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米内光政

日本史の先生には米内ファンが多いようです。理由を聞くと
「平和主義者だから。」確かに米内光政、山本五十六、井上成美は、
帝国海軍の平和主義者・三人組として、小説でも描かれました。

この三名は三国同盟に最後まで反対。米内は終戦時、
御前会議でも講和を主張。一見、平和主義者です。

けれど、その他の点では、米内はむしろ戦争惹起の方へ、いつも
動きました。彼の動きをつぶさに見るなら、平和主義者でないどころか、
「国賊」とでも呼びたくなる軍人だったことが、分かってきます。

林内閣で海相になった米内。第一次・近衛内閣、平沼内閣でも留任。
海軍行政を仕切りました。この時、起きたのが盧溝橋事件、
そして第二次・上海事変。

米内は盧溝橋事件では「陸軍のことだから」とノー・コメント。けれど、
上海で海軍士官が殺害されると激昂。陸戦隊を派遣し、
本格的な戦闘状態に。

海軍の介入により、それまで「北支事変」と呼ばれた戦いが
「支那事変」に拡大。日本は泥沼に、はまっていきます。

米内は翌・昭和十三年、近衛首相を突きあげ「国民党政府を相手とせず」
という声明を出させました。これによって、事変の早期収拾は不可能。
この動きの、どこが平和主義者でしょうか。

米内は昭和十五年に組閣しますが、陸軍の妨害にあって半年で瓦解。
その後、首相経験者としての発言力は隠然たるもの。その言動には
注目が集まりました。けれど米内。海軍が対米戦争へと進む過程を
傍観。三国同盟には反対しましたが、対米戦争には終始、無言。

そして対米開戦。日本はガダルカナルの戦い以降、劣勢に回り、
昭和十九年・六月、絶対国防圏の要、サイパン島が陥落。
指導部はハッキリ敗戦を意識しました。

サイパン島・陥落を受け、東條内閣は倒れ、後継内閣をどうするか、
という話になりました。後継内閣は敗戦処理内閣となることは、明らか。
しかも、対米戦争の大部分は海軍の所管だったわけですから、
米内が再び登板し、命を賭して講和に動きだすべきところ。

ところが、米内。平和主義を発揮する絶好の時、再登板を固辞。
結局、いかつい顔でドスがきく以外、ほとんど取り柄のない
小磯国昭が組閣。戦争はダラダラ続きました。

小磯内閣で、海相となった米内。やはり講和に動くわけでもなく、
時局悪化の成り行きを傍観。終戦前の御前会議で、講和案に
賛成した、だけにとどまりました。

しかも、米内。昭和二十年・八月九日、ソ連参戦、長崎・原爆投下を
耳にした時、「これは天祐だ」と漏らしました。天祐とは「神の助け」。

もちろん戦争を終わらせるための天祐と言いたかったのでしょう。
けれど満州、長崎の地獄に思いを致すことなく、それを神の助けと
呼ぶこと自体、この軍人政治家の本質。

講和に反対し、戦争続行を主張した阿南・陸相。阿南は終戦直後、
「一死をもって謝し奉る」と遺言を残し、割腹して果てました。
けれど自死の直前、阿南は酒を呑みながら、
側近に「米内を斬れ!」と言いはなちました。

阿南は真意を語らず、割腹。この言葉の意味も、曖昧なまま。
けれど、阿南。一見、紳士風で平和主義者の米内に、表の顔とは
全く違う真相を見たのではないでしょうか。そもそも対米戦争・勃発に
米内が関与し、開戦後も、戦局悪化するよう仕組んだ証拠を
掴んでたのでは?

ここまでくると、憶測。断定はできません。けれど、米内は平和主義者
という一般流布したイメージが、全く間違いであることは、確か。
米内については、今後、さらなる史料発掘で、真実が
見えてくるかもしれません。その時を待ちましょう。

海
navy

建武の新政

「けんむの しんせい」と読みます。「建武中興」(けんむ ちゅうこう)と
呼ぶ場合もあります。鎌倉幕府が倒れた後、後醍醐天皇が始めた親政。
その四百年前の延喜天暦の治を範とし、鎌倉期の武士政治を
終わらせ、天皇が再び、自ら政治を動かそうとしました。

とはいえ、新政、中興とは名ばかりで、実体は、単なる時代錯誤。
既に鎌倉期、堅固な官僚組織が作り上げられ、それなしに、
社会は成立しなくなってました。

ところが後醍醐天皇、その現実を見ず、政治の全てを仕切ろうとしました。
できるはず、ありません。しかも、後醍醐天皇、武士の力で鎌倉幕府を
倒したくせに、武士を無視。これでは、社会に不満が高まる一方。

結局、建武の新政は三年で破綻。足利尊氏が見るに見かね、反乱。
後醍醐天皇は京を追われ、吉野に逃れました。

後醍醐天皇。鎌倉幕府を倒したことでしか、歴史に名を残せませんでした。
ところが、これまで歴史書では、尊氏が天皇親政をジャマしたかのように、
ずっと書かれてきました。皇国史観の名残りです。たとえ天皇の政治でも、
ダメなものはダメと言わなくてはなりません。

金魚
water

昌泰の変

九世紀・終わり、宇多天皇に重用された菅原道真。代々、学者を
輩出した家柄。けれど、決して身分は高くなく、政治力もありません。
宇多天皇との出会いなくば、貧しく終わったでしょう。

けれど、藤原氏の横暴が目にあまり、政権運営を滞らせるにおよび、
宇多天皇は道真に白羽の矢を立てました。今、振りかえれば、
宇多天皇の人物眼は確かでした。

道真はまず、税制改革に着手。奈良期・初め、税制が人単位で
定められて以来、男子は女子より多くの税を課されてきました。
それ故、道真が右大臣に就任した頃、戸籍上、女子が男子より、
遥かに多いという非現実な状況。

道真は、それを土地単位の税制に変更。土地には男女別なく、
逃げだすこともありません。いったん、上がり得る税を確定すれば、
気候要因を除けば、安定的な税収。そして、社会も安定します。

今、聞けば、ふうん、ですが、当時としては画期的な変更。
歴史的に見ても、後の検地へと道を開きました。

対外的には、遣唐使の廃止。当時、唐は落ち目。玄宗皇帝による
楊貴妃の溺愛。楊貴妃・縁者による専制政治。そして安史の乱。
唐に見切りをつけた道真の判断は妥当でした。

これも、現代から見れば、大したことないように見えるかもしれませんが、
遣唐使派遣は当時、大規模な国家事業。多くの利権もありました。
それを政治決断でやめる、というのですから、たいへんな作業。
道真でなくば、できませんでした。

こんな道真が藤原氏の標的にならないはずなく、昌泰四年(901年)、
道真は、左大臣・藤原時平の陰謀によって、大宰府に左遷。
これを「昌泰の変」(しょうたいの へん)と呼びます。

とはいえ、政治的にやるべきことをやった道真。たとえ左遷されても、
彼の政策が、その後、後戻りすることはありませんでした。道真が
左遷後、憤死し、京に祟りをもたらした、という話は、証明できず、
考えるに値しません。

九世紀・初め、薬子の変で覇権を握った藤原氏・北家。その後、
応天門の変で他氏排斥。そして、この昌泰の変で、道真を左遷。
この後、安和の変で、北家の覇権は確立。十一世紀、
道長、頼道の栄華をもたらしました。

希望
summer celebration

山手学院・野球部、ベスト8進出

今夏、相模原球場、藤沢球場で見た山手学院の試合。大振りせず、
コンパクトに振りぬき、センターに弾き返す打線は、並々ならぬ
練習量を窺わせました。とはいえ、ベスト8まで勝ち上がるとは。

準々決勝は明日、金曜日から。神奈川大会、もう横浜スタジアムに早く
行って並ばないと、チケットは取れません。テレビ神奈川で観戦。

山手学院の他は、桐光、横浜、慶応、平学、東海大相模、横浜隼人、
日大藤沢。強豪校ばかり勝ちあがってきました。湘南、相模原、
山北といった県立も奮闘しましたが、全て敗退。ここからは、
伝統的な私学が競いあうフェーズ。

今年、横浜教室にいる山手学院・女子。きっと応援にいくことでしょう。
どんなスタンドだったか、きっと教えてくれるはず。夏期講習の
楽しみが、一つ増えましたね。

夏海
summer sea

硫黄島の戦い

「いおうとう」と読みますが、アメリカ人はなぜか「いおうじま」。
小笠原の南、遮蔽物のない、硫黄でできた島。生卵を二時間、
埋めておけば、ゆで卵になる島。

少し掘れば、硫黄臭気がムンムン。そして熱。さながらサウナ。
そんな場所に地下10mの地下壕を張りめぐらし、アメリカ軍を迎え
撃とうとした将軍がいました。栗林忠道(くりばやし ただみち)中将。

