩も引かず、
互角に戦ったマリア・テレジアの名声は、欧州にとどろきました。

しかも、この女帝。多産で十六人の子宝に恵まれました。出産しながら、
政務を執ってたようなもの。子女を欧州各地の王室と結ばせ、その外交は
砲艦外交ならぬ「スカート外交」。マリー・アントワネットがフランス・
ブルボン家に嫁したのも、この理由によります。

この時代、オーストリアのマリア・テレジア、プロイセンのフリードリヒ二世、
そしてロシアのエカテリーナ二世が、事実上、欧州を仕切りました。
三名は共同でポーランドを分割。三度の分割により、ポーランドは
十八世紀末、滅亡。音楽家ショパンはこれを嘆いて、フランスに亡命。

十八世紀と言えば、哲学史では啓蒙時代。それ故、マリア・テレジアも
「啓蒙専制君主」と呼ばれることがあります。その抜け目ない外交、
計算された戦争を見れば、確かに「啓蒙」と呼ばれるに
値する君主でした。

花
flower

カルロヴィッツ条約

「近代化」が「西洋化」を意味するなら、カルロヴィッツ条約をもって、
世界史の近代が始まったと言っていいでしょう。十七世紀・最後の1699年、
オスマン・トルコと欧州諸国の間で結ばれました。西洋が世界史の中心に
躍り出るきっかけとなりました。

十六、十七世紀はオスマン・トルコの世紀。十六世紀・前半、
スレイマン大帝の時、オスマン・トルコは最盛期を迎えます。

しかし最盛期は衰退の始まり。この時、既に広大な領土を
維持できなくなり、間接統治の地域が多くなります。

1571年、レパント海戦でオスマン・トルコ海軍が、スペイン海軍に敗れます。
ここでオスマン・トルコの進撃は止まりました。十七世紀に入り、オスマン・
トルコによる二度の欧州遠征。二度目の1683年、ウィーン包囲に失敗。

この結果、オスマン・トルコは欧州各国に領土を割譲することになりました。
この領土割譲を取り決めた条約こそ、カルロヴィッツ条約。

これにより、ハンガリーがオーストリアに割譲されます。オスマン・
トルコは以降、衰退を重ね、第一次・世界大戦後の1922年、滅亡。

カルロヴィッツ条約が結ばれた後、十八世紀に入り、西洋が世界史の
中心となります。カルロヴィッツ条約は、世界史の覇権が中東から
西洋に移ったことを象徴的に示す条約です。

空
Himmel

ケロッグ・ブリアン協定

大戦間の1928年に結ばれた協定。第一次世界大戦を反省し、次の戦争を
予防しようと結ばれた協定。米仏・外相が、世界に向けて発表。
「パリ不戦条約」とも呼ばれ、ここで示された概念は、
東京裁判、日本国憲法に適用されました。

けれど「不戦」など、もちろん嘘っぱち。この協定は第二次世界大戦を
防ぐことはできず、その後、アメリカは世界のあちこちで戦争を繰り返し、
現在に至ります。第二次世界大戦・敗戦国の日本だけが、日本国憲法という
形で、この協定を引きずってると言えるでしょう。

「侵略」概念が、初めて定義されたのも、ケロッグ・ブリアン協定。
それまで、そもそも「侵略」という概念は存在しませんでした。

1648年のウェストファリア条約以来、欧州では、数カ国によるパワー・
バランスが第一次世界大戦まで、数百年にわたり、続きました。
戦争は数十年おきに発生。その被害が限定的である限り、
戦争は必要悪とみなされました。

ところが第一次世界大戦の被害は、以前の戦争を遥かに超えたため、
何らかの条約が必要ということで、ケロッグ・ブリアン協定が結ばれました。
「侵略」とは何か、ということも議題に上ります。

