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ミッドウェー海戦

大東亜戦争の中で、日本人として最も悔しい戦いこそ、ミッドウェー海戦。
それまで連戦連勝だった帝国海軍は、ここで進撃をストップ。

昭和十七年・四月、アメリカ・ドゥリットル隊が日本近海まで空母を近づけ、
爆撃機を発艦し、東京を空襲。当時、太平洋の制海権、制空権は
日本にありましたから、アメリカとしては完全に不利な戦い。

東京を爆撃した後、爆撃機は母艦に帰らず、
中国の基地に着陸する、というムリな作戦。

もちろん、東京の被害は軽微でした。けれど帝国海軍・首脳に与えた
ショックは相当なもの。特に、日米開戦に責任があった山本五十六は、
東京空襲を見て、アメリカ機動部隊が健在と確信。
ミッドウェー作戦を発令しました。

ハワイ作戦と同じく、この時も幕僚から反対意見が続出。
けれど山本に押し切られました。作戦担当は黒島参謀。
黒島は奇行で有名でしたが、なぜか山本に気に入られ、
ミッドウェー作戦を立案することになりました。

結果、出てきた作戦は北はアリューシャン列島から、
南はニューギニアに至る大構想。イメージ先行の山本、黒島には、
素晴らしいプランに見えたかもしれませんが、範囲が広すぎて、
作戦目的が、ぼやけました。

ミッドウェー島・攻略と、アメリカ空母・撃滅の、どちらが主目的か、
ハッキリしない作戦。けれど、ここまで日本は連戦連勝。
軍を出せば、なんとかなる、という甘い見通し。

一方、ハワイで主力戦艦を失い、背水の陣のアメリカ。
日本の暗号解読に必死。ようやく、次の攻撃目標は
ミッドウェーと、つきとめました。

海戦では、待ち伏せした方が圧倒的に有利。ドゥリットル隊の
東京空襲で日本人を動揺させ、暗号解読によって、
進路をつきとめ、待ち伏せという頭脳作戦。

主目的がミッドウェー島・攻略なら、戦艦大和を全面に出し、
猛烈な火力で島を砲撃してから、上陸部隊を出せば、
ミッドウェーなど簡単に落とせたでしょう。

けれど帝国海軍。四隻の空母を全面に押し出す布陣。
第一次・攻撃隊は予定通り、ミッドウェー空襲。けれど待ち構えた
アメリカ軍。効果的な対空砲火で阻止。攻撃隊の友永大尉は
「第二次・攻撃の要ありと、認む」と打電。

赤城・司令室では、この電文を受け、それまでの艦攻兵装を、
陸攻兵装に転換。空母は近海にいない、という、これも甘い読み。
偵察機も、遅れて出発。

兵装転換がほぼ完了した頃、遅れて出発した偵察機から、
「敵空母、見ゆ」の電文。赤城・司令室は色めきたちました。
空母を攻撃するためには、陸攻兵装を、再び艦攻兵装に
戻さなくてはなりません。

この時、アメリカ空母から飛び立った攻撃機が、日本空母への攻撃を
始めてました。発艦したゼロ戦隊が、全て撃退。バタバタ落とされる
アメリカ攻撃機を見て、日本の駆逐艦・艦長は、甲板で海戦を
見学するよう、乗組員に指令を出したほど。

とはいえ、赤城・司令室。決断を迫られてました。飛龍の山口少将からは、
陸攻兵装のまま発艦させるべき、という意見具申が、
矢のように届いてました。

ところが南雲長官。再度の兵装転換を命令。現場の整備兵は、
それを聞いて、耳を疑ったとか。南雲は、もともと水雷・出身。
航空戦には素人。それを補うために源田実(げんだ みのる)
航空参謀がついてたはず。けれど、源田もこの時、
再度の兵装転換を主張。

源田は戦後も生き残り、参議院議員まで務めた人物。けれど、
ミッドウェーの致命的な判断ミスについて、
最後まで責任を取りませんでした。

艦攻兵装への転換がようやく終わり、各空母が「風に立て」の
信号を受け、一番機が飛び立とうとした、まさにその時。
ガラ空きになった上空から、ドーントレス攻撃機が
逆落としで、急降下。太陽を背にしてました。

敵機、急降下!

見張り員が声を発すると同時に、いくつかの爆弾が命中。
甲板にズラリと並んだ攻撃機に、次々と誘爆。赤城、加賀、蒼龍は、
瞬時に火だるま。ドーントレス攻撃機は空母以外に、
目もくれませんでした。

ゼロ戦隊が低空で落としてるうちに、上空がポッカリ空いたわけです。
最初に落とされたアメリカ攻撃機は、おとりだった、
とも言えるでしょう。

日本軍は落とされるアメリカ攻撃機を見て、完全に油断し、
二度の兵装転換という、信じられない愚かさを演じました。
海戦史に、不名誉な記録として、ずっと残ることでしょう。

唯一、無事だった飛龍。けれど後に集中攻撃を受け、大破、炎上。
最終的には、味方の魚雷によって沈没。山口少将は、
加来艦長と共に、戦死。赤城の南雲長官は、
やっとのことで駆逐艦に乗船し、生き残りました。

山本・司令長官は遥か後方、大和にいて、部下と将棋を指してました。
日露戦争の日本海開戦で、東郷・司令長官が、最後まで弾丸が飛び交う
甲板に立ったことと比べ、このだらしなさは、なんということでしょう。