栗林中将はアメリカ勤務経験があり、その国力を熟知。
まともな戦いでは勝てないと判断。地下壕にこもることを決意。
戦車まで、地下壕に入れました。

栗林中将は安全な小笠原から指揮することもできましたが、
あえて硫黄島に赴任。兵士と運命を共にする覚悟。
末端兵士も奮い立ちました。

この頃、職業軍人より、徴兵で集められた兵士の方が多くなってました。
この前まで学校教員、役所職員、地方店主だった者たちが、
動員されてきたわけです。その数、二万一千名。

戦前のロサンゼルス・オリンピック馬術で、金メダルを獲得した
西竹一・大佐も、赴任。西は男爵だったことから「バロン・ニシ」
と呼ばれ、アメリカ軍も一目おく存在。

さて栗林中将。突貫工事で地下壕を30㎞掘る計画を立てました。
硫黄臭気と熱で、一人で数分間しか掘り続けることができません。
けれど、そこは日本兵の強靭な精神力。20㎞は完成。
そしてアメリカ軍の到来。

昭和二十年・二月。アメリカ軍は硫黄島に三日三晩、猛烈な
艦砲射撃。空からの爆撃も。その威力はすさまじく、島の形が
変わるほど。けれど地下10mに潜む日本兵に、損害は、
ほとんどありませんでした。

満を持して、上陸してきたアメリカ軍。五日で落とす計画。
じっと待機してた日本兵に、栗林中将からの攻撃命令。
地下に隠してた日本軍の大砲が、一斉に火を噴きました。

突然の攻撃。上陸したばかりで、砂浜に足を取られるアメリカ兵は、
右往左往。上陸戦は迎え撃つ方が有利。栗林中将は、この基本を
シッカリ守りました。バタバタ倒れていくアメリカ兵。

日を経るにつれ、アメリカ兵・犠牲者は累増。それはアメリカの
新聞でも伝えられ、大本営も硫黄島の健闘を知ることになりました。

大本営は戦いの途中ながら、栗林中将を大将に昇格。戦いの前、
栗林中将から掘削機をもっと送ってほしい、と要請され、ろくすっぽ
答えなかったにもかかわらず、大本営は今頃、こんな態度。

業を煮やしたアメリカ兵。日本兵がこもる地下壕に石油を
流しこみ、火炎放射する、という戦法を実行。いかにも
アメリカ人らしい、残酷な戦法。

日本兵の精神力でも、こんなことをされては、ひとたまりもありません。
地下壕に響く、日本兵の号泣と悲鳴。アメリカ兵は、ほくそ笑みました。

最終的には、物量勝るアメリカ軍が帝国陸軍を圧倒。けれどアメリカ軍・
死傷者、二万九千名。帝国陸軍は、栗林中将をはじめ、玉砕。戦死者・
二万一千名。アメリカ軍・死傷者が、帝国陸軍・戦死者を上回りました。
帝国陸軍が太平洋で初めて善戦した戦い。

バンザイ突撃を禁じた栗林中将。「一人十殺」を末端兵士に徹底。
そして元教員や元店主の兵士が、その命令を忠実に実行。
帝国陸軍の強さ、日本人の強さを、アメリカ人に
見せつけた戦いとなりました。

水平線
horizon

広田マリク会談

昭和二十年に入ると、日本の諸都市が空襲にさらされ、誰の目にも
敗戦は明らかでした。けれど、軍人政治家の誰ひとり、戦争を
やめよう、と表立って言う者は、いませんでした。

とはいえ、外務省を中心に和平工作が秘密裡に始まり、ソ連を
仲介国として講和しよう、という案が上がりました。日ソ間には
中立条約があり、この条約にすがったわけです。

当時、不戦条約や中立条約など、破るために結んでたようなもの。
独ソ不可侵条約が、その典型。日ソ中立条約にしたところで、
日本は締結後、満州で大規模な関特演を行い、今にも侵攻する
構えを見せました。ソ連がドイツに攻めこまれた昭和十六年。

四年後の昭和二十年、ソ連はヤルタ会談にしたがって、
ドイツ降伏後、日本に侵攻することを英米首脳と約束。
ソ連は日本との戦争に動いてたわけです。

モスクワの日本大使館からは、ドイツ降伏後、ソ連が西部戦線から
東部戦線へ、シベリア鉄道を使って、戦車、武器を大量に
移動しつつあるという報告が連日、東京に打電。

けれど、東京の本省。そんな現地報告は無視。ソ連なら、なんとか
してくれるはず、という希望的観測を抱き、和平工作。
そして、行われた広田マリク会談。

外務省・出身で、首相も務めた広田弘毅(ひろた こうき)。
モスクワ大使の経験もありました。その広田が、ソ連・駐日大使
ヤコフ・マリクに和平工作を持ちかけました。マリクの疎開先、
箱根・強羅ホテルに、広田がわざわざ面会にいき、打診。

マリクは外交官。愛想よく広田を迎えました。けれど、ソ連の方針を
知らぬはずありません。聞くだけ聞いて、モスクワに報告。ソ連・指導部は、
日本政府の虫のいい和平工作を、せせら笑ったでしょう。
当然、黙殺。耳を貸すはず、ありません。

当時の情勢では、ソ連が講和を仲介してくれるなど、あり得ない、
とすぐに分かるはず。けれど、潰れかけた組織は、こんなもの。
現実が見えず、その時の気分しだいで、自分の希望的観測に
現実を合わせようとします。

国家でも、企業でも、現実が見えなくなったら、終わり。
トップが現場の意見を聞かず、トンチンカンな指示を出し続け、
いずれ破綻。現代でも、そんな企業を、私たちは、
いろんな場所に見つけるでしょう。

まだ開明的と言われた外務省でも、この程度。時間を無駄にする
うちに、沖縄戦は、ドンドン激化。本土空襲の犠牲者も累増。

軍人の多くは「本土決戦」「一億玉砕」を叫び、政治家は、何も
言いだせませんでした。ついに八月九日、長崎・原爆投下と
同じ日、日本は和平工作を依頼したはずのソ連によって、
満州に攻めこまれます。

満州では、地獄のような阿鼻叫喚。この時になっても、
軍人も、政治家も、誰も無策の責任を取りませんでした。

水
water

蔵人頭

桓武天皇には、二人の息子がいました。それぞれ順番に即位し、
平城天皇(へいぜい てんのう)、嵯峨天皇。ところが平城天皇。
嵯峨天皇に譲位しても、実権を握り続けようとしました。

平城天皇の野心に藤原・式家の兄妹が同心。嵯峨天皇への
クーデターが起きかけました。「薬子の変」です。

変は未然に防がれ、薬子たち兄妹は自死。藤原・式家も没落。

嵯峨天皇は朝廷を掌握。けれど、今後の政策運営に当たって、
信頼できる側近の必要性を痛感。藤原・北家(ほっけ)の藤原冬嗣
(ふじわらの ふゆつぐ)を蔵人頭(くろうどの とう)に任命し、
自らの秘書としました。

蔵人頭は律令に定められてない官職だったので「令外官」
(りょうげの かん)と呼ばれました。同じく令外官として、
嵯峨天皇は、京の治安維持を担当する検非違使(けびいし)も設置。
政治、軍事の両面で、盤石な体制を築きました。

室町期、後醍醐天皇に仕え、南朝についた北畠親房(きたばたけ 
ちかふさ:顕家の父親)は「神皇正統記」を著し、歴代天皇について
論じました。

親房が最もスペースを割いたのは、もちろん同時代の後醍醐天皇。
けれど、その次に重視したのが、この嵯峨天皇。嵯峨天皇の善政、
目ある人には、ハッキリ分かってたということでしょう。

藤原氏について言うと、冬嗣が蔵人頭に任命され、権力が増大する
につれ、四つあった藤原氏の中で、北家(ほっけ)が台頭することに
なりました。九世紀から十一世紀まで続く藤原氏の繁栄は、
この北家の子孫によるものです。

鼻
flowers

承平天慶の乱

「じょうへい てんぎょうの らん」と読みます。一般的には平将門
(たいらの まさかど)の乱。承平、天慶というのは、当時の元号。
時期は十世紀。朱雀天皇の治世です。

下総(しもうさ:現・千葉県)に生まれた平将門。武門に秀で、りりしい武士に
成長。けれど平安期。武士といえども、京での官位獲得がなければ、
地域をまとめきれません。将門も、京で出世コースに乗ろうとします。

けれど、将門が見た京。そこの公家。汚職が蔓延し、民のための
政治など、どこにもありません。失望した将門は、無位無官のまま、
下総に戻りました。

官位に何の意味もないと知った将門。それは自らの正当性を自ら
決めてよいという自負にも、つながりました。将門自身、桓武平氏の
血を引いてたことから、ついには朝廷に反旗を翻し、「新皇」を
名のるまでになります。

