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ゆめラジオ、珊瑚海海戦をアップ!

日米の空母が初めて激突した珊瑚海海戦。昭和十七年・五月のこと。
ここで帝国海軍の進撃、ストップしました。
どんな戦いだったのでしょうか?

ゆめラジオで取り上げました。ぜひ、ご視聴ください。

珊瑚海海戦

ゆめラジオ、戦艦大和の最期をアップ!

今日は四月八日。七十二年前の四月七日、戦艦大和は九州沖で
沈みました。不沈艦と呼ばれた大和が、なぜ水上特攻?
ゆめラジオで語りました。ぜひ、ご視聴ください。

戦艦大和の最期

ゆめラジオ、近衛上奏文をアップ!

昭和二十年・二月、敗色濃厚の中、近衛元首相が昭和天皇に
上奏した異様な文章「近衛上奏文」。ゆめラジオで取り上げました。
戦前、戦中の陸軍の真の動きが、掴めるでしょう。
ぜひ、ご視聴ください。

近衛上奏文

最後の十球

昭和二十年・五月、帝国海軍・鹿屋基地から飛び立った特攻隊。
中に石丸進一・少尉の姿がありました。

石丸は佐賀出身。佐賀商で野球部に所属。投手として頭角を表し、
名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)に入団。その頃、大東亜戦争は、
既に始まってました。

やがて名古屋軍エースとなり、昭和十八年・十月にはノーヒット、
ノーラン達成。名をとどろかせます。

けれど、昭和十九年、招集。石丸は海軍飛行隊を選びました。
訓練おえた昭和二十年・二月、石丸は特攻隊に志願。

四月二十七日、鹿屋基地に到着。菊水六号作戦。雨が降り続き、
出撃、ドンドン延期。自分の死と向き合う日々。やがて、五月十一日、
鹿児島の空、晴れわたりました。出撃前、少しの時間。

石丸は野球の心得ある同僚を捕手にし、投球練習。基地の誰もが、
見にきました。見守る中、投げた十球。どれもすばらしいストレート。
ミットに大きな音を立て、吸いこまれました。

十球、投げ終わった後、石丸投手、晴れやかな顔でグローブを
空に放り投げました。そして、出撃。二十二才。

野球しかない男から、野球とったら、どぎゃんなると思う。
オレは今、もぬけの殻たい。

石丸の名は今、東京ドームの端にある「鎮魂の碑」に、
沢村栄治たちと共に刻まれてます。

滝
waterfall

栗林忠道

昭和二十年・二月、アメリカ艦隊が硫黄島に攻めてきました。守備隊・
司令官は栗林忠道(くりばやし ただみち)中将。本来は、安全な小笠原・
父島から指揮を執るはずでしたが、あえて硫黄島に着任。

アメリカ軍が来れば、援軍などありえず、戦死は必定。
栗林司令官は、それを覚悟で、やって来ました。

守備隊は二万一千名。労務者が一千名。計・二万二千名。
その誰も、生きて帰れると、思ってなかったでしょう。

前年の昭和十九年・六月、サイパンが落ち、本土空襲が避けられなく
なりました。サイパンと本土の往復5000㎞はB29の航続距離ギリギリ。
本土とサイパンの中間にある硫黄島に、アメリカ軍が来ることは、
時間の問題。そして、アメリカ勤務が長く、アメリカ軍を熟知する
栗林中将に、白羽の矢が立ちました。

栗林司令官はまず、民間人を避難。サイパン、沖縄の悲劇が、ここでは
避けられました。そして、まともに戦っても、勝ち目はない、と判断。
地下に潜ることを決意。総延長18㎞の地下壕を作りあげました。
計画では、30㎞の予定でしたが、その前にアメリカ軍の来襲。

高射砲は砲身を低くし、海岸に向けました。戦車も地下に置き、砲台に。

地下壕・建設にあたり、大本営に要求した掘削機が十分に届かず、
事実上、手作業。しかも硫黄島。あちこちから硫黄臭気が噴き出る灼熱。
地下壕の中は70℃。そんな場所で、手作業の地下壕・建設。
日本人でなければ、できないことだったでしょう。

そして、やって来たアメリカ艦隊。上陸前、三日三晩の艦砲射撃。
すりばち山の四分の一が吹きとびました。けれど、地下壕こもる
日本軍に、ほとんど被害なく、アメリカ軍を待ちうけました。

アメリカ軍は、万端、整えての上陸だったはず。艦砲射撃の後、
続々と上陸するアメリカ兵。そこに、栗林司令官の「攻撃開始!」

鳴りを潜めてた日本軍の臼砲、迫撃砲、速射砲がアメリカ兵の
頭上に炸裂。日本兵は、陣地から海岸までの距離を、頭に叩き
こんでました。突然の攻撃で、砂浜に釘づけのアメリカ兵。

ここを見計らって、さらなる鉄の雨。アメリカ兵は、ドンドン戦死。
硫黄島など五日で落とせる、そう豪語したアメリカ軍・司令官。
上陸初日で、二千四百名の戦死者を出し、真っ青。しかも、
日本兵はどこから撃ってるのか、全く分かりません。

すりばち山に星条旗を立てるアメリカ兵の写真が有名ですが、
あの後も、戦闘は継続。守備隊は、なんと一カ月以上、もちこたえ
ました。その分、本土空襲が遅れ、その分、殺される民間人も減る、
それが、硫黄島・守備隊の思いでした。そのためなら、自分が死んでも、
かまわない・・・

灼熱の中、日本兵は一日、水筒一本の水で戦いました。アメリカ軍の
被害は、日を追って累増。結局、アメリカ軍は二万九千名の死傷者。
日本軍は二万一千名の戦死者。戦争では、死傷者を数えますから、
アメリカ軍の被害が、日本軍を上回りました。

日本軍で生き残ったのは、一千名。その半数は労務者でしたから、
兵士損耗率は95%以上。栗林司令官も戦死。その戦功が認められ、
戦いの最中に大将に昇進。五十三才の大将就任は、帝国陸軍の
最年少記録。けれど、栗林司令官が、知ることはありませんでした。

栗林司令官の合理的で、冷静な戦いぶりは、アメリカ軍の度肝をぬき、
感嘆の声を上げさせました。硫黄島の戦いは、世界の戦史でも、
稀に見る敢闘として、記録されます。

今は、海上自衛隊の基地、硫黄島。一般の日本人は、立ち入り
できません。赴任した隊員たちは異口同音に、冷蔵庫の水やジュースが、
カタカタ鳴る現象を経験。日本兵の水への執念は今も残ってるようです。

負けること、死ぬことが分かりきった戦いを前に、栗林司令官は訓示。

後世の日本人は、必ずや我らの犠牲に、頭(こうべ)を垂れん!

この言葉を聞いて、末端兵士に至るまで、故郷に残した家族のため、
捨石になることを決意。自らの死を受けいれました。彼らの尊い犠牲
あればこそ、戦後の日本は、曲りなりにも、国家を維持し、
経済繁栄を築くことができました。

硫黄島だけではありません。極寒の孤島で、灼熱の密林で、そして、
空に海に、散っていった先人たちあればこそ、日本は戦後、
最低限度の国家の体を保つことができました。

本来なら、日本の修学旅行生。必ず一度は硫黄島を訪れ、そこで、
祖国のため、犠牲となった先人たちに、一礼し、合掌すべきです。

冬の空
Geshichte

ニューギニアの戦い

戦地から帰ってきて、私は誰にも同情しなくなった。

「ゲゲゲの鬼太郎」で有名な漫画家・水木しげるの言葉です。
彼はニューギニア戦線に送られ、九死に一生を得ました。

ニューギニアでは、動員兵・二十二万名のうち、生還兵は二万名。
損耗率は実に、九割以上。こんな戦いは、普通、ありえません。
どうして、こうなったのでしょうか。

どんな戦いでも、ホンとに負けると思ったら、司令官が降伏を決定し、
敵軍にそれを伝えて、終了。ところが降伏、投降を許されなかった
日本兵。文字通り、死ぬまで戦いました。最後は銃剣と手榴弾。

そもそも日本軍は、資源もなく、戦略的・重要性もない、こんな島で、
どうして、これほどの大軍を展開したのでしょうか? 戦争するなら、
もっとしかるべき場所で、しかるべき戦いがあったのでは?