ミッドウェー海戦はアメリカ軍の精神力、集中力に、帝国海軍が
ボロ負けした戦い。それまで圧倒的に有利だった帝国海軍は、
これで太平洋の覇権を失います。

海
the Pacific

マリア・テレジア

十五世紀、神聖ローマ帝国・皇帝をオーストリア・ハプスブルク家から
輩出することになりました。「ハプスブルク朝」と呼ばれます。

ハプスブルク朝で最も異彩を放ったのが、女帝マリア・テレジア。
世界史に詳しくない人でも、マリー・アントワネットのお母さん、
と言えば、分かってもらえるのではないでしょうか。

とはいえ、マリア・テレジア。1740年の即位は多難。プロイセンの
フリードリヒ二世が女帝・即位はけしからん」という理由で、
オーストリアに侵攻。鉄、石炭が豊富に取れる
シュレジェン地方を奪取。

即位したばかりで、力ないマリア・テレジアは、フリードリヒ二世に、
やられっぱなし。小娘のオーストリア君主が、老獪なプロイセン君主に、
なめられたわけです。「オーストリア継承戦争」と呼ばれます。

マリア・テレジアは1756年、シュレジェン奪還を目指して、
自らプロイセンに戦いを挑みます。フランス、ロシアを
味方につけての、万全の体制。

とはいえ、この時、イギリスがプロイセンに与力。これで戦力が
互角となり、戦いは七年間、続きました。「七年戦争」です。

マリア・テレジアは結局、シュレジェン地方を奪還できず、1763年の
パリ条約で七年戦争・終結。とはいえ、フリードリヒ二世に一歩も引かず、
互角に戦ったマリア・テレジアの名声は、欧州にとどろきました。

しかも、この女帝。多産で十六人の子宝に恵まれました。出産しながら、
政務を執ってたようなもの。子女を欧州各地の王室と結ばせ、その外交は
砲艦外交ならぬ「スカート外交」。マリー・アントワネットがフランス・
ブルボン家に嫁したのも、この理由によります。

この時代、オーストリアのマリア・テレジア、プロイセンのフリードリヒ二世、
そしてロシアのエカテリーナ二世が、事実上、欧州を仕切りました。
三名は共同でポーランドを分割。三度の分割により、ポーランドは
十八世紀末、滅亡。音楽家ショパンはこれを嘆いて、フランスに亡命。

十八世紀と言えば、哲学史では啓蒙時代。それ故、マリア・テレジアも
「啓蒙専制君主」と呼ばれることがあります。その抜け目ない外交、
計算された戦争を見れば、確かに「啓蒙」と呼ばれるに
値する君主でした。

花
flower

山口多聞

第三次・攻撃隊、発艦準備、完了!

空母・赤城の司令室に山口多聞(やまぐち たもん)少将から意見具申が
届いたのは、第一次、第二次の攻撃隊の戦果に、将官が全員、
沸き立っていた時。ハワイ作戦は一方的な勝利でした。

けれど山口少将。ハワイにある燃料タンク、そして艦船修理ドックが
無傷であることを見逃さず、第三次・攻撃隊の発艦を、南雲忠一
(なぐも ちゅういち)長官に具申。この時、帝国海軍に、
その余裕は十分にありました。

ワシントンでの宣戦布告・手交が遅れ、ハワイ作戦は騙し討ち。
当時の日本パイロットの腕をもってすれば、アメリカ艦隊の上空に
到達できれば、成功したもの同じ。淵田少佐の有名な「トラトラトラ」は、
第一次・攻撃が始まる直前、発せられました。

ハワイ作戦では、第三次・攻撃については、状況しだい。
第一次、第二次の攻撃が成功すれば、やってみるという予定。
そして大戦果。本来なら、山口少将の具申通り、
ここで第三次・攻撃も敢行すべきところ。

ところが南雲長官は退却を命令。これだけガンバったのだから、
やめようという決断。アメリカ空母が近海にいて、
攻撃される可能性もありました。

ここで山口少将の具申に従い、艦船修理ドックを破壊しておけば、
半年後、珊瑚海海戦で大破したアメリカ空母ヨークタウンが、
その直後、ミッドウェーに出てくることはなく、
その後の戦史も大きく変わったはず。

山口少将はミッドウェー作戦にも参加。空母・飛龍に乗りこみました。
ミッドウェーで南雲・司令部。艦上攻撃の兵装を陸上攻撃に替え、
再び艦上攻撃に替えるという、トンデモナイ失態。

一度目の兵装転換の後「敵空母、見ゆ」の電文を受け取り、
二度目の兵装転換。洋心で、こんなことをしてるうちに、
アメリカ攻撃機がやって来れば、ひとたまりもありません。

ここで山口少将は、一度目の兵装転換で陸上攻撃となった攻撃機を、
そのまま発艦させるよう具申。この具申が通ってれば、日本の攻撃機は
アメリカ空母を沈められなかったかもしれませんが、少なくとも、
味方の空母上で誘爆することも、なかったはず。

山口少将の具申は通らず、二度目の兵装転換がやっと終わり、
日本の四空母から攻撃機が飛び立とうとした、まさに、その時。
アメリカ空母レキシントン、ヨークタウンから飛び立った攻撃機が、
三空母に殺到。味方の攻撃機が誘爆を起こし、赤城、加賀、蒼龍は、
あっというまに炎上。大破。加賀はすぐに沈み始めました。

アメリカ空母の存在を危惧してた山口少将。この時、飛龍を雲下に隠し、
難を逃れました。けれど艦上から三空母の惨状を見て、「われ、今より
航空戦の指揮を執る」という電文を発し、飛龍・攻撃隊に発艦を命じました。

