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キム・ヨンサム

1993年から1998年まで韓国の大統領。漢字では「金泳三」。

パク・ジョンヒがクーデタを起こして政権掌握したのが1961年。
パクは後に大統領となり、独裁権力をふるいます。
現在、大統領職にあるパク・クネの父親です。

パク大統領は政権掌握して十八年後の1979年、青瓦台で側近に撃たれ、
死去。この後、チョン・ドファン、ノ・テウと軍人独裁が続きます。

軍人独裁時代、野党にあって、政権にたてつく政治家として、
頭角を現したのがキム・ヨンサム。キム・デジュン(金大中)と共に
独裁の弊害、財閥の汚職を国会で厳しく追及。

慶尚南道の出身。日本に留学経験もあり、日本語はペラペラ。
一期後、大統領となったキム・デジュンも日本語が上手な政治家。
この頃までは、日本統治時代を経験した世代。日韓関係は良好。

やがてキム・ヨンサムは大統領候補に目され、出馬したのは1992年。
対抗馬は現代グループ総帥チョン・ジュヨン。キムはチョンを下し、
文民・初の大統領に。1993年の就任演説を聞けば、ああ、今から韓国にも
明るい民主主義の時代が来るんだな、という気がしてきます。

日本の原敬が「平民宰相」と呼ばれたのが1918年。韓国では、
それから七十五年経って「文民大統領」が誕生したわけです。

けれどキム大統領。見るべき成果を挙げることができませんでした。
反対ばかりで人気を博し、政権に就いた場合、その後、何もできない、
というのは、よくあること。後継のキム・デジュン、ノ・ムヒョンも、その類い。

キム・ヨンサムから三期十五年に亘って、韓国の政治は停滞。
停滞だけならまだしも、キム・ヨンサムの経済政策は大失敗。
韓国は1997年、とうとう国家破産。IMF管理下に。

IMFは韓国に厳しい構造改革を指令。その結果が、私たちが今、
見る韓国。弱肉強食。格差拡大。国際競争力のために、一業種・一企業へと
淘汰、合併。2000年代に入り、サムスンやヒョンデが世界に羽ばたく一方、
国内に競争相手とて、一社もありません。

88万ウォン世代と呼ばれる、若年・貧困層も出現。
競争から取り残される者が社会底辺に追いやられました。

外資参入も自由化。今、韓国の大企業は、どこも外資が半数以上。
外資の顔色を窺う経営をせざるを得ません。当然、外資は儲かる
ことだけ優先。韓国人、韓国事情を忖度することなど皆無。

韓国では一部エリートだけが、並ぶ者なき実力を身に付け、
大部分の普通人は敗者カテゴリに回されることになりました。
「構造改革」という言葉を聞く時、私たちは韓国の状況を
思い起こすべきでしょう。

1992年の大統領選挙でキム・ヨンサムと争って敗れた、
現代グループ総帥チョン・ジュヨン。彼はこの選挙を機に、
経営からも、政治からも離れます。後に自伝でこう語ってます。

自分に任せてもらってたら、国家破産などしなかった。

今、私たちがキム・ヨンサム時代を振り返る時、
この正直な言葉が全てを表してるでしょう。

金泳三
President

イ・スンシン

秀吉が晩年、二度に亘って実行した朝鮮出兵。韓国語では
「インジン・ウェラン」。陸の戦いではそれなりに善戦した日本軍も、
海の戦いでボロ負け。秀吉の大陸進出の夢は潰れました。

この時、朝鮮水軍を率いて、日本水軍を叩き潰した将軍がイ・スンシン。
当時の朝鮮半島は漢字文化で、日本でも「李舜臣」で通ってますから、
李舜臣と呼ぶことにしましょう。

李舜臣。韓国では今も英雄の中の英雄。国民の尊敬を集めてます。
ソウル、プサンだけでなく、南海に面した街、例えばトンヨル、モッポでは、
あちこちに李舜臣の像。「小学生で李舜臣を知らない子はいませんよ」
プサンの博物館で案内の人がそう話してくれました。

日本史では、ほとんど話題にならない朝鮮出兵。けれど韓国人には
一大事。ちょうど日本人にとっての元寇。元寇は台風が吹いて、元軍を
追い払ってくれましたが、朝鮮出兵では、朝鮮水軍が堂々と戦って、
日本水軍を撃退。情けない話ばかりの李氏朝鮮にあって、
ほとんど唯一、韓国人が誇れる史実。

しかも相手が日本! 溜飲下がるのも当然でしょう。李舜臣は
どこから見ても、文句なしの英雄。韓国テレビで歴史ドキュメンタリーを
見てると、シリーズの中で必ず李舜臣が登場。

面白いことに、そんな李舜臣ドキュメンタリーでは、必ず最後に
東郷平八郎が登場。なんでも、東郷提督が李将軍を尊敬し、その戦法から、
日本海海戦の着想を得た、というもの。日本海海戦の勝利も、
李舜臣のおかげと言わんばかり。

統合提督と李将軍の関係。日本では研究対象になりませんが、
韓国人には大切なこと。何しろ、韓国人が日本人に手本を見せ、
指導した例なのですから。それが、どこまでホンとかはともかく、
李舜臣が朝鮮史の数少ない英雄であることは、
認めねばならないでしょう。

李舜臣
general

ノ・ムヒョン

もし政治家が「バカ」の精神で政治を行えば、
国がもう少し良くなると思います・・・

「バカ」というあだ名を付けられたノ・ムヒョン大統領が、MBCインタビューに
笑顔で、こう答えました。2003年から2008年まで大統領職。

慶尚南道・出身。貧農に生まれ、高卒。大学には行けませんでした。
けれど一年間の猛勉強により、司法試験に合格。労働者のために
戦う人権弁護士として名を馳せました。

国会議員になっても人権擁護は変わらず、労働者の立場から、
大企業・幹部を国会に召喚し、的確な質問で追及。この頃の映像を見れば、
まさに頼れる弁護士。弱者の味方。いつしか大統領に押されるまでに。

ところが大統領選挙の頃から「反日」を打ち出します。人権弁護士という
立場上、その言葉は左翼の色彩を帯び、韓国では、それはそのまま
反米、反日へとつながります。

大統領になってから、この反米、反日がますます鮮明になり、2005年には、
いわゆる「親日法」を制定。親日派・子孫の財産は過去に遡って没収する
という法律。罪刑法定主義に違反するトンデモナイ法律なのですが、
韓国の憲法裁判所は沈黙。この法律は今も有効です。

思えば、一期前のキム大統領、そしてノ大統領の十年間で、
韓国の反日運動は決定づけられました。しかも、ノについては、
北朝鮮の内通者ではないかという疑惑が、常に囁かれます。

1970~80年代、北朝鮮の金日成は、韓国で「独裁打倒」を叫んで、
学生運動をしてた者たちに資金を渡し、学生運動をやめさせ、
司法勉強をさせました。彼らが後に親北勢力になることを
見越してのこと。

ノは、まさにこの世代。2014年の今、この世代の者たちが、
韓国司法の最上層に位し、憲法裁判所でオカシナ判決が次々と
出るようになりました。韓国内に三割ほどいる「親北派」も、
この世代のインテリ左翼が中心。

さてノ・ムヒョン。反日以外に目立った実績を挙げることは、できません
でした。日本でも、共産党や社民党に多くいる人権弁護士。彼らが
国会議員になり、万一、首相にでもなって国家の舵取りをすれば、
どうなるか想像すれば、察しがつくでしょう。ノ・ムヒョン大統領には、
いつしか「バカ」というあだ名まで。

2008年、さすがに反日だけの人権弁護士では国家運営などムリと、
悟った韓国国民。次期大統領には、現代グループを若くして率いた
イ・ミョンバクを選出。ノ・ムヒョンの時代は終わりました。

退陣後、故郷に帰り、自転車のかごに孫を乗せて、農道を走るノの姿が、
再びマスコミを賑わせました。けれど、幸せな日々は長く続きません。
韓国は今も「恨」(ハン)の国。トップに立った者は、その座を降りた後、
仮借ない追及を受けます。いつしかノにも、親族の汚職疑惑が
持ち上がりました。

そして2009年、彼は自宅・裏山で身を投げて自死。
他殺説も出ましたが、ウヤムヤになりました。

日本にとっては、あまり、ありがたくない大統領。
彼がまいた、反日の種は、今、ドンドン影響力を増してます。

ざくろ
nature

キム・オッキュン

1882年の壬午事変(じんご じへん)。漢城(現ソウル)にあった
日本・公使館が焼き打ちされました。その謝罪のために、朝鮮は日本に
官吏を派遣。科挙を首席で合格したキム・オッキュン(金玉均)。

キムは日本に到着し、そこで初めて「近代」に触れます。
儒教が社会の隅々に浸透し、伝統・先例が重んじられるあまり、
何の近代化も達成できなかった当時の朝鮮。

ヤンパン(両班)どうしが血の構想に明け暮れてました。
キムが見た日本は朝鮮とは雲泥の差。彼は朝鮮独立を決意します。

朝鮮から維新の志士来る。

日本の知識人もキムを暖かく迎えました。特に福澤諭吉は
キムに対して物心両面での援助を惜しみませんでした。

財界・重鎮だった渋澤栄一(しぶさわ えいいち)や
国家主義の巨頭・頭山満(とうやま みつる)らの知己を得て、
キムは活動家としての実力を、ますます高めていきます。

キムは朝鮮に帰って「独立党」を結成。1884年12月、満を持して
クーデターを実行。甲申事変(こうしん じへん)です。

ところがこの事変は反対党「事大党」の反撃により三日で失敗。
キムは日本へ亡命。暗殺団が結成され、日本にも刺客の影が。

この時、命がけでキムを守ったのが福澤諭吉と慶応義塾の塾生でした。
福澤の自宅に私淑してたキム。彼を守るために塾生が交代で見張りに
立ちます。慶応ボーイもこの頃は今と違って、気合いが入ってました。

キムはそのまま日本にいれば、福澤たちの庇護を得られたはずですが、
上海に渡り、独立運動を続けます。その地で暗殺団によって射殺。
その首は漢城に晒(さら)される事態に。

同士・キムの悲惨な最期を聞き、福澤は朝鮮を見放しました。
彼が「脱亜・入欧」を提唱し始めるのはこの頃から。

朝鮮の悲惨な状況を憂い、日本の力を借りながら、
独立を達成しようとしたキム・オッキュン。彼は今、
韓国でも北朝鮮でも「売国奴」第一号の扱いを受けてます。

青空
future

キム・ジョンウン

キム・ジョンウン! キム・ジョンウン! キム・ジョンウン!

