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寄進地系・荘園

醍醐天皇が発した「延喜の荘園整理令」。税徴収の単位を、人から
土地へ変換。これで、女子ばかりの村ができたり、人口が極端に
減ったりすることがなくなりました。もともとは、一つ前の天皇、
宇多天皇に仕えた菅原道真の建策。

こうして、それまで「国司」(こくし)と呼ばれた徴税担当者は「受領」
(ずりょう)に変わりました。「口分田」も「名田」(みょうでん)に。

税額は土地によって定められましたから、戸籍をごまかして、逃れる
ことが、不可能。この方法は、ある程度、うまくいき、中央政府の財政は
改善。経済が活性化し、貴族だけでなく、日本全体が潤いました。

これをもって、醍醐天皇の治世は「延喜の治」と呼ばれます。
四百年以上も後、建武の新政。後醍醐天皇が目指したのも、
この延喜の治、そして村上天皇の天暦の治。

さて、こうした税制改革。十世紀・後半になると、ほころびます。
有力農民・田堵(たと)は、受領に納税するかわりに、土地ごと、
有力貴族、寺院に寄進し始めたのです。

田堵は寄進先に謝礼を払い、受領には「この土地は私のものでは、
ありません」と申告。こうした荘園を「寄進地系・荘園」。三世一身の法、
墾田永年私財法によってできた初期・荘園と区別して、こう呼びます。

しかも「不輸不入の権」が認められるにおよんで、受領は、寄進地系・
荘園にアクセスできなくなりました。こうして有力貴族、寺院が
保有する荘園はドンドン増え、田堵にも、有力者が出現。

一方の朝廷。受領からの税は、ほとんど上がってこなくなり、威信低下。
寄進地系・荘園の登場をもって、奈良期・初めより、理想とされた
班田収授(公地公民制)は崩壊。十一世紀の藤原氏・繁栄に
道を開きました。

青い花
blue flower

鹿ケ谷の陰謀

治承元年(1077年)の鹿ケ谷の陰謀こそ、平氏・没落の引き金。
陰謀そのものは、密告者が出て、露見。後白河法皇を除き、関係者は
処罰。しかし、ここで起きた平氏・打倒の機運は収まらず、
後の源平合戦へとつながります。

陰謀の首謀者は藤原成親(ふじわらの なりちか)。成親は平治の乱でも、
清盛に歯向かった人物。ただ成親の妹は、清盛の息子・重盛の妻。
この時は、許されました。

けれど、成親。よほど清盛と、そりが合わなかったのでしょう。ここに至って、
鹿ケ谷の陰謀。東山・鹿ケ谷にある山荘で平氏・打倒の密談。ここには、
後白河法皇も出席。密談の中、参加者の一人が瓶子(へいし:徳利)を
倒した時、「平氏が倒れ候いぬ」と一斉に囃すシーン。平家物語で有名。

とはいえ、こんな陰謀。露見すれば、重罪。密告の結果、清盛の知るところに。
藤原成親は備前に流罪。そこで食物を与えられず、餓死。

陰謀そのものは、これで終了。後白河法皇も、これまで、と思われました。
しかし、三年後の治承三年、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひと おう)が、
全国の源氏に平氏・打倒の令旨を伝達。この令旨をきっかけとして、
平氏は滅亡に向かいます。後から見れば、鹿ケ谷の陰謀は、
成功した、と言えるかもしれません。

栗
October

承和の変

「じょうわの へん」と読みます。承和九年(842年)に起きた政変。
嵯峨上皇・崩御の後、仁明天皇の後継をめぐる争いが発生。二人の
親王が後継候補。藤原良房が推す親王と、橘逸勢(たちばなの
はやなり)、伴健岑(ともの こわみね)が推す親王。

結局、良房の政治力が勝り、橘、伴に謀反の罪をかぶせ、流罪。
今では、これは良房による、完全な言いがかりだったと言われてます。
良房が推した親王が、仁明天皇の後、文徳天皇として、即位。
文徳天皇としては、即位の経緯から、良房に頭が上がらなくなりました。

