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夏・新宿の文法クラス

夏期講習がスタート! 五十名になりました。教室の後ろまでギッシリ。
一人一人に目を届かせるためには、これくらいが限界。
さあ、今日が初日。明日から本格的になります。
みんな、準備を万端に・・・

緑
classroom

東海大学

一体、日東駒専の「東」は東洋大学でしょうか。それとも東海大学でしょうか。
二十年ほど前、両大学の関係者の間で「こっちだ、あっちだ」と議論が
交わされてました。

ですが結論が出ないまま、沙汰やみに。とはいえレベルが同じということで、
このブログでは東海大学も「日東駒専」のカテゴリで論じることにしましょう。

新宿で小田急線に乗り、成城学園前、新百合ヶ丘、町田。
町田の向こうに海老名、本厚木。もっと向こう、やっと東海大学前。

キャンパスは駅前にあるのかと思いきや、十五分ほど歩きます。
途中からは坂道。暑い中、これはキツイ。しかし周囲の学生たちは、
何事もなく歩いて行きます。私も負けるわけにはいきません。

やがて見えてきた建物群。東海大学の湘南キャンパス。
「丹沢キャンパス」と呼んだ方が、実情に即してるでしょう。

建物は立派で、広い運動場もいくつか、あります。文系の場合、
キャンパスが山の中にあることはマイナスですが、理系の場合、
設備が大切ですから、山の中であれ、どこであれ、立派な設備を
作って学生を迎えることには、それなりに意義があります。

もともとは航空宇宙専門学校が前身。その学校が戦後、東海大学に。
設立者は松前重義(まつまえ しげよし)。松前は熊本出身で、東北帝大で
電気工学を学びました。その後、遁信新(とんしん しょう)に入省。
理系・官僚に。

松前は官僚時代、無装荷(むそうか)ケーブルを開発。電気信号を伝える
新しい方法を世に出し、これによって、情報伝達が飛躍的に簡単・明瞭に。
その後、松前はキリスト者・内村鑑三(うちむら かんぞう)の影響を受け、
新しい学校を設立しようと思い立ちます。それが航空宇宙専門学校、
今の東海大。

東海とはアジア東の海、太平洋のこと。その大きな海原に出て行かんとする、
志ある学生を募集しました。今の湘南キャンパスに移ってきたのは1963年
(昭和38年)。多くの学部を作って、発展していきます。理事には
松前一家が就任。事実上のオーナー経営。

設立経緯から、東海大には今も、工学部・航空宇宙学科があり、
全日空と提携。この学科を卒業して、パイロットになった人も多数。
松前が工学を専攻してたことから、工学部の他学科もガンバってます。
ロボット、電気自動車、レーザー、生命科学、環境化学・・・

松前は熊本で過ごした青春時代、柔道をたしなみました。
その関係で体育学部・武道学科の充実が計られます。

全日本柔道選手権・九連覇の快挙を成し遂げた山下泰裕
(やました やすひろ)も東海大・相模高校から、
ここの武道学科に進学。

全日本・三連覇を果たした井上康生(いのうえ こうせい)が、
やはり武道学科出身。

文学部にも文明学科、文芸創作学科など、通常の文学研究を超えた学科。
文学部・北欧学科ではデンマーク語、ノルウェー語、スウェーデン語、
フィンランド語といった北欧・諸言語を専攻することができます。
外語でも、このあたりの言語はカバーし切れてないわけですから、
東海大の健闘が光ります。

他にも観光学部、情報理工学部といったユニークな学部を設立するなど、
東海大、それなりに意識的・先験的な大学経営をしてます。
しかも、こうした大学経営のあちこちに、設立者・松前の足跡。
設立者の裁量がここまで大きく発展した大学も珍しいですね。

学生数が三万人に達しようとする東海大。規模の拡大には成功。
これからは、今ある強い学部・学科をもっと効果的に
世間にPRすることが大切でしょう。

それから駅から大学までの移動が、あまりにも不便。
キャンパス内には立派な建物が建ってるのですから、
移動手段など、小田急バスと連携すればいくらでもできそうです。

偏差値が50~55くらいで田舎キャンパスに抵抗ないなら、
選択肢に入れていい大学です。

赤
red

静岡大学

静岡駅から「静岡大学行き」のバスに乗れば、二十分ほどで着きます。
駿河湾に近い場所。晴れた日には富士山の雄大な姿が見えます。

自然が豊か。世間から隔絶された空間。とはいえ静岡という街も、
それほど大都市ではありませんから、静大生、この鄙(ひな)びた環境にも、
それほどのギャップを感じないのかもしれません。

静岡キャンパスには人文社会学部、教育学部、理学部、農学部。
もう一つの浜松キャンパスには工学部、情報学部。

静大は浜松工業専門学校を一つの前身とし、工学部と情報学部には、
どうしても多くのスペースが必要ですから、浜松キャンパスが
静岡キャンパスと分かれたことは、しかたないことでした。

情報学部は、国立大の中でも静大だけ。「情報」という概念に、
理系、文系の両方から切り込もうとしてます。

学部ができたのは1995年(平成7年)と新しく、情報学部の成果が世間的に
評価されるところまでは来てません。とはいえ、気鋭の学部であることは
間違いなく、今後に注目でしょう。

静大の弱点は文系学部の弱さ。なにしろ教育学部を除けば、
人文社会科学部だけで、社会学、言語文化、法学、経済学をカバー。
これでは厚みのある研究・教育を望むことは難しいでしょう。

その代わりに、と言っては何ですが、理系が強い。もともと静岡はものづくりが
盛んな土地。浜松高専の伝統もある静大・工からは、日本のメーカーの
トップに立つ卒業生が続々と出ました。

ホンダ、スズキ、キャノン、コマツ・・・これらの企業でトップに立つ
卒業生が多数。さすがと言わざるを得ません。

東京に住んでると、静岡という街はあまり意識に上らず、静大を考える
機会もありません。けれど、理系では隠れた実力校。国立大・理系に
人気が集まりつつある今、静大では今後、理系学部の偏差値が
大きく上がることが予想されます。

偏差値がまだそれほど上昇してない今、あまりハードな受験勉強をせず、
静大あたりに入学し、安い生活費に恵まれながら、キッチリした理系教育を
受けるなら、十分に賢い選択でしょう。

青空
blue sky

国分寺高校

JR中央線・国立駅(くにたち えき)北口を出てみましょう。
国立駅は南口を出ることはあっても、北口を利用することは、
地元の人以外、あまりありませんね。

駅前の道を北へと向かうと、だんだん田舎っぽい風情。交差点を
右に曲がります。しばらく歩くと、「富士本二丁目」の交差点。
そこから国分寺高校へはすぐ。地元では「ブンジ」と呼ばれてます。

1969年(昭和44年)国分寺・市民の熱い期待を担って開学。当時から
多摩の都立・御三家との評判。国立高校、立川高校、そして国分寺高校。

正門を入り、校舎まで歩いてると、日焼けしたブンジ生。男子も女子も
挨拶してきます。礼儀正しいですね。運動場を迂回すると、正面玄関。
大きな階段を上がります。この階段がブンジのシンボル。

ブンジの大きな特徴は「高大連携」を行ってること。七つの大学と連携し、
ブンジ生がその大学に通えば、高校の単位として認められるという制度。
連携してる大学は東京学芸大。東京農工大。中央大(商・理工)。
津田塾大。明治薬科大。そして日本社会事業大。