スタジアムを揺るがすコール。そこに若き指導者が登場。
人民の興奮は最高度に。笑顔で手を振るキム・ジョンウン(金正恩)。

父親の金正日が人民の前で笑顔をほとんど見せず、
口をへの字に曲げて手を叩いてた姿とは対照的。

ジョンウンは人民の前で十数分に亘って演説。
金正日がほとんど演説をしなかったことを考えても、
完全なイメージ・チェンジを見てとることができます。

そもそも「キム・ジョンウン!」と姓と名を続けて呼ぶのは、
コンサートでアイドルに向けて呼ぶ方法。人民が自発的に
したとも思えませんから、始めからそういう指示があったはず。

「キム・イルソン!」とか「キム・ジョンイル!」など
人民には恐れ多くて口にできなかったでしょう。

要するにジョンイルは自らの「若さ」を最大の武器に
するつもりなよう。もちろん背後にはブレーンがいます。

裾を刈り上げる髪型は祖父・金日成の若い頃にソックリ。
人民は教育課程で繰り返し、金日成や金正日の映像を見せられますから、
その類似に気付かない人はいません。

スタイルだけでなく、歩き方、話し方、演説での間の取り方、
指を上げる仕草まで金日成そのもの。北朝鮮・文化に親しんでれば、
この姿は金日成の再来を思わせ、涙を誘います。

そう。ジョンウンは北朝鮮建国の父、祖父・金日成を自分に
ダブらせて権力の正統性をアピールしてるわけです。

若くて実績もないジョンウンが世襲し、後継者になることには、
当初、混乱が予想されました。北朝鮮ウォッチャーの間では
「これで北朝鮮も崩壊する。」

けれど権力移譲から一年余り、北朝鮮は相変わらず「瀬戸際外交」で
周辺国を振り回します。しかも核武装してますから、その威力は
無言の圧力に。北朝鮮が核兵器を飛ばしてきた場合、日本にも
韓国にもそれを防ぐ方法はありません。

最初は頼りなく見えたジョンウン。けれど権力基盤を固めたようです。
人民が幸福かどうかは分かりませんが、国家運営の土台はできました。
日本海へのミサイル発射。三度目の核実験成功。
この結果が全てを物語ってます。

結婚してるかどうかも不明なキム・ジョンウン。
この秘匿性も北朝鮮ならでは。

後進国のようでいてインテリジェンス(諜報)の分野では
世界最先端を行く北朝鮮。今も次の作戦を練ってることでしょう。
平和ボケした日本人はこれからも振り回されるばかりです。

金正恩
leader

キム・ジョンイル

キム・ジョンイル(金正日)は北朝鮮を建国したキム・イルソン
(金日成)の長男として1941年(昭和16年)に生まれました。

物心ついた時から、父親は建国の英雄、国家の指導者として
崇拝されてました。その背中を見て成長します。

大学生の頃から「将来は政治家になりたい」という言葉を
周囲に漏らします。当然、そこには父親の影響があったでしょう。
父親は軍・党の視察に長男を同行させるようになりました。

周囲もキム・イルソンの長男ということで、
年上の者でも敬語で話しかけてきました。

それに対し、ジョンイルは上から目線で対応。
生涯に亘り、敬語を使ったのは父親に対してだけ。

1970年代にはキム・イルソンの後継者問題が浮上。
当初、キム・イルソンの弟キム・ヨンジュが有力視されてました。

けれど70年代半ばから労働党・機関紙に「党中央」という名称が
頻繁に登場します。労働党・幹部に配布された資料を見ると。

党中央の意志は首領様の意志である。

やがてこの「党中央」が長男ジョンイルを指してることが
明らかになりました。やがてキム・イルソンは長男への
権力移譲のため、弟ヨンジュを失脚させます。
ジョンイルの地位はドンドン高まっていきました。

ところがここで同盟国・中国から権力世襲について
猛烈な反発が浴びせられました。

権力世襲はマルクス主義に反する、封建的な考え方である。

朝鮮戦争で義勇軍を送ってくれた中国。北朝鮮はしばらくの間、
権力移譲を見送らざるを得ませんでした。
当時はまだ東西冷戦の真っただ中。

東西冷戦が終結してしばらく経った1994年(平成6年)7月、
キム・イルソンが死去。キム・ジョンイルは満を持して指導者に就任。

90年代、キムは父親が果たせなかった核開発を推進。
各国から非難を浴びながらも、のらりくらりとかわし、パキスタンから
極秘に新技術を取り入れ、地下開発を進めました。

ほとんど公に姿を現さなかったキムでしたが、2000年(平成12年)に
韓国のキム・デジュン大統領、アメリカのオールブライト国務長官の
訪朝を成功。時には冗談を言ってゲストをなごませる姿に
国際社会は目を見張りました。

そして2006年(平成18年)10月、悲願の核実験に成功。
核開発は「やった者勝ち」の世界。核保有した北朝鮮に、
もはや国際社会は何も言えませんでした。そして2009年
(平成21年)5月、二度目の核実験に成功。

この頃から明らかにキムの姿がやつれます。真夜中に党幹部と
暴飲暴食してたキム。そのツケが回ってきました。

やがて国際社会に姿を見せることもなくなり、
2011年(平成23年)の暮れ、死亡が確認。三男の
キム・ジョンウン(金正恩)が後継し、現在に至ります。

金正日
dictator

キム・イルソン

キム・イルソンは日本統治時代、朝鮮半島・北部や満州で
抗日パルチザンを指導。大東亜戦争・末期、ソ連が満州、
朝鮮半島に進攻してきた時、呼応して兵を挙げました。
いつしかパルチザン派の首領(しゅりょう)に。

戦後、スターリンが北朝鮮の適当な指導者を探した時、
その基準に叶ったのがキムでした。キムは面接官の質問に対して、
的確な答えを返します。新しい指導者はキムと決まりました。

折しもソ連ではスターリンへの個人崇拝がピークに達した頃。
北朝鮮でもキムへの個人崇拝が大々的に始まりました。

1948年(昭和23年)に北朝鮮を建国。北朝鮮には当時、
パルチザン派の他に国内派、ソ連派、中国派などがあったのですが、
権力闘争を経て、反対派を次々に粛清。絶対的な権力を握ります。

1950年(昭和25年)6月に南進。半島赤化が目的でした。
アメリカは参戦してこないとキムは考えたようです。
プサンまで攻め、半島統一まであと一歩。

ところが、そこでアメリカを中心とした国連軍が参戦。
インチョン上陸作戦が奏功し、北朝鮮軍は押し戻されます。
三年後の1953年に休戦。南北の分断は決定的となりました。

キムは朝鮮戦争を通して、半島統一のためには核武装が必要であると痛感。
ニョンビョンに核研究センターを設立。ソ連の圧倒的な支援の下、
核開発を進めました。

もちろん国際的には「平和利用のための研究」と発表。
ソ連に対しても、そう言い続けました。

1959年(昭和34年)からは在日朝鮮人に対して帰国事業を開始。
北朝鮮を「楽園」と謳い、在日朝鮮人に帰国を促しました。
そのプロパガンダを真(ま)に受けて、日本人女性の多くも、
在日朝鮮人と結婚し、あるいは単身で北朝鮮に渡りました。

こうした「日本人妻」たちは現地で「楽園」とは程遠い凍土に愕然。
しかし帰ることはできません。声を出せないまま、
貧しい異郷の地で生きていかざるを得ませんでした。

キムは1965年(昭和40年)「主体思想」を提唱。
「自主・自立・自衛」を国家・三原則に定めました。

この主体思想は今も北朝鮮で受け継がれ、ピョンヤンに行けば170mの
「主体思想の塔」が街のシンボルとして聳えてます。

実はキム。1980年頃には権力を長男ジョンイルに委譲したいと
考えてました。ところが中国が権力世襲に猛反発。

朝鮮戦争以来、血盟の関係だった中国に反対され、
キムは権力移譲を断念。自ら首領の位置にとどまりました。

1994年(平成6年)キムは心臓麻痺で死去。日本ではいち早く
ラジオプレスがこのニュースを掴みました。後にジョンイルが
死去した時もラジオプレスが最も早く通報。評価を高めました。

1990年代には中国の北朝鮮への影響も限定的となってました。
キムの死後、権力は長男ジョンイルが継承。個人崇拝は続きます。
キム・イルソンは「首領様」ジョンイルは「将軍様」。
北朝鮮から流れてくる歌を聞けば、それが分かります。

金日成
communist

キム・デジュン

「いくたびか死線を超えて」という自伝を残してます。タイトルから分かるように、
何度も死に直面しながら、生き残った政治家。日本とも関わり深い人物。
「金大中事件」と聞けば「ああ」と想い出す人も多いでしょう。

韓国・南西部は昔、百済(くだら)と呼ばれてました。現在は全羅道(チョンラド)。
歴史的に貧しい地域。キムはここで育ちます。小学生までは日本語教育を
受けたため、非常に流暢な日本語を話しました。

苦学の後、運送業を営み、政治の世界に入ります。
演説の才を認められました。

1963年には野党・民主党から国会議員に当選。若いながら、
当時のパク・ジョンヒ大統領に国会質問で詰め寄ります。

1971年には党内で推され、大統領選に出馬。落選しますがパク大統領を猛追。
634万票:537万票で敗れます。ただし、この選挙で実力が知れ渡り、
キムは脅される身に。

何度かの奇妙な事故の後、1973年8月8日、東京のホテル・グランドパレスに
いたキムは何者かによって拉致されます。スーツケースに押し込められ、
長い間、車で運ばれます。やがて波音が聞こえる場所に。
拉致者の会話から、キムは、ここが神戸だと知ります。