その後、清和天皇が九才で即位すると、良房は摂政に就任。天皇の血筋
でない者が摂政に就いたのは、これが初めて。良房の養子、基経は
光孝天皇で、初の関白。藤原氏・北家による摂関政治は、ここにスタート。

承和の変は、北家による、最初の他氏排斥。以降、応天門の変、
昌泰の変、安和の変と他氏排斥は続き、十世紀・後半に、北家しか
残らなくなりました。そして十一世紀、道長、頼通の時、摂関政治は
絶頂に達し、華やかな王朝文化が栄えました。

ちなみに、承和の変で追放された橘逸勢。字がうまく、嵯峨上皇、
弘法大師と並んで「三筆」(さんぴつ)。これは、センター試験・
日本史で頻出です。

冬の夜空
Mond

長岡京と平安京

平安京は延暦十三年(794年)、平城京から遷都。けれど、その十年前、
実は長岡京に移そうという計画がありました。遷都は実行され、造営は、
それなりに進みました。責任者は、藤原種継(ふじわらの たねつぐ)。
桓武天皇の信任、厚い側近。

平城京からの遷都には、さまざまな理由。最大のものは、仏教勢力の
増大。平城京では、仏教勢力が強くなりすぎて、道鏡のような僧も、出現。
孝謙天皇(称徳天皇)に取り入り、自ら天皇になることを画策。

この画策を和気清麻呂(わけの きよまろ)が阻止。今、皇居のお濠端、
気象庁の前に、和気清麻呂・像があるのは、そんな理由から。

遷都は、国家事業。仏教勢力だけでなく、平城京からの遷都で、利権を
失う者は、たくさん。その誰かが、藤原種継を暗殺。桓武天皇は、激怒。
下手人を探させました。すると、浮かんできたのは、なんと、
桓武天皇の弟・早良親王(さわら しんのう)。

早良親王は、淡路島に流罪。けれど、身の潔白を主張し、自決。
後味の悪い事件となりました。

種継なき後も続けられた、長岡京・造営。けれど、天変地異が続出。
人々は早良親王の祟りと恐れました。当時「~の祟り」と言われることは、
為政者にとって、目前の政務と同じくらい現実的なこと。桓武天皇も、
人々の声を無視できません。

長岡京は、交通の要所。水の利用にも便利で、桓武天皇の都選びは、
決して間違ってません。けれど、祟りと言われて、造営はストップ。
再び、場所の選定に戻ってしまいました。

それで、出てきたのが平安京。ここも、川の水量は豊富。しかも、盆地。
広々としてませんが、都を作るには、十分。結局、長岡京・造営に
着手してから十年経った延暦十三年、ついに平安京・遷都。御所が、
ここに移り、以降、八百五十年以上、都として栄えました。

さくらんぼ
civilization

アテルイ

八世紀・前半まで、奥州は「蝦夷」(えみし)と呼ばれる人々が支配。
朝廷と関係なく、自治を展開。奥州に産出する貴金属。豊富な農産物。
それらを大陸と交易し、莫大な富を蓄積。

後に平安期、奥州藤原氏が栄華を誇りましたが、既に八世紀、その繁栄は
始まってました。その豊かさに、目をつけた朝廷。七世紀・半ばから、
奥州に蝦夷でない人々を入植。「柵」と呼ばれる砦を、各地に建設。
多賀城も完成しました。蝦夷にとって、朝廷の脅威は見過ごせません。

これより後、前九年の役も、そうでしたが、決して、蝦夷から戦いを
しかけてません。いつも、朝廷や国司から、蝦夷を挑発。今、
東北地方を考える時、私たちは、この事実を覚えておくべきです。