とはいえ、この協定で示された「侵略」とは、当事国が決めるというもの。
客観的な基準は示されませんでした。それも当然で、「侵略」を
本気で定義しようと思えば、経済制裁など、他国を追いつめ、
戦争へ向かわせる行為も「侵略」と呼び得るからです。

今夏、戦後七十年にあたり、安倍首相が出す談話に注目が集まってます。
本来、談話など出す必要ないし、出すにしても、わざわざ「侵略」を
入れる必要はありません。ケロッグ・ブリアン協定・爾後も、
「侵略」定義は定まらないまま。

私は個人的には、日韓併合はともかく、満州事変・以降、日本軍の行動は、
侵略だったと考えてます。けれど個人の見解と、国際社会の定義は、
全く別の話。ましてや、過去を「痛切に反省」だの「心からのお詫び」だの、
発表する必要はありません。

戦争のたびに「反省」や「お詫び」を発表するなら、アメリカ、イギリス、
フランス・・・世界の先進国は全て、そうしなければならないでしょう。
たった一度の戦争に負けたからといって、反省し続けるのは、
国際社会から見て、非常に奇異に映ります。

平和憲法にしたところで、日本が制定して以来、それを模倣して
自国憲法に取り入れた国など、一つもありません。

戦争を防ぐために、全く機能しなかったケロッグ・ブリアン協定。
そこで示された「侵略」の杜撰な定義。戦後七十年にあたり、
もう一度、考え直してみるべきでしょう。

海
sea

サイクス・ピコ協定

オスマン・トルコ崩壊が見えた第一次世界大戦・終わり、中東・分割が、
英仏間で話し合われました。結果、交わされた密約がサイクス・ピコ協定。

現在、私たちが中東に見る一直線の人工的な国境線は、この時、
引かれたもの。当然、現地の実情などは無視した一方的な国境線。
それが百年ほど経った、今も続いてるわけですから、中東人の恨みが
募るのも無理ないでしょう。

昨夏から、この地域に発生したイスラム国。イスラム独自の国家運営を
目指し、欧米列強が引いた国境線も当然、無視。その姿勢は、中東人から
一定の支持を受け、今も中東の若者がイスラム国に流入する
傾向は続いてます。

イスラム国・台頭も、歴史を辿れば、理不尽な欧米列強の非に帰着。
現在の映像を見るだけでは、どうして中東の若者が、イスラム国に
引き寄せられるのか、分からないでしょう。

緑黄
spring

レンテンマルク

1919年、ベルサイユ条約で欧州大戦が終結。敗戦国ドイツには
1320億マルクという法外な賠償金が課されました。今の日本円で1000兆円。
この額には英仏によるドイツへの懲罰の意味がありました。

敗戦で疲弊し切ったドイツに、1320億マルクなど払えるはずもなく、
返済遅滞。怒ったフランスが、ベルギーを誘ってドイツ工業地帯
ルールを占領。ドイツ国民も反発し、就業サボタージュ。
ドイツ経済は完全にストップしました。

それでも賠償金返済。ドイツ政府は紙幣を増発。物価が高騰し、
歴史上、最も有名なハイパー・インフレとなりました。

この混乱を収拾すべく登場したのが銀行家シャハト。
1923年11月、紙くずになったマルクを廃し「レンテンマルク」と
呼ばれる紙幣を発行。兌換紙幣ではありませんが、シャハトは
ドイツ政府の信用を、この紙幣に賭けました。

ドイツ国民も、この時ばかりはレンテンマルクを受け入れ、
インフレはみるみる収束。「レンテンマルクの奇跡」と呼ばれました。
いざとなった時、政治家の胆力と国民の信頼こそが大切と
教えてくれる案件です。

緑
Geschichte

ラッダイト運動

「機械打ち壊し運動」と訳されます。高校・世界史でも出てくるでしょう。
産業革命で機械化が進みつつあった十九世紀・前半のイギリス。
このまま機械化が進めば、職がなくなると恐れた工場労働者が
産業機械を壊し始めました。生産性向上と職の確保が
自律背反し始めた最初の例。

