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杏林大・医学部

吉祥寺から南へ伸びる吉祥寺通り。左には井の頭公園の森。上連雀、
下連雀・・・道は三鷹の街を南北に走ります。やがて右に都立・三鷹高校。
その向こうに大きな杏林大学・病院。「きょうりん」と読みます。

キャンパスへの行き方が分からず、ウロウロして、やっと裏門から入れました。
キャンパス中央には医学・資料情報棟。ここが本部棟。
隣には医学部・附属図書館。

杏林大の三鷹キャンパスです。ここでは医学部、保健学部・看護学専攻の
学生が学びます。少し離れた所には医学部附属・看護専門学校も。

杏林大にはもう一つ、八王子キャンパスがあり、そこには外国語学部、
総合政策学部、保健学部の看護学専攻以外の学科があります。
1966年(昭和41年)に設立された新しい大学。

三鷹キャンパス・本部棟の玄関には「真・善・美」の文字。校訓になってる
ようです。校舎のプレートには、「杏林」という名前の由来も。

昔の中国。ある医師が患者から治療費を取らず、杏(あんず)だけを、
もらってました。そして、その杏を一つ一つ植えていったところ、
いつか杏の林になった、という故事。そんなプレートを
ボンヤリ見てると、向こうから女子。

あ、先生。

駆け寄ってきます。なんと昨年まで教えてた女子。
すっかり学生らしくなって。

おお。

私たちは附属病院・外来棟の上にあるレストランに。
このレストラン、眺めがよく、遠く新宿・高層ビル群も。

「救急医療がやりたい」と杏林大に進んだ彼女。確かに第一病棟の向こうには
高度・救命救急センター。三次・救急医療まで受け持つ大きなセンター。
附属病院そのものが大きく、入院ベッド数は千床以上。
これなら杏林大で研修するとしても、十分な規模。

医学部は一年次から三鷹キャンパス。八王子キャンパスとは、ほとんど
交流なし。大学側としては、医学部と他学部の連携を強調してますが、
やはりムリがあるようです。

大学の語学について聞いてみました。すると。

中学の英語みたいです。

教員も学生もやる気がなく、学部としても、語学で学生を疲弊させない
方針とか。これはマズイ。来たるべきグローバリズムの中で、英語も
使えない医師は、活躍の場が大きく制限されるでしょう。
六年次、卒業する頃には英語で診断、治療が
できるくらいにならないといけないのに・・・

英語、やっとけよ。

私からは、そう言うのが精一杯。思えば彼女。高二から英語を
習い始め、高三、浪人時代にも塾に来ました。杏林大に
受かった時は、二人して喜んだものです。

そんな杏林大。学費は六年間で三千八百万円。決して安くはありません。
けれど、彼女。その教育投資を遥かに上回る医師になってくれるでしょう。

気球2
baloons

自治医科大学

概ね半径4㎞以内に五十名以上住んでいて、医療機関がなく、
かつ容易に医療機関を利用できない地区

厚労省は「無医地区」をこう定義してます。こうした「僻地」での医療を
充実させるため、各都道府県が出資し、1972年(昭和47年)栃木県に
自治医科大学が設立されました。「自治医」(じちい)と呼ばれてます。

JR宇都宮線。大宮から一時間ほどで小山に。小山は関ヶ原の戦い・前、
家康が上杉・討伐を一旦、中止し、西へ戻る軍議を開いた場所。

その小山から二つ目の駅が「自治医大」大学名が、そのまま駅名に。
駅を出ると、自治医への接続バス。百六十円。五分ほどで自治医のタワーが
見えてきます。自治医のタワー以外、周囲に高い建物はほとんどなく、
大学でもってる町。駅名が大学名なのも理解できますね。

バスは附属病院に到着。この病院は専門病院で紹介・予約がないと
診てもらえない科ばかり。病院の向こうに、さっきから見えてた
自治医のタワー。キャンパスはここ。

タワーは右が記念棟。左が教育・研究棟。向こうにはグラウンド。
そして学生寮。学生寮は白い建物。キャンパス周囲には
木立と野原が広がり、他に何もありません。
医学を勉強するためだけの六年間。

味気ないな、と思うかもしれません。けれど六年間の学費、
二千三百万円は全て貸与。入学金・授業料など一切かかりません。
私大カテゴリに入る自治医ですが、各都道府県が出資して
設立した特異な経緯のため、こうなってます。

卒業生は研修期間を経て、自治医・在学期間の一・五倍の期間、
出身・都道府県の命じられた場所で働くことが義務づけられます。
六年間で卒業したなら、九年間ですね。しかも、その九年間の半分は、
知事が命じた僻地で働きます。この義務を満たせば、
貸与された学費が免除される仕組み。