海軍の山本五十六が立てた、あきれた作戦によって、こうなりました。
ハワイ作戦の後、発令されたミッドウェー作戦。作戦範囲は北は
極寒の孤島から、南は赤道の密林まで及びました。

風呂敷を広げすぎたものだから、ニューギニアにしても「米豪遮断」
という目的で守備しなければならなくなりました。大本営・作戦部の
誰一人、ニューギニア地形に詳しい者など、いないのに。

もともと帝国陸海軍。アメリカと戦争するとしても、フィリピンか小笠原で
待ちうける作戦。向かってくる米艦隊を優秀な航空兵力、水雷部隊で、
漸減させ、ヘトヘトにしてから、戦艦大和、武蔵、長門、陸奥の砲門で、
こっぱみじんにすること。明治期・以来、このための猛訓練でした。

ところが、山本の愚かなハワイ作戦、ミッドウェー作戦により、全て台なし。
日本軍は戦線を広げ、逆に、米軍は適当な時に、適当な場所で、適当な
方法で攻撃できるようになりました。戦線が広がりすぎたため、
主導権が攻める側に、移ったわけです。

日本軍の補給は続かず、兵士は飢えと熱帯病でバタバタ倒れます。
そして作戦の杜撰。ニューギニアでは、日本軍はニューギニア北端に
上陸し、南端ポートモレスビーまで行軍、そこで米豪軍を撃滅する、
という作戦でした。

けれど、大本営・作戦部。地図を見ただけで、この作戦を決定。
ニューギニアの北端と南端の間には、実際には3000m級の山脈。
日本兵は、それを横切る形で踏破しなくては、なりません。

作戦部は地図の距離から糧秣、弾薬の量を計算。それだけ持たせて、
送りだしました。当然、行軍の途中で糧秣が尽き、日本兵を、
飢えと病いが襲いました。

フラフラになって、やっとポートモレスビーまで到達した日本軍。
待ちかまえる米豪軍の近代兵器の前に、なすすべありません。
無意味な突撃死、そして自決。それらを遥かに上回る餓死、病死。

こんな愚かな戦いをしても、大本営には、全く反省なし。ひたすら責任回避。
負け戦は、これ以降、何度も繰り返されました。上層部が無能では、
現場の兵士がいくらガンバっても、勝てません。
現代の潰れる企業にも、言えることです。

こんな戦いを戦後、知らされ、日本人が戦争はこりごり、軍人は悪だと
思ったとしても、ムリないことでしょう。そんな時、GHQが提示した
平和憲法。日本人は、とびつきました。

戦後・七十年。日本人は、大東亜戦争のトラウマを引きずったまま。
国際社会では、武力なき国など、侮られるだけ。けれど、それが今の
日本人には、どうしても分かりません。自国が非武装になれば、相手国も
信頼してくれて、戦いなど起きない、という平和ボケが、国民を席巻。
安保に関する、国際的な常識を口に出すことすら、できません。

もみじ3
autumn red

沖縄の戦い

沖縄の戦いといえば、牛島満(うしじま みつる)中将が有名ですが、
実際に戦いを仕切ったのは、八原博通(やはら ひろみち)大佐。
八原大佐が立案し、牛島司令官、長参謀長が同意する指導体制。

無口な牛島司令官には、何も言わなくても、テキパキ仕事をこなし、
統率力あった八原大佐は、ありがたい部下だったでしょう。

昭和二十年、硫黄島が陥落し、米軍の次の攻撃目標は、沖縄。
大本営は三個師団・守備を決定。三十二軍が設立されました。

精鋭部隊を沖縄に移動。県民も協力し、兵員配置、陣地構築はドンドン
進捗。士気は上がりました。八原大佐は後年、この時の状況を
「なすべきことが、当たり前になされていく状況」と回想。

ところが、戦いも間近という時に、大本営から急に、最も強い師団、
一万四千名を台湾へ移動する、という命令。三十二軍・司令部は
耳を疑いました。

地図を開いて、米軍侵攻ルートを辿れば、台湾上陸などありえない
ことが、誰にでも分かります。ところが戦争末期の大本営。
完全に、頭がいかれてました。

士気は落ち、作戦も最初から練り直し。もし、あのまま三個師団で
守備してれば、沖縄の戦いは実際よりも、よほど日本軍に有利となり、
六月末の陥落などなく、恐らく八月の終戦まで、もちこたえただろう、
というのが八原大佐の、戦後の見立てです。

沖縄の戦いについて、米軍の圧倒的物量の前に、日本軍の竹槍部隊が
突撃して負けた、みたいな書かれ方がありますが、とんでもない。米軍も
補給が続かなかったり、作戦に失敗したりで、しばしば後退。米軍の
評価では、沖縄の戦いは、硫黄島の戦いと同じく、日本軍は
善戦した、となってます。

鉄血勤王隊など、応集兵が戦線に立ったのも、一個師団の削減が
原因。八原大佐が言うように、三個師団で戦ってれば、県民の協力も
あり、戦いの経緯は、全く違ったものとなったでしょう。

一個師団・移動を命じた大本営・作戦部。ニューギニア、ガダルカナルから
始まり、一連の無謀な作戦を次から次へと発令し、あたら若い兵士を
死なせました。そして責任も取りません。私たちが今、
真に糾弾すべきは、大本営です。

一個師団を引き抜かれ、弱体化した三十二軍。「戦略持久」に転換。
それしか方法がありませんでした。三つあった飛行場のうち、北、中の
飛行場を放棄。読谷への上陸は、ほぼ確実でしたから、上陸後、南へ
引きつけるだけ引きつけ、司令部があった首里城の手前で叩く作戦。

硫黄島の戦いとも、似てます。八原大佐も、硫黄島の栗林中将と
同じく、アメリカ駐在経験があり、米軍の実力を熟知。
合理的思考の持ち主でもありました。

マキン、タラワ、ペリリュー、サイパン・・・こんな島々でも、穴を掘って
持久戦を取れば、米軍侵攻は、もう半年は遅れたでしょう。

ところが、サイパン守備隊の司令官・南雲中将。地下壕建設など、
思いもよらず「わしは、どうせ、ここで死ぬんだから」と従軍看護婦と
毎日、テニスの日々。司令官がこれでは、勝てるわけありません。

昭和二十年・四月一日、米軍は予想どおり、読谷から上陸。日本軍の
抵抗は、ありません。それまでの戦いで、上陸地点こそ、最も危ないと
死を覚悟した米兵は拍子抜け。「これはエイプリル・フールか?」
というジョークも出ました。

大本営は、沖縄の戦いを前に菊水作戦を発令。三月末から連日、鹿児島の
基地から沖縄の米艦船に向け、航空特攻。四月九日には、水上部隊も、
特攻出撃。戦艦大和が九州沖で沈みました。この時、大和には、
食料、弾薬だけでなく、薬品、生理用品、紙幣まで積みこまれました。

持久戦を続ける三十二軍。米軍侵攻を許しました。けれど空、海で繰り
広げられる特攻作戦。そして、大本営からの督戦。大本営が師団を
引き抜いたせいで、取らざるをえなくなった持久戦。なのに、
その大本営が督戦とは。

三十二軍・司令部では、このまま、たてこもるか、督戦にしたがって、
うって出るか、激論が戦わされました。八原大佐はもちろん、当初の
方針どおり、持久戦を主張。あと二週間、待てば、米軍が目標地点に
おびき出され、沈黙してた日本軍の砲弾が炸裂。米兵の頭上に
鉄の雨を降らせるはずでした。

けれど、軍は督戦されれば、主戦論に傾くもの。結局、五月になって、
三十二軍は攻勢に転じました。日本兵が地上に登場。死を恐れず、
突撃してくる日本兵に、米兵は驚愕し、狂人が続出。米兵の戦死者も
五千名に。米軍は沖縄に最新鋭の戦車を投入しましたが、その57%は、
日本軍によって破壊されました。

とはいえ、方針変更した準備不足は否めず、日本軍はジリジリ後退。
五月末に首里城が陥落。司令部は島南端に移動。同伴する県民。
「軍と一緒にいた方が安全」という意識が、強くありました。

首里城・陥落までの県民・戦死者は、およそ二万名。しかし、司令部と
ともに島南端まで移動した県民が多かったため、多くの悲劇を生みました。
五月末から一カ月で、県民の戦死者は十二万名に。一カ月で十万名、
平均して一日、三千名の県民が、首里城・陥落後、命を落としました。

六月、米軍・司令官バックナー中将が、前線視察中に、戦死。日本の
狙撃兵が、技量の正確さを見せつけました。大東亜戦争で、米軍司令官が
戦死したのは、この時だけ。復讐に燃える米軍。軍人、民間人の区別なく
殺し始めました。県民・戦死者が累増した原因は、これです。

米兵は民間人にも、平気で発砲。生き残った県民の証言では、
米兵はビールを飲みながら、発砲してきたとか。

そして、沖縄で初めて使われた火炎放射。火炎放射は数十mの範囲に
熱風を広げますから、火に当たらなくても、熱風で肺が焼かれます。
サトウキビ畑に隠れた民間人の多くが、こうして戦死。

六月末、島南端の司令部は、敗北を認めました。牛島司令官、
長参謀長は自決。海軍の太田少将は大本営に打電。

沖縄県民、よく戦えり。後世、特別のご高配を、賜らんことを。

太田少将も自決。八原大佐は民間人に変装、生き残りました。事実上、
沖縄の戦いを指揮し、県民を巻き添えにしながら、生き残った八原大佐に、
戦後、厳しい目が向けられました。八原大佐としては、所与の状況で、
最善を尽くしたのですが・・・

ちなみに、米軍は沖縄の戦いに五十四万名の兵力動員。戦闘部隊は
五万名ほどでしたから、十倍の兵站を準備。海外で戦争する、とは、
こういうこと。安保法案が「戦争法案」と呼ばれましたが、
五兆円の防衛費で、こんなことができるでしょうか?