もちろん現在の目で見れば、生産性向上は人類にプラスに働きました。
打ち壊しに走った労働者たちは反動的。けれど職の確保は当事者に
とって切実な問題。後の観点から見て、彼らの恐怖を断罪することは
できません。

現在、論じられてるTPP。自由貿易は確かに良いこと。それによって、
経済拡大することは間違いありません。けれど、それによって職を失う
人たちがいる場合、考慮しないわけにはいきません。TPPを考える時、
ラッダイト運動は多くの示唆を与えてくれます。

岩手山
December

穀物法論争

十九世紀・前半、イギリスで行われた経済論争。マルサスと
リカードという、代表的な経済論客が真っ向から対立。
現在のTPP議論と、枠組み自体は、同じものでした。

ナポレオン戦争が終わり、イギリスで穀物価格が半分に下落。
戦争が終わって消費がなくなり、豊作が続いたことが
原因でした。イギリスは農業デフレに。

マルサスは人口と食料の関係を論じ、人口は等比で、食料は等差で
増加すると論じました。当然、等比で増える人口が、食料を上回ります。
マルサスは、数が増えがちな農民や労働者の生活を重視。
フランスから入ってくる穀物に関税をかけ、
イギリスの農業を保護しようと主張。

一方、リカードは関税に反対。穀物価格が下がれば、
それと連動して農民や労働者の賃金も下がり、その分、
資本家の利潤が大きくなるからです。

リカードが自由貿易によって穀物価格を下げようとしたのは、
農民や労働者の福祉のためでなく、資本家の利潤を高めるため。

資本家こそ経済成長の推進力と見てたリカードは、資本家にとって、
最も有利な経済モデルを提唱。これがリカード・モデル。
経済学に資本家と労働者という階級対立を
持ち込んだのも、リカードが最初。

リカードが唱えた階級対立はマルクスに受け継がれます。
とはいえマルクスはリカードを批判。労働こそ価値源泉である、
と主張し、プロレタリア独裁を叫びました。

野原
autumn field

ブレスト・リトフスク条約

1917年に起きたロシア革命。レーニン率いるボルシェビキが政権を奪取。
ニコライ二世は退位。ロシア社会は大混乱。欧州大戦の継続は不可能に。

ロシアの主敵はドイツ。ロシアが協商を結んでた英仏は戦争継続を
主張してましたから、ロシアがドイツと単独講和。翌1918年2月、
ブレスト・リトスフク条約が結ばれました。

戦線が不利になってたドイツにとっても、講和は好都合。ロシア社会が
混乱してますから、つけこむチャンス。結局、ロシアが多くの領土を
失う形で決着。ロシアの国境線は大きく東へ後退。同時に、
ポーランド、フィンランド、バルト三国、ウクライナが独立。

帝政ロシアの下、長く呻吟してきたウクライナ。ドイツと友好関係を
保つことで独立を推進。ドイツから武器、ウクライナから穀物が
双方に送られました。

けれど新生・ソ連。他地域はともかく、ウクライナは手放しませんでした。
穀倉地帯や石油パイプラインがあったからです。もともと共産主義者は、
謀略の名手。さまざまな手段でウクライナを籠絡。結局、大戦後も
ウクライナはソ連に従属。ドイツと手を組みたかったのに、
ソ連の軍門に下りました。

現在、私たちが見るウクライナの引き裂かれた状況は、
ここに始まります。ロシアとEUの間で苦悩するウクライナ。

ブレスト・リトフスク条約の四年後、1922年、ロシアはドイツだけでなく、
他の国々ともラッパロ条約を締結。ブレスト・リトフスク条約は失効しました。

湖
Sommer See

三十年戦争

1555年、アウグスブルクの和議により、新教(プロテスタント)を
信仰する自由が認められました。とはいえ、この新教にカルヴァン派は
含まれず、カルヴァン派・民衆の不満は残りました。