鉄の鋳造、鍛造に着目した将門。その技術を発達させました。
それは、そのまま武具、農具の改良を刺激。農民は、将門の下で、
農業収穫量が増え、生活が良くなることを実感。集まり始めました。

武具改良も、将門の名声を高めました。今日、私たちが見る、
日本刀。この日本刀を開発したのも、将門。

農民たちは当時、朝廷から派遣される、形ばかりの国司にウンザリ。
重税、苦役に苦しんでました。彼らにとって、自分たちをホンとに考えてくれ、
誠実で知られた将門は、真のリーダー。将門を支持する動きは、
下総だけでなく、関東一円に広がります。

時、同じくして瀬戸内では伊予・国司に任じられた藤原純友
(ふじわらの すみとも)が反乱。時代劇では、将門が京にいた頃、
純友と誼(よしみ)を交わしたことになってますが、二人の間に
実際の交友があったかどうかは、分かりません。

東西で起きた反乱に、朝廷は驚愕。慌てて、乱鎮圧に乗りだします。
関東へは平貞盛(たいらの さだもり)と俵藤太(たわらの とうた)を
派遣。貞盛は将門の従兄。幼い頃から、親しく成長した間柄。

貞盛と藤太は田起こし期を狙って、軍を繰りだしました。民衆思いの
将門なれば、田起こし期、民衆を土地へ返すはず、と踏んでのこと。

案の定、将門は民衆を土地へ返し、武力が手薄になったところを
見計らって、貞盛、藤太の軍が圧倒。将門は討ちとられました。

とはいえ、公家支配から脱しようとした将門。その政策は、武士なら、
誰でも首肯できるもの。将門を倒した貞盛、藤太にとっても、それは同じ。
彼らは将門を倒しておきながら、子孫には、その偉大さを語り伝え、
武士リーダーのあるべき姿を教えました。

やがて、貞盛の系譜から平忠盛、平清盛が登場。
公家に頼らない、武士の政治を確立しました。

俵藤太は藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)と名を改め、
その系譜から、奥州藤原氏の祖、藤原常清が登場。

将門は二百年、三百年、時代の先を行ってたと言えるでしょう。
ちなみに、今も丸の内に残る将門の首塚。京でさらされた首が、
カラカラと笑った後、飛び去り、故郷に戻る途中、ここへ落ちたとか。

東京駅の正面だけに、明治期以来、撤去計画が何度か上がりましたが、
その度、関係者が奇妙な死。やがて、誰も撤去を言いださなくなり、
将門の首塚は、今も丸の内にあります。

水玉
future

後三年の役

十一世紀、奥州を支配した安倍氏が、清原氏に滅ぼされました。
前九年の役です。結果、奥州の覇権は清原氏に。

清原氏には三兄弟。実衡(さねひら)、清衡(きよひら)、家衡(いえひら)。
真ん中の清衡は、滅ぼされた安倍氏から清原氏の養子になった身。
清原氏の憐れみで、拾われた格好。

長子・実衡と末子・家衡は仲が悪く、この二人で家督も争われました。
清衡は、それを傍観。ところが長子・実衡が急死。この時点で、
それまで沈黙を守った清衡が、急に権力奪取に動きました。

奥州で力を持ってた源義家(みなもとの よしいえ)が、清衡に合力。
義家は前九年の役で、父親・頼義と組んで、安倍氏を卑劣な形で
滅ぼした自責の念がありました。今、安倍氏の血を引く清衡に
味方し、罪滅ぼしをしたと伝えられてます。

清原氏の跡目争いに関係ないと思われてた清衡が、
源氏棟梁の同心を得たことで、急に有利となりました。

慌てたのは末子・家衡。長兄・急死で、自動的に跡目が回ってくると
思ったら、今まで歯牙にもかけなかった次兄、しかも清原氏の
血を引かない清衡が、出てきたものだから、動転。

清衡と家衡の跡目争いは、大きな戦いとなり、「後三年の役」と
呼ばれるようになりました。戦いは終始、義家を味方につけた
清衡に有利。追い詰められた家衡は、人質に取った清衡の
妻子を館に閉じ込め、清衡の目前で、火を放ちました。

それでも清衡は譲歩せず、目前で妻子を殺されました。
安倍氏・再興を、心密かに誓って成長した清衡。妻子という犠牲を
払っても、権力を奪いかえす気持ちに、変わりありませんでした。

妻子を奪われ、失うものなくなった清衡に、家衡がかなうはずなく、
結局、兵糧攻めで家衡軍は瓦解。他家で雌伏した清衡が、
最終的に奥州の覇者となりました。

奥州の権力を握るやいなや、清衡は姓を「清原」から「藤原」に
戻しました。清衡の父親は、安倍氏と結んだ藤原常清。
父姓を復活させたわけです。

以降、百年続く奥州藤原氏の礎(いしずえ)が築かれました。
京にも劣らない豊かさと文化を誇った奥州藤原氏。
東北地方が最高に輝いた時代が始まりました。

水色
summer

東洋英和女学院・高等部(2)

水曜日の渋谷教室。東洋英和生が一学期、通い続けました。
二年生・三学期から。六本木にある東洋英和。渋谷までは、すぐ。
東洋英和生、塾にもっといても、いいはずですが、今年は彼女だけ。

一学期、インターネット学習についての英文が、テキストに出てきた時、
塾生に東進ハイスクールについて、聞いたことがあります。
すると、彼女。

同級生が、たくさん行ってますよ。

なんと。東洋英和生、今年は塾で見かけないと思ったら、
東進ハイスクールに流れてたとは。仲間との切磋琢磨も、
講師への質問も、何もない映像授業。

そんなものに、負けてはなりません。ここはひとつ、彼女に結果を
出してもらって、ライブ授業の価値を、世に知らしめねばなりません。

空
Glueck

マリアナ沖の七面鳥撃ち

昭和十九年・六月、サイパンの戦い。サイパンは明治期、帝国国防方針を
策定して以来、海軍が「アメリカと戦争するなら、ここ」と決めた軍事基地。
物流拠点でもあったことから、二万名ほどの民間人もいました。

迫りくるアメリカ機動部隊。ここで迎え撃ち、撃滅。有利な条件で
講和にもちこむ、というのが大本営の考え。いずれにせよ、
ここで雌雄を決することは、政府、軍・首脳の一致見解。

日本からは第一機動部隊が出撃。司令官は小沢治三郎(おざわ 
じさぶろう)中将。空母・大鳳(たいほう)、戦艦・大和をはじめ、
堂々たる陣容。航空機も五百機、動員。艦爆・彗星、艦攻・天山という
新型機を導入。まさに乾坤一擲の戦い。

この戦いで、小沢中将は「アウトレンジ戦法」を導入。日本の航空機が
アメリカの航空機と比べ、航続距離が長いことを利用。相手が
飛び立てない地点で発艦させ、一方的に攻撃する作戦。

この作戦の成否は、こちらは行って帰ってこれるが、相手はムリという
地点まで間合いを詰め、ドンピシャのタイミングで発艦できるかどうか、
にかかってます。索敵が最重要課題。小沢中将は、何機もの
索敵機を飛ばし、アメリカ空母を探しました。

そして、うってつけのタイミングで「敵空母、見ゆ」の電報。小沢中将は、
満を持して、発艦命令。全機、勇躍、マリアナの空に飛び立ちました。
小沢中将の顔には、これで日本を救える、といった表情があったとか。

とはいえ、そう思ったとおりにいきませんでした。アメリカ艦隊は、この時、
正確なレーダーを装備し、中央制御室で情報を集め、全艦隊に即座に
知らせるシステムを構築。日本機の方向、高度は、いち早く知られました。

全機発艦を命じるスプルーアンス中将。F6Fヘルキャット編隊は、
完璧なポジションで待ち構えました。そこに、思い爆弾を抱えた日本機が、
ヨロヨロと飛来。もうなすすべ、ありません。日本機は次々と、火を噴いて
落ちていきます。この光景を見て、アメリカ搭乗員たちは
「マリアナ沖の七面鳥撃ち」。

やっとの思いでヘルキャット迎撃をかわし、アメリカ艦隊・上空に
到達した日本機。今度は、マジック・ヒューズを備えた対空砲火の洗礼。
マジック・ヒューズは、レーダー付き砲弾。目標近くで炸裂し、
たとえ当たらなくても、敵機を落とせるしくみ。これで、
日本機は、壊滅。

結局、六割の発艦機が未帰還。空母・大鳳もアメリカ潜水艦の魚雷を
受けて、大火災を起こし、もろくも沈没。事実上、日本がアメリカに
勝てる見こみは、マリアナ沖海戦で、なくなりました。

この時点で、日本の首脳は、台湾、満州、朝鮮、全てを返し、
多額の賠償金を払ってもいいから、戦争をやめとくべきでした。
その決断が必要でした。

この時点でやめとけば、日本兵・死者は二十万名いかない程度。
多くの悲劇が免れ、日本が戦後、アメリカの従属国になることも、
ありませんでした。けれど、当時の日本、そんな決断ができる
政治家、軍人は一人もいませんでした。