このまま大阪湾に沈められるに違いない。

ところが小舟に乗せられ、沖合に出た所で、上空に自衛隊機の音が近づき、
何度も旋回します。照明弾も落としました。周囲は昼間のような明るさに。
拉致者たちは、自分たちの拉致がもっと大きな組織によって、
最初から監視されてたことを悟ります。

結局、キムは目隠しをされたまま運ばれ、最後はソウルの自宅近く
ガソリンスタンドで解放されました。自力で自宅に戻ります。
「金大中事件」として大騒ぎになりました。

1980年にソウルでの自宅軟禁が解け、キムは公民権を回復。
ところがその直後、5月18日に光州事件が勃発。

キムは反政府運動の首謀者として死刑判決を受けます。
この時、日本政府が韓国政府に働きかけ、キムの助命を嘆願。
結局、アメリカへの亡命を条件に釈放されました。

その後、帰国を許され、政界に復帰。1997年にはハンナラ党を僅差で
破り、大統領選挙に当選。2002年まで五年間、大統領職を務めました。

キム大統領の最大の功績は韓国大統領として、
初めてピョンヤンを訪問したこと。北朝鮮との
宥和を掲げる「太陽政策」が実りました。

2000年6月13日。専用機がピョンヤン国際空港に到着する様子を
KBSアナウンサーが中継。雲一つない青空。空港には既に
「マンセー」の声が響き渡ります。

やがて専用機が到着。機体が止まり、タラップを降りて来るキム大統領。
下で出迎える北朝鮮高官。なんと、その中にキム・ジョンイル国防委員長。
さすがにキム大統領も国防委員長の出迎えは予想してませんでした。

ここまで来ていただいて、ありがとうございます。

キム大統領が最初に声をかけます。

初めまして。我が国へようこそ。

キム国防委員長も挨拶。二人は両手で握手を交わします。
北朝鮮の民衆は興奮。さらに大きなマンセーの声。
この時ばかりは、近い将来の半島統一を思い描いた
韓国人、朝鮮人も多かったでしょう。

この南北会談。実質的な実りはほとんどありませんでしたが、
訪問そのものが評価されました。この年のノーベル平和賞は
キム大統領に贈られました。

五年間の公務の後、政界を引退したキム元大統領。
2009年に肺炎で亡くなります。国葬が行われ、数万人が弔問しました。

金大中
president

ホン・サイク

こういう人物も日本統治時代の朝鮮半島にはいたのです。
今はもう想い出す人もいません。ホン・サイク中将。

え? 中将って帝国陸軍の?

もちろん。帝国陸軍で中将にまで登りつめました。
陸士26期・陸大35期卒。同期には硫黄島で米軍を蹴散らした
栗林忠道(くりばやし ただみち)中将がいます。

ホンは関東軍での勤務が長く、満州国軍の顧問として
派遣されたこともありました。部下は全て日本人。
その部下に対して。

自分は朝鮮人のホン・サイクである。
ただ今より天皇陛下のご命令により指揮を執る。
異議ある者は申し出よ。

軍の階級が上がるにつれて、部下も多くなります。
ホンは新しい部署に移る時、いつもこう語り始めました。
それを聞いて「朝鮮人の下で働くのはイヤです」と
言った日本軍人は一人もいませんでした。

ホンは陸軍で出世する間にも朝鮮半島の独立を
いつも視野に入れてました。日本社会で上昇する彼に
独立運動の志士が参加を持ちかけますが、ホンの答えはいつも。

今は時期早尚。時を待て。

ホン中将の悲劇は戦争末期、フィリピンに捕虜収容所・所長として
赴任したこと。当時、フィリピンには食料も届かず、
捕虜が飢えて死ぬケースが続出。赴任したての
ホンにどうすることもできませんでした。

けれど戦後のマニラ法廷でホン中将の責任が問われます。
ホン中将は山下奉文(やました ともゆき)中将と同じく、
一切弁明せず、部下をかばい、死刑判決を受けました。
その判決を聞いて。

絞首合格だったよ。

もちろん「甲種合格」にかけた言葉。
最後までユーモアを失わない人でした。

陸軍内でも人望あったホン中将。陸士の同級生を中心に
除名運動が行われますが、時既に遅し。1946年(昭和21年)
9月26日、ホン中将は死刑にされました。辞世の句が残ってます。

昔より 冤死(えんし)せし者 あまたなり
我もまたこれに 加わらんのみ

現在の歪んだ反日・韓国社会ではホン中将は「親日派」のトップ。
その名誉が回復されることはありません。けれど日本の植民地時代、
朝鮮人として生まれ、日本の陸軍学校で教育を受け、日本に恩義を感じ、
日本こそ祖国として、まるでサムライのように死んでいった
朝鮮軍人がいたこと。これは、ずっと語り継がれていいことでしょう。

空
sky

パク・クネ

今、韓国で最も注目を集めてる女性。1952年2月2日に
南部の都市テグで生まれてますから、今年でちょうど六十才。
父親はパク・ジョンヒ大統領。二十二才まで普通の女子として
暮らしますが、二十二才の時、母親がソウル・ナムサンの
国立劇場で射殺されます。

一人になった父親のファースト・レディの役割をクネが務めます。
ところが五年後の二十七才の時、今度はパク大統領が側近によって射殺。
この時、ニュースを聞いたクネは一言。

前方(ぜんぽう)に異常はありませんか?

前方というのは北朝鮮との軍事境界線のこと。この一言は、個人的な
感情より国家を常に優先する態度として、韓国社会で賞賛されることに。
親を二人とも暗殺で亡くしたことから、クネは父親の暗殺後、
ひっそりと身を潜めて暮らします。

父親が亡くなってから、側近たちがドンドン離れて行ったことも、
クネが政治から遠ざかる一因だったこでしょう。

ところが、そんなクネが1998年にハンナラ党から
国会議員・選挙に立候補。政治の舞台に立ちます。

今の政治をやってては、韓国に未来はない。

前年の1997年に韓国は国家破産。IMFの指示の下、国家運営を
しなくてはならない状況。

こんな政治、私の父親なら絶対にしてない。

パク大統領の経済政策を間近で見てたクネ。黙っていられなくなりました。
もともとパク大統領の娘ということで、知名度は抜群。
ハンナラ党が躍進する原動力となります。

2006年には遊説中に暴漢に斬りつけられる事件も。しかし大事には
至りませんでした。2007年にはハンナラ党の大統領候補・選挙に
立候補しましたが、イ・ミョンバクに僅差で敗北。
この間、国会議員を五期、務めました。

そして今回、ハンナラ党がセヌリ党に変わり、その大統領候補として、
パクが登場することに。与党の候補なわけですから最有力。
そんな彼女。生涯、独身を貫くようです。

私は国家と結婚しました。

聞かれると、そう答えてるようです。父親のパク大統領も
「私は国家である」なんて言ってましたから、
彼女の言葉にも違和感はないのでしょう。

儒教が隅々まで行き渡り、今も男尊女卑の風潮が強い韓国。
初の女性・大統領の誕生となれば、大きなニュース。
当然、日韓関係にも影響が及びます。秋の韓国・大統領選挙。
日本からも、注目しておきましょう。

花火
late summer
パク・ジョンヒ

パク・ヨンハ

1977年(昭和52年)8月12日にソウルで生まれます。姉が一人。
血液型はB型。穏やかそうに見えてB型なのですね。

父親は音楽プロデューサー。父親はあまり活躍できなかったのですが、
その姿を見てヨンハ少年は芸能界に目覚めていきます。1994年、
高校時代にデビュー。1998年、MBCドラマ「ずっと会いたい」で
韓国のお茶の間に定着します。

ですがヨンハをヨンハたらしめたのは、やはり2002年にKBSから
放送された「冬のソナタ」このドラマでは主人公を演じる
ペ・ヨンジュンに注目が集まりましたが、恋敵サンヒョクを
演じたヨンハの熱演あればこそ、ヨン様の輝きも増したのです。
それを忘れるべきではないでしょう。

冬ソナは韓国よりも日本で大ブーム。2004年(平成16年)に
NHK総合テレビで放送されてから国民的・話題となります。日本で一気に
韓琉ブームが広がりました。このブームを受けヨンハが2005年に来日。
ヨン様の時ほどでないにせよ、多くのファンが集まりました。

初来日の時、まだ日本語もロクに話せなかったヨンハですが、
日本のファンの暖かさに触れ、彼なりに感動したようです。

横浜・みなとみらいのランドマーク・タワー。そこで開かれたファン・
ミーティング。約千人のファンが集まりました。歌もうまかったヨンハは
冬ソナ主題歌「始めから終わりまで」を披露。が、ファンの声援に感動し、
途中で続けられなくなります。ファンのさらに大きな声援。
あの映像を見て涙した人も多かったでしょう。

2005年以降、ヨンハは日本での歌手活動に専念。驚くほどのスピードで
日本語をマスターし、日本語で歌い始めます。やがてコンサートでは
MCを含めて全て日本語でこなすほどになりました。その音楽活動は
評価され、外国人として初めて日本ゴールドディスク大賞を受賞。

ですがこの頃、あまりに日本での活動を優先するヨンハに
韓国では冷たい視線が向けられるようになりました。

ただでさえ反日感情の強い韓国。日本ばかりで活動してるヨンハには
「日本人になれ」の言葉が。角膜異常で軍隊を免除されたことも
ヨンハへの敵意を増幅。韓国で軍隊に行かないことは「非国民」。
いつしか「角膜ヨンハ」とまで言われるように。

そんなヨンハ。2007年からは韓国での活動も本格的に再開。
2008年SBCドラマ"ON AIR"2009年KBSドラマ「ザ・スリングショット」。
演技力が顕在であることを内外に見せつけました。

2010年、再び日本に戻って来たヨンハはコンサート活動を再開。
6月、日本全国の都市を回るツアーを始めました。どの会場も
チケットは完売。ヨンハが自分の街に来てくれることを、
楽しみにしてたファンも多かったはず。