何度かの蝦夷の反乱。これは、朝廷に、格好の口実。延暦八年(789年)、
桓武天皇は、五万の兵を奥州に派遣。奥州の「平定」にのりだします。

この時、朝廷軍を迎え撃った若き武将こそ、アテルイ。今に伝わる、
奥州の英雄。副官モレと共に、朝廷軍を待ち受けます。

朝廷の前線軍は、五千。一方、アテルイ軍は千五百。けれど、地形を
よく知るアテルイ軍、近代戦と見まごうばかりのゲリラ戦を採用。

まず三百の精鋭部隊で、朝廷軍をおびき出します。そして、一旦、退却。
朝廷軍が深追いしてきたところを、北上川の東から、二手で挟撃。千二百でも、
十分な数。朝廷軍は前、右、後を固められ、進軍は完全にストップ。

逃げる場所は、西の北上川しか、ありません。次々と水面に飛びこむ朝廷軍。
けれど、鎧が重くて、泳げません。溺死が相次ぎます。アテルイ軍、
ほとんど犠牲を出すことなく、大勝利。蝦夷の士気は、上がりました。

八年後の延暦十六年。都が、平城京から平安京に移った後、朝廷は再び、
十万の兵を奥州に向け、送りだしました。この時の詳しい記録は
残ってませんが、アテルイ軍は、やはり朝廷軍を撃退。

そして、三度目の遠征。延暦二十一年。この時の朝廷軍リーダーは、
坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ)。なぜかアテルイ軍は降伏し、
田村麻呂はアテルイ、モレの助命を約束して、和解。奥州は平定されました。

なぜ蝦夷が降伏したか、そもそもどんな戦いだったかは、不明。けれど、
田村麻呂。戦う前から周到な準備。数年かけて、蝦夷・部族長を懐柔。
最新の武器を供与。農業技術も提供。希望者には、朝廷への参内も、
許したとか。ここまでされて、蝦夷・部族長も、田村麻呂にメロメロ。
部族が一つ、また一つとアテルイから離れます。

そして、アテルイの降伏。田村麻呂は助命を約束。けれど、朝廷。しょせん、
蝦夷など人と思ってません。いつ謀反を起こすか分からない存在。
アテルイ、モレの処刑を断行。日本史の英雄・坂上田村麻呂は、
結局、東北人には、トンデモナイ裏切り者。

この気持ちは、アテルイへの追慕と同時に、復興が全く進まぬ今、
東北人の心の奥深くに、脈々と受け継がれてます。

ぶどう
grape

応天門の変

燃えさかる応天門は、さぞや京の人々を驚かせたでしょう。
その驚きも計算に入れての放火なら、かなり周到な計画が
練られたはず。その計画を練ったのは、藤原良房だったでしょうか?

藤原良房(ふじわらの よしふさ)は皇室の血筋でないにもかかわらず、
摂政になった初めての公家。嵯峨天皇の下、蔵人頭を務めた
藤原冬嗣の子。

応天門の変は、ややこしい経緯を辿ります。京の応天門が何者かに
よって放火され、焼け落ちました。最初、大納言・伴善男(ともの 
よしお)が源信(みなもとの まこと)を告発し、犯人と主張。

けれど証拠もなく、源信はやがて放免。しばらく経つと、今度は
あろうことか、最初に犯人を告発した伴善男こそ、真犯人という
声が上がりました。

しかも、伴善男にも証拠はなかったのですが、なぜか罪が認められ、
伴善男は流罪。藤原・北家にとって強力な政敵だった伴氏が失脚。

伴善男が真犯人だったかどうか、今も分かりません。けれど、
応天門の変で、最も得したのは良房。しかも、後から見れば、
まるで誰かが予めストーリーを書いたかのよう。今も良房の
関与が囁かれる事件です。

日の出
history

悪左府

「あくさふ」と読みます。左大臣・藤原頼長(ふじわらの よりなが)は、
当時、こう呼ばれました。「悪」というのは悪い呼び名でなく、
「切れ者」ぐらいの意味。兄・忠実(ただざね)と摂関家の
氏の長者を争い、それを獲得。左大臣まで上りつめます。

もともと頭が良かった上に、若い頃から努力家で、勉学に励みました。
将来、朝廷を切りもりしていかねばならない、という自負が
あったことでしょう。

頼長が歴史に名を残すことになった事件が、保元の乱。
崇徳上皇につきました。鳥羽法皇が死去した後、崇徳上皇と
後白河天皇との間で、争いが表面化。頼長が上皇に、
兄・忠実が天皇につき、摂関家も対立。