緑
green

三川艦隊のツラギ殴りこみ

ガダルカナルの戦いは、帝国海軍が設営隊を派遣し、飛行場を
建設したことで、始まりました。帝国陸軍は、それに、つきあわされ、
戦力を逐次投入。最初に戦いを始めた帝国海軍にとって、
傍観したままで、いられません。

完成したばかりの飛行場をアメリカ軍に奪われた直後、帝国海軍の
三川艦隊がガダルカナル・ツラギに向かいました。重巡洋艦、
軽巡洋艦を中心とする陣容。

アメリカ海軍はツラギに輸送船団を派遣し、陸揚げを始めてました。
そこに、ふいに現れた三川艦隊。アメリカ艦隊と夜間に遭遇。
大東亜戦争で初めて、夜戦が始まりました。

公式には「第一次ソロモン海戦」と呼びますが、三川軍一(みかわ 
ぐんいち)中将が、軍令部を通さず作戦決行したため、
水兵の間では「三川艦隊のツラギ殴りこみ」。

アメリカ艦隊はレーダーを装備。一方、三川艦隊は目視に依存。
夜戦では、先に索敵した方が有利。三川艦隊は不利なはずでした。
けれど、監視員の正確な情報。闇夜にかかわらず、砲撃、雷撃が、
おもしろいようにアメリカ艦隊に命中。猛訓練の賜物でした。

アメリカ重巡洋艦を四隻、沈めるという、三川艦隊の一方的な勝利。
三カ月前のミッドウェー海戦の復讐を、部分的に果たしました。

とはいえ、この勝利も、手放しで喜べるものではありません。
三川艦隊が、このままツラギ海岸に進めば、アメリカ軍・輸送船団を
発見したはず。それに砲撃すれば、上陸したアメリカ海兵隊は孤立。
日本にとって、圧倒的に有利となります。

もちろん、三川中将は、アメリカ輸送船団の存在は知ってました。
けれど、アメリカ空母・出現の可能性を恐れ、ここで引き返してしまいました。
輸送船団を攻撃しましょう、という具申があったにもかかわらず。

この時、アメリカ軍・輸送船団に砲撃を浴びせれてば、
ガダルカナルの戦いも、全く違った様相となったでしょう。
帝国陸軍とアメリカ海兵隊の戦力が互角となったからです。

全般的に言えることですが、帝国海軍は、アメリカ輸送船団への攻撃を、
全く怠りました。丸腰の輸送船団への攻撃は忍びないという、
奇妙な武士道があったのかもしれません。ハワイしかり、
ソロモンしかり、そしてレイテしかり。

真珠港でも、第三次攻撃を敢行し、修理ドック、燃料タンクを
破壊しておけば、アメリカ機動部隊はアメリカ西海岸から出港せざるを
得ず、ミッドウェー海戦はおろか、太平洋戦局は全く違ってたでしょう。

輸送船団への攻撃の軽視。これが大東亜戦争の敗因の一つ、
そう言って、決して過言ではないでしょう。

夕日
sunset

神風特別攻撃隊

昭和十九年・十月、連合艦隊のレイテ突入を援護するために採用された
攻撃隊。生還を期さない体当たり攻撃。最初は「しんぷう」と呼んで
ましたが、そのうち「かみかぜ」に。鎌倉期、蒙古襲来を
台風で吹き飛ばした故事に、ちなんでのこと。

ハワイ作戦の頃から、海軍航空隊には特攻精神が漲り、
敵艦上空で被弾すれば、そのまま帰投せず、
敵艦に突っこむ機は多くありました。

とはいえ、最初から体当たりを目的とした攻撃隊は、この時が初めて。
立案者は大西瀧治郎(おおにし たきじろう)中将。海軍では航空畑を
歩んだ将軍。先輩の山本五十六、後輩の源田実と共に、
大東亜戦争中、航空作戦を立案、指導。

そんな大西。昭和十九年・秋の時点で、航空機の不足と搭乗員の
錬度不足により、敵艦上空で爆撃、雷撃を実行し、帰ってくることは、
不可能と判断。より戦果を期しやすい特攻攻撃を、
軍令部に認めさせました。

フィリピン・マバラカット飛行場から最初の攻撃隊が出発。
これが神風特別攻撃隊。隊長には、士官学校を出た関行男
(せき ゆきお)大尉。関大尉以下、特攻機に乗りこむ搭乗員に、
大西中将が、別れの盃を注ぐ映像が残ってます。

航空作戦に明るい大西。特攻など「統帥の外道」とシッカリ認識。
けれど、未来ある若者が命を賭して敵艦に突っこむことが、
講和条約、戦後処遇を左右すると判断。

神風特別攻撃隊は、レイテ沖でアメリカ機動部隊を捕捉し、突入。
セント・ローを初め、護衛空母を撃沈。アメリカ軍を混乱と恐怖に
陥れました。大西は戦果を早速、大本営に打電。その内容は、
昭和天皇にも上奏されました。

これ以降、特攻は次々と繰り返され、志願者も続々、現れました。
どっちみち生きて帰れると思ってなかった当時の搭乗員。
どうせなら、戦果の期待できる特攻に参加した方が、
男の花道という雰囲気がありました。

護衛空母だけでなく、正規空母フランクリンも特攻で大破。
沈没こそ免れましたが、数百名のアメリカ水兵が死傷。

「百年経っても、知己は得られないかもしれない」と漏らした大西。
けれど、昭和二十年・春の沖縄戦では、特攻のみで戦うことを決意。
沖縄に殺到するアメリカ軍艦に、鹿屋の海軍基地から、
連日、特攻機が飛び立ちました。

陸軍も特攻攻撃を採用し、知覧の陸軍基地から出撃。
知覧の特攻記念館を訪問し、出発の模様を学んだ人も、
少なくないでしょう。

特攻の半年間、命中率は16%。三千機を出撃させれば、
五百機は命中する計算。決して低い命中率ではありません。

とはいえ特攻。いくら戦果あっても、若者に死を強要するわけ
ですから、むごい作戦に変わりありません。しかも、時経つにつれ、
死ぬことが自己目的化し、離陸できるだけの搭乗員を練習機に
乗せて送りこむことすら、ありました。もちろん、戦果など
期待できません。

終戦の日、大西は自宅で割腹自殺。介錯を断り、苦しんだ挙句、死亡。
特攻立案者の自分。せめて若者の苦しみを共有しなければならないと
思ったのかもしれません。

人命を軽視した帝国陸海軍。それを象徴する特攻。決して
美化してはいけません。もし今、日本軍を反省するなら、南京大虐殺、
沖縄・民間人虐殺といった、ありもしない大嘘ではなく、エリート軍人の
非道、冷血をこそ、問題にすべきでしょう。

それを振りかえれば、そうした冷血は、現代の役所、企業にも、
形を変え、脈々と受け継がれ、多くの失敗と苦しみを
生みだしてることに気づくはずです。

夏の湖
summer lake

青山高校(45)

水曜日の渋谷教室。二名の青高・女子。一度も休まず出席。
学校行事や部活があったはずですが、なんのその。
努力を継続しました。

明るい青高生。彼女たちの笑い声に支えられ、
私も一学期、ガンバりとおすことができました。

夏期講習にも参加する彼女たち。暑い中での努力。
でも結果を伴う努力なわけですから、そのうち、
おもしろくなってくるはずです。これこそ、
夏期講習の意義。

一学期は終了しました。少し時間が空きます。その間、テキストを
見直し、そして夏期講習に臨みましょう。新しい英語の世界が
見えてくること、うけあいます。

初夏
early summer

栗田艦隊の反転

昭和十九年・十月、帝国海軍がアメリカ海軍と繰り広げた死闘、
レイテ沖海戦。帝国海軍は、保有艦船のほぼ全てを投入。
アメリカ海軍に一矢報いて、講和につなげようと企図。

中心艦隊は栗田健男(くりた たけお)中将、率いる栗田艦隊。
戦艦大和、武蔵、長門を抱え、レイテ湾を目指しました。
レイテ湾・停泊中のアメリカ輸送船団を撃滅する任務。

空母を中心とする小沢艦隊が北から、戦艦、駆逐艦を中心とする
西村艦隊が西から、フィリピンに近づきつつありました。

小沢艦隊、西村艦隊は事実上、おとり艦隊。二艦隊でアメリカ海軍を
引きつけ、ガラ空きになったところを、栗田艦隊がレイテ湾に
突入する、という捨て身の作戦。

捨て身と言えば、この戦いで、初めて神風特別攻撃隊が出撃。
250㎏爆弾を抱えたゼロ戦が、アメリカ軍艦に体当たりする、
という前代未聞の戦法。

西村艦隊は早期に全滅。小沢艦隊もアメリカ艦載機の猛攻撃を
受けました。ただし、おとり役割は達成。この時、レイテ湾・付近には、
アメリカの脆弱な護衛空母群しか、いませんでした。