各都道府県から二~三名の枠。東京・大阪は人口が多いから
枠も広いかというと、そんなことはありません。ただし、
地元・栃木県からは五名。結果、全寮制となります。
学生寮が完備してるのも、頷けますね。

僻地・一歩手前みたいな自治医キャンパス。このロケーションも、
僻地医療の心構えを学生に植え付ける狙いがあるのでしょう。

都会の灯が恋しい。

そんなメンタリティでは、とうてい僻地医療などできません。
年限は九年間と定められてはいても、九年経っても、
そのまま僻地にとどまり続けることが、期待されてます。

学費が全くかからず、奨学金については月額・五万円が、ほぼ無条件に
認められます。家庭の経済状況によって七・五万円、十万円、
十二・五万円、十五万円と増額されます。

寮に住み、周囲に何もないのですから、実質、学費・生活費が無料。
僻地医療を充実させたい、という地方自治体の姿勢が現れてます。
例えば東京都の枠で入学したなら、卒業後、都立病院で研修を行い、
そして三宅島や大島みたいな場所で医療に従事します。

学費がどうこうより、最初から僻地医療が目標で、大学を探してたら、
自治医を見つけ、ここだ、と思って受験する。これが自治医への
ベストの進路選択。学費がかからないし、とか、一定年数経ったら
都会に帰ろう、とか思って入学しても、いつか挫折するでしょう。
というより、そんな受験生は、そもそも面接で、はじかれるはず。

医学部・受験を学費面だけで考えるなら、自治医より、
通常の国公立大・医を目指すべき。通常の国公立大・医でも、
家庭が困窮し、成績優秀なら、学費免除や奨学金があります。

僻地医療に一生を捧げよう。

思いつきでなく、心からそう思う受験生こそ、
自治医の門を叩くべきです。生半可な気持ちでは、
いつか後悔するでしょう。

噴水
fountain

東京慈恵会医科大学

東京・芝にある慈恵大学病院。すぐ向こうには大学・一号館。
二つの建物が競うように建ってます。東京タワーはすぐそこ。
虎ノ門、新橋にも近い場所。まさに東京・一等地。

もちろん医大の価値は土地価格で計られるものではありません。
けれど不動産・価値だけで言うなら、都内一、日本一はここでしょう。

さて、ツマラナイ不動産・話はおいといて、慈恵医大。どんな大学か、
中に入ってみましょう。まずは病院から。入るとすぐに。

病気を診ずして 病人を診よ

設立者・高木兼寛(たかき かねひろ)の言葉。医師は病気や症状だけでなく、
患者の全体を診るべきだという、今日では当たり前のことが、明治期に
語られたのでした。今では信じられないことですが、当時、
帝大・医学部スクールを中心に、患者を
研究材料とみなす風潮がありました。

イギリスに学び、人道主義に基づく医療を目の当たりにした高木は、
そんな風潮に肯ずることなどできません。高木が慈恵医大の前身・
成医会講習所を開いたのは1881年(明治14年)のこと。

以来ずっと「患者目線に立つ」ことが慈恵医大では連綿と受け継がれて
きました。病院、看護婦・教育所も次々と新設され、慈恵医大は発展。

ちなみに高木は、もともとは海軍・軍医。イギリスへの留学も
海軍からの派遣。帰国後の高木は、当時、軍で流行していた
脚気(かっけ)の撲滅に尽力。今では有名な「海軍カレー」も、
脚気・予防のために高木が考案した料理。軍人としてよりも、
心優しい医師だったのでしょう。

そんな高木の遺志に忠実たらんと、慈恵医大。今も病院入口に
高木の言葉を掲げてます。診察を待つ患者さんたち。忙しく動き回る医師。
その後をついて回る医学生。いかにも医大病院・待合室の風景です。

病院をつっきると大学・一号館。ロビーには、さまざまな臓器の標本。
といっても、何かに漬けてあるわけでなく、干からびて収縮。
結局、展示用なのでしょう。

慈恵医大のキャンパスは二つあります。ここ西新橋キャンパスと
国領キャンパス。京王線・つつじヶ丘駅の二つ向こうに、
国領(こくりょう)という駅がありますが、そこ。

国領キャンパスでは医学科・看護科の全ての一年生が学びます。
看護学科は二年次以降も、そのまま国領キャンパス。
医学科は二年次からは西新橋キャンパスに。

慈恵医大。伝統ある大学だけに、これまで輩出した医療人も多く、
卒業生は医療のあらゆる分野で活躍してます。国家試験の合格率も
昨年度で95.2%。全く問題ないでしょう。