6月26日、川口リリアメインホールでのコンサートを終えた後、
ヨンハは一時的にソウルに帰ります。7月には再び日本ツアーが
始まる予定。8月には盛大なお誕生会も。

6月30日未明のソウル。真夜中に戻り、部屋に入ったまま
静かすぎるヨンハを不審に思った母親が部屋に入ったところ、
自死している彼を発見。すぐに警察に通報。ヨンハの死は
内外に伝わります。三十二才でした。

日本のファンの嘆きは相当なもので、すぐにソウルに飛び、
お葬式に間に合わせたファンが二百人以上。ヨンハが
どれだけ愛されていたかを物語りました。

ヨンハはまだ売れなかった頃、同じく売れないソ・ジソプと互いに
励まし合う仲。ヨンハと同い年のソ・ジソプ。彼も「ごめん、愛してる」
「カインとアベル」などのドラマで今や押しも押されもしない韓流スター。

けれど無名時代のヨンハとの励まし合いこそ、いつも彼を
支えた想い出。兄を失くしたように号泣するジソプ。
お葬式でヨンハの遺影を抱えたのも彼。

思えば冬ソナでのサンヒョク。サンヒョクは高校時代、転校してきた
チュンサンにいきなり幼馴染のユジンを奪われます。挙句の果てに
自分の父親の心まで持って行かれそうに。

それでもサンヒョク。その度にチュンサンを許し、あくまで大人として
接します。十年後、ユジンと婚約し、幸せな人生に踏み出そうとする
サンヒョク。彼の前に、あろうことかまた現れるミニョン(チュンサン)。
高校時代と同じようにユジンを奪われるのでした。

「ゴメン」と言い、それなりに涙はこぼしながらも、決然と
サンヒョクを捨て、ミニョンのもとへ向かうユジン。
サンヒョクはそんなユジンに。

これからも電話かけたりするかもしれないけど、
どうかボクのことは無視してくれ。

涙をこぼしながら、語りかけます。

キミをずっと守ってあげるって約束、果たせなくてゴメンよ。

一体、冷静に今考えれば、サンヒョクとミニョン、
どちらが人間としてまっとうだったでしょうか?

ヨン様は今、実業家として成功し芸能界へは「気が向いたらまた戻ろう」
という余裕。一方のヨンハは・・・まるで冬ソナの配役は
彼らの運命でもあったのではないかと思わせるほど。

私生活でも優しかったヨンハ。けれどその優しさは、
弱さだったのかもしれません。コンサート前には
睡眠薬を呑まずには眠れなかったそうです。

それほど失敗が怖かったのでしょうか? 失敗してもファンは、
横浜の時と同じように暖かく声援したはずなのに?

芸能活動と並行して始めていたボランティア活動。そのために
芸能活動を全て辞めても、ファンは理解して
「いつでも戻っておいで」と言ったはずなのに?

ヨンハを忘れられないファンは今も多いでしょう。
それほど愛らしい姿を見せてくれた青年です。

ヨンハ
pretty boy
パク・ヨンハForever展
知らせ(期別:キビョル)
ザ・スリングショット
そうだね、愛は
冬のソナタ

チョン・モング

現代グループ設立者チョン・ジュヨンの次男。1938年(昭和13年)に
京城(現・ソウル)で生まれます。幼い頃から父の働きぶりを
目にして育ちました。現代建設をドンドン大きくしていく
父チョン・ジュヨン。

自分もいつか、ああなってやる。

モング少年は息を吸い込みます。自動車に関心がありました。
ミニカーで遊んでいれば時を忘れたそうです。そんな彼も成長し、
漢陽大学校を卒業。体格の立派な姿勢のいい若者でした。大学時代は
ラグビーで鍛えたと言います。卒業後、当然と言うべきか
現代建設に入社します。そこには長兄もいました。

現代建設ではマンション建設・分譲を担当します。同じ部署には
イ・ミョンバク。モングは彼と共同で事業に取り掛かります。
父チョン・ジュヨンは高速道路、多目的ダム、造船所などの建設で、
マンション事業などやってられません。その事業をモングに任せました。
もちろんモングは、もっと大きな仕事をしたいと考えてます。

ところがこのマンション事業が時流に乗りました。韓国経済が
成長するにつれマンション需要が高まったのです。現代建設の
マンションには上流階級の家族が住み始め、さらに評判を呼びます。
価格は急上昇していきました。ところがマンション価格上昇が投機に
当たるということで、パク・ジョンヒ政権に睨まれることとなります。

モングにしてみれば、いい仕事をして評判が上がり、結果的に
マンション価格が上がっただけなのに、それを投機と言われては
返す言葉もありません。彼はそのまま仕事を続けました。

パク政権はやはり独裁政権。言うことを聞かない者、生意気な者には
容赦しません。結局、モングは逮捕され西大門刑務所に送られます。

これも将来、名誉になるだろうな。

そう言ったそうです。韓国では今もそうですが、政界、財界の大物が
急に逮捕されることがあります。理由はさまざま。そして恩赦で
急に復帰。ですから逮捕される時も、帰って来ることが前提。

1975年(昭和50年)現代自動車が国産車・製造に着手。
モングは一番に手を上げました。

私がやります。

幼い頃から好きだった自動車。それを自分の手で作れるわけですから、
こんなにワクワクすることはありません。モングはやっと
自分のエネルギーをぶつけられる仕事に巡り会いました。
とはいえ国内には何の技術もありません。

現代自動車は八年前の1967年、設立されてました。フォードと提携して
「コルチナ」という乗用車を生産します。ところがこの提携が決裂。
三菱自動車から技術供与を受けることになりました。そして完成したのが
国産車・第一号「ポニー」。けれど、ほぼ全て三菱自動車のコピー。

コピーであれ、何とか作りました。それが土台となり、改良して
いきました。場合によっては日本メーカーからの技術供与。
やがてチョン・モングは現代自動車・社長に。

1980~90年代、韓国は輸入車を締め出して国産車を保護。
現代自動車と起亜自動車が独占的に自動車を製造・販売。
当然、規模は大きくなります。

1997年(平成9年)IMF危機で起亜自動車の経営が傾くやいなや、
チョン社長はすかさず買収に動きました。翌1998年
「現代・起亜自動車」が誕生。腕の見せ所でした。

2000年に入り、現代グループの後継者選びが話題となります。
設立者チョン・ジュヨン会長には男子が八人いました。

長男は現代建設社員でしたが交通事故で亡くなってます。がぜん
周囲の目は次男モングに注がれます。次の総帥はモングだ。
本人もその気だったでしょう。

しかしチョン・ジュヨン会長は五男のモンホンを後継者に選びました。
2000年のことです。てっきり自分と思ってたモングと側近は激怒。
その年のうちに現代自動車は現代グループから離れ、独立。

独立した現代自動車。2000年代に入って猛烈な躍進を遂げます。
既に会長となっていたチョン・モング。海外でのシェア拡大に
乗り出します。特に力を入れたのがアメリカ市場。

エンジン系統の故障は十年間・十万マイルまで無料で修理

そんなキャンペーンをブチ上げ、これが成功。リーマン・ショック後は。

購入後一年以内に失業したら、車を買い戻します。

そう謳い、消費者の不安心理に訴えました。北米だけでなく
インド、ロシア、中国などの新興国でも現代自動車がシェアを
伸ばし、いつしか世界で五百万台を売り上げるまでに。

チョン・モング会長は鉄鋼業にも進出。2010年(平成22年)
高炉を建設しました。「現代製鉄」の誕生です。
自動車会社が高炉まで作るのは異例のこと。

とはいえ、これで自動車製造に必要な鉄鋼を安定的に供給できる体制を
整えました。リーマン・ショックからいち早く立ち直り、果敢に投資する
姿勢はやはり父親譲り。しかも鉄鋼業は父チョン・ジュヨンが
果たせなかった事業。高炉に最初の火を入れたのは
チョン・モング会長とイ・ミョンバク大統領。

かつて現代建設でマンション事業を盛りたてた二人。
高炉の前での再会に、二人とも感無量だったでしょう。

チョン・モング会長ももう七十三才。後継者を考える時です。
息子のチョン・ウィソンの名が挙がってます。

晩秋
late autumn
チョン・ジュヨン
現代自動車(2)
現代自動車

イ・ゴニ

サムスン・グループの会長。三年ほど前に一旦、会長職を辞任しましたが、
復帰したようです。サムスン設立者イ・ビョンチョルの三男で、
後を継いでサムスン・グループの経営に当たりました。

イ・ゴニは1942年(昭和17年)1月に生まれます。少年時代を
日本で過ごしました。父親の意向があった模様です。小学五年から
中学一年まで。親も友人もいなかったことから、イ少年は映画を見て
過ごします。三年間で千本以上の映画を見たというから驚きですね。

映画からイ少年は歴史・芸術への造詣を深めていきました。
それが経営者としての大きな下地になったことは
言うまでもありません。

一旦ソウルに帰国し、大学で再び日本にやって来ます。
父親と同じ早大・商学部。1965年(昭和40年)に卒業し、
翌1966年9月にはアメリカ・ジョージタウン大学・大学院を修了。

1968年に東洋放送に入社。その後サムスン物産に移り、1979年には
グループ副会長に。この時期に長男・次男を差し置いて、
後継者は彼と決まったようです。

イ副会長は早くから電子・半導体が次世代産業だと見抜き、
父親にもこの分野への投資を勧めていました。
これが後のサムスン電子です。

小さい頃から電機製品に興味があった彼。分解して組み立てることを
繰り返してました。単なる経営者であるだけでなく、
技術の話もできるのはそのためです。

1987年に会長イ・ビョンチョルが亡くなり、イ副会長が会長に就任。
イ会長は既に大企業となっていたサムスン改革に乗り出します。
当時、サムスンは韓国内では通用しても世界的にはほとんど無名。

イ会長はアメリカの電機製品売り場を見に行き愕然。
サムスンのネーム・バリューはほとんどなく、売り場にはないか、
あっても埃をかぶるような場所に並べられてるだけ。

もちろん一番目立つ場所を占めていたのはソニー、パナソニック、
東芝、日立・・・サムスンは技術力もないのに図体だけデカイ。

このままでは世界の動きに取り残される。

イは会長に就任して五年経った1993年(平成5年)有名な
「フランクフルト宣言」を行います。場所を東京やフランクフルトに
移しながら、サムスン社員に向けて意識改革のための講演。