琉大
Okinawa

ソ連の対日参戦

私が子供の頃、夏休みの今頃、毎朝、午前中に数時間、
NHKで中国残留孤児・身元探しの番組が流れました。

昭和二十年、八月九日、長崎に原爆が落とされた日、ソ連が満州に
侵攻。関東軍・上層部は既に逃げ出し、満蒙開拓団が取り残されました。
残留孤児は、その過程で発生。

満州で威張りちらした関東軍。いざという時、何の役にも立ちません
でした。民間人が近代兵器の矢面に立たされます。そして、やって来た
ソ連兵。その野蛮は、とても、このブログで書ける内容ではありません。

二十世紀の戦争で、民間人暴行が最も野蛮だったソ連兵。
満州だけでなく、欧州戦線のベルリンでも、陥落後、ドイツ女子への
ソ連兵の暴行は筆舌に尽くしがたいもの。その悲惨はブレヒトの
「ブリキの太鼓」にもシッカリ描かれてます。

この野蛮はロシア人特有のもので、明治期の先人たちが、朝鮮半島への
進出を、強迫観念のように主張したのも、ロシア人の野蛮に国民土が
蹂躙されることを、恐れてのこと。江戸期・終わりから、ロシア人の
野蛮は、大方の人が知るところでした。

満州にやって来たソ連兵。男子は抑留、女子は慰みものに。
この時、慰安婦たちが「私たちは、どうせ汚れてるから」と
一般女子の代わりに行ったという「美談」まで残ってます。

ソ連兵ほど、ひどくないにせよ、アメリカ兵が占領期、この日本で、
どんな暴行をしたでしょうか。あるいはベトナム戦争時、ベトナムで、
野蛮の限りを尽くしたのは、アメリカ兵、そして韓国兵。

これらと比べ、なんとか戦場の性を管理しようとした、日本軍の
慰安所。それは、それほど責められるべきでしょうか?

日本人のくせに、慰安所のことを、あれこれ調べて日本人の悪口を
言う反日の研究者、ジャーナリスト。彼らは、慰安所の数百倍も
野蛮だった、ソ連兵の暴行には一言も触れません。

慰安婦問題を、あることないこと取り上げ、世界に向かって吹聴する
反日・日本人。彼らはたいてい、日本共産党や旧・日本社会党の
支持者。ソ連、中国、北朝鮮について、今だ幻想を抱き、
その暗部を見ず、日本の悪口ばかり、世界に発信。
しかも、多くは嘘ばかり。

日本軍の慰安所は、戦場の現実を冷静に見つめ、少しでも悲惨を
減らそうと考え出されたもの。文明的な場所だったともいえます。
慰安婦の中にも、男子が戦場で命を危険にさらしてるのなら、
せめて影から支えたいと志願した女子もいたのです。

慰安婦たちは、圧倒的多数が日本人。そして少数の朝鮮人。朝鮮人・
慰安婦たちが、ホンとは貧しい親によって妓生に売られ、結果的に
日本軍の慰安所に来ただけなのに、日本軍に強制連行されたと、
後で吹き込まれ、そう叫び出し、今の慰安婦問題につながってます。

朝鮮人・慰安婦たちに、そんな嘘を吹き込んだ日本人は、やはり
左翼の弁護士、ジャーナリスト、国会議員たち。そして朝日新聞。
まさに売国奴の面々。

ソ連の対日参戦から、今年で七十年。当時、日ソ中立条約がありましたから、
明白な条約違反。ソ連に関しては、日本は侵略された側。けれど、日本政府。
戦後、北方領土交渉もあって、ソ連に侵略の事実を突きつけたことは、
一度もありません。

ソ連兵の野蛮は、日本人がもっと積極的に発信していくべきです。
辛い作業ですが、史実です。それを積み重ねていけば、日本人が今、
非難されてる慰安所のホンとの意味も、浮かび上がるでしょう。

慰安所が女性の人権無視など、偽善的な空論。女性の人権を真に
無視したのは、満州の猟奇的なソ連兵。日本国内で暴行を繰り返した
アメリカ兵。ベトナムで何万人の混血児を生み出した韓国兵。
韓国人には日本軍の慰安婦問題など、取り上げる資格など、
全くありません。

それらを無視し、女性の味方と言わんばかりに、慰安婦問題を語る
日本の左翼。何かあれば、すぐに国会前に押しかけ、どんちゃん騒ぎを
やってるのも、彼ら。それを裏から組織する日本共産党。
私たちは、その現実をシッカリ見つめるべきです。

水平線
Geschichte

米内光政

日本史の先生には米内ファンが多いようです。理由を聞くと
「平和主義者だから。」確かに米内光政、山本五十六、井上成美は、
帝国海軍の平和主義者・三人組として、小説でも描かれました。

この三名は三国同盟に最後まで反対。米内は終戦時、
御前会議でも講和を主張。一見、平和主義者です。

けれど、その他の点では、米内はむしろ戦争惹起の方へ、いつも
動きました。彼の動きをつぶさに見るなら、平和主義者でないどころか、
「国賊」とでも呼びたくなる軍人だったことが、分かってきます。

林内閣で海相になった米内。第一次・近衛内閣、平沼内閣でも留任。
海軍行政を仕切りました。この時、起きたのが盧溝橋事件、
そして第二次・上海事変。

米内は盧溝橋事件では「陸軍のことだから」とノー・コメント。けれど、
上海で海軍士官が殺害されると激昂。陸戦隊を派遣し、
本格的な戦闘状態に。

海軍の介入により、それまで「北支事変」と呼ばれた戦いが
「支那事変」に拡大。日本は泥沼に、はまっていきます。

米内は翌・昭和十三年、近衛首相を突きあげ「国民党政府を相手とせず」
という声明を出させました。これによって、事変の早期収拾は不可能。
この動きの、どこが平和主義者でしょうか。

米内は昭和十五年に組閣しますが、陸軍の妨害にあって半年で瓦解。
その後、首相経験者としての発言力は隠然たるもの。その言動には
注目が集まりました。けれど米内。海軍が対米戦争へと進む過程を
傍観。三国同盟には反対しましたが、対米戦争には終始、無言。

そして対米開戦。日本はガダルカナルの戦い以降、劣勢に回り、
昭和十九年・六月、絶対国防圏の要、サイパン島が陥落。
指導部はハッキリ敗戦を意識しました。

サイパン島・陥落を受け、東條内閣は倒れ、後継内閣をどうするか、
という話になりました。後継内閣は敗戦処理内閣となることは、明らか。
しかも、対米戦争の大部分は海軍の所管だったわけですから、
米内が再び登板し、命を賭して講和に動きだすべきところ。

ところが、米内。平和主義を発揮する絶好の時、再登板を固辞。
結局、いかつい顔でドスがきく以外、ほとんど取り柄のない
小磯国昭が組閣。戦争はダラダラ続きました。

小磯内閣で、海相となった米内。やはり講和に動くわけでもなく、
時局悪化の成り行きを傍観。終戦前の御前会議で、講和案に
賛成した、だけにとどまりました。

しかも、米内。昭和二十年・八月九日、ソ連参戦、長崎・原爆投下を
耳にした時、「これは天祐だ」と漏らしました。天祐とは「神の助け」。

もちろん戦争を終わらせるための天祐と言いたかったのでしょう。
けれど満州、長崎の地獄に思いを致すことなく、それを神の助けと
呼ぶこと自体、この軍人政治家の本質。

講和に反対し、戦争続行を主張した阿南・陸相。阿南は終戦直後、
「一死をもって謝し奉る」と遺言を残し、割腹して果てました。
けれど自死の直前、阿南は酒を呑みながら、
側近に「米内を斬れ!」と言いはなちました。

阿南は真意を語らず、割腹。この言葉の意味も、曖昧なまま。
けれど、阿南。一見、紳士風で平和主義者の米内に、表の顔とは
全く違う真相を見たのではないでしょうか。そもそも対米戦争・勃発に
米内が関与し、開戦後も、戦局悪化するよう仕組んだ証拠を
掴んでたのでは?