学費は六年間で二千三百万円。私大・医学部の中では、
かなり安い方。今後も慈恵医大の人気は続くでしょう。

木1
tree

順天堂大学

箱根駅伝で毎年、結構いい成績を出す順天堂大。

スゴイなー。医学生なのに、あんなに早く走れるなんて。

そう思ってる人はいませんか? 箱根を走ってる順大生は
「スポーツ健康科学部」の学生。千葉にキャンパスがある学部。いちいち
確認してませんが、順大ランナーの中に医学部生はいないでしょう。
ましてや医療看護学部、保険看護学部の男子が走ってるとは、
とても思えません。

お茶の水にある順天堂大には医学部のみ。隣には順天堂・医院が
聳(そび)えてます。シーボルトが長崎に鳴滝塾を開き、西洋医学を
教える鳴滝塾を最初に開いたのが1824年(文政7年)。

それに遅れること十四年。1838年(天保9年)に佐藤泰然
(さとう たいぜん)が日本橋に西洋医学塾を開いたのが、
順天堂の始まり。

1853年(嘉永6年)ペリーが黒船・四隻で来航。以来、日本では
全国的に尊王攘夷・思想が広がります。西洋のものは全て悪い、
と言わんばかりに、西洋医学も敵視されることに。

佐藤の医学塾も日本橋で続けていくのは危険となり、千葉・佐倉に疎開。
ここほど田舎なら、大丈夫だろう、というわけでした。

佐倉の地で正式に「順天堂」と名乗り始めました。
易経の「順天応人」から取られてます。天の意志に従い、
人々の期待に応える、というほどの意味。

こんな田舎にありながら、順天堂の名は
全国にとどろき、各地から俊英が集まりました。

日新の医学 佐倉の林中から生ず

その後、明治維新後、順天堂も東京に戻ってきました。
優秀な堂主、そして教授たちが学園を盛りたて、私立・医学校
として揺るぎない地位を獲得。今日に至ります。

学是は「仁」。患者への思いやりの心を叩き込まれます。医師として
当然のことでしょう。順天堂の特色としては、早くから医学とスポーツの
連携に着目したことが挙げられます。戦後、早々と体育学部を設立。
それが現在、スポーツ健康科学部に。

この学部からは「美しい体操」の範(はん)を世界に示した、
男子体操の富田洋之(とみた ひろゆき)が出ました。

男子団体でアテネ・オリンピックで金メダル、
北京・オリンピックで銀メダルを獲得します。

医学部に戻りましょう。順大・医学部では国家試験・合格を
大きな目標に掲げてます。当たり前のことですが、国家試験に
合格しなければ、医師にはなれません。しかも毎年、落ちる人が
一割ほどは、いるのです。国試くらい、キチンと合格しましょう。

当たり前の目標を順大・医学部は掲げ、実行。結果、国試・合格率では
全国の官学・私学の医学部のうち、常にベスト5に入るまでに。

六年間の学費は二千百万円。慶大・医学部に次ぐ安さ。この安さこそ、
順大・医学部の実力を物語ってます。毎年、志願者が殺到。
慶大・医学部、慈恵医大と並んで私大・医学部の御三家です。

色
colors

昭和大学

私が住んでる横浜・港北ニュータウン。センター南にある昭和大・北部病院。
高度な専門医療を受けられる病院として、市民の安心の源となってます。

田園都市線を長津田・方面に行くと、ここにも昭和大・藤が丘病院。
このように港北にいると、イヤでも昭和大の存在に気づかされます。

一体、昭和大とは、どんな大学なのでしょう?

田園都市線に乗ってると「医療の総合大学」という広告をよく目にします。
どんな大学なのか、見に行った方が早いですね。場所は東急・大井町線の
旗の台駅。二子玉川で乗り換えて、急行に乗れば「自由が丘」の次。

降りると旗の台・商店街。その向こうにドーンと聳える昭和大・病院。
病院は二棟に分かれてます。大学らしき建物はありません。
総合受付で聞いてみました。すると。

この裏ですよ。左へ曲がって、もう一度、左です。

大学は病院の裏。病院を出てよく見ると、周囲は薬局ばかり。
そして医学書店。さながら医療・城下町の風情。

言われた通りに行くと、ありました、昭和大。中庭を挟むように
校舎がコの字に。事務局が分からずにモタモタしてると、
事務の制服を来た女性が。

ご案内いたします。

優しい心遣い。私は何とか事務局に辿り着くことができました。
さて昭和大。医学部、歯学部、薬学部、保険医療学部の四学部。
この四学部があるのは全国でここだけ。「医療の総合大学」と
胸を張るのも頷けます。