サムスンは間違いなく二流。品質にも問題がある。

イ会長は大企業病にかかっていたサムスンを一喝。そして。

妻と子供以外は全て変えろ。

会長自らの危機感が社内に浸透したのか、1990年代後半から
サムスンの猛烈な躍進が始まります。日本企業から技術者を引き抜き
ノウハウを吸収。そして「選択と集中」今後のマーケットを
牽引しそうな分野に集中的な投資を行いました。

やがて半導体(DRAM・メモリ)で日本企業を追い抜き、世界一。
携帯電話事業でも世界市場でノキアに次ぐシェアを獲得。
その他、テレビ、液晶パネル、デジタル・カメラ、白物家電。。。

2000年代に入っても勢いは止まらず、サムスンは莫大な利益を
挙げる世界的企業に。その利益率はすさまじく、最終利益は日本の
電機メーカーが束になっても叶わない額。サムスンの時代が到来。

もともと内省的だったイ会長。実はサムスン本社にあまり出社せず、
自宅近くのゲスト・ハウスで務室。ゲスト・ハウスと言っても
別荘みたな場所ですからパジャマ姿とか。

ゲスト・ハウスに籠もり、数人の側近から報告を受けます。
それ以外は人と会わず情報収集だけ。そして瞑想。まるで哲学者。

サムスン社員とその家族を次にどうやって
養うかを考えると、夜も眠れない。

イ会長がよく言うセリフ。サムスン一人勝ちの今も、決して満足せず、
さらなる危機意識を持っていることでしょう。その危機意識あればこそ、
サムスンはリーマン・ショックからも、いち早く立ち直り、市場が
縮み上がっている時に、ここぞとばかり大胆な投資を実行。
それが功奏し、その後の製品開発で世界の他企業を圧倒。

イ会長にはイ・ジェヨンという長男がいます。ソウル大を卒業し、
慶大・大学院に留学。サムスン三代目はこの人。韓国の新聞を読んでれば
「若きプリンス」としてよく登場してます。とはいえ、数人いる
社長の一人。グループを率いる力はありません。
今後も当分はイ会長の力が必要でしょう。

初冬
early winter
イ・ビョンチョル

チョン・ジュヨン

チョン・ジュヨンの生涯は、まさに韓国・現代史と重なります。チョンなくして
現在の韓国は語れません。それほど大きな足跡を残した人物です。

1915年、江原道に生まれます。現在の北朝鮮で貧しい農家の長男。
その貧しさがイヤで小学校を出た後、建設労務者として働きます。
けれど所詮、子供。ロクな仕事はできませんでした。その中で
チョンは貧しさとは何かをもう一度、知ることになります。

オレは絶対、金持ちになってみせる。

青年となったチョンは1934年(昭和9年)京城(現・ソウル)に
出てきます。貧しい両親が牛・一頭売って、資金を工面してくれました。
チョンもこの時ばかりは感謝の思いで、下を向いたと言います。

チョンは京城で米屋に就職。傾きかけた米屋でしたが、
チョンは業務・効率化と帳簿・見直しに取りかかります。

彼のマジメな働きぶりが人々の目に止まり、店の売上が
増えていきます。チョンが勤め始めて数年で、売上は五倍に。
チョンを信頼した店主が彼に店を継ぐよう頼みます。1938年、
この店を継ぐ形で「京一商会」を設立。

しかし朝鮮半島を支配してた日本政府が米の配給制を始めたため、
米穀商としての仕事が成立しなくなります。チョンは素早く転身。
自動車・修理工場を始めました。

やがて大東亜戦争。日本の敗戦。戦後のチョンの動きは早いものでした。
1946年「現代自動車工業」を設立。翌1947年「現代建設」を設立。
建設会社を設立したのは自動車・修理だけでは稼げないと
判断したからでした。

1950年6月、朝鮮戦争が勃発。ソウルが北朝鮮に占領され、チョン一家は
命からがらプサンへ逃げのびます。当時のプサンは避難民で、
ごった返してました。チョンの弟は日本留学の経験があり、英語も
話せます。その弟がアメリカ軍・通訳として雇われることになりました。
チョンは弟から、アメリカ軍が建設業者を探してることを耳にします。

何でも、できます!

チョンはアメリカ軍に啖呵(たんか)を切り、その場で仕事を受注。
やがて朝鮮戦争が終わり、韓国は建設ラッシュに沸きます。
チョン社長は、この波に乗りました。

1961年(昭和36年)軍人パク・ジョンヒがクーデタを起こし、政権を取ります。
パク大統領は「祖国近代化 経済発展 自主国防」を掲げました。当時、
頭角を表しつつあったチョン社長が大統領の目に止まります。
大統領は1965年6月に日韓基本条約を締結。

日本から得た五億ドルを韓国の発展のために使いたいと考えました。
さまざまなインフラ整備が行われます。チョン社長の出番でした。

1968年、ソウルとプサンを結ぶ京釜高速道路の建設が現代建設を始め、
複数の建設会社に発注。現代建設の担当区間が一番長く、一番の難所。
チョン社長自ら、現場で陣頭指揮し、工事をやり遂げます。
1970年にはソウル~プサンの全線が開通。

現代建設はこの後、韓国内のインフラだけでなく、東南アジア、中東での
工事を受注。それらを驚異的な早さで納入していきます。この時、
活躍したのがイ・ミョンバク。現在の大統領です。

同じ時期の1968年、昭陽江という川に多目的ダムを作る計画が
持ち上がりました。受注したのは現代建設。ただ韓国は当時、
自前でダムを作った経験がなく、設計は「日本工営」が担当。
日本工営はダム設計で当時、世界一の評判を持つ企業。

ところが日本工営が出した設計図ではダム資材はコンクリート。
建設現場は奥深い山の中。コンクリートなど持って上がれません。

チョン社長は川沿いに砂利、砂が大量にあることに着目。
「この砂利、砂を資材としてダムを作れないだろうか」
この案は日本工営にハネつけられます。

ダムを作ったことのない者が何を言う。

ところがチョン社長は食い下がります。日本工営の方法では
そもそも工事に取りかかれません。最終的にパク大統領の裁可を
仰ぐことになりました。

北に爆撃された時、コンクリートと砂利と、どちらの素材が強い?

パク大統領は側近に尋ねます。側近が調べたところ、砂利の場合、
表面が飛び散るだけで全体は崩れにくいが、コンクリートの場合、
一気に崩壊する可能性があるとのこと。チョン社長の案が採用。
ダムは1973年に完成。

1972年、プサン北にあるウルサンに産業特区ができます。もちろん
パク大統領の指示によるもの。チョン社長はウルサンに現代重工業を設立。
造船会社です。とはいえ最初は白浜。何もありません。その状態でなんと、
チョン社長はギリシアから二十六万トンの原油大型タンカーを二隻、受注。
イギリスから五千万ドルの借款も取り付けてきます。

契約時、チョン社長には、ウルサンの五万分の一地図と白浜の写真しか
ありませんでした。造船所もない状態で大型タンカーの契約を
取ってきたのですから、奇跡と言う他はありません。

ウルサンでは昼夜、曜日を問わない突貫工事が始まります。
タンカーと造船所を同時建設するという前代未聞の工事。
現場では上から下まで、死にもの狂いで働きました。

二年三カ月後、大型タンカー二隻を無事に納入。しかも期日を
前倒ししての納入。誰もが信じられない思いでした。とはいえこの時、
川崎重工業の技術が、現代重工業に流れてました。チョン社長も
魔法使いではありません。日本の力を借りてたのです。

高速道路・開通を見越し、1967年には現代自動車が国産車・開発に
乗り出します。ですが、やはり何の技術もありません。現代自動車は最初、
フォードとの提携に乗り出しますが、この提携が決裂。次に三菱自動車の
技術供与を受けて1975年、韓国・初の国産車「ポニー」を発売。
とはいえポニー。エンジンから外装まで全て三菱自動車。

チョン社長は1977年、社長職を若きイ・ミョンバクに譲り、自らは会長に。
この頃から政治的な仕事がチョン会長に舞い込みます。1981年の
オリンピック招致計画。計画・責任者にはチョン会長が選ばれました。
最初は乗り気でなかったチョン会長ですが、引き受けるからには、
最善を尽くす持ち前のタフさが現れます。

名古屋に決まりかけてた形勢を、粘り強いロビー活動で覆し、蓋を
開けてみればソウルの圧勝。1988年に開かれたソウル・オリンピックが、
韓国の躍進にどれだけ意味を持ったか、言うまでもありません。

1987年には現代グループの会長を退き、名誉会長に。
ますます政治活動が加速します。五年後の1992年、
大統領選挙に出馬しますが、キム・ヨンサムに破れます。

大統領選挙後は南北対話を自らの仕事とします。もともと北出身だった
チョン名誉会長にとって南北統一こそ悲願。1998年には牛・千一頭連れて
北朝鮮を訪問。「一頭の牛が千一頭になりましたよ」そんな意味が
込められてました。

現代は北朝鮮から金剛山・観光事業の許可を得ます。現代グループの中で
対北事業を担当したのは「現代アサン」。チョン名誉会長は現代グループの
トップに「現代アサン」を置き、五男モンホンを社長に指名。後継者とします。

現代自動車を継いだのは次男モング。
現代重工業を継いだのは六男モンジュン。
現代百貨店を継いだのは三男モングン。

壮健な体に恵まれたチョン名誉会長でしたが、年齢には勝てませんでした。
大統領選挙後、政権から受けた執拗な嫌がらせもこたえたようです。
2001年3月、二十世紀を駆け抜けた生涯を閉じました。

パク・ジョンヒ大統領に初めて会った時「どこの大学出身ですか?」と聞かれ
「労働大学・新聞学科です」と答えたチョン名誉会長。小学校しか出なくても、
社会の中で勉強し続けた人でした。まさに韓国の英雄です。