ここまでくると、憶測。断定はできません。けれど、米内は平和主義者
という一般流布したイメージが、全く間違いであることは、確か。
米内については、今後、さらなる史料発掘で、真実が
見えてくるかもしれません。その時を待ちましょう。

海
navy

硫黄島の戦い

「いおうとう」と読みますが、アメリカ人はなぜか「いおうじま」。
小笠原の南、遮蔽物のない、硫黄でできた島。生卵を二時間、
埋めておけば、ゆで卵になる島。

少し掘れば、硫黄臭気がムンムン。そして熱。さながらサウナ。
そんな場所に地下10mの地下壕を張りめぐらし、アメリカ軍を迎え
撃とうとした将軍がいました。栗林忠道(くりばやし ただみち)中将。

栗林中将はアメリカ勤務経験があり、その国力を熟知。
まともな戦いでは勝てないと判断。地下壕にこもることを決意。
戦車まで、地下壕に入れました。

栗林中将は安全な小笠原から指揮することもできましたが、
あえて硫黄島に赴任。兵士と運命を共にする覚悟。
末端兵士も奮い立ちました。

この頃、職業軍人より、徴兵で集められた兵士の方が多くなってました。
この前まで学校教員、役所職員、地方店主だった者たちが、
動員されてきたわけです。その数、二万一千名。

戦前のロサンゼルス・オリンピック馬術で、金メダルを獲得した
西竹一・大佐も、赴任。西は男爵だったことから「バロン・ニシ」
と呼ばれ、アメリカ軍も一目おく存在。

さて栗林中将。突貫工事で地下壕を30㎞掘る計画を立てました。
硫黄臭気と熱で、一人で数分間しか掘り続けることができません。
けれど、そこは日本兵の強靭な精神力。20㎞は完成。
そしてアメリカ軍の到来。

昭和二十年・二月。アメリカ軍は硫黄島に三日三晩、猛烈な
艦砲射撃。空からの爆撃も。その威力はすさまじく、島の形が
変わるほど。けれど地下10mに潜む日本兵に、損害は、
ほとんどありませんでした。

満を持して、上陸してきたアメリカ軍。五日で落とす計画。
じっと待機してた日本兵に、栗林中将からの攻撃命令。
地下に隠してた日本軍の大砲が、一斉に火を噴きました。

突然の攻撃。上陸したばかりで、砂浜に足を取られるアメリカ兵は、
右往左往。上陸戦は迎え撃つ方が有利。栗林中将は、この基本を
シッカリ守りました。バタバタ倒れていくアメリカ兵。

日を経るにつれ、アメリカ兵・犠牲者は累増。それはアメリカの
新聞でも伝えられ、大本営も硫黄島の健闘を知ることになりました。

大本営は戦いの途中ながら、栗林中将を大将に昇格。戦いの前、
栗林中将から掘削機をもっと送ってほしい、と要請され、ろくすっぽ
答えなかったにもかかわらず、大本営は今頃、こんな態度。

業を煮やしたアメリカ兵。日本兵がこもる地下壕に石油を
流しこみ、火炎放射する、という戦法を実行。いかにも
アメリカ人らしい、残酷な戦法。

日本兵の精神力でも、こんなことをされては、ひとたまりもありません。
地下壕に響く、日本兵の号泣と悲鳴。アメリカ兵は、ほくそ笑みました。

最終的には、物量勝るアメリカ軍が帝国陸軍を圧倒。けれどアメリカ軍・
死傷者、二万九千名。帝国陸軍は、栗林中将をはじめ、玉砕。戦死者・
二万一千名。アメリカ軍・死傷者が、帝国陸軍・戦死者を上回りました。
帝国陸軍が太平洋で初めて善戦した戦い。

バンザイ突撃を禁じた栗林中将。「一人十殺」を末端兵士に徹底。
そして元教員や元店主の兵士が、その命令を忠実に実行。
帝国陸軍の強さ、日本人の強さを、アメリカ人に
見せつけた戦いとなりました。

水平線
horizon

広田マリク会談

昭和二十年に入ると、日本の諸都市が空襲にさらされ、誰の目にも
敗戦は明らかでした。けれど、軍人政治家の誰ひとり、戦争を
やめよう、と表立って言う者は、いませんでした。

とはいえ、外務省を中心に和平工作が秘密裡に始まり、ソ連を
仲介国として講和しよう、という案が上がりました。日ソ間には
中立条約があり、この条約にすがったわけです。

当時、不戦条約や中立条約など、破るために結んでたようなもの。
独ソ不可侵条約が、その典型。日ソ中立条約にしたところで、
日本は締結後、満州で大規模な関特演を行い、今にも侵攻する
構えを見せました。ソ連がドイツに攻めこまれた昭和十六年。

四年後の昭和二十年、ソ連はヤルタ会談にしたがって、
ドイツ降伏後、日本に侵攻することを英米首脳と約束。
ソ連は日本との戦争に動いてたわけです。

モスクワの日本大使館からは、ドイツ降伏後、ソ連が西部戦線から
東部戦線へ、シベリア鉄道を使って、戦車、武器を大量に
移動しつつあるという報告が連日、東京に打電。

けれど、東京の本省。そんな現地報告は無視。ソ連なら、なんとか
してくれるはず、という希望的観測を抱き、和平工作。
そして、行われた広田マリク会談。

外務省・出身で、首相も務めた広田弘毅(ひろた こうき)。
モスクワ大使の経験もありました。その広田が、ソ連・駐日大使
ヤコフ・マリクに和平工作を持ちかけました。マリクの疎開先、
箱根・強羅ホテルに、広田がわざわざ面会にいき、打診。

マリクは外交官。愛想よく広田を迎えました。けれど、ソ連の方針を
知らぬはずありません。聞くだけ聞いて、モスクワに報告。ソ連・指導部は、
日本政府の虫のいい和平工作を、せせら笑ったでしょう。
当然、黙殺。耳を貸すはず、ありません。

当時の情勢では、ソ連が講和を仲介してくれるなど、あり得ない、
とすぐに分かるはず。けれど、潰れかけた組織は、こんなもの。
現実が見えず、その時の気分しだいで、自分の希望的観測に
現実を合わせようとします。

国家でも、企業でも、現実が見えなくなったら、終わり。
トップが現場の意見を聞かず、トンチンカンな指示を出し続け、
いずれ破綻。現代でも、そんな企業を、私たちは、
いろんな場所に見つけるでしょう。

まだ開明的と言われた外務省でも、この程度。時間を無駄にする
うちに、沖縄戦は、ドンドン激化。本土空襲の犠牲者も累増。

軍人の多くは「本土決戦」「一億玉砕」を叫び、政治家は、何も
言いだせませんでした。ついに八月九日、長崎・原爆投下と
同じ日、日本は和平工作を依頼したはずのソ連によって、
満州に攻めこまれます。

満州では、地獄のような阿鼻叫喚。この時になっても、
軍人も、政治家も、誰も無策の責任を取りませんでした。

水
water

マリアナ沖の七面鳥撃ち

昭和十九年・六月、サイパンの戦い。サイパンは明治期、帝国国防方針を
策定して以来、海軍が「アメリカと戦争するなら、ここ」と決めた軍事基地。
物流拠点でもあったことから、二万名ほどの民間人もいました。

迫りくるアメリカ機動部隊。ここで迎え撃ち、撃滅。有利な条件で
講和にもちこむ、というのが大本営の考え。いずれにせよ、
ここで雌雄を決することは、政府、軍・首脳の一致見解。

日本からは第一機動部隊が出撃。司令官は小沢治三郎(おざわ 
じさぶろう)中将。空母・大鳳(たいほう)、戦艦・大和をはじめ、
堂々たる陣容。航空機も五百機、動員。艦爆・彗星、艦攻・天山という
新型機を導入。まさに乾坤一擲の戦い。

この戦いで、小沢中将は「アウトレンジ戦法」を導入。日本の航空機が
アメリカの航空機と比べ、航続距離が長いことを利用。相手が
飛び立てない地点で発艦させ、一方的に攻撃する作戦。

この作戦の成否は、こちらは行って帰ってこれるが、相手はムリという
地点まで間合いを詰め、ドンピシャのタイミングで発艦できるかどうか、
にかかってます。索敵が最重要課題。小沢中将は、何機もの
索敵機を飛ばし、アメリカ空母を探しました。

そして、うってつけのタイミングで「敵空母、見ゆ」の電報。小沢中将は、
満を持して、発艦命令。全機、勇躍、マリアナの空に飛び立ちました。
小沢中将の顔には、これで日本を救える、といった表情があったとか。

とはいえ、そう思ったとおりにいきませんでした。アメリカ艦隊は、この時、
正確なレーダーを装備し、中央制御室で情報を集め、全艦隊に即座に
知らせるシステムを構築。日本機の方向、高度は、いち早く知られました。

全機発艦を命じるスプルーアンス中将。F6Fヘルキャット編隊は、
完璧なポジションで待ち構えました。そこに、思い爆弾を抱えた日本機が、
ヨロヨロと飛来。もうなすすべ、ありません。日本機は次々と、火を噴いて
落ちていきます。この光景を見て、アメリカ搭乗員たちは
「マリアナ沖の七面鳥撃ち」。

やっとの思いでヘルキャット迎撃をかわし、アメリカ艦隊・上空に
到達した日本機。今度は、マジック・ヒューズを備えた対空砲火の洗礼。
マジック・ヒューズは、レーダー付き砲弾。目標近くで炸裂し、
たとえ当たらなくても、敵機を落とせるしくみ。これで、
日本機は、壊滅。

結局、六割の発艦機が未帰還。空母・大鳳もアメリカ潜水艦の魚雷を
受けて、大火災を起こし、もろくも沈没。事実上、日本がアメリカに
勝てる見こみは、マリアナ沖海戦で、なくなりました。