ブンジ生の中でも、そこそこ頭がよくて、ませてれば、こんな制度を
利用して、大学の授業に行ってみよう、と思うかもしれません。
通ってるうちに、大学の授業に高校生の自分がついて行けると分かり、
自信が付くでしょう。しかも、大学の授業を受けることにより、
高校で受けてる授業も、別な光で照らされたりもします。

部活動としてはサッカー部が有名。多い時には部員が百名を
超えることも。私の来校時も運動場ではサッカー部が練習。
ブンジ・サッカー部。都大会の決勝に進むこともしばしば。
しかし決勝の壁は厚く、なかなか東京代表として、
全国大会には進めないでいます。

九月の「木もれ陽祭」(こもれび さい)がブンジ生メイン・イベント。
合唱祭・文化祭・中夜祭・体育祭が行われます。演劇では
プロの劇団員による指導もあるとか。

体育祭で全校生が八つの色に分かれ、競います。手を抜こうと思えば
抜けるのですが、そこで燃えるのがブンジ生。木もれ陽祭を
ボイコットする生徒は、ほとんどいないようです。

今春の進学実績では国立大に数名。早大75名。慶大20名。
中大には108名。ブンジ。これから都立高校全体が躍進するにつれて、
大きく飛躍しそう。私も応援しなくては。

夏空
summer sky

静岡高校

高きを仰ぐ

静岡高校の校訓。静岡は昔、駿府(すんぷ)と呼ばれてました。
戦国期には、今川氏の所領。その今川氏の勢力が最大になった
今川義元(いまがわ よしもと)の時、浜松の松平から人質として
長子が出されました。それが松平元康、後の徳川家康。

桶狭間(おけはざま)の戦いで、今川氏が急速に勢力を削がれた後、
駿府を支配したのは武田氏。しかし武田氏も長篠(ながしの)の戦いで
信長に敗れ、家康は今度は城主として駿府に入城。

家康はこの後、秀吉によって江戸に移封されるも、関ヶ原の戦い後、
息子の秀忠に将軍職を譲り、三度、この駿府へ戻って来ます。家康が
これほど駿府に愛着するあたり、今川氏の幼き家康への処遇は、
時代劇で描かれるほど、ひどくなかったのではないか、
と思われます。

家康公の姿は今も静岡のあちこちに。駅前にも。公園にも。
そんな静岡を代表する高校こそ静岡高校。略して「静高」(しずこう)。

駅から歩いて行くには遠すぎます。ちょうど駅前から「駿府浪漫バス」
という小さなバスが出てますから、それに乗ってみましょう。
十五分ほどで静岡高校前に着きます。

正門を入ると右に大きなドーム。「静高ドーム」です。雨天でも練習できる
運動場。県立高校で、こういう設備は珍しいですね。訪問した時には、
晴れてたからか、テニスをやってました。雨天時には、
野球部が優先的にここを使います。

事実上、このドームは野球部のためにあります。そして静高が最も誇る
運動部も、文句なしに野球部。正門を入り、校舎の玄関に入った途端、
野球部がこれまで獲得した賞状、トロフィーが右手にズラリ。

静高が野球部を誇るのも故なきことではありません。
静高・野球部は甲子園の常連。1999年(平成11年)には
春夏・連続出場を遂げました。

玄関のそばには「静高野球部・後援会」のマイクロ・バス。
ただ今年は静高・野球部。県大会・準々決勝で敗れてしまいました。
運動場で練習してた野球部員の動きが、どこか鈍かったのも、
そのせいだったかもしれません。広い運動場の隅でピッチング練習を
してた部員が、私を見て。

コンチハ!

挨拶してくれました。静高・野球部の話を、彼から
聞きたかったのですが、練習中。聞けません。

静岡市民がいつも注目し、応援してる静高。そんな静高生にとって六月の
「仰高祭}(こうこう さい)が最大のイベント。展示、仮装・・・仮装には
数十年の伝統があり、昔は仮装したまま、市内を練り歩いたとか。
さすがに今は校内だけのイベント。

部活動だけでなく、勉強も。今春の進学実績では東大8名。京大10名。
地元の静岡大には27名。浜松医大9名。私学だと早大31名。慶大17名。

駿府という小さな街からのし上がり、天下統一を果たした家康。
今も静高生の心には、彼の姿があることでしょう。

夏
summer
浜松北高校

お茶の水女子大学附属高校

お茶大・敷地内にあります。護国寺から近い場所。お茶大・附属とはいえ、
お茶大への推薦入学は十名ほど。大部分の生徒は他の有名大を目指します。
「お茶高」(おちゃこう)と呼ばれてます。一学年は百二十名。
それが「蘭・菊・梅」の三つのクラスに分かれます。
お茶高では"R.K.U"とも。

お茶高生が一番、燃えるイベントは五月の体育祭「輝鏡祭」(ききょう さい)。
ダンス・コンクールは圧巻。作り上げる過程で「ぶつかり合い」が起きることも。
けれど、それを乗り越えてのダンス。それは見る者を感動させ、
作る者を燃焼させます。

なぜかお茶高。農業実習にも力を入れてます。一年生、二年生は
自分たちで作物を植え、育て、刈り取る作業を行います。しかも収穫された
作物が、生徒たちに分配されるシステム。家まで帰るのが待ちきれなくて、
電車の中で、サツマイモを頬張る女子も。

今春の進学実績では早大37名。慶大17名。上智14名。
今年、池袋教室にお茶高生が一人。春期講習に来てから、
ずっと一緒。夏期講習にも来ることでしょう。

そんなお茶高生。OGでも特筆すべきは宮本百合子(みやもと ゆりこ)。
百合子は東京女子師範学校・附属高等女学校(現・お茶高)在学中から
小説を書き始めました。「伸子」「播州平野」などの作品で
文学史に名を残します。

彼女は1931年(昭和6年)宮本顕治(みやもと けんじ)と結婚。
中條ユリから宮本百合子に。百合子は顕治より九才も年上でした。

夫の顕治は1929年(昭和4年)帝大・経済学部に在学中、
「敗北の文学」で第一回・芥川賞を受賞。次席は小林秀雄の
「様々なる意匠」(さまざまなる いしょう)。

ところが顕治は、百合子と結婚した1931年、日本共産党に入党。
当時、日本共産党は非合法。顕治は官憲から追われる身に。
翌1932年3月からは特高警察(現・公安警察)による
日本共産党への大弾圧が始まります。

岩田義道、小林多喜二ら日本共産党・指導者が次々と虐殺されたのも
この頃。彼ら亡き後、有能な政治局員としては、もはや顕治しか
残ってませんでした。

やがて1933年3月、顕治も特高に見つかり逮捕。百合子とは書簡でしか
連絡が取れなくなります。岩田、小林に続き、野呂栄太郎も拷問で虐殺。
投獄された顕治もいつ殺されるか、分からない状態。

おい、アイツ、まだ生きてるか?

拷問を受け、朦朧(もうろう)とした記憶の中で、顕治が看守の会話を
記憶してます。そんな顕治の裁判を百合子は欠かさず傍聴。もちろん
百合子も検挙されたり、投獄されたり。百合子は顕治が獄中から
送って来る手紙だけを心の支えに毎日を暮らします。

顕治の手紙を読むのが、もったいなくて、時間をかけて、少しずつ、
読む百合子。彼女の目は少しずつ悪くなってました。そんな百合子を、
手紙でいたわる顕治。大東亜戦争の暗黒の時代、これ以上の
純愛があったでしょうか?