上條秀介(かみじょう しゅうすけ)が1928年(昭和3年)に
設立した「昭和医学専門学校」が前身。今も昭和大の学祖は上條。
以降、八十年余、昭和大は連綿と医療人を世に送り続けてきました。

そんな昭和大の特色を言えば「学部間の連携」。
四学部間で連携した教育を行うことを一年次から目指します。
それ故、一年次には、全学部生が富士吉田キャンパスで
学びます。しかも、なんと全寮制! これはスゴイ。

富士吉田で昭和大生は、それぞれの学部に関係なく、医療人としての
資質を体得していきます。とかく医療系の学部は、医学部を頂点に、
次に歯学部、薬学部、看護学部が続きます。その差は歴然。

たいてい学部間で対立関係が生じ、ケンカばかりするのが
普通のパターン。ましてや看護学部、看護学科に至っては
医学部・学生の恋人探しの場所、ぐらいにしか思われてません。

なのに昭和大。学部の垣根を超えて一緒の生活をさせることで、
下らない偏差値・思考を捨て去らせ「一緒に医療を学習しよう」という
姿勢を植えつけます。

これは医学部・学生に余計なプライドを持たせないだけでなく、
他学部・学生にも、医療人としてのキチンとした
誇りを与えることになります。

医療現場では、患者の全体を見なければなりません。その際、
医学の知識だけでは、どうしようもなく、歯学、薬学、看護学の知識も
求められます。今どき、医療人は他分野との協力なしには、
一歩も進むことができません。

このことをシッカリ認識した昭和大。医療人・輩出という点で、
生き生きした学び舎となってます。ちなみに医学部でも
六年間の学費は二千七百万円。安い方でしょう。

官学・医学部への入学のために、心身を消耗し、歪んでいくより、
適当な受験勉強で昭和大あたりに入学し、そこで早くから幅広い訓練、
切磋琢磨を経験する方が、うんと良いでしょう。

私大・医学部には昭和大のように、素晴らしい学び舎がたくさん。
私もこのブログでプッシュせざるを得ません。

梅
ume

慶大・医学部

慶應義塾に医学所が設立されたのは1870年(明治3年)のこと。
この医学所からは多くの医師が巣立ったものの、十年後の1880年に廃所。

ところが1917年(大正6年)慶應義塾は改めて初代・学部長に北里柴三郎
(きたざと しばさぶろう)を迎え、医学部を設立しました。
皇室から三万円が下賜されたということですから、国家的にも
慶大・医学部への期待は大きいものでした。

慶大・医学部。この期待に、みごとに応え、戦後には日本の医学界の双璧を
東大と争うまでに。東大や東京医歯大といった官学・医学部を僅差で落ち、
浪人生活を嫌って慶大・医に進む受験生が毎年、必ずいたわけですから、
慶大・医学部のレベルが上がるのも、当然でした。

六年間で学費が二千万円と、私大・医学部の中では最も安く
設定されます。私大・医学部では学費と偏差値は反比例。
学費が安ければ安いほど、偏差値は上昇します。

JR総武線・信濃町駅(しなのまち えき)。キャンパスは駅前にあります。
とはいえ駅を出てドーンと見えてくるのは慶大病院。そこには「附属」の
文字もありません。その向こうに隠れるように慶大・医学部の建物。
まるで慶大病院・附属医学部の趣き。

実はこの光景こそ、慶大・医学部が抱える課題をシンボリックに
表してます。地方の国立大・医学部なら、附属病院が幅をきかせるのも、
やむを得ないでしょう。研究よりも臨床に進む者が圧倒的に多く、
地域医療に貢献するのが第一目的だからです。

けれど東大と並び立つと自負する慶大なれば、臨床だけでは、当然、
不十分なはず。例えば今、医学の最先端である細胞研究。私大・医学部で
シッカリした発表をできてるのは、慶大のみ。他の私大・医学部は
医師養成で手一杯。とても余裕はありません。

研究における慶大の役割は大きいと言えるでしょう。
医学部が付属病院に圧倒されてはなりません。

慶大・医学部は戦後、武見太郎(たけみ たろう)という政治力に
優れた医師を輩出しました。武見が母校の慶大・医学部のために尽力し、
結果、ステータスが上がったのは間違いありません。

けれど政治力と研究レベルは、あくまで別。慶大・医学部が研究レベルで
国立大と競り合い、リードできるかどうかが、今問われてます。

青
blue

北里大・医学部

2004年ですから、今から八年前。恵比寿教室の二年生・東大クラスに
一人の男子生徒。土曜日のクラスでした。その後、三年生の東大クラスでも
一緒。やはり土曜日。なんとなく話すようになりました。