1618年、神聖ローマ帝国・ベーメン地方のカルヴァン派・民衆が、
旧教を押し付けてくる神聖ローマ帝国に反乱を起こし、
これが新教・旧教の対立となって、戦争となりました。

新教側にはデンマーク、スェーデン。
旧教側には神聖ローマ帝国、スペイン。

特筆すべきは、旧教であるはずのフランスが、神聖ローマ帝国との
対立を理由に、新教側についたこと。このルイ十三世の決定の
背後には、宰相リシュリューの判断がありました。

戦いは三十年続き、スェーデン王グスタフ・アドルフの活躍もあって、
新教側の勝利に終わりました。1648年にはウェストファリア条約が
結ばれ、スイス、オランダの独立の承認、そして三百以上あった
ドイツ領邦に主権が認められました。これによって、
神聖ローマ帝国は事実上、解体。

旧教であるフランスが新教側についたように、この戦争は
中世型の宗教戦争ではなく、近代型のパワー・バランス戦争。
三十年戦争の最大の意義は、戦争の質が変化したことです。

桃
April

パーマストン

十九世紀、大英帝国の絶頂期に政治を取り仕切りました。
アヘン戦争、クリミア戦争、アロー号戦争の背後には、
このパーマストンがいたことになります。

150px-Portrait_of_Lord_Palmerston.png
foreign minister

十九世紀・前半、三十年間ほどはトーリー党(保守党)が
イギリスの政権を担当。パーマストンはこの頃、語学が堪能な
政治家として頭角を表しました。そして1830年、政権がホイッグ党
(自由党)に移行。パーマストンはこのホイッグ党・政権で
大臣の役職に就きます。

以降、1865年に亡くなるまで三十数年間、野党時代を挟みながら、
外相、首相、内相を歴任。ビクトリア時代のイギリスを支えました。

当時の欧州はパワー・バランス外交が本格化した頃。パーマストンも、
大英帝国の強大な軍事力を背景にしながら、極力それを使用せず、
外交の駆け引きによって落とし所を探る外交手法を展開。

オーストリアのメッテルニヒという好敵手にも恵まれ、
パーマストンは時に反目し、時に和解しながら、
欧州の覇権を競いました。

この抑止力・外交により、ナポレオン戦争後、疲弊した欧州に、
数十年間の平和が訪れました。私たちがこの歴史から、
学ぶべきことは少なくありません。

一方、欧州以外では典型的な「砲艦外交」を展開。植民地反乱には
容赦しませんでした。またアヘン戦争、アロー号戦争で、
弱体化した清に理不尽な戦争を仕掛けます。

ロシアとのクリミア戦争でも、最後まで強硬姿勢を崩さず、
戦いは結局、英仏の勝利に。

パーマストンの死後、欧州は一気に不安定化。普墺戦争(1866)
普仏戦争(1871)など大きな戦争が発生し始め、やがては
二十世紀の世界大戦へとつながっていきます。

ビスマルク

「鉄血宰相」と呼ばれたビスマルク。十九世紀・プロイセンを指導。
オーストリアと同盟してデンマークを叩き潰し、領土を広げます。

当時、プロイセンは小ドイツ主義を掲げ、ドイツ単独で
まとまろうとしてました。他民族を抱え、大ドイツ主義を掲げる
オーストリアと最初から反りが合うはずありません。
デンマーク戦争での同盟はあくまで戦略上のこと。

1866年(慶応2年)ビスマルクはデンマークと同盟を結び、
満を持してオーストリアとの「普墺戦争」(ふおう せんそう)に突入。
戦闘はプロイセンの圧倒的勝利。七週間で終結したことから
「七週間戦争」と呼ばれ、当事国が疲弊しませんでした。