栗田艦隊は武蔵に集中攻撃を受け、武蔵は沈没。けれど他艦に
ほとんど損害はなく、レイテ湾への進撃を続行。そして、この時、
大和はアメリカ護衛空母群を発見。一度も使われなかった
大和の主砲が、ここで初めて火を噴きました。

長門や他艦も、次々と主砲発射。やっと猛訓練の成果を発揮できる。
大和・乗組員の中には、嬉しさで泣きだす者も。

当時、帝国海軍は着弾をハッキリさせるため、軍艦ごとに着弾色を
付けてました。赤、青、黄・・・色とりどりの砲弾が、アメリカ艦隊めがけて
炸裂。大和の主砲を浴びれば、護衛空母など、ひとたまりもありません。
数隻が、すぐに沈み始めました。

この時、アメリカ海軍・主力は、北の小沢艦隊を日本の主力と考え、
殺到。小沢艦隊は、空母を全て沈められました。けれど、飛行機を
搭載しないカラ船。小沢中将は、おとり作戦が成功したことを、
大和に伝えるよう、何度も命令を出しました。

歴戦の猛者・小沢治三郎(おざわ じさぶろう)中将。この時、空母と
運命を共にするつもりでした。しかし、帝国海軍には、有能な提督が
枯渇。部下が総がかりで止め、最後は小沢中将を数名で運び、
沈みゆく空母から、脱出させました。

放せ。わしの唯一のわがままを、させろ。

小沢中将は、手足をばたつかせ、部下にそう言ったとか。
そして栗田艦隊。護衛空母群への攻撃後、当初の目的地・
レイテ湾は目前。あとは停泊中のアメリカ軍・輸送船団に主砲を
浴びせれば、フィリピンに上陸したばかりのアメリカ軍は孤立。

これこそ、レイテ沖海戦の主目的。マッカーサーは後に、この時を
振りかえって「勝利は、栗田提督の手に転がりこもうとしていた」
と記しました。

ところが、栗田艦隊。レイテ湾を目前にして、反転、北上を始め、
日本への帰途についてしまいました。護衛空母群を全滅させる
わけでもなく、レイテ湾に突入するわけでもありませんでした。

小沢艦隊から、おとり成功の電文が届いておらず、栗田中将は、
付近にアメリカ軍・主力が存在する、と恐れたのでしょう。武蔵を失い、
西村艦隊も全滅した今、大和まで失えば元も子もない、という判断。
とはいえ栗田中将は、戦後、この反転理由について、最後まで、
口を開かないまま、世を去りました。

結局、大和のレイテ湾・突入がならず、西村艦隊、小沢艦隊も全滅。
戦艦は大和、陸奥、あと数隻の駆逐艦のみが残りました。

一方、最初に実行された特攻攻撃。その戦果は、みごとなもの。
数機で空母を複数、沈めました。大和以下、戦艦が総がかりで
挙げた戦果を、数機のゼロ戦が達成したわけですから、
帝国海軍・首脳は括目。

以降、航空特攻が帝国海軍の主作戦となり、大和すら、
翌年、特攻出撃。九州沖で沈められました。

海
navy

日経平均の今後(2)

日経平均が2万円になった時、今後の予想はしにくい、と書きました。
その後、上がったり下がったりしながら、今も2万円を挟んだ動き。

私はマーケットに参入せず、市場を見てました。
結局、参入しても、儲からなかったでしょう。

今後も、やはり予想できません。プラス材料とマイナス材料が拮抗。
こんな時は、やはり静観。焦ってはいけません。

のべつまくなしに取引してないとサビしい、という人は、
スッテンテンになるだけ。待つ時はジックリ待ちましょう。
川中島の戦いを思い出すべきです。

チーズ・ケーキ
cheese cake

芝高の二年生(3)

新宿教室の月曜・二限。二年生のクラス。授業後、芝高生が質問に。
夏休みの勉強法について。夏期講習に来ればいいじゃないか。
そう言おうとすると。

部活があるんです。
・・・

なんでも夏期講習のタームには、ちょうど長野で合宿。芝高・陸上競技部。
涼しい場所で、一日中、走るとか。それを「行くな」とは言えません。
ということで次善策。せめて二学期、遅れたスタートにならないよう。

とはいえ、陸上競技部。二年生は中核。ここで責任感を発揮しなくて、
いつ発揮するのでしょう。そう。今は長野に行く彼を見送らなくては、
なりません。勉強はいつでもできるけど、部活は今しかできません。

桜島
eruption

日比谷高校(38)

月曜・一限、新宿の国立クラス。授業後、日比谷・男子と話すことに。
一番、後ろで毎回、出席した男子。学期途中から、当たり始めましたが、
答えはいつも的確。さすが日比谷生。ちょうど、その日は日比谷・
野球部の試合日。話してると。

相手は東実でしたよ。

なんと、東京実業! 昨夏、江戸川球場のカードと同じでは、
ありませんか。で、結果は? 聞いてみました。すると。

2-7で負けたみたいです・・・

昨夏は0-3の熱闘。けれど、今年は完敗。残念。

さて、今はまだ一人の日比谷・男子。これから夏期講習にかけて、
他の日比谷生も、ポツポツ来塾し始めるでしょう。都立のスタートは遅い。
毎年、歯がゆいほど。新しい塾生が来る時、彼にリードしてもらいましょう。

空
summer sky

GPIF、十五・三兆円の黒字

安倍内閣の方針で、株式保有率を上げたGPIF。それが昨年度、
良い結果をもたらしました。1万5000円くらいで始まった日経平均が、
2万円まで上昇。GPIF運用益は、なんと十五・三兆円!

アベノミクスは官製相場と言われます。確かに、株価を押し上げる
政策を優先的に採用。庶民には、関係ない景気回復だ、とも。

とはいえ、株価上昇による年金財政の改善。これに不服を唱える人は、
いないでしょう。株価をバカにしてはいけません。たとえ相場を張って
なくても、株価は、さまざまな形で全ての人に影響を与えます。
資本主義社会である限り、そうです。

だからこそ、このブログでも、力を入れて、株価フォロー。
今後も逐一、紹介していきましょう。

花火
summer night

インパール作戦

牟田口廉也(むたぐち れんや)が立案した作戦。昭和十九年・三月のこと。
ビルマに軍を展開し、イギリス軍を破ってインド東部・インパールまで侵攻。
そして、チャンドラ・ボースと手を結ぼうという、壮大な作戦。けれど内実は、
ほとんど白昼夢。2000m級の山岳地帯を、踏破するというのですから。

牟田口は盧溝橋事件の時、現地で連隊長だった軍人。盧溝橋事件が拡大し、
支那事変、大東亜戦争となったわけですから、大東亜戦争の張本人。
そんな軍人が出世するのだから、帝国陸軍は末期症状。

インパール作戦の時、牟田口は第十五軍・司令官。作戦立案できる立場に
ありました。そして出てきたのが、インパール作戦。兵站(ロジスティクス)を
全く無視した作戦だったため、参謀は全員、反対。

牟田口は反対する参謀を「敢闘精神がない」「病気」という理由で、
次々に更迭。参謀には兵站の専門家もいたのですが、作戦に反対し、
やはり更迭。現地司令部はしだいに、何も言えない雰囲気に。

ビルマには青々と緑が茂っているのに、糧秣が足りないとは何たることか!

牟田口の言葉に、部下は二の句が継げませんでした。しかも、
そんな作戦を大本営は了承。十万名の兵士が動員されました。

現地の状況を考えず、地図だけ見て作戦立案。弾薬、糧秣は敵を倒して、
そこから奪うという信じられない精神。ロジスティクスも何もありません。

案の定、作戦は弾薬不足、糧秣不足で、すぐに滞りました。牟田口は天長節
(天皇誕生日)までに戦果を挙げようと焦りましたが、戦局は悪化する一方。
負けがこんでくると、牟田口は現地司令部に作った神棚に向かって、
大声で祝詞(のりと)を上げ始めました。

バカな指揮官、敵より怖い。

末端兵士は、そう囁きあったとか。雨季がビルマに到来。日本兵は、
どうすることもできず、飢えとマラリア、赤痢でバタバタ倒れました。
結局、部下の師団長が独断で撤退を開始し、インパール作戦は破綻。

しかも七月には牟田口ら指導部もビルマを後にし、戦場には、
末端兵士が撤退も降伏も許されず、ほったらかされました。

今、振り返って、帝国陸海軍の最大欠点は、負けを想定せず、
戦いの後始末を考えなかったことです。負けた時、その咎めは
末端兵士に押しつけられ、無意味な死が、あちこちで大量発生。