これに平氏、源氏の対立も加わり、乱の規模が拡大。

上皇方のリーダーは、頼長。けれど、しょせん公家。頭は良くても、
戦いのことまでは、分かりません。本来なら専門家である武士に
任せるべきでした。けれど、なんでも自分でやりたがる頼長。
軍議に口をはさみました。

当時の状況では、天皇方が早い段階で夜襲をしかけてくることは、
明らか。上皇方の武士は、もちろんそれを察知し、むしろ先手を
打って夜襲を主張。けれど頼長は「夜襲など、正当な戦い
ではない」と、にべもなく、はねつけました。

結局、武士の見立てどおり、天皇方は夜襲をしかけてきました。
上皇方は、あえなく壊滅。頼長の意見など、どうせ、どこかの書で
読んだ内容の受け売り。何の力にも、なりませでした。

頼長は傷を負い、敗走。父親の屋敷に駆けこもうとします。
兄・忠実より、いつも自分を引き立ててくれた父親。けれど、
この時、屋敷に入ることを断られます。父親が断った理由は
「悪左府ほどの者、戦さで負傷するはずなし。」

絶望した頼長は、その場で舌を噛み切ったとか。乱後、頼長の
日記が発見されます。そこには赤裸々な同性愛の記録が
綴られてました。同性愛は、当時の公家、武家の間で、
それほど珍しいことでは、ありません。

裏切りが多かった政界では、同性愛によって互いの絆を
強めあう、という意味があったからです。いずれにせよ、
頼長。摂関家・復活のために奔走し、自ら恃むところ、
大ながら、志の半ばで斃れました。

流れ
stream

阿衡の紛議

古代中国で「阿衡」(あこう)という、皇帝を輔佐する役職がありました。
身分の高い役職。光孝天皇の後、即位した宇多天皇が、詔勅で
藤原基経(ふじわらの もとつね)を「阿衡」と呼んだのも、決して
貶めるためでは、ありません。九世紀・後半のこと。

けれど、基経。関白就任にあたり、詔勅で使われた「阿衡」という
役職に、言いがかりをつけます。基経いわく、古代中国で「阿衡」とは、
名誉職にすぎず、そんな実質ない役職なら、朝廷に出仕しないと。

自分が出仕しないと、朝廷が回らなくなることを承知しての言いがかり。
宇多天皇は、即位の時、基経に借りがあり、この時には、
折れないわけには、いきませんでした。

宇多天皇が詔勅で使った「阿衡」。結局、この呼び名を取り消し、
詔勅の事実上の著者・橘広相(たちばなの ひろみ)を配流することで、
紛議は決着。冬嗣、良房、基経と続く、藤原・北家の力が、
天皇をしのぐことを世間に見せつけました。

ちあみに、この時、基経に怒りを解くよう、論理的な
説得の手紙を書いたのが、菅原道真。

紛議の後、基経はすぐに死去。藤原氏の横暴に懲りた宇多天皇は、
以降、関白をおかず、親政を実施。側近として、紛議・解決に一役
買った菅原道真を登用。学者にすいなかった道真が、
政界デビューするきっかけとなりました。

夏海
summer sea

保元の乱

鳥羽天皇の長子・崇徳天皇(すとく てんのう)。後白河天皇の兄。
母は藤原璋子(ふじわらの たまこ)。彼女は後に待賢門院(たいけん 
もんいん)となり、「ながからむ 心は知らず 黒髪の 乱れて今朝は 
ものをこそ思え」で名を残しました。

この璋子。歌の実力はともかく、白河法皇の寵愛を受けて育ちました。
しかも、その関係は、彼女が鳥羽天皇に輿入れした後も続いた、
とのこと。白河法皇は、鳥羽天皇の祖父。なんと、祖父が
孫の嫁を寵愛。なんたる背徳。皇室の歴史とは、
実は、このようなもの。