飛龍・攻撃隊はヨークタウンに攻撃を集中。沈没させます。
ようやく一矢報いました。とはいえ、飛龍。もはや援護の航空機なく、
この後、集中攻撃を受け、大破。

ミッドウェー作戦は夜襲も想定してたため、夜、美しい満月が海上に
浮かびました。傾き始め、燃えさかる飛龍・艦上で、山口少将は
総員退去を命じました。そして艦長に向かって。

艦長、今夜は、月でも見よう。

二人で司令室に入り、中から鍵をかけたとか。
飛龍はこの後、日本の潜水艦によって沈められました。

ハワイ作戦でも、ミッドウェー作戦でも、山口少将の意見具申は実に的確。
けれど聞き入れられず、結局、ハワイで勝てても、ミッドウェーで大敗北。
日本はこれ以降、押されっぱなしとなります。

山口少将は独断専行にもかかわらず、その戦いぶりが認められ、
死後、中将に進級。けれど、いくら進級しても、もう彼はいません。
後のマリアナ、レイテで「ここで山口提督あらば・・・」と、
多くの将官が悔しがったほどの名提督です。

水
admiral

西高校(25)

渋谷教室の授業前、西高・卒業生がエレベーター前に。
今春、早大に進学した女子。私も時間がありましたから、
教室近くのコーヒー屋さんで、話すことになりました。

彼女はサークルをかけもちして、忙しい毎日。少し会わないうちに、
スッカリ大学生の雰囲気。そんな彼女に早大の授業について、
聞いてみました。今年も、塾には早大・志望の後輩がたくさん。
在学生に本音を聞ける、良い機会。けれど。

授業は、つまらないですね・・・

一つくらいマシな授業もないかと食い下がりましたが、どれもダメ。
そもそも早大・教員、人前で話す訓練をしてない人ばかり。
やはり早大の授業には期待できないようです。

けれど、あえて言えば、ヨガ講座が充実してるとか。
なんと、早大でヨガ講座とは。確かに、アーユルヴェーダ哲学に
裏打ちされたヨガは、学ぶ価値あるもの。私も興味ある分野。
座法や呼吸法の話で盛り上がりました。

とはいえ早大。いろんな人に出会えて、楽しいとのこと。
授業に期待しない、と割り切れるなら、早大は昔も今も、
それなりに面白い場所。

学園祭には、なにかの演目で出たい、と言う女子。
もし決まれば、私も久しぶりに早大に足を運びましょう。

藤
May

大阪都構想、僅差で否決

橋下市長が掲げた大阪都構想が否決されました。
大阪は今のまま。変わることができませんでした。

府と市がメンツを争って、あちこちに同一施設を建設し、税金を無駄使い
してきた大阪。大阪市民は、そんな二重行政に「ノー」を
つきつけませんでした。橋下市長は政界引退を表明。

地方行政の無駄使いには、地元利権がベッタリはりついてます。
そんな利権と癒着する既成政党が、こぞって大阪都構想に反対。
自民党と共産党が同じ宣伝カーで反対を訴えました。

反対派は「府と市で話し合えば二重行政は解消できる」と言ってますが、
今まで数十年間、そう言いながら、ほったらかしてきました。
一年も経てば、また無駄使いを始めるでしょう。
その税金を払うのは大阪市民です。

橋下市長の個性をもってすら、変えられない大阪。オリンピック招致など、
これで夢のまた夢。横浜、名古屋の次あたりに甘んじることになります。
それどころか、今回の結果を受け、失望した企業、富裕層が、
ますます大阪を敬遠。残るのは貧者と高齢者ばかり。

この貧者と高齢者こそ、既成政党の大票田。貧者と高齢者が自分たちを
利する既成政党に投票し、若者は無関心。こんな街に未来はありません。
既成政党は対案なく、これからも無責任と言い訳を繰り返すだけでしょう。

大阪都構想・可決となれば、大阪にとどまらず、日本の政界再編にも
つながり得ただけに、残念。私が住んでる横浜市も大阪都構想を受けて
「横浜も特別自治市を目指す」と打ち出しましたが、それも、これで頓挫。
今の女性・横浜市長の力では、とても無理な課題。

残念な結果に終わった、今回の住民投票。けれど、その過程によって、
既成政党の本質が、よりハッキリしたとは言えるでしょう。

朝顔
morning glory

憲法九条と日本共産党(2)

日本共産党は憲法制定時、公党として唯一、憲法九条に反対。
野坂参三(のざか さんぞう)は「武力なくして民族独立は保てない」と主張。
今、振り返っても、この言葉は正論でしょう。

昭和三十年の六全協まで、日本共産党は武力革命を目指してました。
昭和四十年になっても「武力革命ができそうなら、やる」という考えが
支配的。武力革命を唱えたレーニン、毛沢東の著作集が、
当時、党員の必読書でした。

野坂が武力放棄に反対したのは、国内に武力なければ、
武力革命ができなくなるからです。もちろん日米安全保障条約にも反対。
アメリカ軍がいては、武力革命など、おぼつきません。

ですから、日本共産党がいつしか、憲法順守に転換し、
「非武装・中立」を党是と掲げ、自衛隊を「違憲」とした時、
安保条約へのスタンスも変えるべきでした。自衛隊を違憲とみなす以上、
在日米軍の存在は認める、というふうに。

けれど日本共産党。自衛隊を違憲とみなしながら、安保反対は堅持。
結果、日本共産党の安保理論は、日本は非武装地帯、
国際紛争は話し合いで解決、となりました。

最近、メディアによく出る小池晃(こいけ あきら)副委員長。
彼の言葉も、そうなってます。一体、小池・副委員長、今の中国、
北朝鮮の軍拡を見て、あるいは韓国の猛烈な反日ぶりを見て、
日本が非武装地帯でいいと、本気で思ってるのでしょうか?