負けた時には撤退を命令し、それでもダメなら降伏を命令してこそ、
司令官。帝国陸海軍には、そうした戦いの作法が全くありませんでした。
それ故、負けた時、末端兵士もどうしていいか分からず、
各地で無意味な悲劇が繰り返されました。

現代の原発にも言えることでしょう。安全神話を疑うことが許されず、
時代遅れの原発を放置。危ない可能性があるのではないか、という
議論そのものが封印されてしまいました。そして起こった東日本大震災。
メルト・ダウン。日本人の本質を見る思いです。

ビルマに取り残された部隊は、銃剣と手榴弾だけで突撃を命じられました。
もちろん、玉砕。ガダルカナル、ニューギニアで起きたこと、後にフィリピン、
沖縄で起きることが、ここでも繰り返されました。戦死者は七万名を超え、
四万名は餓死、病死。

「白骨街道」と呼ばれる、死体累々の道ができました。撤退兵士は、
白骨を辿れば、補給基地に辿りつける、と励ましあったとか。
大岡正平が「野火」で描いたのは、まさにこの世界。

戦後、牟田口は罪に問われることもなく、生き恥をさらし、あろうことか、
訪問者にはいつも、大声で「インパールは勝てる戦いだった。部下の抗命で
負けた」と言い張りました。自分の葬式でも、子孫に「インパール作戦は
間違ってなかった」というビラを配らせたとか。

こんな真実を戦後、日本人は知らされ、軍隊は、なんとヒドイ場所だろうと、
つくづく思ったわけです。今に続く戦争アレルギーは、こうして始まりました。
インパール作戦の愚かさと悲惨を振り返る時、そのアレルギーは、
当然だと言えなくもありません。

傘
tradition

藤原経清

承平天慶の乱(平将門の乱)鎮圧に貢献し、その後、陸奥に地盤を持った
貴族、藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)。その秀郷から数えて四代目が、
藤原経清(ふじわらの つねきよ)。ゆくゆくは陸奥守になる
可能性もある人物。奥州の実力者。

時は十一世紀・後半。栄華を誇った摂関政治に、陰りが見え始めた頃。
現在の東北地方は、東が「奥六郡」西が「山北三郡」と呼ばれてました。
おおまかな呼称で、それ以外は未開の地。

奥六郡を支配したのが安倍氏。藤原経清の時代、棟梁は安倍頼時
(あべの よりとき)。頼時は山北三郡の清原氏と同盟を結び、
絶大な権力をふるいました。奥六郡で取れる金(きん)、駿馬を
朝廷に献上。自治を認めさせ、奥六郡は事実上、独立国。

藤原経清は安倍氏と昵懇となり、頼時の娘を妻に迎えました。とはいえ、
当時、奥六郡の人々は朝廷から「俘囚」と呼ばれ、人間扱いされてません。
俘囚から嫁をもらったということで、経清の未来も、断たれました。
もちろん、それは覚悟の上。

経清は安倍氏の一族となり、奥六郡の運営にも参加。ところが、
ずっと安倍氏を率いた頼時が死去。この機にすかさず、同盟にあった
清原氏が安倍氏に侵攻。時の陸奥守・源頼義(みなもとの よりよし)が
清原氏に加担。大きな戦いとなりました。

源氏の棟梁・源頼義。武士として初めて陸奥守に上りつめました。
次は奥六郡の支配を企図し、清原氏の侵攻に深く関与。
いわば、この戦いは頼義の私戦。

頼義の息子・義家も戦いに参加。けれど、結局は大義なき戦い。
義家は後に「八万大菩薩」と崇められる、武士の神。
けれど、実際にやってたことは、父親の私戦。

安倍氏は各地に柵を構え、鉄壁の陣地を構えたはずでした。しかし、
頼義、義家という戦いのプロを相手に苦戦。源氏の軍略には勝てず、
とうとう最後の砦・厨川(くりやがわ)の柵も、火攻めで落とされました。

安倍氏は滅亡。藤原経清は戦死。その妻は清原氏に奪われ、
清原氏・棟梁の側室に。この妻には、経清との間に男子がいましたが、
この男子は命を許され、清原氏一族として成長。名前も「清衡」(きよひら)
と改め、清原清衡(きよはらの きよひら)。

やがて清衡には弟が誕生。「家衡」(いえひら)と名づけられました。
清衡、家衡の兄弟は、清原氏の中で、父親が違う兄弟として、
育つことになります。

安倍氏が、清原氏と源頼義の結託によって滅ぼされた、この戦い。
前九年の役(ぜんくねんの えき)と呼びます。

緑
July

全共闘

昭和三十五年の安保闘争。それから十年経ち、昭和四十五年が近づく頃、
日本の大学で、再び、権力への反対運動が起きました。全共闘運動。
学園紛争ともいいます。

当時、日本だけでなく、フランスでもアメリカでも学園紛争がありましたから、
全共闘としては、自分たちは一人じゃない、みたいな連帯感も、
あったようです。

いずれにせよ、全共闘。安保闘争より規模が遥かに大きく、
社会に与えた影響も甚大。しかも安保闘争と違い、昭和四十五年で
終わらず、昭和、平成にまで影響が残りました。

全共闘の最大事件は、昭和四十四年・一月の東大落城。四百名ほどの
学生が、東大・安田講堂を占拠。「大学の自治」を叫んでバリケードを
築き、授業も試験もできなくなりました。

全共闘はどこの大学にも蔓延。けれど最もヒドかったのは、やはり東大。
前年の昭和四十三年、東大・医学部で教員、学生の対立が発生。それが
激化して、この東大封鎖。昭和四十三年度、東大では一年を通じて、
ろくすっぽ授業ができませんでした。

年が明けた一月。この時、東大・総長代理が、機動隊に突入要請。
催涙弾や放水で、東大生を締めあげました。東大生も応戦。火炎瓶や
爆弾を作って投げ始め、機動隊隊員に殉職者。一種の戦争状態。

もちろん学生が機動隊に勝てるはずありません。結局、安田講堂に白旗が
上がり、東大生は降伏。けれど、二カ月後の三月、とても入試ができる
状況になく、この年、東大入試は中止。多くの受験生が涙を呑みました。

全共闘でヒドかったのは、セクト間の内ゲバ。中核派、革マル派、
社青同・・・多くのセクトが乱立。彼らは団結して権力に戦うことはなく、
互いに反目し、殺し合いを始めました。それが内ゲバ。

この時の内ゲバはすさまじく、最初は棒を持って叩きあう、くらい
だったのが、武器も方法もエスカレート。結果、多くの死者、
身体障害者が出ました。

ゲバ棒に釘を刺し、相手セクト構成員の頭を狙って、殴りかかりました。
もちろん当たれば、頭からドンドン出血。それを「スイカ割り」という
隠語で呼び、自分たちの機関紙には「革命」だの「闘争」だの
という言葉で、美化。

そんな人殺し経験を持つ者に就職先など、ありません。行き場をなくした
学生の多くが、大学院にもぐりこみ、その後、なに食わぬ顔をして、
大学教員になりました。

その全共闘世代が今、教授、あるいは学部長になってます。今の大学生、
これから大学に行こうとしてる高校生は、自分たちが大学で見る教員の
何名かは、血みどろの内ゲバ実行者であり、中には、比喩でなく、
殺人者もいると、知っとくべきでしょう。

内ゲバには、公安警察の関与もあったようです。公安警察は伝統的に、
対象団体に入りこみ、内紛、疑心暗鬼を起こさせる手法を取ります。

公安警察が、それぞれのセクトに工作員を入れ、対立しあう状況を
作りだしたことが、当時の資料から、うっすら分かります。ただし、
公安警察は、闇組織。関与の本格的な証明は、やはり不可能。

全共闘の悲惨は猖獗(しょうけつ)を極め、関係者が今、思い出し
たがらないのも、分からないわけではありません。けれど、あの世代。
誰一人、社会に迷惑をかけたこと、多くの人を物理的に傷つけたことを、
今、反省する言葉を吐きません。これは驚きです。

先生、全共闘の時、何をなさってましたか?