よく聞いてると、なんと新潟から毎週、通ってるとか。ガンバったものです。
その後、受験結果の報告は聞かず、時が流れました。

けれど先日、ひょっこり彼が渋谷教室に訊ねてきました。聞けば今、
北里大・医の大学院生だとか。博士課程に在籍。マーク・シティ・五階の
バーに彼を誘いました。その後のこと。今の研究のこと。

肺ガンを防ぐ効果のある細胞(肺ガン・血清)を研究してる、とのこと。
そう聞いて私は「なぜ肺ガンになるか」の研究はしないのか、
聞いてみました。すると。

その研究、やるんだったら、国立大の医学部に行かなきゃ、ムリですよ。

「なぜ~の病気になるのか」の研究には、膨大な資金が必要とのこと。
やはり、最後はお金の話になるのですね。

ボクが書いた論文です。

英語で書いた論文をくれました。その論文が評価され、博士課程・修了までの
二年間、学術研究員として、資金が出ることになったそう。

彼のくれた論文。読もうとしてもチンプンカンプン。けれど、この論文の原点に
塾での勉強があったのなら、私も少し自慢してもいいのでしょうね。

雪柳
late winter

日大・医学部

池袋・西口から「日大病院」のバスが出てます。それに乗ってみましょう。
要町(かなめちょう)千川(せんかわ)・・・有楽町線の駅名が通り過ぎます。

やがてバスは板橋の住宅街。そんな住宅街に、突然見えてくる白い
大きな建物。日大・板橋病院です。正門を入り、右へ行けば病院。
左へ行けば医学部・校舎。しばらく歩くと本館。歴史を感じさせる建物。

とはいえここは記念撮影をするための場所。授業で使われることは、
あまりありません。本館・裏にある教育棟やリサーチ・センターは
新しい清潔感ある校舎。医学部だから当たり前。さてカリキュラムは。

一年次・・・医学序論 社会体験学習
二年次・・・基礎医学系ブロック講義
三年次・・・PBLチュートリアル
四年次・・・診断学 医療総論

四年次が終わった時点で「客観的臨床能力試験」"OSCE"。
そして「コンピューター試験」"CBT"。

五年次~六年次・・・臨床実習。臨床講義。

日大・医学部の特徴としては「医学英語」への特化を挙げることができます。
六年間ずっと「医学英語」が必須。しかも「文学」や「文法」といった
実用と関係ない英語でなく、まさに「医学英語」。

語学教員も文学部を出たような使えない教員でなく、現役医師として
英語を使ってる教員。あるいは医系英語の翻訳、通訳を
専門にしてる教員。

ああ。これまで大学院で英文学を専門にした語学教員が理系・学生の前に
立ち、不必要な英文学を読ませ、どれだけ若い頭脳を辟易(へきえき)させた
ことでしょう。「一般教養・英語」なんて何の役にも立ちません。
語学教員に職を与えた、という以外には。

ですから日大・医学部が今、時代遅れな語学教員を排除し、使える英語、
医学英語をホンとに教えられる教員を揃える努力をしてることには、
私も大賛成! 今までのダラけた語学教育にはハッキリ「ノー」。

さて日大・医学部。このカリキュラムを組み、卒業時には全員が。

1・英語で医学・教科書が読めること
2・英語で診察できること

この能力を身に付けるよう特訓されます。実際、教育棟を歩けば、
壁に貼ってある掲示の半分くらいは英語。日大・医学部。本気で
実用英語に取り組んでます。医療ボーダーレスを考えれば、
これは非常によいことです。

学費は六年間で三千三百万円。私大・医学部としては平均的。

すぐ隣には日大病院。けれど駿河台にも日大病院。日大・医学部は、
もともと駿河台で1925年(大正14年)に始まったわけですから、
駿河台に病院があるのも当然ですね。   

朝顔
morning glory
日本大学

東京医科大学

新宿駅・東口からタクシーに乗ってみました。東京医科大学へ。
靖国通りを市ヶ谷方面に疾駆(しっく)。やがて小さな道を北へと曲がります。

いくらもしないうちに東京医科大学の正門。中に入って少し歩くと、
右に大きな講堂。ここで入学式、卒業式が行われるそうです。
狭い敷地。校舎は三階建てで外壁は白。中は古く、いつ頃、
建てられたのかな、と思うほど。