日本共産党の安保理論は現実無視。無責任です。

中国国内のすさまじい人権弾圧、北朝鮮による卑劣な日本人拉致。
しんぶん赤旗に、それらの特集記事が掲載されることはありません。
日本共産党が中国大使館に抗議することも、拉致被害者・集会に
党代表を送ることもありません。

武力放棄など言い続けてれば、反日国家が喜ぶだけ。
日本共産党がどう思ってるかはともかく、その安保理論は、
周辺国を喜ばせるだけです。

五月
May

カルロヴィッツ条約

「近代化」が「西洋化」を意味するなら、カルロヴィッツ条約をもって、
世界史の近代が始まったと言っていいでしょう。十七世紀・最後の1699年、
オスマン・トルコと欧州諸国の間で結ばれました。西洋が世界史の中心に
躍り出るきっかけとなりました。

十六、十七世紀はオスマン・トルコの世紀。十六世紀・前半、
スレイマン大帝の時、オスマン・トルコは最盛期を迎えます。

しかし最盛期は衰退の始まり。この時、既に広大な領土を
維持できなくなり、間接統治の地域が多くなります。

1571年、レパント海戦でオスマン・トルコ海軍が、スペイン海軍に敗れます。
ここでオスマン・トルコの進撃は止まりました。十七世紀に入り、オスマン・
トルコによる二度の欧州遠征。二度目の1683年、ウィーン包囲に失敗。

この結果、オスマン・トルコは欧州各国に領土を割譲することになりました。
この領土割譲を取り決めた条約こそ、カルロヴィッツ条約。

これにより、ハンガリーがオーストリアに割譲されます。オスマン・
トルコは以降、衰退を重ね、第一次・世界大戦後の1922年、滅亡。

カルロヴィッツ条約が結ばれた後、十八世紀に入り、西洋が世界史の
中心となります。カルロヴィッツ条約は、世界史の覇権が中東から
西洋に移ったことを象徴的に示す条約です。

空
Himmel

武蔵の卒業生

直前講習から音沙汰なかった武蔵生。渋谷教室の授業後、フッと現れました。
慶大に通ってるようです。連絡ないので、どうしてるのかな、と思ってましたが、
ちゃんと受かってました。

昨年、新宿教室の私立クラスに来てた武蔵生は、二人とも野球部・投手。
一人は昨秋、早々と推薦入試で慶大・法に合格を決めました。
今回、彼の合格で、二人とも慶大・法に進学。これはスゴイ。

けれど今回の武蔵生。慶大の経、商、SFCは全てダメ。第一志望の法だけ合格。
ヒヤヒヤの結果でした。けれど、そこは先発投手。ヒヤヒヤ状況には、
慣れてます。孤独なマウンド。ピンチの時、誰も助けてくれません。
思い通りの投球ができない時、最後に信じるのは自分。

彼の勇姿を見るため、私も昨夏、東京大会・予選に足を運んだもの。
野球で培った根性が、受験の最後で、ものをいったようです。
部活が受験に役立つとは、こういうこと。

そんな彼が、カバンから何か取り出しまた。見ると、パジャマ・ズボン!
しかも色は赤。今春、なんとカンボジア旅行に行ってきたとか。
そのお土産です。

先生、いつもパジャマみたいなの、はいてるし。
・・・

慶大では野球部でなく、サーフィン部に所属。毎日、鵠沼海岸
(くげぬま かいがん)で練習。鵠沼といえば、私もヒマな時、
江ノ電に乗って、よく行く場所。

鵠沼には夏も冬も、サーファーの姿。ユーミンはかつて、
そんな鵠沼サーファーたちを「カラスの群れのようさ」と、
軽く歌い上げました。

次のいい波は 真っ先につかまえてよ フラれたことも 見えない明日も
笑い話さ そのうち 瞳を凝らし 見つめれば アイツは水をけった
思わず微笑むと 前歯が凍るの

今度、鵠沼に行く時、今までボンヤリ見てたサーファーたちに、
私も目を凝らしてみましょう。ひょっとして、そんな中に、
教え子の姿を見つけられるかもしれませんね。

こいのぼり
May

姫路城とブルー・インパルス

永久の武力放棄を宣言した憲法九条。それを守ろうとする護憲派。
彼らは返す刀で「在日米軍はいらない」。自ら武力を持たず、
米軍もいらない。全くの丸腰で、いいようです。

護憲派の主張を聞いてると「こちらが非武装なら、どこも攻めてこない」とか
「攻められても、あくまで話し合う」とか言ってます。そんな彼らは、
チベットで何が起きたか考えるべきでしょう。

寛容で、慈悲に満ちたチベット密教。カルマの力を信じるチベット人は、
教えに従い、攻めてくる中国・人民解放軍のためにも祈ってたとか。
彼らは次々と殺され、ダライ・ラマ十四世も、インドに亡命。

その後、すさまじい民族浄化により、チベット人口の半数近くが、
今もう中国人。チベットは滅亡しました。

こんな恐ろしい中国が隣にあって、護憲派はそれでも「話し合い」。
現実を見てないか、自分の言葉に責任を取らないか、どちらかです。
ひょっとして、日本がどこかに攻められたら、護憲派こそ、
真っ先に逃げ出すのではないでしょうか。

護憲派・先頭に立つ日本共産党。武力そのものが悪、戦争そのものが悪、
という立場に立ってるようです。在日米軍には出ていってもらい、
自衛隊も、ゆくゆくは廃止するとか。