結局、顕治は日本の敗戦、1945年(昭和20年)8月まで十二年間、
網走刑務所に投獄されたまま。顕治・百合子の書簡は数年前、
日本共産党の出版社から発表されました。激動の時代を
必死で生きた男女の息遣いが伝わってきます。

さて、お茶高に戻りましょう。国立高校の中で唯一の女子校。
その利点を生かし、ある意味、開き直って、女子の底力を
引き出そうとしてます。私も応援せざるを得ません。
お茶高生、集まれ!

ブーケ
bouquet

八王子東高校

1976年(昭和51年)に開学した新しい都立高校。八王子には、
これといった都立高校がなく、私立も国立(くにたち)にある
桐朋高校くらい。八王子市民の「東」(ひがし)への期待は
大きいものでした。

その期待に応えて東。新しい高校にもかかわらず「進学指導重点校」に
選ばれます。今春の進学実績では東大5名。一橋14名。東工大10名。
私学では早大67名。慶大27名。近くの中大に117名。

JR中央線の豊田駅が最寄り。でも駅から遠い。ファナックの
黄色い建物が見えてきたところで、道が分からなくなりました。
前を歩いて来る男子生徒。ひょっとして東生かも・・・

ねえ、八王子東高校、探してるんだけど。
あ、一緒に行きましょうか?

なんと親切な。聞けば、やはり東生。学校までの途中、
いろいろ聞くチャンス。そんな私たちの上を横田基地へ向かう
米軍機が轟音を立てて通り過ぎます。

部活動が盛んですよ。

そう教えてくれました。勉強ばかりしてる高校ではなさそうです。
特に強いのは陸上部。女子バレー部。文化部でも、吹奏楽部は都の
音楽コンクールで何度も入賞してます。やがて首都大・日野キャンパス。
東はその隣。もうここから分かりますね。

ありがとう。キミもガンバれよ。

シッカリ握手して彼と別れました。やがて見えてきた東。運動場では
サッカーの試合。それを応援する生徒たち。先生までが日陰から観戦。
どう見ても練習試合なのに、気合いが入ってます。

校舎は四階建て。横田基地に発着する米軍機のために、窓は閉め切り。
ですから冷暖房完備。制服は男女とも赤いネクタイに茶色のブレザー。
わりとカッコいい制服。校樹は「しらかし」。
力強く、堅実な生徒の輩出を目指してます。

九月の「しらかし祭」文化祭・体育祭を兼ねたイベント。東生が
最も力を入れる行事。思えば東生。

受験のために、~はやめる。

そういう考え方を「もったいない」と東生は感じるようです。

勉強も、スポーツも、学園祭もキッチリやる。
自分が何人いても足りなく感じる。忙しい高校生活の結果、
東大に行けなくても、全然、構わない。

シッカリした考え方の若者たちが育ちそうです。通知表で4に少し5が
混じる程度で行ける東。こんな高校で青春時代を送れるなんて、
東生。羨ましいですね。イチ推しの都立高校です。

紫
purple

日比谷の卒業生(2)

今春、日比谷から早大に進学した女子。そんな彼女から知らせが。
来ました。しかも、なんとロンドンから。オリンピックに合わせて
渡英したようです。行動力ある彼女。さすがですね。

また帰国したら、オリンピックを迎えたロンドンが
どんなだったか、話してくれるでしょう。

さくらんぼ
cherries
日比谷高校(6)

横浜市立大学

横浜には明治の頃から市立の「十全病院」があり、横浜市民に医療を
提供してました。大東亜戦争中、その病院が市立の医学専門学校を設立。
その学校が戦後の一時期、横浜医科大学に。

同じく横浜市立の名門として、横浜商業・専門学校がありました。
横浜商業専門学校は「Y専」と呼ばれ、横浜経済を担う経済人を輩出。

この二つの市立学校が戦後、くっついて横浜市立大学になります。
当初は商学部、医学部、文理学部という構成でした。

その後、学部構成に多少の変遷があり、
結局、現在は国際総合科学部、医学部の二つのみ。

国際総合科学部には国際教養学系、理学系、経営科学系の
三つの系があります。

国際教養学系には「人間科学コース」「国際文化創造コース」。
理学系には「基礎科学コース」「環境生命コース」。
経営科学系には「政策経営コース」「国際経営コース」。

これらを融合する形で「ヨコハマ起業戦略コース」。
何とか現代にマッチしようという横市の姿勢は感じられますね。

とはいえたった二学部では、やはり限界が感じられます。二学部の間に
ほとんど接点がなく、ムリやりくっつけた感じが見え見え。
その不自然な状態を戦後・七十年、ずっと続けてきたのでした。

一年生は全員、金沢八景キャンパス。
ですが医学部は二年次から福浦キャンパス。

そこからは両学部に接点はありません。もちろん横市。その問題には
昔から気づいていて、医学部、商学部という全く異質な学問を
何とか融合せんと、理学部まで作った時期もありました。
現在「理学系」があるのは、そのためです。

でも横市。ホンとは最初から「横浜大学」を名乗りたかったのでした。
戦後、「横浜大学」を申請したのは、横市。横国。そして六角橋にある
私学の神奈川大学。この協議は揉めに揉め、結局、どの大学も
「横浜大学」という名称を使わないことで結着。痛み分けでした。

でも、どうでしょう。今、七十年の時を経て、こんなツマラナイ
過去の経緯はキレイさっぱり水に流し、横市・横国が合併して
新しい「横浜大学」を設立するというのは?

この新制「横浜大学」法学部を付け加えるだけで事足ります。
新制・法学部。横国が誇る経済学部、経営学部、理工学部。そして
横市の医学部。東大に拮抗し得る首都圏・総合大学ではありませんか。

千葉大・筑波大は田舎すぎて、医学部だけが売りの地方大学。
残りの学部は全国区的な研究を打ち出せてません。

首都圏の一橋。東工大。外語。医科歯科。このあたりは、
好きなことを言い合って全くまとまれず「四大学連合」など、
かけ声だけ。全く機能してません。

ということは事実上、東大に対抗し得るのは、この「横大」のみ。
「横浜」という土地力も生かし、総合大学を目指すなら、
タコ足大学である点は否めないにしても、そこそこの成果を
出すユニバーシティになり得るでしょう。

いかなる分野でも「一極集中」は弊害しかもたらしません。
東大だけが全ての分野をリードする時代は、
早々にピリオドを打つべきです。

折しも大阪では橋下市長の掛け声の下、府大・市大の統合が
話題に上ってます。それを横浜で、できないわけはないでしょう。
「横大」なんともワクワクさせる話ではありませんか。

夏空
summer sky
横浜国立大学

拓殖大学

人種の色と 地の境(さかい)我が立つ前に 差別なし

拓殖大学の校歌。「拓大」(たくだい)と呼ばれます。長州出身の桂太郎
(かつら たろう)が明治三十三年に設立した「台湾協会学校」が前身。
この学校は植民地経営に長けた有能な官吏、ビジネスマンの養成を
目指しました。

日本が列強の仲間入りをするにあたり、植民地経営の重要性は、
当時の政治家たちのコンセンサス。ですが、それに特化した学校を
作ろうとは誰も思い至らず、当時、実力を付けつつあった桂が
台湾協会学校を設立したわけです。

台湾協会学校の方針は国策とも合致し、宮内庁から資金が下賜
されました。それもあってか、拓大には今も恩賜記念館が。
記念館の前には桂太郎が書物を読んでる像も。

大正七年に台湾協会学校は拓殖大学となり、翌・大正八年には後藤新平
(ごとう しんぺい)が第三代・学長として赴任。台湾民政長官、満鉄総裁を
歴任した後藤。拓大学長に、彼ほどふさわしい人物もいませんでした。