三年前のNHK大河ドラマでも、このあたりの事情を、生々しく描写。
璋子の夫・鳥羽天皇は、彼女との子、崇徳天皇を、白河法皇の
子とみなし、「おじ子」と呼んで、生涯、遠ざけます。自ら非もないのに
嫌われることになった崇徳天皇は、たまったものではありません。

鳥羽天皇は上皇、法皇となった後も、崇徳天皇を嫌い続けました。
崇徳天皇を早々と上皇にし、実権を与えず、崇徳天皇の弟を
後白河天皇として、世に出しました。後に源平を手玉に取る
後白河天皇は、こうして誕生したわけです。

さて、なすすべなかった崇徳上皇。父親・鳥羽法皇の存命中は、
何もできませんでしたが、死去するとすぐ、政権奪取に動きました。
後白河天皇と対立し、朝廷が二分。朝廷の対立に、藤原氏、源氏、
平氏の対立が加わり、保元の乱が勃発。十二世紀・半ばのこと。

大騒ぎになった割には、保元の乱、平清盛、源義朝がついた
後白河天皇が勝利。夜襲であっさり、けりがつきました。
崇徳上皇は讃岐に左遷。後白河天皇の世となりました。

乱後、上皇についた者たちに、事実上の死刑が執行されました。
源義朝など、父親・為義の首を、自らはねる命令を甘受。平安期、
数百年間、死刑が行われませんでしたが、ここで復活。
武力が、ものをいう時代となりました。

夏空
summer sky

安和の変

安和二年(969年)、平安朝廷で起きた政変。「あんなの へん」と呼びます。
当時、関白は藤原実頼(ふじわらの さねより)。冷泉天皇の後継を
めぐって、争いが生じました。

候補者は二人の皇子。藤原実頼と対立し、別な皇子を推したのは、
左大臣・源高明(みなもとの たかあきら)。高明は醍醐天皇の子で、
朝廷では、それなりに影響力がありました。

この高明、同じ源氏のよしみで、源光仲(みなもとの みつなか)と、
親しい間柄。光仲は高明の行動を知る立場にありました。

安和二年・三月、光仲は高明の謀反を察知し、いち早く関白に密告。
謀反は未然に防がれ、ことなきを得た、と歴史書には、あります。

けれど、ホンとに謀反だったか、分かったものではありません。
高明を追い落とすための藤原氏の陰謀だったのではないか、
と当時も、今も囁かれてます。真実は、もう分かりません。

いずれにせよ、安和の変で、高明は大宰府に左遷。菅原道真も、
そうでしたが、この時代、左遷されれば、九州行き。藤原氏・北家の
他氏排斥が完了。承和の変から百四十年かけて、北家の覇権が確立。
政治が安定し、藤原氏の全盛期が訪れます。私たちが今日、
見る国風文化は、この安定の賜物。

密告という、あまり武士らしくない行動で、歴史に名を残した光仲。
源氏の祖、源基経の子で、源氏嫡流。この安和の変で藤原氏の
政権掌握に貢献したことから、爾後、藤原氏と源氏は、歴史的に
親しい関係。この関係は、十二世紀の源平合戦にも、
微妙に影響を及ぼしました。

湖
lake

昌泰の変

九世紀・終わり、宇多天皇に重用された菅原道真。代々、学者を
輩出した家柄。けれど、決して身分は高くなく、政治力もありません。
宇多天皇との出会いなくば、貧しく終わったでしょう。

けれど、藤原氏の横暴が目にあまり、政権運営を滞らせるにおよび、
宇多天皇は道真に白羽の矢を立てました。今、振りかえれば、
宇多天皇の人物眼は確かでした。

道真はまず、税制改革に着手。奈良期・初め、税制が人単位で
定められて以来、男子は女子より多くの税を課されてきました。
それ故、道真が右大臣に就任した頃、戸籍上、女子が男子より、
遥かに多いという非現実な状況。