短期終結した理由は首都ウィーンに攻め込まなかったこと。
首都をせん滅してしまったら、講和交渉の相手がいなくなります。
ビスマルクは既に次の戦争を考えてました。

プロイセンはオーストリアと講和交渉を結び、五年後の
1871年(明治4年)今度はオーストリアと同盟して
フランスと開戦。普仏戦争が始まりました。

かつての敵を同盟国にして、次の戦争を戦うスマルクの外交力は
まさに天才的。普仏戦争でも統制のとれたプロイセン軍は破竹の勢い。
フランス皇帝・ナポレオン三世が捕虜になるという結末で終結。
パリでは戦争責任を巡って「パリ・コミューン」が発生。

ビスマルク
leader

憲法調査で渡欧した時、ビスマルクに師事した伊藤博文。
日清戦争で、戦闘を有利に進めても、北京へは決して攻め込みません
でした。ビスマルクから、固く戒められたのでしょう。結果、
日本はそれほど疲弊することなく、近代化を推進。

同じ頃、板垣退助はあちこちの演説会で「北京攻略」を
訴えてたわけですから、自由民権運動の浅はかさと好戦性を
ここから見て取ることができるでしょう。

支那事変でも、帝国陸軍が南京にさえ攻め込まなければ
「南京事件」と称する言いがかりをつけられることも、
対米戦へ発展することもなかったでしょう。昭和の
官僚・軍人たちは先人から何も学びませんでした。

クリミア戦争

バルカン半島・南にあるクリミア半島で1853年6月から始まった戦争。
ロシアとオスマン・トルコの戦いに、列強が加わり、三年間続きました。

トルコ側についた列強はイギリス・フランス・サルジニア(イタリア)。
いくらロシアが大国とはいえ、これだけの相手では最初から劣勢。
英仏は有利に戦いを進めます。

そんな中、ロシア軍艦が英仏軍艦に追われるようにして、長崎に到着。
水と薪を求めました。1853年(嘉永6年)7月のことです。
艦長はエフィミー・プチャーチン。彼は日本との間に
通商条約の締結も要求。不平等条約でした。

とはいえプチャーチン。不利な戦いの中での来日ですから、
日本に強く出られませんでした。同じ年6月に来日したペリーは
幕府の要求を無視して浦賀で交渉したのに対し、
プチャーチンは幕府の要求通り、長崎に。

翌1854年8月、カムチャッカ半島でペトロパブロフスク・
カムチャッキー包囲戦で英仏軍がロシア要塞を攻撃。

翌1855年3月、ロシア軍が要塞から撤退。二カ月後の5月に
英仏軍が要塞に入った時には、もぬけの殻。
クリミア戦争の東アジア戦線に決着が着きました。

戦争は1856年3月に終結。パリ講和条約が結ばれました。
幕末のこの時期、英仏は戦争にかかりっきり。
ロシアも不利な状況での来日。

当時、日本と落ち着いて話す余裕があったのはアメリカだけ。
そんなアメリカを大老・井伊直弼が最初の交渉相手に
選んだのも妥当な判断だったでしょう。

スイカ
watermelon

七年戦争

オーストリアの指導者マリア・テレジア。
シュレジェン地方・奪還のため、フランスとロシアを味方に付け、
プロイセンのフリードリヒ大王に再度、戦いを挑みます。

1756年から始まった戦争。七年間、続いたため、
「七年戦争」と呼ばれます。

イギリスは当時、欧州の大国を戦わせ、自分は弱い側について、
戦いを長引かせ、漁夫の利を得る政策を取ってました。
もちろん七年戦争ではプロイセンに付きます。

とはいえこの戦争。欧州での戦いよりも
植民地での戦いに意義がありました。

フレンチ・インディアン戦争。イギリスはフランスから北米を奪います。
あるいはプラッシーの戦い。イギリスはインドを手に入れます。

フランスは七年戦争で疲弊。国力を落とし、フランス革命の遠因に。
一方、イギリスは広大な植民地を獲得し、覇権を獲得。
イギリスの時代が始まります。

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