さて、桂の像がある恩賜記念館があるのは八王子キャンパス。
拓大のメイン・キャンパスは現在、ここです。

茗荷谷(みょうがだに)の文京キャンパスには
商学部、政治経済学部の三、四年生、そして大学院のみ。

学生数としては八王子キャンパス・約七千人。
文京キャンパス・約三千人。併せて約一万人。

現在の学部構成は商学部、政経学部、外国語学部、国際学部、工学部。
設立当時、日本の植民地は台湾だけでしたが、その後、南樺太、朝鮮半島、
そして満州と広がっていきます。半ば官立の趣きのあった拓大の重要性は
高まるばかり。戦前、官吏、ビジネスマンとして海外に雄飛した
拓大・卒業生は数え切れません。

とはいえ大東亜戦争に敗れた日本は植民地を悉(ことごと)く取り上げられ、
拓大が目指した「土地を切り拓き、殖産する」という目標も頓挫(とんざ)。
拓大=植民地主義=超保守主義というイメージが定着し、人気を落としました。

戦後、高度経済成長とともに、上智、青学の人気が上がっても、拓大には
当然ながら、その風は吹きませんでした。八王子キャンパスができたのが
昭和五十二年。場所はJR中央線の高尾駅からバスで十分かかる山の中。
いつしか拓大は偏差値50程度の学生が行く大学に。

とはいえ、偏差値50程度のラインに、最も多くの受験生がひしめくわけ
ですから、拓大。学生を選ばなければ、門を叩く学生には困りません。
というわけで八王子キャンパスは山中にあるにもかかわらず、
大学として、存続。

しかも今、時代はアジアの時代に突入。アジアの多くの大学と提携し、
国際学部を作って、アジアから多くの留学生を受け入れてる拓大。
千載一遇のチャンス到来。

背中も見えなくなっていた上智、青学、明学が、欧州偏重の姿勢を
全く改めず、衰退が予想される中、拓大に、その気さえあるなら、
大きく飛翔できるチャンス! 評判立ち、風さえ吹くなら、辺鄙(へんぴ)な
八王子キャンパスすら「勉強に集中できる、自然豊かなキャンパス」と
宣伝できるわけです。

とはいえ拓大から「次世代の大学こそ我が校」というPRが全く
聞こえてきません。大学・経営者は何をしてるのでしょうか?

少子化の波は各大学にとって、逆風にこそなれ、追い風には決して
なりません。学校経営も塾経営も、いかに自校の良さを効果的に
PRできるかが生命線。

例えばロンドン・オリンピック。拓大・卒業生からは、なんと七名の代表選手。
レスリング四名。マラソン二名。ボクシング一名。しかしその垂れ幕が
拓大・八王子キャンパスに下ろされたのは六月。

代表選手の選考は二月にとっくに終わっていたのに。
卒業式、入学式に同じ垂れ幕を掲げてたら、卒業生、新入生、
大いに意気高揚したのに。

拓大。時の利を完全に掴んでます。ところが、それが意識的な結果か、
それとも偶然かの違いで、今後の発展も全く違ってくるでしょう。
ひとえに経営者の手腕が問われてます。

水田
rice field

日比谷高校(6)

今年、日比谷生は新宿教室に男子一名。渋谷教室に
男子一名、女子二名。全員、国立大を目指してます。

新宿の男子は二年生の一学期からずっと一緒。まだ和訳で
小さなミスはするものの、単語・語彙では、ほとんど困らなく
なってきました。自信も付いてきたことでしょう。

女子の一人は二年生・三学期から。彼女から聞いたのか、
渋谷教室に今年の春からもう二人。全部で四名ですね。
さあ、もうすぐ夏期講習。みんな、準備して来てね。

滝
waterfall

たしかな あしぶみ

成蹊大学の設立者・中村春二(なかむら はるじ)についての映画。
私はこの映画が成蹊大学・第三号館で上映されると知り、
吉祥寺キャンパスに行ってみました。

「ワン・キャンパス」が売りの成蹊大。確かに幼稚園から
大学まで、吉祥寺キャンパスの中に収まってます。

もともとは春二が1906年(明治39年)、池袋に設立した私塾が起源。
日露戦争後の当時、日本の教育は教室に六十名の生徒を詰め込む
マス・プロ教育。教育の重要性は認識されてましたが、それを
できるだけお金をかけずに行おうとしてました。
まるで今日の大手予備校の風情。

これでは当然、一人一人の生徒に目が行き届きません。
しかも学資が続かず、上級学校に進めない子供が続出。

そんな子供たちを真のジェントルマンに育てんと、
春二は自宅に勉学意欲のある生徒を住まわせ、
そこから学校に通わせました。

ところがいくら春二がガンバっても、生徒たちは
学校で俗世間に染まってしまいます。

自分で学校を作るしかない。

春二は当時、土地が安かった池袋で、資材をなげうって土地を購入。
そして校舎建設には同じ学窓の岩崎小弥太(いわさき こやた)
今村繁三(いまむら しげぞう)に資金の協力を仰ぎます。

岩崎は三菱の総帥。今村は今村銀行(現・みずほ銀行)の頭取。
快く資金寄付に応じました。こうして1912年(明治45年)
「成蹊実務学校」が誕生。今年で百年目。

実務学校では英語・数学だけでなく、簿記、そろばんなど、
「実務」に役立つ科目が教えられました。それだけでなく全寮制。
生徒は先生と朝から晩まで行動を共にします。

もちろん春二も生徒たちと食事をし、風呂に入り、ランニングもしました。
ランニング時には生徒と同じく、上半身・裸だったとか。

中村春二
teacher

そんな春二の背中を見て、成蹊の生徒たちは、
真のジェントルマンとは何かを、言葉でなく体得していきました。
文部省からは「クラスの定員が少なすぎる」とクレームが付きました。
しかし春二は。

三十名を超えると、生徒の一人一人に目が届きません。
生徒はいろいろな器の形をしてます。入口が狭い生徒の場合、
すぐにたくさん入れられません。だから、他の生徒と同じ速度では
入らないのです。けれど、そういう生徒の中にこそ、後に非凡な人物に
育っていく者たちがいるのです。一人一人に目を配らなくてはなりません・・・

やがて成蹊学園が吉祥寺に移転する話が持ち上がります。
ですがちょうどこの頃、春二は体調を崩し、教務に耐えられない状態に。
吉祥寺への移転にあたり「成蹊実務学校」が廃校と決定されます。

春二が手塩にかけて大きくした「成蹊実務学校」。その廃校を春二は、
たいそう嘆いたとか。今年、設立百周年を迎えた成蹊学園。その名の由来は。

桃李(とうり)もの言わざれども 下 おのずから蹊(みち)を成す

桃、梨の花が咲き誇れば、何も宣伝しなくても、人が集まってきて
自然に道ができる、そんな意味。生涯、理想を貫いた春二。池袋に実務学校を
建てた時も、入学直前に周囲の火事が引火。校舎は焼失。けれど、
一週間後に仮校舎を建て、スケジュール通り、新入生を迎えたとか。

春二が卒業生に送った言葉「たしかな あしぶみ」。もともとは全て
ひらがなですが、読みやすいように現代語にしておきました。

君たちが世の中に出た時 学窓から見た世の中とは
随分 違っていると感じるだろう

毎日 同じ仕事の繰り返しで ガッカリするかもしれない
こんな一生を送っていてはと 思う時もあるだろう

しかし毎日の変化が 生きるための必要条件だろうか
変化がなければ 人の目的がとげられないのだろうか

日は東より出て西に入る 冬が去れば春が来る
毎日 同じ仕事をすることを つまらぬと思う者は哀れだ

同じ仕事にこそ 深い意味が潜んでいるのだ

私が自分の人生を振り返る時 その路の面白さや変化が嬉しかったのではない
その旅路を踏みしめる 一足一足の確かさが大事なのだ
君たちも日々の路を シッカリ踏みしめて進みたまえ