この時点で、日本の首脳は、台湾、満州、朝鮮、全てを返し、
多額の賠償金を払ってもいいから、戦争をやめとくべきでした。
その決断が必要でした。

この時点でやめとけば、日本兵・死者は二十万名いかない程度。
多くの悲劇が免れ、日本が戦後、アメリカの従属国になることも、
ありませんでした。けれど、当時の日本、そんな決断ができる
政治家、軍人は一人もいませんでした。

緑
green

三川艦隊のツラギ殴りこみ

ガダルカナルの戦いは、帝国海軍が設営隊を派遣し、飛行場を
建設したことで、始まりました。帝国陸軍は、それに、つきあわされ、
戦力を逐次投入。最初に戦いを始めた帝国海軍にとって、
傍観したままで、いられません。

完成したばかりの飛行場をアメリカ軍に奪われた直後、帝国海軍の
三川艦隊がガダルカナル・ツラギに向かいました。重巡洋艦、
軽巡洋艦を中心とする陣容。

アメリカ海軍はツラギに輸送船団を派遣し、陸揚げを始めてました。
そこに、ふいに現れた三川艦隊。アメリカ艦隊と夜間に遭遇。
大東亜戦争で初めて、夜戦が始まりました。

公式には「第一次ソロモン海戦」と呼びますが、三川軍一(みかわ 
ぐんいち)中将が、軍令部を通さず作戦決行したため、
水兵の間では「三川艦隊のツラギ殴りこみ」。

アメリカ艦隊はレーダーを装備。一方、三川艦隊は目視に依存。
夜戦では、先に索敵した方が有利。三川艦隊は不利なはずでした。
けれど、監視員の正確な情報。闇夜にかかわらず、砲撃、雷撃が、
おもしろいようにアメリカ艦隊に命中。猛訓練の賜物でした。

アメリカ重巡洋艦を四隻、沈めるという、三川艦隊の一方的な勝利。
三カ月前のミッドウェー海戦の復讐を、部分的に果たしました。

とはいえ、この勝利も、手放しで喜べるものではありません。
三川艦隊が、このままツラギ海岸に進めば、アメリカ軍・輸送船団を
発見したはず。それに砲撃すれば、上陸したアメリカ海兵隊は孤立。
日本にとって、圧倒的に有利となります。

もちろん、三川中将は、アメリカ輸送船団の存在は知ってました。
けれど、アメリカ空母・出現の可能性を恐れ、ここで引き返してしまいました。
輸送船団を攻撃しましょう、という具申があったにもかかわらず。

この時、アメリカ軍・輸送船団に砲撃を浴びせれてば、
ガダルカナルの戦いも、全く違った様相となったでしょう。
帝国陸軍とアメリカ海兵隊の戦力が互角となったからです。

全般的に言えることですが、帝国海軍は、アメリカ輸送船団への攻撃を、
全く怠りました。丸腰の輸送船団への攻撃は忍びないという、
奇妙な武士道があったのかもしれません。ハワイしかり、
ソロモンしかり、そしてレイテしかり。

真珠港でも、第三次攻撃を敢行し、修理ドック、燃料タンクを
破壊しておけば、アメリカ機動部隊はアメリカ西海岸から出港せざるを
得ず、ミッドウェー海戦はおろか、太平洋戦局は全く違ってたでしょう。

輸送船団への攻撃の軽視。これが大東亜戦争の敗因の一つ、
そう言って、決して過言ではないでしょう。

夕日
sunset

神風特別攻撃隊

昭和十九年・十月、連合艦隊のレイテ突入を援護するために採用された
攻撃隊。生還を期さない体当たり攻撃。最初は「しんぷう」と呼んで
ましたが、そのうち「かみかぜ」に。鎌倉期、蒙古襲来を
台風で吹き飛ばした故事に、ちなんでのこと。

ハワイ作戦の頃から、海軍航空隊には特攻精神が漲り、
敵艦上空で被弾すれば、そのまま帰投せず、
敵艦に突っこむ機は多くありました。

とはいえ、最初から体当たりを目的とした攻撃隊は、この時が初めて。
立案者は大西瀧治郎(おおにし たきじろう)中将。海軍では航空畑を
歩んだ将軍。先輩の山本五十六、後輩の源田実と共に、
大東亜戦争中、航空作戦を立案、指導。

そんな大西。昭和十九年・秋の時点で、航空機の不足と搭乗員の
錬度不足により、敵艦上空で爆撃、雷撃を実行し、帰ってくることは、
不可能と判断。より戦果を期しやすい特攻攻撃を、
軍令部に認めさせました。

フィリピン・マバラカット飛行場から最初の攻撃隊が出発。
これが神風特別攻撃隊。隊長には、士官学校を出た関行男
(せき ゆきお)大尉。関大尉以下、特攻機に乗りこむ搭乗員に、
大西中将が、別れの盃を注ぐ映像が残ってます。

航空作戦に明るい大西。特攻など「統帥の外道」とシッカリ認識。
けれど、未来ある若者が命を賭して敵艦に突っこむことが、
講和条約、戦後処遇を左右すると判断。

神風特別攻撃隊は、レイテ沖でアメリカ機動部隊を捕捉し、突入。
セント・ローを初め、護衛空母を撃沈。アメリカ軍を混乱と恐怖に
陥れました。大西は戦果を早速、大本営に打電。その内容は、
昭和天皇にも上奏されました。

これ以降、特攻は次々と繰り返され、志願者も続々、現れました。
どっちみち生きて帰れると思ってなかった当時の搭乗員。
どうせなら、戦果の期待できる特攻に参加した方が、
男の花道という雰囲気がありました。

護衛空母だけでなく、正規空母フランクリンも特攻で大破。
沈没こそ免れましたが、数百名のアメリカ水兵が死傷。

「百年経っても、知己は得られないかもしれない」と漏らした大西。
けれど、昭和二十年・春の沖縄戦では、特攻のみで戦うことを決意。
沖縄に殺到するアメリカ軍艦に、鹿屋の海軍基地から、
連日、特攻機が飛び立ちました。

陸軍も特攻攻撃を採用し、知覧の陸軍基地から出撃。
知覧の特攻記念館を訪問し、出発の模様を学んだ人も、
少なくないでしょう。

特攻の半年間、命中率は16%。三千機を出撃させれば、
五百機は命中する計算。決して低い命中率ではありません。

とはいえ特攻。いくら戦果あっても、若者に死を強要するわけ
ですから、むごい作戦に変わりありません。しかも、時経つにつれ、
死ぬことが自己目的化し、離陸できるだけの搭乗員を練習機に
乗せて送りこむことすら、ありました。もちろん、戦果など
期待できません。

終戦の日、大西は自宅で割腹自殺。介錯を断り、苦しんだ挙句、死亡。
特攻立案者の自分。せめて若者の苦しみを共有しなければならないと
思ったのかもしれません。

人命を軽視した帝国陸海軍。それを象徴する特攻。決して
美化してはいけません。もし今、日本軍を反省するなら、南京大虐殺、
沖縄・民間人虐殺といった、ありもしない大嘘ではなく、エリート軍人の
非道、冷血をこそ、問題にすべきでしょう。

それを振りかえれば、そうした冷血は、現代の役所、企業にも、
形を変え、脈々と受け継がれ、多くの失敗と苦しみを
生みだしてることに気づくはずです。

夏の湖
summer lake

栗田艦隊の反転

昭和十九年・十月、帝国海軍がアメリカ海軍と繰り広げた死闘、
レイテ沖海戦。帝国海軍は、保有艦船のほぼ全てを投入。
アメリカ海軍に一矢報いて、講和につなげようと企図。

中心艦隊は栗田健男(くりた たけお)中将、率いる栗田艦隊。
戦艦大和、武蔵、長門を抱え、レイテ湾を目指しました。
レイテ湾・停泊中のアメリカ輸送船団を撃滅する任務。

空母を中心とする小沢艦隊が北から、戦艦、駆逐艦を中心とする
西村艦隊が西から、フィリピンに近づきつつありました。

小沢艦隊、西村艦隊は事実上、おとり艦隊。二艦隊でアメリカ海軍を
引きつけ、ガラ空きになったところを、栗田艦隊がレイテ湾に
突入する、という捨て身の作戦。

捨て身と言えば、この戦いで、初めて神風特別攻撃隊が出撃。
250㎏爆弾を抱えたゼロ戦が、アメリカ軍艦に体当たりする、
という前代未聞の戦法。

西村艦隊は早期に全滅。小沢艦隊もアメリカ艦載機の猛攻撃を
受けました。ただし、おとり役割は達成。この時、レイテ湾・付近には、
アメリカの脆弱な護衛空母群しか、いませんでした。

栗田艦隊は武蔵に集中攻撃を受け、武蔵は沈没。けれど他艦に
ほとんど損害はなく、レイテ湾への進撃を続行。そして、この時、
大和はアメリカ護衛空母群を発見。一度も使われなかった
大和の主砲が、ここで初めて火を噴きました。