設立は1916年(大正5年)9月。同年5月、日本医学専門学校
(現・日本医科大)が四百五十名もの退学者を出す状況が生じてました。
この四百五十名が新しい医学校を設立せんと作ったのが東京医学講習所。
東京物理学校(現・東京理科大)の校舎を借りて授業が行われました。

この学校が東京医学専門学校となり、戦後、東京医科大学に。
現在の定員は百二十名。カリキュラムを見ると。

一年次・・・一般教養 外国語
二年次・・・解剖学 生理学 生化学 病理学 免疫学 寄生虫学
三年次・・・薬理学 病理学 微生物学 医用電子工学  
四年次・・・社会医学 臨床医学

一年次から四年次までは「医学英語」という科目が必修。英語で情報を
受信、送信できる人材の輩出を目指してます。四年次・終わりには"OSCE"
という「客観的・臨床能力試験」。それにパスすると、
五年次~六年次で臨床医学。

附属病院は新宿駅を挟んだ西新宿にあります。高層ビルが立ち並ぶ
副都心の近代的な病院。他にも八王子と茨城に医療センター。とはいえ
附属病院、八王子・茨城の医療センターで研修を受ける学生は全体の41%。
残りの59%は学外で研修を受けてます。

学費は六年間で三千万円。私大・医学部としては平均値。
敷地の狭さ、校舎の古さが問題ですが、それを気にしなければ、
新宿のロケーションといい、伝統といい、悪くない医大でしょう。

道路
road

日本医科大学

本郷通りを東に入ったところにあります。地名は千駄木(せんだぎ)。
昔、お茶の水にある順天堂の隣に「済生学舎」という
私立の医学校がありました。そこを前身とします。

済生学舎を設立したのは長谷川泰(はせがわ やすし)。
1876年(明治9年)のことです。長岡藩の軍医だった長谷川。
戊辰戦争では河井継之助(かわい つぎのすけ)に最後まで従いました。

継之助は長岡藩・軍師として幕府側に。早くから西洋の武器を揃えた
先見性では薩長も顔負け。継之助が導入したガトリング砲。用兵でも
際立ってました。官軍(薩長軍)は多数の死傷者を出すことに。

北越戦争の終わり、継之助も被弾。最後を迎えます。その最後を
看取ったのが、軍医・長谷川。そんな長谷川が設立した済生学舎。
多くの医師、医学研究者を輩出。

細菌学で世界的な業績を上げた野口清作(英世)。
東京女医学校を設立した吉岡弥生。
破傷風・毒素の研究を進めた浅川範彦(あさかわ のりひこ)。

設立者・長谷川は下水道法を整備し、都市の衛生向上に尽力。
京都帝国大学・設立を建白したのも彼。しかし、そんな長谷川の活躍を、
面白くないと思ってた人物がいました。時の権力者・山縣有朋です。
自ら戊辰戦争を戦った山縣は、北越戦争でも多くの部下を死なせました。

山縣には長岡出身の長谷川が目ざわりでなりません。陰に陽に圧力を
かけます。山縣だけではありません。帝大・医学部スクールに属する
森林太郎(鴎外)らにしても、たかが私立の医学校である済生学舎が
多くの人材を輩出することに危機感を覚えます。

一時は、日本の医師の半数近くを輩出してた済生学舎は1900年(明治33年)、
女子の募集を停止。1903年にはとうとう廃校に。涙を呑んだ卒業生は
多かったことでしょう。

しかし卒業生も黙ってはいませんでした。彼らを中心に済生学舎を
復活させようという動きが。廃校・翌年1904年には日本医学校が湯島に誕生。
次第に発展し、日本医学専門学校に。1926年(昭和2年)日本医科大学に昇格。
卒業生たちの喜びは、いかばかりだったでしょうか。
この日本医科大学からは。

丸山ワクチンを開発した丸山千里(まるやま ちさと)。
コレラ・チフスと戦い、殉死した肥沼信次(こえぬま のぶつぐ)。

多くの偉大な先人を日医大は送り出してきました。今も千駄木キャンパスを
歩けば、あちこちに彼らの銅像。大学全体として誇りにしてるのですね。
そんな日医の校訓は「克己殉公」(こっきじゅんこう)。
自分を人々のために投げ出そう、という精神。

ドイツ・リーツェンの研究所で研究中に、自らチフスに罹り、斃(たお)れた肥沼。

桜が見たいなあ。

看護師にそう言って、息を引き取ったとか。彼が閉じる瞼(まぶた)に思い
浮かべた桜は湯島、上野の桜だったでしょう。そんな肥沼らの精神が
今も息づいてます。実際、日医生の声を聞くと、二言目には
「患者さんのため」が出てきます。