夏
summer
筑波大学附属高校
成蹊大学

白鴎高校

隅田川 かもめはむれて たのしき門や 清けき わが学び舎

1888年(明治21年)女子教育の必要性に気づいた当時の教育行政・
担当者によって「府立・高等女学校」として設立。その後、高等女学校が
増えるにつれて「府立・第一高女」と改名。
戦前の女子教育を先陣を切りました。

ちなみに府立・第二高女は現・竹早高校。府立・第三高女は現・駒場高校。
この三校が府立・高女の御三家。家の中に閉じ込められるのが運命かと
思われた当時の女子に、広い世界の存在を垣間見せた「高女」。

そこでの経験は、当時の知的な女子たちに、どれほどの興奮を
与えたことでしょう。由緒正しい府立・第一高女が戦後、男女共学の
白鴎高校に。「はくおう」と読みます。

共学になった後も「日本の伝統文化を教える」という色彩が強く、
今も白鴎。高二では「日本文化概論」を設置。将棋、囲碁、茶道、華道、
書道、作道を学習。音楽では「邦楽」として三味線・演奏も。
部活動でも和太鼓部、長唄三味線部、百人一首部・・・

場所は都営大江戸線・新御徒町駅からすぐの場所。駅を出て、
清洲橋通りを少し北に行くと、見えてきました。校舎には和太鼓部、
百人一首部の活躍を讃える垂れ幕。訪問者は企画経営室に行くよう
指示されます。そこに向かってると、白鴎・男子。

コンチハ!

大きな声で挨拶。さて、そんな白鴎。都立高校の凋落により、長い間、
泣かず飛ばず。東大など、夢のまた夢、みたいな高校でした。

しかし、ここに来て都立高校の復権! 白鷗も2005年(平成17年)、
他の都立高校に先駆けて中高一貫教育コースを設置。
そんな白鴎のスローガンは「辞書は友達 予習は命」。

中高一貫教育コース・一期生が2011年(平成23年)に卒業。
今春の卒業生は二期生。その進学実績は東大3名。一橋3名。
東工大3名。早大44名。慶大14名。まあまあの数字でしょう。

下町にはこれと言った私立もなく、ここにきて両国、白鴎、墨田川が
力を付けてます。下町の白鴎。未来を感じさせる都立高校です。

紫
purple
竹早高校
駒場高校

国士舘大学

これまで国士舘と言えば、男子柔道部の活躍のみが耳目を集めました。
京王線・永山にある国士舘・多摩キャンパス。ここに体育学部。
この武道学科からは多くのオリンピック・金メダリストが登場。

男子・柔道が惨敗したソウル・オリンピックで
唯一、金メダルを取った斉藤仁(さいとう ひとし)。

アテネ・オリンピックで金メダルを取った後、
地獄を見、そこから這い上がった鈴木桂治(すずき けいじ)。

北京・オリンピックで金メダルを取った後、
その立場に安住せずK-1に転身した石井慧(いしい さとし)。

けれど多摩キャンパスが国士舘の本部ではありません。
では国士舘、一体、どこにあるのでしょうか?

田園都市線・三軒茶屋駅。そこからは「世田谷線」という
路面電車が下高井戸まで走ってます。その途中にある「松陰神社駅」。
そこで降りてみましょう。北へ商店街が続いてます。

その商店街の先に「松陰神社」。幕末、多くの志士に影響を与え、
「安政の大獄」で斃れた吉田松陰。彼が祀られてます。
松陰神社の横には、生涯、松陰を敬愛した桂太郎の墓も。
世田谷区を歩きながら、もう心は憂国の志士に。

そんな期待に応えんと、やがて右に見えてくる国士舘キャンパス。
左には世田谷区役所。世田谷キャンパスと梅ヶ丘キャンパスがブリッジで
つながってます。梅ヶ丘キャンパスの高層棟。九階は学生食堂。
展望台にもなっていて、オシャレな空間が広がってます。
六本木ヒルズ、東京タワー、向こうにはスカイ・ツリーも。

柴田徳次郎(しばた とくじろう)が1917年(大正6年)に始めた私塾が
戦後、国士舘大学に。「尊王・殉国の至誠」を謳う国士舘です。
もちろん日本共産党は「国賊」(こくぞく)扱い。

柴田は若い頃、玄洋社の頭山満(とうやま みつる)の知己を得、
そこで「アジア主義」「国家主義」に目覚めます。そんな柴田、
頭山満、渋沢栄一、徳富蘇峰らが協議して設立した学校が国士舘。

国を憂い、国に殉ずる「国士」の輩出を目指しました。戦後も天長節や
海軍記念日に行事を行い、学生に愛国精神を植え付けようとした
柴田の理想。それは真摯な理想に基づいていたとはいえ、
一般国民の理解を得るには至りませんでした。

国士舘は「右翼の大学」というレッテルを貼られ、明るいキャンパス・
ライフに憧れる受験生から、完全に敬遠。ところが、その国士舘が
最近、復活!「二十一世紀アジア学部」を作り、従来の国粋的な
イメージから脱皮しようとしてます。

思えば、頭山らが唱えた「大アジア主義」も、西洋列強からの解放こそ、
唱えこそすれ、決して日本だけよければいい、アジアだけよければいい、
という狭量なものではありませんでした。そして二十一世紀、アジアの時代。
国士舘はその意味を賢く理解し、設立者・柴田の遺志を真に体現すべく、
動き始めてます。

東京のミッション系・私学が今だ、とっくに終わってる欧米に目を
向けてる今、早々と「アジア学部」を新設した国士舘の姿勢には、
設立者・柴田のDNAがシッカリと受け継がれてると言わざるを得ません。

世田谷キャンパスにはロンドン・オリンピックへの国士舘・出場者の
垂れ幕がかかってます。一週間に迫ったロンドン・オリンピック。
国士舘からは新体操、女子陸上、男子柔道で卒業生が参加。
応援しないわけにはいきませんね。

空と海
sky and sea
修猷館高校

國學院大学

渋谷駅・東口を出ると、南北に走る明治通り。恵比寿・方面に歩くと
「東」(ひがし)という交差点。そこを左に曲がると、國學院のキャンパス。
渋谷のことをよく知ってる人なら、こう聞いただけで「青学の隣かな」と
思うことでしょう。そう。青学の南にあります。

けれど青学と比べて遥かに新しいキャンパス。ガラス張りの校舎は明るく、
開放的。キャンパスの中央には「若木タワー」。上階は教員室。

学生食堂も充実。その名も「和」(なごみ)。「讃岐うどん」専門コーナーは秀逸。
國學院に行けば、一度は食べたいメニューです。

もともとは「皇典講究所」(こうてん こうきゅうじょ)という「国学」を学ぶ
小さな学校。飯田橋にありました。それが後に國學院大となります。
歴史から分かるように「日本文学」「日本史学」「民族学」の研究に
強い大学。戦前、人文を教えるロクな私学もなかった頃、
國學院には錚々たる学者が集いました。

「遠野物語」を書いた、民俗学の草分け、柳田國男(やなぎた くにお)。
柳田の弟子で、国学と民俗学を融合した折口信夫(おりくち しのぶ)。
多くの国語辞典を編纂した金田一京助(きんだいち きょうすけ)。