長門や他艦も、次々と主砲発射。やっと猛訓練の成果を発揮できる。
大和・乗組員の中には、嬉しさで泣きだす者も。

当時、帝国海軍は着弾をハッキリさせるため、軍艦ごとに着弾色を
付けてました。赤、青、黄・・・色とりどりの砲弾が、アメリカ艦隊めがけて
炸裂。大和の主砲を浴びれば、護衛空母など、ひとたまりもありません。
数隻が、すぐに沈み始めました。

この時、アメリカ海軍・主力は、北の小沢艦隊を日本の主力と考え、
殺到。小沢艦隊は、空母を全て沈められました。けれど、飛行機を
搭載しないカラ船。小沢中将は、おとり作戦が成功したことを、
大和に伝えるよう、何度も命令を出しました。

歴戦の猛者・小沢治三郎(おざわ じさぶろう)中将。この時、空母と
運命を共にするつもりでした。しかし、帝国海軍には、有能な提督が
枯渇。部下が総がかりで止め、最後は小沢中将を数名で運び、
沈みゆく空母から、脱出させました。

放せ。わしの唯一のわがままを、させろ。

小沢中将は、手足をばたつかせ、部下にそう言ったとか。
そして栗田艦隊。護衛空母群への攻撃後、当初の目的地・
レイテ湾は目前。あとは停泊中のアメリカ軍・輸送船団に主砲を
浴びせれば、フィリピンに上陸したばかりのアメリカ軍は孤立。

これこそ、レイテ沖海戦の主目的。マッカーサーは後に、この時を
振りかえって「勝利は、栗田提督の手に転がりこもうとしていた」
と記しました。

ところが、栗田艦隊。レイテ湾を目前にして、反転、北上を始め、
日本への帰途についてしまいました。護衛空母群を全滅させる
わけでもなく、レイテ湾に突入するわけでもありませんでした。

小沢艦隊から、おとり成功の電文が届いておらず、栗田中将は、
付近にアメリカ軍・主力が存在する、と恐れたのでしょう。武蔵を失い、
西村艦隊も全滅した今、大和まで失えば元も子もない、という判断。
とはいえ栗田中将は、戦後、この反転理由について、最後まで、
口を開かないまま、世を去りました。

結局、大和のレイテ湾・突入がならず、西村艦隊、小沢艦隊も全滅。
戦艦は大和、陸奥、あと数隻の駆逐艦のみが残りました。

一方、最初に実行された特攻攻撃。その戦果は、みごとなもの。
数機で空母を複数、沈めました。大和以下、戦艦が総がかりで
挙げた戦果を、数機のゼロ戦が達成したわけですから、
帝国海軍・首脳は括目。

以降、航空特攻が帝国海軍の主作戦となり、大和すら、
翌年、特攻出撃。九州沖で沈められました。

海
navy

インパール作戦

牟田口廉也(むたぐち れんや)が立案した作戦。昭和十九年・三月のこと。
ビルマに軍を展開し、イギリス軍を破ってインド東部・インパールまで侵攻。
そして、チャンドラ・ボースと手を結ぼうという、壮大な作戦。けれど内実は、
ほとんど白昼夢。2000m級の山岳地帯を、踏破するというのですから。

牟田口は盧溝橋事件の時、現地で連隊長だった軍人。盧溝橋事件が拡大し、
支那事変、大東亜戦争となったわけですから、大東亜戦争の張本人。
そんな軍人が出世するのだから、帝国陸軍は末期症状。

インパール作戦の時、牟田口は第十五軍・司令官。作戦立案できる立場に
ありました。そして出てきたのが、インパール作戦。兵站(ロジスティクス)を
全く無視した作戦だったため、参謀は全員、反対。

牟田口は反対する参謀を「敢闘精神がない」「病気」という理由で、
次々に更迭。参謀には兵站の専門家もいたのですが、作戦に反対し、
やはり更迭。現地司令部はしだいに、何も言えない雰囲気に。

ビルマには青々と緑が茂っているのに、糧秣が足りないとは何たることか!

牟田口の言葉に、部下は二の句が継げませんでした。しかも、
そんな作戦を大本営は了承。十万名の兵士が動員されました。

現地の状況を考えず、地図だけ見て作戦立案。弾薬、糧秣は敵を倒して、
そこから奪うという信じられない精神。ロジスティクスも何もありません。

案の定、作戦は弾薬不足、糧秣不足で、すぐに滞りました。牟田口は天長節
(天皇誕生日)までに戦果を挙げようと焦りましたが、戦局は悪化する一方。
負けがこんでくると、牟田口は現地司令部に作った神棚に向かって、
大声で祝詞(のりと)を上げ始めました。

バカな指揮官、敵より怖い。

末端兵士は、そう囁きあったとか。雨季がビルマに到来。日本兵は、
どうすることもできず、飢えとマラリア、赤痢でバタバタ倒れました。
結局、部下の師団長が独断で撤退を開始し、インパール作戦は破綻。

しかも七月には牟田口ら指導部もビルマを後にし、戦場には、
末端兵士が撤退も降伏も許されず、ほったらかされました。

今、振り返って、帝国陸海軍の最大欠点は、負けを想定せず、
戦いの後始末を考えなかったことです。負けた時、その咎めは
末端兵士に押しつけられ、無意味な死が、あちこちで大量発生。

負けた時には撤退を命令し、それでもダメなら降伏を命令してこそ、
司令官。帝国陸海軍には、そうした戦いの作法が全くありませんでした。
それ故、負けた時、末端兵士もどうしていいか分からず、
各地で無意味な悲劇が繰り返されました。

現代の原発にも言えることでしょう。安全神話を疑うことが許されず、
時代遅れの原発を放置。危ない可能性があるのではないか、という
議論そのものが封印されてしまいました。そして起こった東日本大震災。
メルト・ダウン。日本人の本質を見る思いです。

ビルマに取り残された部隊は、銃剣と手榴弾だけで突撃を命じられました。
もちろん、玉砕。ガダルカナル、ニューギニアで起きたこと、後にフィリピン、
沖縄で起きることが、ここでも繰り返されました。戦死者は七万名を超え、
四万名は餓死、病死。

「白骨街道」と呼ばれる、死体累々の道ができました。撤退兵士は、
白骨を辿れば、補給基地に辿りつける、と励ましあったとか。
大岡正平が「野火」で描いたのは、まさにこの世界。

戦後、牟田口は罪に問われることもなく、生き恥をさらし、あろうことか、
訪問者にはいつも、大声で「インパールは勝てる戦いだった。部下の抗命で
負けた」と言い張りました。自分の葬式でも、子孫に「インパール作戦は
間違ってなかった」というビラを配らせたとか。

こんな真実を戦後、日本人は知らされ、軍隊は、なんとヒドイ場所だろうと、
つくづく思ったわけです。今に続く戦争アレルギーは、こうして始まりました。
インパール作戦の愚かさと悲惨を振り返る時、そのアレルギーは、
当然だと言えなくもありません。

傘
tradition

ガダルカナルの戦い

山本五十六の愚かな用兵により、ハワイ作戦、ミッドウェー作戦の後、
帝国海軍は、北はアリューシャン列島から南はソロモン諸島まで、
広大な地域を防衛することになりました。

ソロモン諸島・東端、ガダルカナル島。米豪・遮断を目的として、
海軍設営隊が飛行場を建設し始めたのは、ミッドウェーで
負けた後の昭和十七年・八月。

アメリカ軍は、いち早く、日本軍の動きを察知。飛行場が
できあがった頃を見計らって、攻撃。飛行場を奪いました。

この飛行場を奪還せんと立案されたのが、ガダルカナル作戦。
大本営は当初、アメリカ軍を侮り、千名ほどの部隊を投入。
これでなんとかなる、と考えました。

この部隊こそ、一木部隊。一木清直(いちき きよなお)大佐率いる、
帝国陸軍きっての精鋭部隊。ミッドウェー上陸作戦で活動する
予定でしたが、ミッドウェーの敗北により、
こんな場所に移されてきました。

ガダルカナル島に到着して、一木大佐、以下、将兵は愕然。
何も分からない場所に、ほうりだされたからです。部隊は
密林を切り開き、行軍。糧秣はみるみる減っていき、
事実上、孤立。

頼みの輸送船はアメリカ軍機によって、簡単に沈められ、
輸送船を援護すべきゼロ戦隊は、ラバウルから遠すぎて、
役に立ちません。ガダルカナルみたいな場所に、
前線基地を作ったのが、そもそもの間違いでした。

やっとのことで、アメリカ軍・陣地まで辿りついた一木部隊。
日頃の訓練を発揮せんと、夜襲をしかけました。
帝国陸軍・伝統の白兵戦。

けれど、日本軍の動きを全て把握したアメリカ軍。日本軍・夜襲に
合わせて、猛烈な十字砲火を浴びせました。精鋭の一木部隊は、
次々に斃れ、翌朝、海岸には、累々たる死体が横たわりました。
一木大佐も戦死して、ほぼ全滅。