今年三月、新しくオープンした兵庫の姫路城。真っ白にお披露目。
オープニング・セレモニーでは、ブルー・インパルスが登場。
五輪の模様を描いて、姫路市民を楽しませました。

けれど日本共産党の女性・姫路市議。セレモニーに先立ち「平和な城に
ブルー・インパルスの飛行は残念」と発表。いかにも日本共産党・
市議の言葉。

姫路城は、もともと戦いのための砦。姫路城だけでなく、歴史遺産の
ほとんどは、戦いに関するもの。戦いが悪なら、歴史遺産も悪。
どうして姫路城だけが平和な善で、ブルー・インパルスは好戦的な
悪なのでしょうか? 女性市議に一度、聞いてみたいところです。

桶狭間の戦い。川中島の戦い。長篠の戦い。あるいは関ヶ原の戦い。
戦国時代だけ取っても、私たちが学べる教訓はたくさん。戦いを通じて、
一級の頭脳が知恵を絞り、その記録を後に残しました。少年の多くは、
そういう戦記を、心を躍らせて読むのではないでしょうか。

戦争を単純に悪いと決めつけることはできません。
世界では、これが常識です。

無責任な護憲派。その主張は突きつめれば「姫路城にブルー・インパルスは、
けしからん」というヘンテコなものになります。経済問題では、それなりに
鋭い分析を出す日本共産党。実は安保こそ、彼らの最大弱点です。

朝の光
morning light

日韓併合

明治四十三年、大日本帝国は、嫌がる大韓帝国を強制的に
併合したのでしょうか? だから韓国人は、今もそれを恨みに思い、
ことあるごとに日本を貶めるのでしょうか?

日韓併合は、朝鮮エリートが連名で、日本に請願する形で発議されたもの。
自主独立を全く達成できなかった、当時の朝鮮人。エリートたちは、
日本の力を借りて、近代化を達成しようとしました。

とはいえ「併合」とは同化を意味します。一体、朝鮮人が日本人に、
なってくれるでしょうか? その疑問を持ち、最後まで併合に反対したのが、
初代・朝鮮統監、伊藤博文。伊藤は、朝鮮に内政自治を認め、
軍事、外交だけ日本が担当すればいい、という意見でした。

幕末から修羅場をくぐり抜け、何度もの欧米視察により、国際社会を
熟知した伊藤。「併合」のマイナス面に、シッカリ気づいてました。

けれど、その伊藤がハルピンで殺されます。これで併合に反対する
政治家がいなくなり、日韓併合が決定。併合は円滑に実行され、
反対運動一つ、起きませんでした。

以降、大東亜戦争・敗戦までの三十六年間、日本統治が続きます。
併合ですから、日本人になってもらおうということで、日本文化が朝鮮に
導入されました。同時に、社会インフラも整備されます。鉄道、道路、電気、
上下水道、学校といった残る主要インフラが、日本人によって、
次々と作られました。

それまで朝鮮の社会インフラは、ほとんどゼロ。それ故、日本が導入した
近代化の威力はすさまじく、農業生産、工業生産が飛躍的に向上。
人口も三十六年間で二倍に増大しました。

なぜ朝鮮人は今、この近代化の恩恵について、
日本人に感謝の気持ちを持たないのでしょうか?

理由はどうやら、朝鮮人が日本人に同化したくなかった、いうことにありそうです。
確かに、朝鮮エリートたちは日本に併合を請願しました。けれど、それも、
やむにやまれず、そうしただけで、いつかは独立したかったのでしょう。

朝鮮民衆にすれば、知らないところで併合が決まり、結果、
入ってきた日本人は、いばり散らす外人にしか、見えなかったのでしょう。

文化導入の試みも、朝鮮人の反感を助長。朝鮮の家族制度、氏名、習慣。
それらは全て、日本人から見れば、合理性を欠く、無意味なものでしたが、
だからといって、日本人が代わりに導入した神道、皇室崇拝が、
朝鮮に根づくことも、ありませんでした。

ハングルを再興したのは、日本人。当時、朝鮮エリートはみな漢字を使い、
民衆は文盲。創氏改名も強制でなく、応募。当時の記録では、その応募に
朝鮮人が殺到。総督府は断るのに苦労したほど。

よく言われる、日本人が朝鮮で文字を奪い、
名前を奪い・・・という話は、全くのデタラメです。

日本人は「内鮮一体」を叫び、朝鮮人がいつか日本人になってくれると信じ、
その政策を邁進。けれどその感情は朝鮮人に全く通じず、それどころか、
大東亜戦争では、朝鮮人にも大きな犠牲が出ましたから、
日本人への反感だけが残りました。

日本だって、いろんな良いことをしたじゃないか。

今の日本人が、少し歴史を調べれば、朝鮮人にそう言いたくなります。
けれど結局、民衆の同意を得た併合でなかったこと。朝鮮人も動員したのに、
大東亜戦争に負けたこと。これらをもって、朝鮮人の日本統治時代への
評価は決まってしまいました。

結論としては、伊藤博文が正しかった、となりそうです。
朝鮮人は日本人になる気はなかったし、そんな同化は、
最初からムリだったということ。

明治期から、朝鮮権益が安保上、必要だったという点についても、
同化など目指さず、進出もせず、ちょうど元寇のように、九州防衛を
充実させることしか、方法はなかったでしょう。しかも当時は、日露戦争に
勝った後。当分、ロシアの脅威はなかったはず。

日韓併合は、日本に自己満足以外、何の利益も、もたらしませんでした。
三十六年間、総督府・予算は赤字のまま。日本からの持ち出しが続きました。
併合でなく、植民地経営を行った台湾で、総督府・予算がすぐ黒字化したのとは、
大違い。朝鮮には、日本の一級の頭脳が多数、送られたにもかかわらず。