日ごろの授業、学園生活の中で叩きこまれてるのが分かります。
私大・医学部の良い点が出てますね。官立・医学部、特に帝大・医学部を
出た医師の中には、何をカン違いしてるのか、エラそうな態度の人が
時々います。ところが日医の殉公精神からは、少なくとも、そういう人が
出にくくなります。

一学年はずっと百名程度でしたが、最近、文科省の指導もと、徐々に定員を
増やしてます。今年の入学者で百十四名。医師・増産時代です。

一年次は新丸子キャンパス。二年次以降は千駄木キャンパス。
千駄木キャンパスの隣には附属病院。附属病院は今、大きな工事が
行われてて、平成三十年には十五階建の新病院ができる予定。

附属病院の隣には緑溢れる根津神社。その向こうに大学院棟。
とはいえ、大学院棟といっても、ここは実質的には実験室、演習室。
それ故、学生たちは教室棟と大学院棟を行き来する羽目に。その都度、
附属病院の地下を潜り、根津神社を通り抜けねばなりません。

先輩が後輩を教えるチューター制度も、日医ならでは。訪問した時にも、
先輩の男子学生が女子学生・三人を相手に人形を使って、蘇生方法。
六年次からは五~六人で個室を使えるようになります。学生目線に
立った学校運営。学費は六年間で二千八百万円。
私大・医学部としては安い方。

もう、これ以上、下げられないんですよ。

教務の人に聞くと、そう言ってました。私大・医学部は今、どこも学費の
ダンピング競争。寄付をほとんど期待できない日医では、この額が限度。
聞いてる私も、頷かずにいられません。

かくして日医。お薦めの医大。二千八百万円なんて、腕の立つ医師になれば、
一年で稼げる額。医学部・特有のおかしなエリート意識に染まることなく、
若いうちに「他のために生きる」ことを叩きこまれる日医。私も、もう一度、
学生になれるなら、親に頼みこんで、学費を出してもらい、
こんな大学で学びたい。そう思えたほどです。

青
blue

東京女子医科大学

市ヶ谷にある防衛省から歩いて、それほどかからない場所。
地名は河田町(かわだ ちょう)。道を挟んで大学と附属病院。
道は「女子医大通り」。確かに白衣を着た医師・学生が行き交います。

吉岡弥生(よしおか やよい)が1900年(明治33年)に東京女医科学校
として設立。それが東京女子医学専門学校となり、戦後、
東京女子医科大学に。医学部、看護学部を備えてます。

吉岡は済生学舎(さいせい がくしゃ)という医学校で学んだ女医。
シーボルト・いねから数えて二十七番目の女医でした。当時、済生学舎は
女子でも医学を学べる唯一の場所。ところがその学舎が1900年、
女子の受け入れを停止すると発表。

このままでは、女子が医療を学ぶ伝統が廃れてしまう。

吉岡は自力で医学校を設立。当時、女子だけが学べる医学校は世界でも
珍しく、実は今も、あまり数は多くありません。吉岡の先見性と根性には
頭が下がりますね。今も河田町キャンパスには、和服を着て座ってる
吉岡の像が医学生たちを見守ってます。
そのカリキュラムを見ると。

一年次~二年次・・・人体の基本的構造と機能
二年次~四年次・・・臓器・器官系の構造と機能の正常と異常
四年次・・・医学と社会、臨床入門
四年次が終わった時点で共用試験"OSCE"
五年次~六年次・・・医療と医学の実践
そして卒業。実習・研修は当然、附属病院で行われます。

東女医大で着目すべきは研究機関が多いこと。キャンパスを歩いてても、
糖尿病センター。膠原病センター。リウマチ・痛風センター・・・
いろんな研究機関が目に付きます。

中でも「先端生命医科学研究所」では、最先端の「医工連携」。
「ツインズ」"TWINS"と呼ばれる研究機関。連携先は近くの早大・理工学部。
発足したのはかれこれ五十年ほど前。その頃から、再生医療に着手。

今でこそ再生医療に注目が集まってますが、その頃は、誰も再生医療など
口にしてませんでした。設立者・吉岡の先見性は、こんな場所にも
受け継がれてます。現在、ツインズでは「細胞シート」を作製して、
糖尿病、肝臓病、角膜異常などへの治療が行われてます。

細胞シートを大量生産する試みも、日立製作所や日本光電と共に
始まってます。患者を救うことが医師の目的。五年、十年先を考える
工学研究者。この二つのグループを融合させるのは、簡単ではなかったと
ツインズ所長の岡野光夫(おかの みつお)は言います。