砂浜
sand beach
イ・ミョンバク
パク・ジョンヒ
現代自動車
英雄時代

イ・ビョンチョル

サムスンの設立者。1910年(明治43年)慶尚南道に生まれます。
当時の朝鮮半島は日本統治時代。イは早大・商に留学。中退して
朝鮮半島に戻った後、共同精米所を作ります。

この事業は当初うまくいきましたが、調子に乗って土地の買い占めに
手を出し、これが失敗。最終的には共同精米所も破綻。
若きイには苦い薬となります。

1938年(昭和13年)テグで「三星商会」を設立。これがサムスンの
始まりです。最初は食品・衣料を扱いました。その後、朝鮮半島は
大東亜戦争に巻き込まれ、戦後も混乱が続きます。そして朝鮮戦争。
テグにいたイも家族ともども、やっとの思いで生き延びます。

ですがイ。朝鮮戦争が終わるやいなや事業を開始。1953年
(昭和28年)に「第一精糖」翌1954年には「第一毛織」を設立。
もともと得意だった食品・衣料の分野で起業しました。

製糖工場は失敗を重ねながらも、日本の技術を使って、
何とか事業化に成功。当時、韓国に製糖工場が
なかったことから、事業は大きく発展します。

1961年(昭和36年)には「サムスン物産」と社名を変え、
イは会長に就任。ですが1962~63年に韓国で小麦粉、砂糖、
セメントの値段が高騰。1964年に韓国国会で、この高騰の背景に
独占企業の暴利があったことが指摘されます。

第一精糖は当時、製糖の六割を握ってましたから、当然、疑惑の対象に。
ただしこの事件は当該企業が罰金を払って終幕。ウヤムヤのうちに
終わりました。今も「三粉暴利事件」と呼ばれてます。

イ会長は気を取り直し1964年「韓国肥料」を設立。肥料分野に進出。
ところが二年後の1966年、この会社が肥料施設の輸入品に
甘味料を隠していたことが発覚。要するに密輸です。

大企業サムスンが行った密輸事件として韓国メディアで大きく
取り上げられました。世間の大きな非難を受け、イ会長は
韓国肥料社を国に献上すると発表。何とかサムスンを存続させます。

1963年には「東洋放送」を設立。サムスン寄りの放送を流します。
1965年には「中央日報」を設立。今も続く韓国を代表する新聞社です。

ですがこの新聞。サムスンへの非難が起きた時の弁護用。中央日報は
今でこそ大手新聞社ですが、設立経緯はそんなものだったのですね。

イ会長は1969年、半導体を扱う「サムスン電子」を設立。これが現在、
サムスン・グループの中核事業となってます。ただイ会長としては
何の準備もないまま半導体・事業に打って出るわけにはいきません。
1970年代を通じて、採算が取れる事業かどうかを見極めます。

ですが最終的に、日本からの技術供与があれば事業化できると判断。
イ会長は1983年「東京攻略宣言」を発表し、半導体事業に本格的に
乗り出します。その時に活躍したのが三男のイ・ゴニ。1987年に
イ・ビョンチョルが亡くなった後、サムスンの後継者となります。

長男、次男を差し置いての三男の後継者就任。その後のサムスンの
発展を見れば、この選択が正しかったことが分かりますね。

イ会長の経営哲学は「事業報国」「人材第一」「合理追求」。
中でも「人材第一」については徹底してました。

「自分の仕事の90%は人事」と言い切っていたイ会長は、
会長となってからもできるだけ採用面接に立ち会います。現在、
サムスン・グループは世界中を飛び回って人材をスカウト。その原点は
設立者にあったわけです。イ会長は貿易統計を重視しました。

何が国内で必要とされ、何が入ってきているか。
何が国外で必要とされ、何が出ていっているか。

もちろん貿易業務のイロハですが、彼はその原点を忘れませんでした。
実際、最初の製糖工場・衣料工場の設立は国内の需要増大をみごとに
見定めた事業展開でした。もちろん統計だけでなく、さまざまな情報が
重要であることは言うまでもありません。イ会長は秘書室を立ち上げ、
そこに全ての情報が集まるように命令。

このコントロール・ルームの考え方は巨大化した現在のサムスンにも
受け継がれていて、情報の迅速な収集・素早い対応を可能にしてます。
1997年(平成9年)の通貨危機を何とか乗り切り、世界的企業と
なったサムスン。しかし設立者の足跡は至る所に残ってます。

実は韓国人の大半はサムスンは知っていても、設立者イ・ビョンチョル
については知りません。彼の足跡をもう一度振り返ってみることは、
今を生きる日本人にも、それなりの意味があるでしょう。

サムスン
SAMSUNG
英雄時代

イ・ミョンバク

今の韓国大統領です。1941年(昭和16年)に大阪・平野区で
生まれました。出稼ぎに来ていた韓国人の第五子(七人兄弟)。
大東亜戦争が終わると、一家は朝鮮半島に戻ります。

極貧の暮らしで、子供の頃は食べ物がなく、いつもフラフラしてました。
「そんな自分を見かねて、いつも卵をくれた友人がいた」と
自伝「神話はない」は語ります。

イが高校を出る頃、一家はソウル・イデウォンに引っ越します。
貧しさはそのままでしたが「大学中退」の肩書がほしくて、イは独学で
受験勉強を始めます。アルバイトをしながらの勉強でしたが、
もともと聡明だったのでしょう。高麗大学・商学部の経営学科に合格。

大学に入学したらすぐに辞めようと思っていたイでしたが、
高麗大に漲っていた民主化運動に共鳴。折しもパク大統領が
日韓・基本条約の締結に向けて動き出してました。

イは学生運動のリーダーとして条約締結に反対する運動を展開。
そして逮捕。札付きの学生運動家となってしまいました。

1965年(昭和40年)高麗大を卒業。イは現代建設に応募します。
この時の面接で、イは初めて社長チョン・ジュヨンと出会います。
チョン社長も一目でこの若者がデキル人物と見抜きました。

しかし人事部は学生運動家だったイの入社に難色。ところがここでイは、
なんとパク大統領に直接、手紙を書き、学生運動という理由だけで
就活が不利になるのはオカシイと訴えました。その手紙に
納得したパク大統領がチョン社長に話をつけ、最終的に
イの入社が決まりました。明治時代の日本みたいですね。

入社後のイはメキメキ頭角を現します。古い体質を引きずっていた
工事現場を刷新。新しいアイデアを次々と実行。経理に強かった彼は、
帳簿上のムダも徹底的に省いていきました。チョン社長の理解もあり、
イの活動範囲はドンドン広がります。

やがて京釜・高速道路を建設したばかりの現代建設に、タイで高速道路を
建設する契約が舞い込みます。韓国企業が海外で大きな仕事を
受注したのは、これが初めて。チョン社長は責任者として
若いイを送り込みます。

そんなタイでの業務中、工事現場のプレハブで経理作業をしてたイに
強盗が押し込みます。この時、イは金庫を抱え、命がけで現金を
守りました。後にこの時のことを聞かれ「無我夢中だっただけ。」

聡明さだけでなく根性もあったイ。ますますチョン社長の信頼が
厚くなります。タイでの工事を成功させた後、現代建設には
ベトナム、中東から仕事が次々と持ち込まれました。

イはチョン会長とともに、それらの案件を驚異的なスピードで成し遂げ、
ついには三十六才で現代建設の社長に昇りつめます。イは後に会長となり、
1992年(平成4年)政界進出のために現代建設を退きました。この年、
チョン前会長が大統領選挙に出馬。それと歩調を合わせたようです。

政界進出してからはイとチョン前会長は袂を分かちました。
政治手法では一致できなかったようです。チョン前会長は大統領選挙で
キム・ヨンサムに破れますが、イは国会議員に当選。
政治家としての一歩を踏み出します。

その後、一時期、政界を退いた後、2002年(平成14年)に
ソウル市長選挙に出馬し当選。市長時代にも持ち前の敏腕ぶりを発揮。
特筆すべきは、ソウル中心を流れる清渓川の治水を成功させたこと。

ソウルの発展に伴い、清渓川は長い間、ロクに水も流れない暗渠
(あんきょ)となってました。それをキレいな水がサラサラ流れる、
ソウル市民憩いの場所に生まれ変わらせたわけですから、
ソウル市民だけでなく韓国人の期待が彼に注がれました。

ついに2008年2月、ハンナラ党から大統領選挙に打って出て当選。
現在に至ります。大企業・経営者だったイ大統領は、矢継ぎ早に
経済フレンドリーな政策を打ち出します。税制面での大企業・
優遇措置。海外で韓国企業が受注獲得する時の政府支援。

結果、中東の原発・建設を現代建設が落札する快挙となりました。
日本やフランスの並みいるプラント・メーカーを押さえて、です。

現代・サムスンといった韓国のリーディング・カンパニーが、
リーマン・ショックの痛手をいち早く切り抜け、直後から最高益を
達成し続けた背景には、イ大統領の経済政策がありました。結果、
韓国内の格差は拡大し、一部の輸出企業だけが突出して儲け、
底辺の住民は物価高・就職難に苦しむ状況も生まれてます。

オバマ大統領とは気が合うのか、何度も会談して気脈を通じてます。
米韓関係は今、蜜月と言っていいでしょう。しかもアメリカの
いいなりになるのでなく、キチンと独自政策は取ってます。

TPPなど不利にしかならないと見て取ったイ大統領は、アメリカと
「二国間・自由貿易・協定」(FTA)を結び、貿易便宜を図ってます。
アメリカだけでなく欧州ともFTAを結び、関税撤廃にこぎつけました。

したたかな戦略を取るイ大統領。韓流ブームの浸透も国策として
掲げてます「文化浸透によって経済も浸透させやすくする。」

国内マーケットが小さく輸出に頼らざるを得ない韓国では、
絶えず未来への戦略を立て、海外の縄張り争いで主導権を
握らねばなりません。それをシッカリ理解している大統領です。

イ・ミョンバク
president

ペ・ヨンジュン

1972年にソウルで生まれました。ソウルの高校を卒業した後、
KBSに見込まれて俳優の道を歩き始めます。1994年「愛の挨拶」で
ドラマ初出演。1996年の「初恋」で主演を勝ち取りました。