道真は、それを土地単位の税制に変更。土地には男女別なく、
逃げだすこともありません。いったん、上がり得る税を確定すれば、
気候要因を除けば、安定的な税収。そして、社会も安定します。

今、聞けば、ふうん、ですが、当時としては画期的な変更。
歴史的に見ても、後の検地へと道を開きました。

対外的には、遣唐使の廃止。当時、唐は落ち目。玄宗皇帝による
楊貴妃の溺愛。楊貴妃・縁者による専制政治。そして安史の乱。
唐に見切りをつけた道真の判断は妥当でした。

これも、現代から見れば、大したことないように見えるかもしれませんが、
遣唐使派遣は当時、大規模な国家事業。多くの利権もありました。
それを政治決断でやめる、というのですから、たいへんな作業。
道真でなくば、できませんでした。

こんな道真が藤原氏の標的にならないはずなく、昌泰四年(901年)、
道真は、左大臣・藤原時平の陰謀によって、大宰府に左遷。
これを「昌泰の変」(しょうたいの へん)と呼びます。

とはいえ、政治的にやるべきことをやった道真。たとえ左遷されても、
彼の政策が、その後、後戻りすることはありませんでした。道真が
左遷後、憤死し、京に祟りをもたらした、という話は、証明できず、
考えるに値しません。

九世紀・初め、薬子の変で覇権を握った藤原氏・北家。その後、
応天門の変で他氏排斥。そして、この昌泰の変で、道真を左遷。
この後、安和の変で、北家の覇権は確立。十一世紀、
道長、頼道の栄華をもたらしました。

希望
summer celebration

蔵人頭

桓武天皇には、二人の息子がいました。それぞれ順番に即位し、
平城天皇(へいぜい てんのう)、嵯峨天皇。ところが平城天皇。
嵯峨天皇に譲位しても、実権を握り続けようとしました。

平城天皇の野心に藤原・式家の兄妹が同心。嵯峨天皇への
クーデターが起きかけました。「薬子の変」です。

変は未然に防がれ、薬子たち兄妹は自死。藤原・式家も没落。

嵯峨天皇は朝廷を掌握。けれど、今後の政策運営に当たって、
信頼できる側近の必要性を痛感。藤原・北家(ほっけ)の藤原冬嗣
(ふじわらの ふゆつぐ)を蔵人頭(くろうどの とう)に任命し、
自らの秘書としました。

蔵人頭は律令に定められてない官職だったので「令外官」
(りょうげの かん)と呼ばれました。同じく令外官として、
嵯峨天皇は、京の治安維持を担当する検非違使(けびいし)も設置。
政治、軍事の両面で、盤石な体制を築きました。

室町期、後醍醐天皇に仕え、南朝についた北畠親房(きたばたけ 
ちかふさ:顕家の父親)は「神皇正統記」を著し、歴代天皇について
論じました。

親房が最もスペースを割いたのは、もちろん同時代の後醍醐天皇。
けれど、その次に重視したのが、この嵯峨天皇。嵯峨天皇の善政、
目ある人には、ハッキリ分かってたということでしょう。

藤原氏について言うと、冬嗣が蔵人頭に任命され、権力が増大する
につれ、四つあった藤原氏の中で、北家(ほっけ)が台頭することに
なりました。九世紀から十一世紀まで続く藤原氏の繁栄は、
この北家の子孫によるものです。

鼻
flowers

承平天慶の乱

「じょうへい てんぎょうの らん」と読みます。一般的には平将門
(たいらの まさかど)の乱。承平、天慶というのは、当時の元号。
時期は十世紀。朱雀天皇の治世です。

下総(しもうさ:現・千葉県)に生まれた平将門。武門に秀で、りりしい武士に
成長。けれど平安期。武士といえども、京での官位獲得がなければ、
地域をまとめきれません。将門も、京で出世コースに乗ろうとします。

けれど、将門が見た京。そこの公家。汚職が蔓延し、民のための
政治など、どこにもありません。失望した将門は、無位無官のまま、
下総に戻りました。

官位に何の意味もないと知った将門。それは自らの正当性を自ら
決めてよいという自負にも、つながりました。将門自身、桓武平氏の
血を引いてたことから、ついには朝廷に反旗を翻し、「新皇」を
名のるまでになります。