この報告を聞いても、大本営は慌てず、六千名の部隊投入を決定。
けれど、この部隊も密林をさまよった挙句、アメリカ軍の前に
フラフラ出てきたところを狙い撃ち、撤退。それだけなく、
食糧不足、伝染病が日本軍に蔓延。

ようやく大本営は重大さに気づき、作戦参謀を現地に送り、
一万名を超える兵力を投入。けれど規模が大きくなっても、
やってることは、やはり同じ。無謀な行軍と白兵戦。

半年ほど経った昭和十八年・二月、大本営は、ついに撤退を決意。
「転進」と称して、兵を引き上げました。ガダルカナル作戦で、
唯一、この撤退だけは成功裏に実行されました。

戦闘死より、餓死、病死が遥かに上回った、杜撰なガダルカナル作戦。
しかし、大本営の誰一人、責任を問われることは、ありませんでした。

エリート軍人たちは、将棋の駒を動かすように、部隊を移動させ、
自分もよく分からない地域で、場当たり作戦を発動し、悲惨な結果が
出ても、知らん顔。責任を取らずに、適当な言葉で、お茶を濁しました。
この冷血。この非道。

現場の将兵は、たまったものではありません。いかに勇猛果敢でも、
糧秣なければ動けず、弾に当たれば死ぬというもの。

たとえ斃れても、それで祖国が救えるなら、そして有益な戦いなら、
当時の日本人も、今の日本人だって、それなりに納得するでしょう。

けれど無責任トップによって強制される、無意味な死。
戦争に勝てれば、まだしも、最終的にはボロ負け。

エリート軍人の無能、人命軽視が、生還者からそれとなく伝えられ、
誰もが経験した本土空襲の地獄を見るにつけ、日本人の心に、軍=悪、
軍人=ヒドイという意識が、世代を超えて、澱(おり)のように沈殿。

日本人は現在、自分の国は自分で守る、という当たり前の安保議論すら、
できません。アメリカ軍に守ってもらってる状況にも、疑問を持たず、
しかも、そのアメリカ軍に出ていけと言う始末。

最近では、倒錯も甚だしくなり、相手を攻撃するくらいなら、
倫理を守って死んだ方がいい、とまで言いだす護憲派。

こんな護憲派への支持がやまず、現在も安保法制に六割の国民が
反対表明するのも、今だガダルカナルの記憶が、日本人の中に、
集合的に残ってるからです。

部下を人とも思わず、すぐに決死隊を編成し、肉弾戦や特攻攻撃を、
平気で命じたエリート軍人。死にゆく若者たちを前に「オレも後から行く」と
言いながら、終戦時、自決したエリート軍人など、ほんの僅か。

残りは生き恥をさらし、それどころか、戦時の醜態を忘れ、
戦後、国会議員になるエリート軍人も一人、二人ではありませんでした。

エリート軍人が、もっと賢い作戦を立案してくれてたら、そして
末端兵士に有益な死を与えてたら、そして国民に爆弾が
降り注ぐ前に、戦争をやめる決意をしてくれてたら・・・

たとえ占領軍に、愚かな憲法を押しつけられても、日本人は数年で、
自らの憲法作成に動いたはず。GHQすら、数年後の改正を念頭に、
日本国憲法を作ったのですから。

他国に作ってもらった憲法を、七十年経っても一字一句、改められない日本人。
邪悪な隣国に何百人さらわれても、何もできない日本人。他国に守って
もらってるくせに、そのことに感謝もしない日本人。挙句に、
軍を持つくらいなら、殺された方がいい、などと言う日本人。

今、ガダルカナルの戦いについて、もう一度、考えてみよう、
と言う日本人は、ほとんどいません。

歩道
July

ミッドウェー海戦

大東亜戦争の中で、日本人として最も悔しい戦いこそ、ミッドウェー海戦。
それまで連戦連勝だった帝国海軍は、ここで進撃をストップ。

昭和十七年・四月、アメリカ・ドゥリットル隊が日本近海まで空母を近づけ、
爆撃機を発艦し、東京を空襲。当時、太平洋の制海権、制空権は
日本にありましたから、アメリカとしては完全に不利な戦い。

東京を爆撃した後、爆撃機は母艦に帰らず、
中国の基地に着陸する、というムリな作戦。

もちろん、東京の被害は軽微でした。けれど帝国海軍・首脳に与えた
ショックは相当なもの。特に、日米開戦に責任があった山本五十六は、
東京空襲を見て、アメリカ機動部隊が健在と確信。
ミッドウェー作戦を発令しました。

ハワイ作戦と同じく、この時も幕僚から反対意見が続出。
けれど山本に押し切られました。作戦担当は黒島参謀。
黒島は奇行で有名でしたが、なぜか山本に気に入られ、
ミッドウェー作戦を立案することになりました。

結果、出てきた作戦は北はアリューシャン列島から、
南はニューギニアに至る大構想。イメージ先行の山本、黒島には、
素晴らしいプランに見えたかもしれませんが、範囲が広すぎて、
作戦目的が、ぼやけました。

ミッドウェー島・攻略と、アメリカ空母・撃滅の、どちらが主目的か、
ハッキリしない作戦。けれど、ここまで日本は連戦連勝。
軍を出せば、なんとかなる、という甘い見通し。

一方、ハワイで主力戦艦を失い、背水の陣のアメリカ。
日本の暗号解読に必死。ようやく、次の攻撃目標は
ミッドウェーと、つきとめました。

海戦では、待ち伏せした方が圧倒的に有利。ドゥリットル隊の
東京空襲で日本人を動揺させ、暗号解読によって、
進路をつきとめ、待ち伏せという頭脳作戦。

主目的がミッドウェー島・攻略なら、戦艦大和を全面に出し、
猛烈な火力で島を砲撃してから、上陸部隊を出せば、
ミッドウェーなど簡単に落とせたでしょう。

けれど帝国海軍。四隻の空母を全面に押し出す布陣。
第一次・攻撃隊は予定通り、ミッドウェー空襲。けれど待ち構えた
アメリカ軍。効果的な対空砲火で阻止。攻撃隊の友永大尉は
「第二次・攻撃の要ありと、認む」と打電。

赤城・司令室では、この電文を受け、それまでの艦攻兵装を、
陸攻兵装に転換。空母は近海にいない、という、これも甘い読み。
偵察機も、遅れて出発。

兵装転換がほぼ完了した頃、遅れて出発した偵察機から、
「敵空母、見ゆ」の電文。赤城・司令室は色めきたちました。
空母を攻撃するためには、陸攻兵装を、再び艦攻兵装に
戻さなくてはなりません。

この時、アメリカ空母から飛び立った攻撃機が、日本空母への攻撃を
始めてました。発艦したゼロ戦隊が、全て撃退。バタバタ落とされる
アメリカ攻撃機を見て、日本の駆逐艦・艦長は、甲板で海戦を
見学するよう、乗組員に指令を出したほど。

とはいえ、赤城・司令室。決断を迫られてました。飛龍の山口少将からは、
陸攻兵装のまま発艦させるべき、という意見具申が、
矢のように届いてました。

ところが南雲長官。再度の兵装転換を命令。現場の整備兵は、
それを聞いて、耳を疑ったとか。南雲は、もともと水雷・出身。
航空戦には素人。それを補うために源田実(げんだ みのる)
航空参謀がついてたはず。けれど、源田もこの時、
再度の兵装転換を主張。

源田は戦後も生き残り、参議院議員まで務めた人物。けれど、
ミッドウェーの致命的な判断ミスについて、
最後まで責任を取りませんでした。

艦攻兵装への転換がようやく終わり、各空母が「風に立て」の
信号を受け、一番機が飛び立とうとした、まさにその時。
ガラ空きになった上空から、ドーントレス攻撃機が
逆落としで、急降下。太陽を背にしてました。

敵機、急降下!

見張り員が声を発すると同時に、いくつかの爆弾が命中。
甲板にズラリと並んだ攻撃機に、次々と誘爆。赤城、加賀、蒼龍は、
瞬時に火だるま。ドーントレス攻撃機は空母以外に、
目もくれませんでした。

ゼロ戦隊が低空で落としてるうちに、上空がポッカリ空いたわけです。
最初に落とされたアメリカ攻撃機は、おとりだった、
とも言えるでしょう。

日本軍は落とされるアメリカ攻撃機を見て、完全に油断し、
二度の兵装転換という、信じられない愚かさを演じました。
海戦史に、不名誉な記録として、ずっと残ることでしょう。

唯一、無事だった飛龍。けれど後に集中攻撃を受け、大破、炎上。
最終的には、味方の魚雷によって沈没。山口少将は、
加来艦長と共に、戦死。赤城の南雲長官は、
やっとのことで駆逐艦に乗船し、生き残りました。

山本・司令長官は遥か後方、大和にいて、部下と将棋を指してました。
日露戦争の日本海開戦で、東郷・司令長官が、最後まで弾丸が飛び交う
甲板に立ったことと比べ、このだらしなさは、なんということでしょう。

ミッドウェー海戦はアメリカ軍の精神力、集中力に、帝国海軍が
ボロ負けした戦い。それまで圧倒的に有利だった帝国海軍は、
これで太平洋の覇権を失います。

海
the Pacific

山口多聞

第三次・攻撃隊、発艦準備、完了!