五年後の2001年「ホテリアー」で若き支配人を演じた後、
2002年「冬のソナタ」に出演します。この作品は日本でも翌2003年に
BS2で放送され、翌2004年4月からはNHK総合で放送されました。
これが大ブレイク。

それまで「何となく」だった日本の韓琉ブームに爆発的な火を
付けます。転校生チュンサンと女子高生ユジンの恋物語。制服を
着た二人が眩しい。今思えば、多くの日本人が主人公・二人に
すぐ感情移入できたのも、日本と同じ制服を着てたからでしょう。

チュンサンは大晦日、ユジンとデートの約束をしたまま帰らぬ人に。
ユジンたち四人の同級生は湖で内輪のお葬式をします。
そこにはユジンの幼馴染サンヒョクもいました。

それから十年後、ユジンは設計会社で働いてました。そばには幼馴染で
結婚予定のサンヒョクがいます。初雪の夜、ユジンはサンヒョクとの
婚約式に向かってました。その時、彼女は街で偶然、
チュンサンそっくりの男子を目撃します。

その人を追いかけて結局、婚約式を潰してしまったユジン。
面目を失くしたサンヒョク。しかしユジンをは優しくいたわります。

何か理由があったんだね。

やがてユジンが見た、あのチュンサンにソックリな人が、
ホンとにユジンの前に現れます。ミニョンという青年実業家。
設計会社で働くユジンと一緒に仕事をすることになりました。

最初は距離を置こうとするユジン。けれど彼女の目は知らずに
ミニョンに向かいます。チュンサンを重ね合わせていたのでした。

ミニョンも美人なユジンが気にかかります。そしてある時、ミニョンは
自分が記憶を失っていただけで、実はチュンサンだったことを知ります。
そのチュンサンがユジンと初恋どうしだったことも。

ミニョンはその事実を言いたくて、ユジンに電話。
けれどユジンはそれを信じず突き放します。

影のある転校生カン・チュンサン。
屈託なく笑う実業家イ・ミニョン。

その二つの個性が全然別なこと。自分には婚約者サンヒョクしか
いないこと。ユジンは泣きながら携帯でミニョンに伝えます。
そのミニョンが二度目の事故を契機に、徐々に昔の記憶を取り戻します。

そこからが一番難しかったです。

ペ・ヨンジュンはインタビューでそう語ってます。
二つの違う個性を混ぜ合わせなければならなかったからです。

冬のソナタは「冬ソナ」と呼ばれ、ペ・ヨンジュンもいつしか
「ヨン様」と呼ばれるようになりました。確かにヨン様の素直な笑顔・
上品な仕草は一定年齢になった女子には、たまらない理想の男性像。

ヨン様が二十才前後だったなら、ここまでの味は到底出せなかったはず。
三十才を前にした、男なら一番カッコいい時に「冬のソナタ」の脚本に
巡り会えたことは、ヨン様にとっても幸運だったことでしょう。

2004年に初来日した時、数千人の女性ファンが成田空港に押し寄せ、
前代未聞の事態となりました「日本の家族に会いに来ました」と
挨拶し、微笑むヨン様。ファンが我を忘れたのもムリはありません。

2009年には「アニメ・冬のソナタ」のプロモーションで
チェ・ジウと来日。この時、私は新大久保のコリアン・タウンに
行ったのですが、人通りが多かったのを憶えてます。
公演グッズが出回るのを待ってる人たちでした。

ヨン様の影響力、スゴイなー。

たまたまそばにいた韓国人とそう話した記憶があります。
ですがそれっきりヨン様の話題が聞こえてこなくなりました。
今どうしてるのでしょうか。

もうそろそろ次の作品をと期待したいところですが、彼がロケに
入ったというニュースは聞こえてきません。冬ソナから、かれこれ十年。
次のヨン様を見たいと思ってるのは私だけではないでしょう。

父親の役・先生の役・実業家の役。。。そのへんの役で、
円熟したところを披露してもらいたいです。全く個人的な意見ですが、
今こそヨン様にはコメディをやってもらいと私は密かに考えてます。

かつての二枚目が今はオジサンに。けれど、よく見ると
やっぱりカッコいい。そのオジサンがドタバタに巻き込まれ、
信じられない力で事件を解決。最後はみんなが気づく前に立ち去る、
泣かせる結末で・・・今の韓流の力をもってすれば、
それぐらいのストーリー、いくらでも作れそうです。

このままヨン様は実業家として歩いていくのでしょうか?
俳優としてもまだまだだと思うのですが。
ニュースを待ちたいと思います。

ヨン様
eternal prince
冬のソナタ

パク・ジョンヒ

1917年に慶尚北道で生まれました。貧しかったようです。
当時、韓国は日本の植民地で、貧しい家庭に生まれた男子には
教員になるしか道はありません。パクも地元で教員になりました。

そこで生涯を決める出会いがあります。帝国軍人・有川中佐との
出会いです。中佐はパクの実力をすぐに見抜きました。有能なパクが
一介の教員として終わるのを不憫に思います。

パクの方も、何事につけて公平な有川中佐に惹かれていきます。
当時の日本人には朝鮮人を格下に見る見方が一般的でした。
ですが有川中佐は誰にも公平に接し、朝鮮人だからと言って、
パクを差別することは決してありませんでした。

日本人の中にもいい人はいる。

パクは有川中佐から、この単純な事実を素直に学びました。
後に大統領になっても、パクは「学ぶべきものは学ぶ」という
素直な姿勢は崩しませんでした。

やがて教職に飽き足らなくなったパクは辞職し、満州・軍官学校に入学。
軍人を目指しました。この頃、創氏改名で「高木正雄」という日本名を
取得。パクと日本との関係は終生、微妙なもの。
拒絶するかと思えば抱き合うような。

大東亜戦争中、パクは三番の成績で満州・軍官学校を卒業。
やがて日本は大東亜戦争に負け、朝鮮半島に権力の空白が生じます。
北鮮を押さえたのは抗日パルチザンの首領・キム・イルソン(金日成)。
南鮮を支配したのは、これも反日で鳴らしたイ・スンマン(李承晩)。

北鮮のキムは半島統一も難しくないと考え、1950年6月25日、突如、
南進を決行。朝鮮戦争が始まりました。8月15日までには南鮮を
占領するつもりでいたようです。

開戦当初、準備を整えた北鮮に南鮮はなす術なく、プサンまで退却。
しかしアメリカの効果的な介入で朝鮮戦争の形成は大きく逆転。
キムの南進は挫折。朝鮮半島は二つに分断されました。
この頃、パクは南の「労農党」に入党します。

共産主義者だった兄の感化を受けたのでしょう。
もちろんパクは摘発され、一度は死刑を宣告されます。

しかしパクの能力を評価してた軍人が、彼の死刑を辞めさせるよう
働きかけ、命拾い。日本名を名乗ったこと。共産主義を信奉したこと。
この二つが、その後もパクについて回ります。

朝鮮戦争後、パクは韓国軍で頭角を現します。もともと頭よく、正式な
軍事教練も受けていたパク。疲弊した韓国軍の中でカリスマ的な
尊敬を集めます。一方、イ・スンマン政権後の韓国には、
有力な指導者が現れませんでした。

韓国はアフリカ最貧国と同じ所得水準。社会主義の下、工業化を進める
北朝鮮とは圧倒的な開きがありました。その開きを見て、日本から多くの
「日本人妻」が北朝鮮に渡りました「地上の楽園」を夢見たのです。

もちろん彼女たちは「地上の楽園」など見ることはなく「永久の凍土」を
前に愕然。しかし日本に帰ることはできませんでした。
歴史の授業では、ほとんど習わない悲劇です。

遅々として進まない国家運営に業を煮やしたパクは1961年5月16日、
クーデターによって政権奪取。その後、民心を掌握した後、1963年、
正式に大統領に就任。頭の切れる軍人らしく、パクのその後の対応は
素早いものでした。1965年6月に日韓基本条約を締結。
見返りとして五億ドル引き出すことに成功。

この資金を無駄にせず、韓国のインフラに投資。ここからヒョンデ・
サムスン・ポスコといった現在、韓国を代表する企業が登場。

パク大統領のやり方は「開発独裁」素早く決定し、経済発展を進めます。
そのスピードはすさまじいもので、世界最低レベルだった所得水準が
グングン向上。ドイツの「ラインの奇跡」にならって
「ハンガン」(漢江)の奇跡と呼ばれました。

一人当たりの平均・年間所得は、パク大統領・亡き後も伸び続け、
1995年に一万ドルを超え、2007年には二万ドルを超えました。

現在のイ・ミョンバク大統領は四万ドルにするという公約を
掲げましたが、さすがに世界的な景気低迷で、今も二万ドル前後。
ちなみに日本は三万五千ドル程度。

パク大統領なしに韓国の近代化は語れません。韓国の高速道路、
港湾、空港、工業団地。元をただせば、みなパク大統領の発案。

1979年、側近に暗殺されるまで「独裁者」の汚名を着ながら、韓国の
近代化に邁進した大統領。その恩恵を今、一番受けているのは韓国人。

しかも彼らがパク大統領について「独裁」以外、ほとんど習ってないのは
驚きです。韓国では今、パク・ジョンヒについて語ることは、一種のタブー。
一体、誰のおかげで現在の韓国の繁栄があるのでしょうか?

ケネディ大統領に会うためにアメリカに行こうと思っても、自国の
専用機がなく、日本航空を使わねばならなかった時、その惨めさに、
天を仰いだ大統領がいたからではないでしょうか?