戦後になっても、ドイツ文学・研究の鬼才・種村季弘(たねむら すえひろ)が、
ここで教えました。

さて國學院。現在の学部構成は。

文学部、神道文化部、法学部、経済学部、人間開発学部。人間開発学部とは
教育学部のこと。この学部だけは田園都市線・たまプラーザにキャンパス。
神道文化部は、神主を養成するための学部。國學院にしか、ありません。

キレイなキャンパス。人文の脈々たる伝統。渋谷のロケーションも抜群。
なのに國學院。今のところ、日東駒専と同列か、それより下あたりにランク。
実力以下に評価されてると言わざるを得ません。

とはいえ時の利は、明らかに國學院にあります。「クール・ジャパン」が
叫ばれ、アメリカも欧州も、文明的にどうしようもなくなった今、
日本に注目が集まってます。

もともと強い「日本学」をバック・ボーンに、社会科学を充実させれば、
大化けする可能性。近くにある青学、明学が英文学だの仏文学だの、
時代遅れな西洋学問にしがみついてる今、「敵失」は明らか。

PRの仕方さえ間違えなければ、國學院には大きな可能性が開けます。
オープン・キャンパスにさえ来させれば、青学を視野に入れてる
受験生の心も揺らぐことでしょう。

それにしては國學院のPRが足りません。今、オープン・キャンパスの時期。
街のあちこちに私大の広告。けれど國學院の露出度が少ない。
惜しい、と言わざるを得ません。

理系学部を作らず、渋谷のキャンパスを大切にした國學院。MARCHが
ユニバーシティを夢見て、理系学部を作り、郊外への移転を余儀なくされ、
大学力も落とした今、國學院は完全に穴場。

設備は揃ってるのだから、後は経営者のやる気。そして教員、
学生の奮起のみ。私たちも期待しましょう。

森
forest

しきりに さ迷って

K-POPの小田和正を探せ、と言われたらパク・ハッキ。登場した時代も
70年代と、小田和正と同じくします。たとえばラブ・ソング。普通は
「君を抱きしめたい」みたいな歌詞を歌いますが、パク・ハッキ。

君がいるこの街を 両手を広げて 抱きしめたい

そんな歌詞を歌います。オフコースも、そんな曲を作ってましたね。
パク・ハッキの曲には名曲もたくさん。代表曲は、この曲。
タイトルを直訳すると「しきりに さ迷って」。

いつだって 再び感じることができるなら その息づかい 僕の心を
とめてしまいそう 君に 再び伝えられるなら 隠し切れない
僕の心 話したい

しきりに さ迷って 一度くらいは 考える思い 自分でも分からず
隠せない この思い しきりに さ迷って

しきりに さ迷って 一度くらいは 考える思い 自分でも分からず
隠せない この思い しきりに さ迷って

男子の気持ちを幾重(いくえ)にも包んで歌ってます。最近のK-POPには、
直截的な歌詞ばかり。こういう余韻を残す歌詞が、もっとほしいところです。

京都外国語大学

大阪外語が阪大に吸収されて以来「外国語大学」は実質的には、
東京の外語と京都外大のみ。関西では、ある程度の存在感を持つ大学。

今月・初旬、京都駅からタクシーを走らせ行ってみました。二十分ほどで
京都外大・正門。京都の西・右京区にあります。正門を入ると、それほど
広くない敷地に、建物がいろいろ並んでます。建てられた時期が違うのか、
仕様がバラバラ。新しい建物もあれば、古い建物も。大学というより、高校。

戦後すぐの1950年(昭和30年)京都のこの地に設立。東京では「外語」とか
「外語大」と呼ばれますが、関西では「外大」。ここも「京都外大」。
学園祭も「外大祭」。学園祭で語劇が行われるのは、外語と同じ。

関西では外国語を本格的に学べる大学は、国立大では大阪外語に
限られてたため、京都外大は、大阪外語に落ちた人、あるいは他の国立大が
ダメだったけど、語学が好きだ、という人の受け皿となりました。

とはいえ外国語大学というのは、大学経営という視点から見れば、
儲からないものです。東京の外語も、昔の大阪外語も、文科省から
最安の予算しか付けてもらえませんでした。

外国語大学なんか、これくらいの予算で、なんとかなるだろう。

それが文科省の姿勢。国立大でこうなのだから、私立の外大を経営する
となれば、予算は常に逼迫。高校の佇まいも、ある程度、理解できますね。
さて京都外大。学科構成を見てみると。

英米語学科 スペイン語学科 フランス語学科 ドイツ語学科
ブラジル・ポルトガル語学科 中国語学科 日本語学科
イタリア語学科 国際教養学科

読者のみなさんは、この学科構成を見て、どう思うでしょうか?
現代にマッチしてると思うでしょうか?
 
そう。京都外大のカリキュラム。あまりに欧州偏重。四十年前のメンタリティ
そのまま。時代についていってません。今どき、スペインやイタリア、
ポルトガルの言語を学びたい学生が、どれほどいるでしょう?

こういった南欧諸国から最近、聞こえてくるのは、自分でお金の問題を
解決できない、情けない話ばかり。欧州の時代など、とっくの昔に
終わってます。なのに、京都外大の学科構成。少し頭の切れる
受験生には、すぐに足元を見られてしまうでしょう。

世界はアジアの時代に完全に突入。京都外大も、その方向へ舵を切るべき。
朝鮮語学科もないなど、大学・経営者は何をしてるのでしょうか?

タイ語、カンボジア語、インドネシア語、ベトナム語、モンゴル語・・・
京都外大が世間にもっとアピールするためには、これらの言語を
学べるカリキュラムにしていくべき。一般大学でも学べるドイツ語や
フランス語など、もっと縮小すべきでしょう。

京都外大。語学を志した私にとっても、ガンバってほしい大学。
けれど、このままでは早晩、受験生に見切られ、凋落が必至の情勢。
大学・経営者の慧眼(けいがん)と大胆さが、今、求められてます。

青
blue

高二・難関大講座

今日一日だけの体験授業。難関大に受かりたいなら、
高二でこれくらい勉強しよう、というイベント。

初めて塾に来た人も多く、レベル高くて面くらった人も。
けれど、これくらいができないとダメ。受験も世の中も甘くありません。
それは諸君も分かっているでしょう。

さあ、夏期講習を受けるかどうか、決めようと思って体験授業に
来た人も多いでしょう。ぜひ、この夏、一緒に勉強しましょう。

女子
girl

早大を斬る

池袋教室でのイベント。私は英語のパラグラフ・リーディングを担当。
早大・法の問題を使いながら、早く読む技法を伝授。

三十分しか時間がなかったのが残念。でも、その時間の中で、
かなり長い文章を読みました。受けた人も「早く読む」とはどういうことか、
朧げながら掴めたことでしょう。さあ、その原理を生かしていくのはこれから。

夏期講習には元気な顔で来て下さい。
みんな、楽しみにしてることでしょう。

白花
white flower

渋谷の文法クラス

金曜日のクラス。一限が終わった後、帰ろうとする女子。
池袋で読解も受けてます。けれど彼女、大きなスーツケースを転がして、
どう見ても、旅行に出る雰囲気。けれど、まさか、受験生なのに。
私は冗談のつもりで聞いてみました。

旅行にでも行くの?