もし学生がそう問えば、青ざめて絶句する大学教員は多いはず。
彼らはだんまりを決めこみ、大学ポストを死守。日本の大学、
特に文系学部の授業が、お粗末きわまりない理由の一つは、
こうした全共闘世代が巣食ってるからです。

若い時に大学解体だの、ブルジョア打破だの言ってた者が、宗旨替えして、
なんと大学の教壇に。そのような者が、まともなことを言えるはずありません。
今の大学生が経験する、とても教育と呼べないお粗末授業は、
全共闘世代に、最大の原因があります。

大学だけでは、ありません。今、話題になってる沖縄の基地反対運動、
あるいは原発反対運動。こうした運動員の多くは、地元民では、ありません。
そこで出てくる初老の者たちは、たいてい、全共闘・経験者。

彼らは、こんな形で、かつての内ゲバを引きずってるわけです。沖縄左翼、
反原発左翼の、あきれた実態。その具体例については、別な記事に
するとして、その運動員も、辿っていけば、やっぱり全共闘。

凄惨な記憶しかない全共闘。けれど、そこに一種、生の燃焼を見て、
話してみよう、と思った作家がいました。三島由紀夫です。

三島は既に、民族主義、国粋主義の言論を展開してましたから、
全共闘にとっては敵。けれどヘタレ教員と違い、公開討論に応じよう、
という三島の呼びかけを、学生たちも意気に感じ、
三島と東大・全共闘の対話が実現。

会場は超満員。メディアも注目。普段は、目上の者に、ぞんざいな態度を取り、
自分たちこそ革命の指針と、うそぶいてた東大・全共闘も、三島には、
シッカリ敬語を使いました。当然、政治の話題が多かった中、
ある学生が、こんな質問。

三島さんの作品には、夭折する主人公が多いのに、
どうして三島さんは、そうしなかったのですか?

しばらく考えて三島は。

・・・その機会が、なかったからだな。

会場は大爆笑。暗く悲惨な全共闘の歴史で、
ほぼ唯一といっていい、心なごむ風景。

今、やっと大学で全共闘世代が退職しつつあり、これは良いことです。
大学は、これから改革していかねばなりません。その時、全共闘とは
何だったのか、どれほどヒドかったのかを、振り返っておくことには、
意味があります。

道
Weg

藤原泰衡

「ふじわらの やすひら」と読みます。百年続いた奥州藤原氏の四代目。
泰衡で最後。とはいえ、泰衡が奥州藤原氏の長として君臨したのは、
文治五年の、ほんの数カ月。源頼朝が八月、攻めてきて、平泉は陥落。
清衡、基衡、秀衡と続いた奥州藤原氏は、ここに滅亡。

四代目の泰衡。今の護憲派が喜びそうな平和主義者。実は当時の
奥州藤原氏。二十万ともいわれる兵力を持ち、この時は源義経も、
いました。この大兵力と、義経の軍略をもってすれば、頼朝など、
寄せつけないはず。

けれど名君・秀衡が文治五年に死去。秀衡は死の直前、国衡(長子)、
泰衡(嫡子)の二人の息子に起請文を書かせ、義経を主君として、
鎌倉幕府に対抗するよう、神前で誓わせました。平泉は、鎌倉幕府の
むたいな要求を、果敢にはねつける予定だったのです。

ところが秀衡が亡くなった後、平泉を任された泰衡。頼朝にちょっと
脅されるとブルブル震えだし、結局、義経を殺害。国衡(長兄)、
忠衡(ただひら:末弟)も殺し、自分も、最後は頼朝に討たれました。

戦わずして敗れた泰衡。時代劇では「文化の力、美の力で、鎌倉幕府を
圧倒する」みたいな、護憲派セリフを吐きます。けれど、こんなことを
言ってるうちに、百年続いた奥州藤原氏は滅亡。

潰れてしまったら、元も子もありません。その点では、
国家や企業のリーダーは、どんな言い訳もできません。

けれど泰衡。ろくすっぽ戦わず、頼朝の軍門に下り、自ら滅亡。
これを良しと言える人はいないでしょう。以降、東北地方は常に中央から
指令を受ける立場となり、日本史の中で、二度と指導的地位に
立つことはありませんでした。

百年にわたって、京から独立し、金(きん)、馬、貿易に基づいて
栄えた奥州藤原氏。その末路を見ることは、今の日本を
見ることにもなるでしょう。

葉
nature

南京大虐殺の大嘘(2)

戦後七十年の今年、中国が南京大虐殺をもっと大々的に宣伝してもいいのに、
やけに静かだな、とフシギに思う人はいないでしょうか?

帝国陸軍が南京攻略したのは、昭和十二年・十二月。その五カ月前の七月、
盧溝橋事件(ろこうきょう じけん)が発生。それが拡大して支那事変に
なりました。日本政府は、戦争にしたくなかったため、「事変」と呼び、
宣戦布告もなく、戦争でないということで、各国の介入を招きました。

ドイツ、アメリカといった国が、公然と蒋介石軍に武力援助。
戦争ではありませんから、日本は何の抗議もできませんでした。

後に、ドイツと三国同盟を結んだ日本。泥沼の対米戦争に突入。
けれど、ドイツは中国大陸で、全く日本の味方ではありませんでした。

一発の銃声で始まった盧溝橋事件。当時、誰もこの事件が、何年も続く
支那事変の始まりになろうとは考えませんでした。けれど、上海で起きた、
日本海軍士官・殺害事件で、米内海相が激怒。海軍陸戦隊の派遣を
決定し、事変が拡大。

米内光政(よない みつまさ)は、戦争に反対した海軍・良識派のように
言われますが、この第二次・上海事変では、全く強硬論を主張。翌年、
昭和十八年・一月、近衛首相に「国民党政府を相手にせず」という声明を
出させ、事変をさらに長引かせたのも、米内。米内は平和主義者
という固定観念は、今、疑われるべきです。

さて、陸海軍共同で実行された南京攻略。そこで二十万人とも三十万人とも
いわれる民間人・大虐殺があったということですが、これは大嘘。
数字そのものも、時代によってドンドン変化。信憑性がありません。

当時、上海租界には、世界各国のメディアが集合。当然、支那事変に
ついても、連日、報道されました。南京にも大勢、各国ジャーナリストが
いたはずです。しかし、彼らの誰一人、大虐殺など報じません。

というより、南京大虐殺は、戦後の東京裁判で、初めて出てきた話。
関係者は寝耳に水。しかも、この時の裁判はヒドイもので、
南京大虐殺といいながら、何一つ証拠は提出されず、
証言一つあったのみ。

その証言すら、裁判で追及されると、伝聞だったと判明。関係者の注目は
南京攻略の責任者・松井岩根(まつい いわね)大将に集まりました。

しかし、東京裁判。肝心の松井大将の証言部分は、今だカット。どれほど、
歴史家や学者が開示を求めても、アメリカ政府は応じません。応じないのも
当然で、大虐殺など、そもそもないからです。

帝国陸軍の兵士は、北清事変(義和団の乱)の頃から、その統率と、
道徳の高さで、各国の耳目を集めてました。組織的に
民間人虐殺を始めるなど、ありえません。

そもそも、そんな大虐殺があったのなら、どうして各国メディアは、九年間も
沈黙したのでしょうか? 当時、アメリカで派手な反日キャンペーンを
展開した宋美齢たちも、南京大虐殺など一言も口にしてません。

戦後だって、蒋介石、毛沢東、周恩来、鄧小平。彼らの誰一人、
南京大虐殺など、言いだしません。そんなものは、なかったからです。
昭和四十七年の日中国交交渉でも、南京大虐殺は、
話題にも上りませんでした。

東京裁判で、突如として出てきた南京大虐殺。一言で言えば、原爆投下、
日本の諸都市での民間人爆撃など、国際法を破りまくったアメリカが、
日本も、こんな悪いことをした、とデッチ上げ、自らの非道を
隠そうとした、というのが、真相。

東京裁判そのものが、事後法で裁く、という、およそ近代法学とは
かけ離れた裁判。全く正当性はありません。

戦後、日本で南京大虐殺が話題になったのは、昭和四十六年、朝日新聞・
記者だった本多勝一が「中国への旅」というルポを朝日新聞に掲載。
そこで宣伝し始めてからです。

十二月なのに夏服だったり、写ってる人の影がバラバラだったり、
という奇妙な写真が証拠として挙げられました。誰がどこで撮影したかも
分からない写真。虐殺現場に連行される市民の姿。けれど、その顔が
笑ってるという、漫画のような写真。

けれど、多くは残虐な写真だったため、本多の記事は日本人の心に、
強い印象を残しました。しかも当時、朝日新聞には大きな権威があり、
朝日新聞が掲載したから、事実だろうと受けとめられました。

慰安婦・強制連行といい、南京大虐殺といい、朝日新聞は戦後、
一貫して、デタラメ反日記事を掲載し、広めてきました。今も購読料を払って、
こんな新聞を読んでる人がいること自体、私には信じられません。

パク政権が二年前から慰安婦・強制連行を言いたて、それによって
嘘がばれ、昨夏、朝日新聞の二面を使った、大きな訂正記事につながりました。

そうです。もし今、中国政府が南京大虐殺を大々的に宣伝すれば、
慰安婦・強制連行と同じく、嘘がばれてしまうと、中国政府はシッカリ
気づいてます。だから、黙ってるわけです。

反日・朝日新聞のキャンペーンに、日本共産党や日教組がホイホイと乗り、
教育現場でも数十年間、ありもしない南京大虐殺を、日本の子供は教えられ、
祖先を貶められてきました。今も、教育現場は、ほとんど変わってません。
学校教員の頭は固いまま。