日韓併合なければ、満州事変もなく、大東亜戦争もなかったでしょう。
その意味で、ハルピンでの伊藤・暗殺が今、悔やまれてなりません。
しかも現在、伊藤を殺した朝鮮人が、韓国では英雄扱いとか。
日本人と朝鮮人は、分かりあえる隣人ではなさそうです。

日本庭園
Japanese garden

大阪都構想、住民投票へ

大阪市を廃止し、五つの特別区に分ける大阪都構想。
住民投票まで一週間あまり。横浜に住んでる私にも、
その結果は、とても他人ごととは思えません。

デフレが続いた平成期。民間企業がドンドン潰れ、潰れないまでも、
大幅なリストラを強いられた一方、地方公務員は、安定した給与を
享受してきました。

そして地方議員。地方議会の傍聴に行けば、寝てる議員も多数いる
のですが、そんな彼らに支払われる歳費は、一千万円を軽く超えます。
これも、民間企業の感覚とずれてるでしょう。

地方公務員、地方議員の厚遇は、これまで、しかたない、
という感じで、日本社会で半ば黙認されてきました。

けれど「これはオカシイ」と切り込み始めたのが、みんなの党。
誰も言い出さなかった地方公務員、地方議員の厚遇について、
本格的にアジェンダ(議題)に載せました。この点で、みんなの党が、
日本社会で果たした役割は大きいと、私は考えてます。

「弱者の党」を標榜する公明党、共産党。地方公務員、地方議員の
厚遇には全く沈黙。両党は地方公務員に多くの支持者を抱え、
多くの地方議員を輩出してますから、自党の不利益を
言い出すことはありませんでした。

全国どこでも見られた地方公務員の腐敗。地方議員の堕落。
これが最も醜悪な形で現れたのが、大阪府、大阪市。それぞれが
奇妙なメンツをかけて、無駄なタワー、ホテル、遊園地、博物館を作り、
それらが焦げつき、累積で数兆円に上る債務が残りました。そもそも、
才能もない地方公務員が、どうしてこんな開発をしたのでしょうか。

自民党はおろか、腐敗に厳しいはずの共産党も、
地方公務員による、こうしたムダ使いについては、
ほとんど取り上げませんでした。

大阪の地方公務員、地方議員の誰ひとり、膨大な債務の責任を
取ろうとしません。この意味で、橋下市長が「ムダにストップ」と
言う時、今、反論できる反対派は、いないでしょう。

地方公務員、地方議員の歳費は、民間企業に合わせて下げるべきです。
私が住んでる横浜市でも、大卒・事務で入った市職員の平均給与は、
七百万円を超えます。首をかしげる人は多いのではないでしょうか。

今回の住民投票が可決されれば、全国の地方公務員、地方議員の厚遇に、
今一度、国民の注目が集まることでしょう。大阪の問題にとどまりません。

政府首脳には、それが分かってますから、自民党・府連がどれほど
反対しようと、政府コメントは、なし。住民投票の行方を見守る態度。

十七日に迫った住民投票。ぜひ、注目しましょう。

公園
May

アジア・インフラ投資銀行

日米・主導のアジア開発銀行"ADB"。審査は厳格、慎重で、アジアの
インフラ需要になかなか応えられません。そこに「甘い審査で貸しますよ」
という中国・主導の銀行が登場。アジア・インフラ投資銀行です。

"Asia Infrastructure Investment Bank"を略して"AIIB"と呼ばれます。
日米はもちろん、AIIBに参加する予定はありません。

中国経済は、GDPの半分近くを建設投資が占める、いびつ構造。
需要もないのに、あちこちに「鬼城」と呼ばれるゴースト・タウンを建設。
それも限界に達し、海外にマーケットを求め始めました。

けれど中国人のビジネスだけに、現地事情を全く考慮しない計画が続出。
たとえば、ミャンマーの水力発電所・建設。なんと発電した電気は、
全て中国へ送るという内容。ミャンマー政府は建設中止を発表。

中国はこのように、世界のあちこちで顰蹙を買った挙句、自国が直接、
出資しない融資がベターということで、AIIB設立となりました。

国内に苛烈な人権弾圧を抱える中国。AIIB融資が、どういう方向に流れるか、
分かったものではありません。結局、中国が信用できない国である故に、
AIIBも信用できない、となります。

日米が参加しないことにより、AIIBは今後、高い金利で債券を売り、
資金を集めねばなりません。これはAIIBにとって不利な話。

けれど、アジアのインフラ投資に莫大な需要があることも、確か。
日米のADBがモタモタしてるうちに、AIIBが投資案件をドンドン獲得していけば、
少々の高金利を吹き飛ばして、AIIBが大きな利益を挙げることも考えられます。

これを受けて、日米のADBは今後、融資をさらに広げると発表。
AIIBに刺激されて、ADBも奮起することになりました。この二つの銀行が、
今後、アジアでどんな融資競争をするか、注目です。

緑
green

平和憲法と日本人

爽やかに晴れた憲法記念日。この日、日本国憲法の欺瞞に
思いを馳せることには、それなりに意味があるでしょう。

召集令状・一枚で肉親や恋人を軍に取られ、心配した挙句、
白い箱となって帰ってきた大東亜戦争。末期には各都市への空襲。
そして二発の原爆。もう戦争はこりごりと、当時の日本人が
思ったのも、ムリないことです。

そこにアメリカ人が十日ほどで作った平和憲法。占領地域で法律を作ること、
ましてや憲法を作ることは、ハーグ陸戦条約への完全な違反。
GHQも、この時だけは高圧的な態度を緩めました。