アメリカに行った後も、在米・韓国人から「祖国があまりに貧しいから、
アメリカでも差別され続けています」そう訴えられ、涙を流した大統領。

そんな思いは、もうこれからはさせません。

どこからも借款できず、唯一、手を差し伸べてくれた西ドイツに、
他に輸出するものもなく、看護婦を送りました。

かよわいあなたたちの犠牲を、決してムダにはしません。

彼女たちを前に、やはり涙したとか。「独裁者」という怖いイメージが
少し変わってくるでしょう。そう。カルククス(韓国うどん)が好きで、
大統領府の来人と、よくそれを食べていました。

反日ポーズは取りながら、日本の歌謡曲を愛したパク大統領。
暗殺された夜、女性歌手を呼び、日本の曲を歌わせてました。
都はるみの「北の宿から」。これがパク大統領が聞いた、
最後の曲となりました。

パク・ジョンヒ
president

パク・ヨンハ Forever展

新宿高島屋・十一階で開催されてる展示。今日、新宿教室で
授業でしたから、授業前に寄ってきました。サザンテラスを渡り、
高島屋デパートを十一階までエスカレーター。エスカレーターを
降りた辺りから、オバサンの集団が。

入りにくいな。

けれど意を決してチケットを買い、会場に入ってみると、やはり
オバサンばかり。私は展示を見て行きました。小学校の表彰状、
家族との写真。隣で見てるオバサンは、それだけで泣いてました。

デビューしてからの展示では、駐日大使館からの感謝状。
なぜか日本の中央大学からの感謝状も。興味深かったのは「冬ソナ」
「スリング・ショット」「オン・エア」などのドラマで、ヨンハが
担当した台本が展示。ドラマのセリフが決定される過程がよく分かる展示。

ヨンハがチベット、アフリカでやってた慈善活動の展示も。
芸能活動を全て捨てて、こういう世界に飛び込んだって、
ファンは納得したのに。

親孝行とは言えないよね。

隣にいた二人連れのオバサンの声。
展示の最後にヨンハのお母さんが書いた言葉。

ヨンハ、会いたいよ。
私たち、いつも一緒にいるんだよね。

ヨンハ
Park Yong-Ha:Forever
知らせ(期別:キビョル)

イ・スヒョン

「チェリー」はスピッツの曲。軽快なノリの聞きやすい曲です。

生まれたての太陽と 夢を渡る黄色い砂

印象的な歌詞「ロビンソン」と同じくらい売れました。この歌詞、メロディに
魅せられたのは日本人だけではありません。当時、プサンで日本語を
学んでたイ・スヒョンの心も、この曲は捉えました。日本語の教員が
授業中、この曲を題材に使いました。

自分もギターを弾いてたスヒョンは、日本文化に、のめり込みます。
彼は東京への留学を決意しました。韓国の名門・高麗大を卒業し、
軍隊にも行った後、彼は日本に来ました。もう二十代半ば。

新大久保の日本語学校に通い始めたスヒョン。慣れない日本語に
苦労しながらも、積極的に日本を吸収しようとします。
自転車が好きだった彼。「何でも見てやろう」とばかり
二十三区を走り回ります。

富士山にも登りました。自転車で行ったそうです。頂上からの眺めに
若いスヒョンは感動。そして、だんだんと自分の道が見えてきます。

オレにはスポーツ・マーケティングしかない。

今やスヒョンの前には洋々たる未来が広がります。スポーツ万能。
ギターが弾け、頭もいいスヒョン。もちろん女子にもモテました。
将来の夢も決まったのです。これ以上、強い若者がいるでしょうか?

そして2001年(平成13年)1月26日。午後七時頃、スヒョンは山手線・
新大久保駅で電車を待ってました。その時、一人の酔っぱらいが
池袋行きの線路に転落。

とっさにスヒョンは線路に飛び降り、男性を救助しようとします。
ちょうどそばにいたカメラマン関根史郎(せきね しろう)も、
同じく飛び降りて救助しようとしました。

けれど電車はもうホームのすぐそばまで。結局、三人は轢断
(れきだん)され、亡くなります。

今も新大久保駅のホームに上がる階段の踊り場に、二人の勇気を
称えるプレートが、JR東日本によって刻まれてます。誰も、もう注意を
払わなくなったプレート。けれど、若くて有能、魅力的な韓国人が、
日本人を救おうとして、尊い命を犠牲にした場所。
決して忘れることはできません。

緑
green

アン・ジュングン

安重根・義士記念館がナムサンにあります。交通の便が悪い場所。
バスで行こうと思いましたが、諦めてタクシーにしました。
安重根は韓国語では「アン・ジュングン」となります。

安重根・1

記念館に入るとすぐにアンの言葉が大きく掲げられてます。

私は死んでも天国に行って君たちを見つめている。
そして大韓帝国が真に独立したら、天国で
「マンセ」(万歳)を叫ぶつもりだ。

そんな内容「天国」という違和感ある言葉が出て来ますが、展示を
見てれば分かってきました。どうやらアンは独立闘争の過程で
キリスト者になったようです(洗礼名トマス)天国という
言葉もキリスト教的な意味なのでしょう。

記念館のあっちこっちに貼ってある指のかけた手形。独立闘争の
義士たちが、意志の固さと結束を示すために薬指を切ったとのこと。
記念館には指を切る時の模様まで再現されてます「ヤクザ」という
言葉をフッと思い浮かべるのは私だけでしょうか?

記念館のハイライトはアンが初代の朝鮮統監である
伊藤博文(いとう ひろぶみ)をハルビンで撃つシーン。
それが人形とともに展示されてます。

丸腰の政治家をいかなる理由であれ、殺すことで、一体、天国に
行けるかどうか、はなはだ疑問ですが、アンがしたのは、
そういうことです。同じ場所にはアンが書いた伊藤の罪状。
伊藤が韓国人民を苦しめた、という罪状が十いくつか。
が、その中には。

伊藤が明治天皇の父君・孝明天皇を殺害した。
伊藤が閔妃を殺害した。

など、どう考えてもオカシなものが堂々と掲げられてます。
アンがそう思ったのは自由だし、当時を生きてればそう思えたのかも
しれません。ですがこれだけ時間が経ち、記念館まで建てて、
それを吹聴してるとなると、首をかしげざるを得ません。

手探りでいつ列強・植民地にされるか分からなかった日本を、
伊藤は短時間で先進国に仲間入りさせた立役者。大隈と協力して
1871年(明治4年)には初の鉄道を開通。

伊藤はヨーロッパに何度も留学して法体系を確立し、憲法作成に
取り組みました。1889年(明治22年)2月に発布した
大日本帝国憲法に基づき、自ら初代総理大臣として国家運営に。

勝ち目のない戦争と思われた日清戦争では、外務大臣・陸奥宗光と
共同で戦況分析を行い、大国・清を打ち負かして世界を驚かせます。
日清戦争以降は平和外交。日露の関係が危ういと見るやいなや、
日本・ロシアの仲介役として奔走。

そんな伊藤の姿を、若い無責任な陸軍参謀たちは「恐露病」と
揶揄(やゆ)しかしそんな声にも全く耳を貸さず、伊藤は
日露戦争直前までロシアとの和平工作を画策します。

日露戦争は最初から国力差を度外視した無謀な戦い。外交・作戦の
どちらもベストだったとしても、勝負は丁半バクチ。
その現実を伊藤はよく認識してたのです。

日露戦争・勝利後、伊藤は総督として朝鮮経営に手腕をふるいます。
明治始まって以来の脅威であったロシアが東アジアから去った後、
朝鮮を統率できるのは伊藤しかいませんでした。

まさに「日本の国父」と言っていいでしょう。歴代首相でお札に
登場したのは、伊藤と高橋是清だけ。二人とも暗殺されました。

日露戦争後の日本と朝鮮の状況を考えた時、朝鮮には日本に
併合されるより手がありませんでした。当時の朝鮮知識人の大部分が、
日韓併合を要望する文書を提出したくらい。朝鮮半島の近代化は
自力では到底ムリ。もし日本が朝鮮に出て行かなかったら、
朝鮮はロシアか中国に併合されていたでしょう。

その中国の植民地政策がいかに過酷だったかは、同じソウルの
国立中央博物館で、イヤというほど展示されてます。どうして韓国人は、
それと比べて、日本統治時代の植民地政策がいかに実り多かったかを
認めないのでしょうか?

ヤンパン(両班)が支配し、儒教文化が社会の隅々まで
行き渡っていた当時の朝鮮半島。鉄道一つ作ることもできませんでした。
先祖の安眠を妨げるという理由で。愚民政策により、街を結ぶ交通は
最初から整えられず、もちろん教育施設も、上下水道もありません。

朝鮮半島で道路、鉄道、教育施設、上下水道、港湾、工場を
建設したのは全て日本人。ですが現在の韓国人は、それを学校で
公式に習いません。日韓併合のための要望書を書いた知識人は、
戦後の韓国では、全て「チニルパ」(親日派)。

けれど親日派をのけると近代知識人が一人も残りません。韓国の
歴史教育が全くお粗末な理由も、ここにあります。日本を頼った人を
全て排除した挙句、まともな知識人がいなくなるので、
歴史は見ないフリをしようというわけです。

伊藤がアンに殺されず、あと十年でも生きてれば、軍の暴走を
抑える役割を果たし得たでしょう。しかし伊藤は暗殺され、睨みのきく
政治家は山縣有朋(やまがた ありとも)だけになってしまいました。

一体、要職にある実力者が暗殺されることは、国家を悲劇の
方向へ向けがちです。伊藤暗殺から二十数年後、五・一五事件、
永田鉄山・暗殺事件、二・二六事件が起きます。
これらが契機となって日本はますます軍国化。

犯人は鮮人です。

そう聞かされて、まだ意識のあった伊藤は一言。

バカなヤツだ。

結局、伊藤の暗殺は日本にとっても韓国にとっても不幸でしか
ありませんでした。もちろん韓国人にしてみれば
「日本の指導者をやっつけてくれた」くらいの感情論。

ところが個人でそう思うのはともかく、キチンとした歴史公証を
経るべき記念館でも、そして学校で習う教科書でも、この有様では、
とても冷静な歴史対話などできるはずありません。実際、日韓で
そういう歴史対話があったことを私は聞いたことがありません。
全て韓国側が拒否してます。

日韓関係を韓国側から見てみたい、という素直な気持ちで
この記念館を訪れても、あいた口がふさがらず、何も学べず、
不愉快な思いをするだけです。観光ガイドの隅っこには載ってますが、
日本人・観光客が訪れるだけの価値はないでしょう。

交通の便が非常に悪い所に建ててるあたり、
韓国側のやっとの後ろめたさを感じるのは、
深読みしすぎでしょうか?
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