ただし、便衣兵(べんいへい)の話はしておかなくては、なりません。
便衣兵とは、軍人なのに民間人の服を着た兵士のこと。国際法では、
兵士は軍服を脱ぎ、民間人の服を着てはならない、と定められてます。
敵味方の区別ができなくなり、それこそ民間人虐殺につながるからです。

ところが蒋介石軍。日本軍の到来を予想し、軍服を脱いで逃走。
この時、彼らが脱ぎ捨てた山のような軍服。それはシッカリ写真として、
残ってます。そして民間人として、逃走。

けれど彼らは軍人ですから、そのような者たちを、日本軍が見つけだし、
処刑したことは、あるでしょう。その規模は、もう推定できません。
しかも、こうした処刑は、国際法で認められてます。

来月には、安倍首相が七十年談話を発表するとか。そんな談話、
そもそも出さなければいいのに、というのが、私の意見。

その時、中国政府は、どんな反応を示すでしょうか? 南京大虐殺の
大嘘を大声で言いたてるでしょうか? 冷静に見ておきましょう。

幻
lie

北条実時

赤い京急に乗れば、どんな電車も金沢文庫駅に停車。金沢文庫と聞いて、
知らない人は、大きな本屋さんでもあるのかな、と思うかもしれません。

鎌倉期、金沢・北条氏が、この地域を本拠にしました。一門の一人、
北条実時(ほうじょう さねとき)が、晩年、ここに文庫を作ったことが、
名前の由来。

実時は、北条・嫡流から離れてたため、執権になる可能性は、ほぼゼロ。
けれど評定衆として、常に若き北条時宗を支えました。蒙古襲来の直前。

実時に政治野心はなく、それが周囲にも明白だったため、政争にも
巻きこまれず、政治家なのに、生涯、学者のような人生を送ることができました。
骨肉の争いと陰謀が百四十年間、続いた鎌倉幕府。その中で、政権中枢に
ありながら、ほぼ唯一、誰からも敵視されず、信頼された政治家。

金沢文庫を抱える称名寺(しょうみょう じ)。境内の奥、けもの道を
上へドンドン上がっていくと、実時の墓がひっそりと、あります。
今ですら、ほとんど誰も来ない場所。以前は、もっと
静かだったでしょう。いかにも実時らしい廟。

死後も、静かにしていたい、という実時の気持ちが表れてます。
廟前に立つ時は、帽子を取って一礼すべきでしょう。

青
Vergangenheit

中国、南シナ海で岩礁埋立て

中国が南シナ海の岩礁を埋立てを完了。3000m級の滑走路・建設が
可能ということですから、軍事的意味は大きい。

「南沙諸島」と呼ばれるこの地域は、ベトナム、フィリピンなど、もともと
領有権を主張。中国が割ってはいり、勝手に埋立てを完了。次の過程は
もちろん、滑走路・建設。、ベトナム、フィリピンだけでなく、
アメリカも、中国を非難。

日本政府は、やんわりした非難。中国を怒らせたくないようです。
日本は東シナ海で、尖閣問題を抱えてますから、
それをこじらせたくないのでしょう。

ここで、日本がもっと軍事的責任を果たすべきなのに・・・

実は、これが東南アジア諸国の偽らざる意見。アジアで、中国の横暴に
対抗し得る国は、日本しかありません。日本が軍事的責任を持てば、
中国の膨張は、もっと抑えられるでしょう。

現在、武力は戦争のためというより、外交手段の一つとして持つもの。
中国、北朝鮮のような国の武力は、周辺国に脅威ですが、日本のような
平和な国の武力は、地域安定に、むしろ貢献。現在の日本、あるいは
日本人を冷静に見て、好戦的だ、危ないと言う人は、まずいないでしょう。

護憲派、人権派が、全く見ようとしないことも、これ。中国のような好戦的な
国には、周辺国が相応の武力を持たないと、むしろ危ないということ。

日本の護憲派、人権派は、日本の集団的・自衛権には猛烈に反発。
けれど中国、北朝鮮の好戦性、猛烈な人権弾圧については一切、沈黙。
日本の護憲派、人権派は、チベット、ウィグル、南モンゴルで、
今も続いてる地獄について、どうして抗議しないのでしょうか?
北朝鮮の管理所について、どうして一言もないのでしょうか?

日本の護憲派、人権派の意見はデタラメです。彼らは中国、北朝鮮の
現実から、話を始めるべきです。現実を見れば、武力放棄などトンデモナイ、
とすぐに分かるはず。現実を見ずして、どんな力ある言葉も
ありえません。

緑
green

桐朋高校(8)

渋谷教室の国立クラス。木曜・一限。桐朋生が一学期、一度も休まず出席。
しかも一番前での受講。二年生の頃、一番後ろに座ってることも
あったのだから、げに、人は成長するものです。

そんな彼と授業後、エレベーターで一緒になりました。渋谷教室から、
地下鉄入口まで、ほんの100m。けれど、何か話すいい機会。
桐朋学園に話を振ってみると。

進学実績は、ちょっと落ちてますね・・・

確かに、桐朋生。以前は東大・合格者を五十名ほど出してたわけですから、
最近の数字は、少しサビしいとは言えるでしょう。けれど、自由を重んじる
校風は、まだまだ健在。最近の受講生を見ても、魅力的な人ばかり。
やはり、学校の価値は進学実績だけで計ることはできません。

道
the course of life

横浜雙葉高校(7)

横浜教室の帰り道、横浜雙葉生。駅まで一緒に帰ることになりました。
なぜか、彼女とは京急電鉄の話で盛りあがります。ずっと京急に
乗ってる女子。愛着あるようで、いろいろ話してきます。

今回は発車ベル。京急の発車ベルなんて、これまで気にも留めません
でしたが、言われてみれば、横浜駅では、確かに「ブルー・ライト横浜」。
昭和四十三年、いしだあゆみが、シットリ歌いあげた曲。

横浜雙葉生の話では、この他にも、駅によって発車ベル、
いろいろあるとか。ゆずの「夏色」もあるという話だから、
今度はシッカリ耳をすませないといけませんね。

青い蝶
adolescence

田園調布雙葉高校(16)

火曜日の横浜教室。私立クラスで英作文。
課題は"What matters most in life is money"。
「人生で最も大切なものは、お金です。」

この意見に対し、賛否を書き、具体例で補強しなくてはなりません。
テキストは六十~七十語の設定でしたが、私は百語に設定。
まともな内容の英文を書くなら、それくらいは必要。

うーん。頭を絞る女子たち。そんな中、一番後ろに座った田雙生。
個性的な英文を書いてきました。「生活水準を、いったん上げると、
なかなか下げられない」と論じ、それを自分の具体例で補強。
最後に、お金の大切さへとつなげました。

高校生が書く文章は、具体的でないとダメ。抽象的なことを書いても、
説得力がありません。けれど、田雙生。英文ミスをしながらも、
自分が体験したこと、そこで考えたことを、一生懸命、綴りました。

たかが、大学受験の英作文。でも、マジメにやれば、普段、
見過ごしてることに気づいたり、人生について、ちょっぴり反省したり。
きっと、田雙生。家に帰って、お母さんに「こんな英語、書いたんだよ」
報告したことでしょう。

青
blue

明徳の和約

鎌倉期・終わり、後嵯峨天皇の後、第三子・後深草天皇と第四子・亀山天皇の間で、
皇位継承をめぐる対立が発生。後深草天皇が持明院統、亀山天皇が大覚寺統を作り、
両統交代で天皇に就任する、という慣習ができました。これを「両統迭立」
(りょうとう てつりつ)と呼びます。

北条氏が倒れ、鎌倉幕府は滅亡。後を継いだ後醍醐天皇の治世。
大覚寺統だった後醍醐天皇は、皇位を持明院統に移さず、
自らの嫡子(後村上天皇)に継承しようと画策。

この頃、後醍醐天皇と対立した足利尊氏。武力を用いて、
後醍醐天皇を京から追放。後醍醐天皇を武力で支えた楠正成、
新田義貞、北畠顕家たちは既に戦死。後醍醐天皇には、
逃れる以外、方法がありませんでした。

尊氏は持明院統の光明天皇を擁立し、北朝。奈良・吉野に逃れた
後醍醐天皇は後村上天皇に継承させ、南朝。鎌倉期の持明院統、
大覚寺統の対立が、室町期、そのまま北朝、南朝の対立に。

南北朝時代が六十年ほど続き、三代将軍・義満の時、北朝が南朝の
正統性を認める形で、やっと南北朝合一。この時、結ばれた和約が、
明徳の和約。明徳三年(1392年)のこと。

皇室血統は北朝を引き継ぎますが、歴代天皇は南朝を認め、両統の顔を
立てました。ちなみに、歴史家の中には、南北朝時代は、皇室が分裂し、
正当な時代とは呼べず、室町幕府は明徳三年から始まる、
と考える人もいます。

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