さて気になる学費ですが、六年間で三千三百万円。
私大・医学部としては少し高め。

「ブーツを履いて、白衣を着てはならない」といった、いかにも女子医大らしい
貼り紙がある東女医大。すれ違う学生たちも、落ち着いた女子もいれば、
コギャル風な子も。学費さえクリアできるなら、面白い学園でしょう。

蝶々
butterfly

北里大・東洋医学総合研究所

渋谷から品川へと都営バスに乗ってみましょう。バスは恵比寿へ
明治通りを南下。恵比寿駅を過ぎた頃、東に。そのまま乗ってると、
左に北里大学が見えてきます。東洋医学総合研究所。薬学部の
附属機関。1972年(昭和47年)国内初の近代的な漢方研究機関として設立。

1883年(明治16年)に当時の日本政府が西洋医学を正式な医学として
採用して以来、ほぼ百年。伝統ある北里大に東洋医学総合研究所が
設立されたことは、画期的。

研究所・設立には当時の日本医師会長・武見太郎の尽力。
「漢方の薬効を、どうやって証明するんだ。」そんな声が
研究者・臨床医師から寄せられました。すると武見は。

今までの歴史で証明されている。

研究所・設立への反対論を一蹴。

1976年には漢方エキス剤が健康保険の適用内。1986年には
世界保健機関"WHO"から「伝統医学協力センター」に指定。
現在、ガン細胞の増殖を抑える効果や認知症、うつ病における
症状の改善を促す効果が研究されてます。

通常、漢方薬と言えば、生薬を抽出、乾燥して粉末状にした「エキス剤」が
主流。しかし研究所では、あくまで「煎じ薬」にこだわってます。
煎じて服用した方が、より薬効を期待できるから、とのこと。

五~六世紀に中国から日本に伝わり、脈々と受け継がれてきた漢方。
その薬効を科学の視点で解き明かそうという研究所。
地味ですが、誰かがやらねばならない大切な作業です。

晩夏
late summer

北里大学

北里柴三郎(きたざと しばさぶろう)がドイツ留学から帰って来た時、
日本には「細菌」という概念がほとんどありませんでした。当時、流行ってた
結核にも打つ手なく、事実上、結核=死病。

そんな北里が日本初の結核サナトリウムを設立しようと思った時、
彼に理解を示し、資金援助をした人物がいます。そう。福沢諭吉。
こうして1893年(明治26年)に港区・白金に「土筆ケ丘養生園」が誕生。

その「養生園」は今も「北里研究所病院」として残ってます。「養生園」が
発展する形で1962年(昭和37年)生命科学を中心とする北里大学が設立。
学部構成を見ても、非常に意欲的な学園運営の姿勢が窺えます。
まず全学部・一年生は相模原キャンパスで学びます。

二年次以降、医学部、看護学部、理学部、医療衛生学部は
そのまま相模原キャンパス。

薬学部は白金キャンパス。獣医学部は青森の十和田キャンパス。
海洋生命科学部は岩手の三陸キャンパス。

医学部のカリキュラムについて話しましょう。

一年次・・・病院体験当直・実習。入学直後、大学隣にある北里病院で
当直を経験。まだ何も分からない段階ですが、当直を経験することにより、
医学を学ぶ心構えを身に付けることが狙い。その後、基礎的な医学の
勉強が始まります。医学言論、医用化学、タンパク質化学、医療情報学。

二年次・・・基礎医学。生化学演習、医化学、栄養学、遺伝子学(実習)、
解剖学(実習)、組織学、発生学、生理学。

三年次・・・前期は臨床遺伝学、免疫学総論、病理学総論。
後期は器官系別の総合教育。

四年次・・・器官系別の総合教育。同時に臨床実習への準備が始まります。
一月にはCBT、二月にはOSCEという共通試験が行われ、知識レベルを評価。

五年次・・・臨床実習。

六年次・・・診療医科から三科目を選択。実習します。

カリキュラム見ただけでワクワクしますね。医学部だけでなく他学部でも、
先進的カリキュラム。良いと思ったことをサッと実行できる
私学の良い点が出てます。

さて北里柴三郎に戻りましょう。「養生園」設立時に福澤に世話になった北里。
その福澤が慶応義塾に医学部を設立する時、初代・学部長を買って
出たのが北里。「借りは返す」というわけです。明治から大正にかけての
エリートには、こんな美談もあったのですね。

北里大学や大学病院の周囲には淵野辺公園、相模原公園など豊かな自然が
残っている場所がたくさん。ただし医学部について言えば、学費は高め。
六年間で三千九百万円。受験生はこの額について、
よく考えた方がいいですね。

春
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