鉄の鋳造、鍛造に着目した将門。その技術を発達させました。
それは、そのまま武具、農具の改良を刺激。農民は、将門の下で、
農業収穫量が増え、生活が良くなることを実感。集まり始めました。

武具改良も、将門の名声を高めました。今日、私たちが見る、
日本刀。この日本刀を開発したのも、将門。

農民たちは当時、朝廷から派遣される、形ばかりの国司にウンザリ。
重税、苦役に苦しんでました。彼らにとって、自分たちをホンとに考えてくれ、
誠実で知られた将門は、真のリーダー。将門を支持する動きは、
下総だけでなく、関東一円に広がります。

時、同じくして瀬戸内では伊予・国司に任じられた藤原純友
(ふじわらの すみとも)が反乱。時代劇では、将門が京にいた頃、
純友と誼(よしみ)を交わしたことになってますが、二人の間に
実際の交友があったかどうかは、分かりません。

東西で起きた反乱に、朝廷は驚愕。慌てて、乱鎮圧に乗りだします。
関東へは平貞盛(たいらの さだもり)と俵藤太(たわらの とうた)を
派遣。貞盛は将門の従兄。幼い頃から、親しく成長した間柄。

貞盛と藤太は田起こし期を狙って、軍を繰りだしました。民衆思いの
将門なれば、田起こし期、民衆を土地へ返すはず、と踏んでのこと。

案の定、将門は民衆を土地へ返し、武力が手薄になったところを
見計らって、貞盛、藤太の軍が圧倒。将門は討ちとられました。

とはいえ、公家支配から脱しようとした将門。その政策は、武士なら、
誰でも首肯できるもの。将門を倒した貞盛、藤太にとっても、それは同じ。
彼らは将門を倒しておきながら、子孫には、その偉大さを語り伝え、
武士リーダーのあるべき姿を教えました。

やがて、貞盛の系譜から平忠盛、平清盛が登場。
公家に頼らない、武士の政治を確立しました。

俵藤太は藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)と名を改め、
その系譜から、奥州藤原氏の祖、藤原常清が登場。

将門は二百年、三百年、時代の先を行ってたと言えるでしょう。
ちなみに、今も丸の内に残る将門の首塚。京でさらされた首が、
カラカラと笑った後、飛び去り、故郷に戻る途中、ここへ落ちたとか。

東京駅の正面だけに、明治期以来、撤去計画が何度か上がりましたが、
その度、関係者が奇妙な死。やがて、誰も撤去を言いださなくなり、
将門の首塚は、今も丸の内にあります。

水玉
future

後三年の役

十一世紀、奥州を支配した安倍氏が、清原氏に滅ぼされました。
前九年の役です。結果、奥州の覇権は清原氏に。

清原氏には三兄弟。実衡(さねひら)、清衡(きよひら)、家衡(いえひら)。
真ん中の清衡は、滅ぼされた安倍氏から清原氏の養子になった身。
清原氏の憐れみで、拾われた格好。

長子・実衡と末子・家衡は仲が悪く、この二人で家督も争われました。
清衡は、それを傍観。ところが長子・実衡が急死。この時点で、
それまで沈黙を守った清衡が、急に権力奪取に動きました。

奥州で力を持ってた源義家(みなもとの よしいえ)が、清衡に合力。
義家は前九年の役で、父親・頼義と組んで、安倍氏を卑劣な形で
滅ぼした自責の念がありました。今、安倍氏の血を引く清衡に
味方し、罪滅ぼしをしたと伝えられてます。

清原氏の跡目争いに関係ないと思われてた清衡が、
源氏棟梁の同心を得たことで、急に有利となりました。

慌てたのは末子・家衡。長兄・急死で、自動的に跡目が回ってくると
思ったら、今まで歯牙にもかけなかった次兄、しかも清原氏の
血を引かない清衡が、出てきたものだから、動転。