すると。

今から大阪に行くんです。
何しに?
「嵐」のコンサート、見に。
・・・

案外、受験生時代の勉強からの逸脱は、一生、心に残る想い出に
なるかもしれません。楽しんで下さい。そして夏期講習には全力投球で。

風鈴
summer

竹早高校

水道橋・北にある文京シビック・センター。に文京区役所。大きな建物です。
二十五階は展望台。東京北部が見渡せます。サンシャイン・ビル。
小石川植物園。東大・本郷キャンパス。六義園・・・その景色に
小さく緑色の運動場。都立・竹早高校です。

シビック・センターを出て、春日通りを上がっていきましょう。やがて、
右に竹早高校が見えてきます。ただし正門すぐ右に別の専門学校が
ありますから、奥まで入っていかないといけません。

正門を入ると右に校舎。目の前は体育棟。体育棟の屋上が人工芝の校庭。
シビック・センターから見えてた運動場は、この校庭。ただその校庭が狭い。
体育棟の上にあるのだから仕方ありません。というわけで竹早。
運動部より文化部が優勢。野球部に至っては「軟式野球部」。
甲子園は目指せません。

前身は府立・第二高女。この名門・女学校が戦後、男女共学の竹早高校に。
「自主自律」を校訓。大物OBとしては、なんと緒方拳(おがた けん)。
緒方は竹早・卒業後、俳優の道に入ります。

早くから見出され、NHK大河ドラマで豊臣秀吉、藤原純友、大石蔵之助など、
主役級を演じました。同時に「必殺仕事屋稼業」などエグイ役もこなし、
演技の幅を披露。分かりやすいヒーローだけではありませんでした。

そんな作品の中でも、緒方の真骨頂が出てるのはNHKドラマ「破獄」(はごく)。
吉村昭の原作をドラマ化したもの。実話に基づいてます。

戦後まもない北海道・網走刑務所。刑務所の外は厳寒。内部も決して
脱獄できない仕組み。そこから超人的な力と工夫で、
何度も脱獄しては捕まる囚人・佐久間。

そして佐久間を追いかける看主。看主は佐久間に脱獄される度に、
恥をかかされます。けれど、そんな佐久間と看主との間に、
いつしか奇妙な友情が・・・

逃げ回る佐久間を緒方が、追いかける看主を津川雅彦(つがわ まさひこ)が
演じました。津川は私生活でも生涯、緒方との友情関係を続けました。

さて緒方。1999年(平成11年)の竹早・百周年の記念式典に、いきなり登場。
会場から、やんやの喝采を浴びました。スポット・ライトを浴びてはいても、
彼の心にはいつも、母校・竹早があったのですね。

さて竹早。今春の進学実績は早大26名。近くにある東洋大41名。
これで、だいたい生徒のレベルも分かるでしょう。

塾での話も。今年、池袋教室には竹早生が三名。男子一名。女子二名。
早大を目指してガンバってます。竹早から早大に行きたいなら、
学校の授業だけでは通用しません。それをシッカリ見切っての通塾。

私の責任も大きい。春期講習から、一度も休まず、通ってる彼ら。
マジメな竹早生、そのままの姿。そんな彼らが、来春、満足して塾を
卒業してくれますように。さあ、竹早生。夏期講習、一緒に燃えよう!

緑
green drops
駒場高校

武蔵高校(2)

一学期も今週で終わりです。
今年、私の受験生クラスには、武蔵生が二名。
新宿教室と池袋教室。二人とも教室の後ろの方に座ってて、
一学期、あまり話す機会もありませんでした。

でも雑談の時にシッカリ聞いてる二人。
やはり教養を重視する武蔵の教育は、
キチンと機能してるのでしょう。

二人とも夏期講習に向けて、準備し始めてることでしょう。
私も受からせるために全力を尽くさないといけません。
一緒にガンバろうね。

浜辺
summer beach
武蔵高校

開成の卒業生

東大・医学部の六年生が会いに来てくれました。新宿教室。
なんでも近くの「JR東京総合病院」で実習があったから、
そのついでに、とのこと。

高一から高三まで東大クラスで習ってました。一浪して理Ⅲに入学し、
今、六年生。ということは最初にお茶の水教室で会ってから、
かれこれ十年。あの時、高一・東大クラスは、男子は開成、
女子は白百合。今回、来てくれた彼も、もちろん開成生。

小田急センチュリーのバーに誘いました。新宿の夜景を見ながら、
お酒を飲める場所。すっかり大人になった彼。東大・医学部のことを
聞いてみました。すると。

他大学より、カリキュラム、緩いですよ。

出ても出なくてもいい授業が多く、試験前には対策プリントが
回ってくるので、それで何とかなるとか。

その分、いろんな勉強もできました。

医学だけでなく、芸術・文学の勉強もしたとか。自由にさせても学生が怠けず、
その分、枠を破って視野を広げること。これこそ「ユニバーシティ」。
東大・医学部の場合、その自由さが良い方向に出てるようです。

入学時、理Ⅲの定員は九十名。進振りで理Ⅱから十名。残り全学部から
三名が医学部に進学。ということは理Ⅱでガンバれば、医学部への道が
開けます。

入学時に理Ⅲの偏差値を叩き出す自信はないけど、理Ⅱなら手が届き、
しかも高校の中間・期末試験で、どの科目でも百点近く取れるような人なら、
理Ⅱから医学部への進学が視野に入ります

消化器内科を専門にするという彼。卒業は来春。それ以降は医局に入って、
研鑽を積むことに。きっと良い医療人になってくれることでしょう。

夏空
summer sky
開成高校

小山台高校

東急目黒線・武蔵小山駅。その駅を降りるとすぐ右にある都立高校。
「こやまだい」と読みます。目黒線が引かれたのと、ほぼ同時期に
設立されたので、駅前に校舎を建てることができました。

設立は1923年(大正12年)府立八中。数字からして名門。八中は多くの
人材を輩出しました。1923年と言えば、関東大震災が起きた年。
火災で校舎を焼失した東京工業大学が大岡山に引っ越してきました。

この経緯から、戦後、小山台高校になった後も、東工大には
多くの卒業生を送り込みました。1950~60年代の都立高校・全盛時、
小山台は東工大に全国No.1の進学者数を誇ってたほど。

この頃、山口県の宇部高校から小山台に転校してきた男子生徒が。
管直人(かん なおと)です。彼も小山台を卒業後、東工大に進学。
専門は応用物理。原子力とも関わる分野。

2011年(平成23年)3月11日の原発事故・発生時に首相を務めてた管。
その時の対応について、今だに批判されてます。しかし事故直後から、
水素爆発の危険性を何度も周囲に聞いてました。素人ではありません。

けれど「水素爆発は起きません」という返事ばかり。そして起きた
水素爆発。取り巻きがあまりにもヘタレ。しかも誰一人、
責任を取った人もいません。いかにも日本的な話。

さて小山台。東工大でないにしても、理系に強く、東大や医学部への
進学者も多数。都立名門の一角でした。けれど学校群制度の導入により、
小山台も凋落。都立壊滅の波はここでも見られました。

八中からの伝統が小山台の自慢。校章は寒菊(かんぎく)の葉が
八つ円形に。校舎にも八角塔。あの塔は何に使われてるのでしょうか。
知りたいところですが、聞けませんでした。

私が訪問した時、ちょうど部活の時間。野球部が校舎の周囲を
走ってました。彼らが挨拶してきます。

コンチハー。

私も返事をしておきました。都立高校で生徒から挨拶されるのは、
気持ちいいもの。さて小山台。2000年代になってから徐々に
進学実績が回復。とはいえ東大にはまだ行けません。
今春実績でも早大に38名。伝統の東工大にも3名。
本格的な回復はこれから。