とはいえ昭和二十一年・二月、松本烝治、吉田茂の両名がGHQから
憲法草案を見せられた時、上空には威嚇の米軍機が飛んでました。

結局、日本国憲法は日本共産党・以外の全ての党が賛成して可決。
この時「自衛権なくして独立など保てない」と正論を吐いたのは、
日本共産党だけ。

永久に武力放棄した日本国憲法。航空自衛隊の最新ジェット機も、
表向きは警察装備。陸上自衛隊のヒトマル式戦車、海上自衛隊の
イージス艦も、全て警察装備です。どう見ても、武力なのに。

国防という、国の根幹について、こんな欺瞞を許してるうちに、
それがいつしか日本国民の心を蝕み、明らかな矛盾があっても、
ごまかしてすませる風潮が広まってしまいました。

その結果が、私たちが今、周囲に見る日本人。現実を見ず、
責任も取らず、ヘラヘラ笑いする日本人。国の根本が
おかしいと、最終的には日常まで腐ってきます。

日本以外の国で、平和憲法など採用してる国は一つもありません。
平和は素晴らしいことですが、他国が全て武装してる時、自国だけ
永久の武力放棄を宣言すればどうなるか、火を見るより明らか。

このことは当初から分かってましたから、平和憲法とセットで、
日米安全保障条約が結ばれました。日本はアメリカ軍に
守ってもらうことになりました。

ここで考えなければならないのが、北朝鮮による拉致問題です。
さすがにアメリカ軍も、拉致された日本人を救出するために、
北朝鮮まで派兵してはくれません。

結果、拉致問題には長い間、蓋がされ、日本人は見て見ぬ
フリを続けてきました。昭和六十年ころには、ハッキリした
拉致の証拠が挙がってたにもかかわらず。

自国民を拉致され、武力で取り返すこともできず、
「話し合い」しか提案できないのが、平和憲法・日本人。

そもそも日本が普通の武装国だったら、北朝鮮があれほど
大規模に拉致を実行しようという気にならなかったでしょう。
無防備が犯罪を助長。国際社会でも、そうです。

一体、護憲派は平和憲法ある故に、拉致問題を解決できず、
北朝鮮みたいな国に、なめられ続けてる事実を、
どう説明するのでしょうか?

この護憲派・高齢者たちこそ、平成十四年の小泉・訪朝まで、
北朝鮮の拉致など存在しない、家族会はウソをついてると、
平気で言い続けた者たち。北朝鮮が拉致を認めた後、
彼らから一片の反省、謝罪もありません。

そして中国。中国は年間、二十兆円とも言われる軍事費を拠出。
日本の五兆円では、いつか圧倒されるでしょう。しかも中国人の、
チベット人、ウィグル人、法輪功・学習者への悪逆非道を見れば、
彼我の武力差が明瞭になった時、彼らが何をし始めるか、
分かろうというもの。

実際、中国の軍拡は、東シナ海だけでなく、南シナ海でも、
多くの国々と摩擦を惹起。「平和憲法などトンデモナイ」そういう
危機感が、どうして今、日本国民に生まれないのでしょうか?

日本の周囲は、性根の歪んだ反日国家ばかり。その反日ぶりには
目をつぶり、なんとなく不安だから、アメリカ軍には、
いてもらおう、という平和憲法・日本人。

もっとヒドイのになると、アメリカ軍は目障りだから出ていってもらい、
その後、自衛隊も廃止しよう、と言い出す始末。
国際社会の尊敬を、受けようはずありません。

カップ
cup

逃げの小五郎

幕末の京都・三条河原の橋の下。ここに、ある乞食がいました。当時、
この場所の乞食は珍しくありませんでしたが、この乞食にはなぜか、
美しい芸妓が毎夜、握り飯を密かに運んでました。

この乞食こそ、誰あろう、長州藩・要職にあった桂小五郎(かつら こごろう)。
文久四年のことです。前年、長州藩は馬関(ばかん:現・下関)から異国船に
砲撃を加え、攘夷を実行。開国を唱える幕府と、真っ向から対立。

長州藩士は京都で新撰組から狙われる存在に。桂が乞食だったのも、
その探索を逃れるため。やがて桂は、居所を新撰組に知られ、近藤勇から
同行を求められました。この時、とっさに「厠(かわや)に行きたい」と
言い出し、近藤たちが対策を思案してるうちに逃走。難を逃れました。

五月、池田屋に新撰組が踏み込んだ時も、桂は不在。
彼がいるべきはずの会議でしたが、新撰組が池田屋を囲んだ時、
そこに桂の姿はありませんでした。いつしか桂は「逃げの小五郎」という
不名誉なあだ名で呼ばれるようになりました。

七月、禁門の変。長州藩士は薩摩、会津にコテンパンにやられました。
京都にいられないと判断した桂。変名を使って、但馬・出石(いずし)に
逃走し、潜伏。「逃げの小五郎」真骨頂です。

この時、桂が京都にとどまってれば、いつか新撰組に捕縛されたでしょう。
長州に帰ったとしても、正義派・家老の一人として、第一次・長州征伐の
責任を取らされたはず。いずれにせよ、死は免れません。

常に身を隠す卑怯者のようでいて、桂は、
無駄に命を使ってはならないと自戒してました。

命には、かけ時がある。

十二月、高杉晋作が功山寺で決起。幕府に反旗を翻しました。
この時、それまで全く行方が分からなかった桂は、何気ない
顔をして突然、長州に現れ、高杉と行動を共にします。