清衡と家衡の跡目争いは、大きな戦いとなり、「後三年の役」と
呼ばれるようになりました。戦いは終始、義家を味方につけた
清衡に有利。追い詰められた家衡は、人質に取った清衡の
妻子を館に閉じ込め、清衡の目前で、火を放ちました。

それでも清衡は譲歩せず、目前で妻子を殺されました。
安倍氏・再興を、心密かに誓って成長した清衡。妻子という犠牲を
払っても、権力を奪いかえす気持ちに、変わりありませんでした。

妻子を奪われ、失うものなくなった清衡に、家衡がかなうはずなく、
結局、兵糧攻めで家衡軍は瓦解。他家で雌伏した清衡が、
最終的に奥州の覇者となりました。

奥州の権力を握るやいなや、清衡は姓を「清原」から「藤原」に
戻しました。清衡の父親は、安倍氏と結んだ藤原常清。
父姓を復活させたわけです。

以降、百年続く奥州藤原氏の礎(いしずえ)が築かれました。
京にも劣らない豊かさと文化を誇った奥州藤原氏。
東北地方が最高に輝いた時代が始まりました。

水色
summer

藤原経清

承平天慶の乱(平将門の乱)鎮圧に貢献し、その後、陸奥に地盤を持った
貴族、藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)。その秀郷から数えて四代目が、
藤原経清(ふじわらの つねきよ)。ゆくゆくは陸奥守になる
可能性もある人物。奥州の実力者。

時は十一世紀・後半。栄華を誇った摂関政治に、陰りが見え始めた頃。
現在の東北地方は、東が「奥六郡」西が「山北三郡」と呼ばれてました。
おおまかな呼称で、それ以外は未開の地。

奥六郡を支配したのが安倍氏。藤原経清の時代、棟梁は安倍頼時
(あべの よりとき)。頼時は山北三郡の清原氏と同盟を結び、
絶大な権力をふるいました。奥六郡で取れる金(きん)、駿馬を
朝廷に献上。自治を認めさせ、奥六郡は事実上、独立国。

藤原経清は安倍氏と昵懇となり、頼時の娘を妻に迎えました。とはいえ、
当時、奥六郡の人々は朝廷から「俘囚」と呼ばれ、人間扱いされてません。
俘囚から嫁をもらったということで、経清の未来も、断たれました。
もちろん、それは覚悟の上。

経清は安倍氏の一族となり、奥六郡の運営にも参加。ところが、
ずっと安倍氏を率いた頼時が死去。この機にすかさず、同盟にあった
清原氏が安倍氏に侵攻。時の陸奥守・源頼義(みなもとの よりよし)が
清原氏に加担。大きな戦いとなりました。

源氏の棟梁・源頼義。武士として初めて陸奥守に上りつめました。
次は奥六郡の支配を企図し、清原氏の侵攻に深く関与。
いわば、この戦いは頼義の私戦。

頼義の息子・義家も戦いに参加。けれど、結局は大義なき戦い。
義家は後に「八万大菩薩」と崇められる、武士の神。
けれど、実際にやってたことは、父親の私戦。

安倍氏は各地に柵を構え、鉄壁の陣地を構えたはずでした。しかし、
頼義、義家という戦いのプロを相手に苦戦。源氏の軍略には勝てず、
とうとう最後の砦・厨川(くりやがわ)の柵も、火攻めで落とされました。

安倍氏は滅亡。藤原経清は戦死。その妻は清原氏に奪われ、
清原氏・棟梁の側室に。この妻には、経清との間に男子がいましたが、
この男子は命を許され、清原氏一族として成長。名前も「清衡」(きよひら)
と改め、清原清衡(きよはらの きよひら)。

やがて清衡には弟が誕生。「家衡」(いえひら)と名づけられました。
清衡、家衡の兄弟は、清原氏の中で、父親が違う兄弟として、
育つことになります。

安倍氏が、清原氏と源頼義の結託によって滅ぼされた、この戦い。
前九年の役(ぜんくねんの えき)と呼びます。

緑
July
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