塾でも今年、小山台を卒業した浪人・男子がいます。新宿教室。
春期講習で私に習って以来、一日も休まずに来てます。彼も東工大・志望。
力を付けての浪人だったので、今年は楽に受かってくれるでしょう。
そんな彼に聞いてみました。

小山台の特色って、何?
あ、体育祭ですね。

毎年九月の「寒菊祭」文化祭と体育祭が行われます。
何でも体育祭の応援では、応援団長の男子、上半身は裸になるとか。
この日のために鍛えたのか、体はムキムキ。最後はみんなで肩を組んで
校歌を大合唱。バンカラな校風の小山台。今後が楽しみな都立高校です。

紫
purple

戸山高校(5)

アタシ、右が1.5で、左が0.1なんだけど。

渋谷教室で戸山・女子。右目に眼帯をしてます。

ものもらいになっちゃって・・・

いつもは後ろに座ってる女子。けれど、それでは見えません。
当てないから、一番前に座るよう、私は言いました。

結局、彼女は今日だけ一番前。周囲には俄然、
やる気を出した女子に見えたかもしれません。

けれど前で受ければ、黒板が見やすいだけではありません。
集中できるし、オーラみたいなものも感じることができます。

前で授業、受けるのも悪くない。

そう思ってくれたら、ウレシイですね。

初夏
early summer
戸山高校(4)

東大、ボーイングと共同研究

金属、合金の製造や加工を専門にする研究者を擁する東大の
生産技術研究所(生産研)。この生産研がなんと、アメリカ・ボーイングと
航空機・製造技術について共同開発することに。ボーイングが
日本の大学と共同研究するのは初めて。

東大は三菱重工、川崎重工、富士重工と産学連携のコンソーシアムを作り、
研究に乗り出します。三年間は炭素繊維・複合材、チタン、アルミの
切削化工技術の向上を探ります。

切削時の摩擦熱による温度変化。その時の工具の摩耗度。

これらを解析。短時間で効率よく化工する技術を模索します。
ボーイングは世界中で共同研究をしてますが、日本では初めて。
日本の名だたるメーカーも参加してるあたり、マーケットから見ても
有望なのでしょう。どんな技術が出てくるか楽しみですね。

空
sky

東洋大学

文京区・白山(はくさん)にある東洋大キャンパス。正門に立つと、
緩いスロープ。スロープを上まで行くと、井上円了(いのうえ えんりょう)
の像。向こうには井上記念館。円了が1887年(明治20年)に「哲学館」
として始めた学校が前身。その後、「哲学館大学」となり、
1906年(明治39年)に東洋大学となりました。

東洋の哲学のベースとして、その上に西洋の学問を移植し、
普遍的な知に到達しよう。

円了の学校設立の理念は実に正しいものでした。哲学こそ、全ての学問の
土台だからです。インド思想、中国思想、仏教思想、東洋芸術の分野に
限って言えば、東洋大は近くの東大・文学部に比(なら)び得る力を持ちます。

けれど大学が隆盛するためには、最初は哲学や人文を土台とはしても、
社会科学が活気づかねばなりません。けれど、東洋大。坂口安吾のように、
文学部からは有名な作家、研究者が多数、出ましたが、法学部、経済学部、
経営学部から、なかなか実力者が現れませんでした。

川越キャンパス・・・理工学部、総合情報学部。
朝霞キャンパス・・・ライフデザイン学部。
板倉キャンパス・・・生命科学部、食環境学部。

理工学部を詳しく見ると。

機械工学科 生体医工学科 電機電子情報学科 応用化学科
都市環境デザイン科 建築学科

どれも時代のニーズを正しく反映してます。とはいえ、そこでの研究が世に
広く知らしめられるに至らず、そこそこの学生が入学し、そこそこの場所に
就職していく、という平凡パターン。爆発的な発展がありません。

井上記念館の隣にある二号館は高層キャンパス。向こうに六号館。
六号館の地下には、広くて明るい食堂。普通、大学の学食など、素人の
オバチャンがマズイ食事を安く提供する、というのが定番。けれど、
東洋大・学食。チェーン店が出店。気合いが入ってます。

インド料理、和食、ラーメン、パスタ・・・出店なので街の食堂と変わりなく、
価格は安めに設定。東洋大生がオイシそうに食べてます。こんな側面も
自慢していいはずですが、大学パンフには、食堂についての記述は
一言もありません。

それから東洋大。スポーツが強い。野球部はプロ野球に多くの選手を
送り込んでます。マラソンでも2012年(平成24年)の箱根駅伝では駒大を
抑えて、堂々の優勝。タイムは10時間51分36秒で大会新。

ボクシング部ではロンドン・オリンピックに二人の卒業生が出場。
他にホッケー、相撲、レスリング・・・こう見てると東洋大。人文科学が強くて
社会科学が弱い。マラソンが盛ん。駒大との共通点を多く持ちます。

けれど学生数・二万三千名。立教、中央と同規模。
スポーツだけでなく、研究でもMARCHに伍してほしいですね。

花火
summer night

駒澤大学

鎌倉仏教の中から沸き起こった禅宗。道元は「正法眼蔵」を著し、曹洞宗を
開きました。その曹洞宗を学ぶ学校が江戸期、駿河台に「学林」(がくりん)
として誕生。この学林が駒澤大学の前身。

二十世紀になってから「曹洞宗大学」と改名し、戦後の学制改革で
「駒澤大学」に。略称は「駒大」(こまだい)。今年の箱根駅伝では
東洋大に続く二位。駒大の名を高めました。

東急・田園都市線には「駒澤大学」という駅があります。渋谷から乗れば、
三軒茶屋の一つ向こう。駅を出て首都高・三号線の下を桜新町・方面に
しばらく歩き、左に曲がれば駒大キャンパスが見えてきます。

ところが正門のすぐそばまで、三菱重工の大きな社宅!
レンガ色の堂々たる社宅で、向こうに見える駒大・校舎を圧倒。

どうしてこういう歪(いびつ)なキャンパスになったのでしょうか?
これでは駒大生、母校への誇りを持て、と言われてもムリ。
こんなキャンパスは、恐らく駒大だけでしょう。

正門を入ると、狭い敷地に校舎がいろいろ並んでます。禅の歴史を辿る
博物館「禅文化歴史・博物館」まで。しかし狭いことに変わりはなく、
駒大生は緑あふれる駒澤公園も我がキャンパスと思わねば、
やっていけないでしょう。

設立経緯から仏教学部、文学部が強い大学。仏教学部には
仏教学科だけでなく禅学科も。文学部にも地理学科、歴史学科、
社会学科、心理学科と一通りのことは学べる体制。

ただし法学部、経済学部、経営学部が弱いのは否定できません。
大学が隆盛する場合、最初は人文科学が引っ張っても、それを継承して
社会科学、ひいては自然科学が伸びていかねばなりません。

駒大の場合、自然科学はもともとないから、しかたないにしても、
社会科学が発展しなかったのは、致命的。

社会科学の教員が頻繁に世間に登場し、自説を披露すること。
彼らに教えられた者の中から、力ある政治家、財界人が出ること。

こういう状況になってこそ、大学は隆盛。上智や青学がまさにそうでしたね。
駒大。もともとの人文科学が「禅」という、あまり現代受けしない
内容だったことも、今ひとつ発展できなかった一因でしょう。

偏差値的には「日東駒専」に入れられ、私学でも三番手あたり。
国立も入れれば、五番手あたりの印象。

駒大にとっては、もともと強い人文科学を全面に押し出し、同時に
社会科学を充実させることが急務。それは教員、学生の双方に
意識改革を迫るものでしょう。

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