慶応元年、桂は坂本龍馬の仲介で、犬猿の仲だった
薩摩藩と同盟を画策。新式銃・輸入契約を結びます。

慶応二年・八月、第二次・長州征伐。長州藩はイギリスから輸入した
銃を駆使し、幕府軍を圧倒。大村益次郎の用兵が勝利をもたらしました。
この大村を抜擢したのも、桂です。

慶応元年から一年半で、桂と高杉は、まず長州藩・俗論派を駆逐。
同時に、一万丁の銃を購入するとすぐ、大村を使って奇兵隊に軍事訓練を
施し、幕府軍の襲来に間に合わせました。まさに奇跡的と言うべき速さ。

慶応三年、形勢は完全に逆転し、薩長が幕府を睥睨。
この年の終わり、大政が奉還されます。

あたら命を散らすことなく、不利な時には、体裁を構わず逃走し、
けれど、いざという時サッと現れ、必要な施策を次々と実行。
桂が「維新三傑」に数えられるのは、当然です。

川辺
early summer

山本五十六

やってみせ 言って聞かせて させてみせ
ほめてやらねば 人は動かじ

今は少なくなったでしょうが、戦後、長い間、多くの日本人・経営者の
座右の銘が、山本五十六(やまもと いそろく)の、この言葉でした。

部下思いで知られ、海軍にありながら、航空兵力の価値にいち早く気づき、
機動部隊を世界で初めて駆使した名将。そう謳われた山本の言葉に、
経営者が憧れたのも無理ないでしょう。

東京裁判の結果、海軍・善玉、陸軍・悪玉というイメージが定着。
しかも山本が三国同盟にはずっと反対したことが知られるにつれ、
名将でありながら、冷静な平和主義者でもあった
という評価が広がりました。

とはいえ2000年代になる頃から、こうした評価も変わってきました。
山本はトンデモナイ愚将だったのではないか、と言われ始めたのです。

理由の第一は、ミッドウェーの敗北。作戦範囲が広い割に、作戦目的が曖昧。
帝国海軍は四隻の空母を失い、大敗北。山本は「全ての責任は私にある」と
カッコつけましたが、結局、連合艦隊・司令長官を辞するわけでも、
自決するわけでもありませんでした。

開戦直前、勝算を聞かれ「半年か一年は暴れてみせます」と言った山本。
早期講和の予定でハワイ作戦を策定し、真珠港を攻撃。騙し討ちには
なりましたが、この攻撃は日本の一方的勝利。たいていの日本人は
開戦の臨時ニュースを明るい気持ちで聞きました。

その後、ミッドウェー作戦も成功させ、ハワイ占領した時点で、講和に
持ち込むことを山本は考えたでしょう。けれどミッドウェーの敗北により、
そんな目論見も不可能に。山本が真に国士なら、この時点で、
命を賭して、もう勝てる見込みはないことを上奏すべきでした。

けれど山本は、無謀なニューギニア作戦を決定。半ば自死のように、
ノコノコ出かけていき、機上で攻撃され、戦死。日本の暗号が
解読されてたことを、彼は恐らく知ってた、というのが、
現在、戦史家の定説。

山本は自決する勇気もなく、アメリカ軍に殺してもらった、
というのが、およその真相でしょう。

山本が半ヤケッパチで死んだ後、対米戦争を指揮する将官がいなくなり、
帝国陸海軍は統率の取れない無定見な作戦を繰り出します。
戦争の終え方も分からず、最も悲惨な終戦となりました。
その責任の多くは山本にあります。

情に厚いといわれながら、晩年は新橋の芸者に溺れ、彼女を軍艦に
同乗させようとして、部下にやっと止められた山本。ハワイ作戦も、
ミッドウェー作戦も、そんな精神から発案されました。

ゼロ戦・名パイロットで知られる坂井三郎は、ラバウル作戦の頃から、
母艦パイロットをひたすら戦死させる上層部に疑問を持ったと回想。
山本・司令長官の戦士を聞いても、何の感慨も湧かなかったとか。
目の見える現場の兵士には、山本の実体が
シッカリ見えてたということでしょう。

ハワイ作戦も、ミッドウェー作戦も、周囲は大反対。それにも関わらず、
辞職をちらつかせ、山本は断行。その責任を取らないまま、
体面だけ保ってニューギニアで戦死。
その葬儀は国葬となりました。

同じアメリカと戦争するにしても、焦って範囲を広げることなく、小笠原か
フィリピンで待ち伏せ、航空兵力で漸減させた後、それでも近づいてくる
ヘトヘトのアメリカ艦隊を優勢な戦艦火力で粉砕するなら、たとえ
国力差が十倍を超えても、互角の勝負が、できたはず。

これこそ帝国陸海軍が明治期、「帝国国防方針」を策定して、アメリカを
仮想敵国と決めて以来、コンセンサスとしてきた作戦。そのための
ゼロ戦隊の猛訓練であり、そのための大和、武蔵の建艦でした。

それを全て反故にした、騙し討ちのハワイ作戦。任侠映画みたいに、
いきなり殴りこんでアメリカ国民を怒らせました。そしてミッドウェーの敗北。
ニューギニアの消耗戦。ガダルカナル以降、日本が勝てる見込みは
なくなりました。

その後、マリアナ、レイテの戦いで、日本の機動部隊が壊滅したのも、
元を糺せば、山本の杜撰な用兵の結果。日本は戦争をやめるにやめられず、
各都市が空襲され、二発の原爆まで落とされ、どうしようもなくなってから、
ようやく敗戦の決断。その発端となった山本の大罪は、今、
改めて問い直されるべきでしょう。

五月
May
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