空母・赤城の司令室に山口多聞(やまぐち たもん)少将から意見具申が
届いたのは、第一次、第二次の攻撃隊の戦果に、将官が全員、
沸き立っていた時。ハワイ作戦は一方的な勝利でした。

けれど山口少将。ハワイにある燃料タンク、そして艦船修理ドックが
無傷であることを見逃さず、第三次・攻撃隊の発艦を、南雲忠一
(なぐも ちゅういち)長官に具申。この時、帝国海軍に、
その余裕は十分にありました。

ワシントンでの宣戦布告・手交が遅れ、ハワイ作戦は騙し討ち。
当時の日本パイロットの腕をもってすれば、アメリカ艦隊の上空に
到達できれば、成功したもの同じ。淵田少佐の有名な「トラトラトラ」は、
第一次・攻撃が始まる直前、発せられました。

ハワイ作戦では、第三次・攻撃については、状況しだい。
第一次、第二次の攻撃が成功すれば、やってみるという予定。
そして大戦果。本来なら、山口少将の具申通り、
ここで第三次・攻撃も敢行すべきところ。

ところが南雲長官は退却を命令。これだけガンバったのだから、
やめようという決断。アメリカ空母が近海にいて、
攻撃される可能性もありました。

ここで山口少将の具申に従い、艦船修理ドックを破壊しておけば、
半年後、珊瑚海海戦で大破したアメリカ空母ヨークタウンが、
その直後、ミッドウェーに出てくることはなく、
その後の戦史も大きく変わったはず。

山口少将はミッドウェー作戦にも参加。空母・飛龍に乗りこみました。
ミッドウェーで南雲・司令部。艦上攻撃の兵装を陸上攻撃に替え、
再び艦上攻撃に替えるという、トンデモナイ失態。

一度目の兵装転換の後「敵空母、見ゆ」の電文を受け取り、
二度目の兵装転換。洋心で、こんなことをしてるうちに、
アメリカ攻撃機がやって来れば、ひとたまりもありません。

ここで山口少将は、一度目の兵装転換で陸上攻撃となった攻撃機を、
そのまま発艦させるよう具申。この具申が通ってれば、日本の攻撃機は
アメリカ空母を沈められなかったかもしれませんが、少なくとも、
味方の空母上で誘爆することも、なかったはず。

山口少将の具申は通らず、二度目の兵装転換がやっと終わり、
日本の四空母から攻撃機が飛び立とうとした、まさに、その時。
アメリカ空母レキシントン、ヨークタウンから飛び立った攻撃機が、
三空母に殺到。味方の攻撃機が誘爆を起こし、赤城、加賀、蒼龍は、
あっというまに炎上。大破。加賀はすぐに沈み始めました。

アメリカ空母の存在を危惧してた山口少将。この時、飛龍を雲下に隠し、
難を逃れました。けれど艦上から三空母の惨状を見て、「われ、今より
航空戦の指揮を執る」という電文を発し、飛龍・攻撃隊に発艦を命じました。

飛龍・攻撃隊はヨークタウンに攻撃を集中。沈没させます。
ようやく一矢報いました。とはいえ、飛龍。もはや援護の航空機なく、
この後、集中攻撃を受け、大破。

ミッドウェー作戦は夜襲も想定してたため、夜、美しい満月が海上に
浮かびました。傾き始め、燃えさかる飛龍・艦上で、山口少将は
総員退去を命じました。そして艦長に向かって。

艦長、今夜は、月でも見よう。

二人で司令室に入り、中から鍵をかけたとか。
飛龍はこの後、日本の潜水艦によって沈められました。

ハワイ作戦でも、ミッドウェー作戦でも、山口少将の意見具申は実に的確。
けれど聞き入れられず、結局、ハワイで勝てても、ミッドウェーで大敗北。
日本はこれ以降、押されっぱなしとなります。

山口少将は独断専行にもかかわらず、その戦いぶりが認められ、
死後、中将に進級。けれど、いくら進級しても、もう彼はいません。
後のマリアナ、レイテで「ここで山口提督あらば・・・」と、
多くの将官が悔しがったほどの名提督です。

水
admiral

山本五十六

やってみせ 言って聞かせて させてみせ
ほめてやらねば 人は動かじ

今は少なくなったでしょうが、戦後、長い間、多くの日本人・経営者の
座右の銘が、山本五十六(やまもと いそろく)の、この言葉でした。

部下思いで知られ、海軍にありながら、航空兵力の価値にいち早く気づき、
機動部隊を世界で初めて駆使した名将。そう謳われた山本の言葉に、
経営者が憧れたのも無理ないでしょう。

東京裁判の結果、海軍・善玉、陸軍・悪玉というイメージが定着。
しかも山本が三国同盟にはずっと反対したことが知られるにつれ、
名将でありながら、冷静な平和主義者でもあった
という評価が広がりました。

とはいえ2000年代になる頃から、こうした評価も変わってきました。
山本はトンデモナイ愚将だったのではないか、と言われ始めたのです。

理由の第一は、ミッドウェーの敗北。作戦範囲が広い割に、作戦目的が曖昧。
帝国海軍は四隻の空母を失い、大敗北。山本は「全ての責任は私にある」と
カッコつけましたが、結局、連合艦隊・司令長官を辞するわけでも、
自決するわけでもありませんでした。

開戦直前、勝算を聞かれ「半年か一年は暴れてみせます」と言った山本。
早期講和の予定でハワイ作戦を策定し、真珠港を攻撃。騙し討ちには
なりましたが、この攻撃は日本の一方的勝利。たいていの日本人は
開戦の臨時ニュースを明るい気持ちで聞きました。

その後、ミッドウェー作戦も成功させ、ハワイ占領した時点で、講和に
持ち込むことを山本は考えたでしょう。けれどミッドウェーの敗北により、
そんな目論見も不可能に。山本が真に国士なら、この時点で、
命を賭して、もう勝てる見込みはないことを上奏すべきでした。

けれど山本は、無謀なニューギニア作戦を決定。半ば自死のように、
ノコノコ出かけていき、機上で攻撃され、戦死。日本の暗号が
解読されてたことを、彼は恐らく知ってた、というのが、
現在、戦史家の定説。

山本は自決する勇気もなく、アメリカ軍に殺してもらった、
というのが、およその真相でしょう。

山本が半ヤケッパチで死んだ後、対米戦争を指揮する将官がいなくなり、
帝国陸海軍は統率の取れない無定見な作戦を繰り出します。
戦争の終え方も分からず、最も悲惨な終戦となりました。
その責任の多くは山本にあります。

情に厚いといわれながら、晩年は新橋の芸者に溺れ、彼女を軍艦に
同乗させようとして、部下にやっと止められた山本。ハワイ作戦も、
ミッドウェー作戦も、そんな精神から発案されました。

ゼロ戦・名パイロットで知られる坂井三郎は、ラバウル作戦の頃から、
母艦パイロットをひたすら戦死させる上層部に疑問を持ったと回想。
山本・司令長官の戦士を聞いても、何の感慨も湧かなかったとか。
目の見える現場の兵士には、山本の実体が
シッカリ見えてたということでしょう。

ハワイ作戦も、ミッドウェー作戦も、周囲は大反対。それにも関わらず、
辞職をちらつかせ、山本は断行。その責任を取らないまま、
体面だけ保ってニューギニアで戦死。
その葬儀は国葬となりました。

同じアメリカと戦争するにしても、焦って範囲を広げることなく、小笠原か
フィリピンで待ち伏せ、航空兵力で漸減させた後、それでも近づいてくる
ヘトヘトのアメリカ艦隊を優勢な戦艦火力で粉砕するなら、たとえ
国力差が十倍を超えても、互角の勝負が、できたはず。

これこそ帝国陸海軍が明治期、「帝国国防方針」を策定して、アメリカを
仮想敵国と決めて以来、コンセンサスとしてきた作戦。そのための
ゼロ戦隊の猛訓練であり、そのための大和、武蔵の建艦でした。

それを全て反故にした、騙し討ちのハワイ作戦。任侠映画みたいに、
いきなり殴りこんでアメリカ国民を怒らせました。そしてミッドウェーの敗北。
ニューギニアの消耗戦。ガダルカナル以降、日本が勝てる見込みは
なくなりました。

その後、マリアナ、レイテの戦いで、日本の機動部隊が壊滅したのも、
元を糺せば、山本の杜撰な用兵の結果。日本は戦争をやめるにやめられず、
各都市が空襲され、二発の原爆まで落とされ、どうしようもなくなってから、
ようやく敗戦の決断。その発端となった山本の大罪は、今、
改めて問い直されるべきでしょう。

五月
May

原爆投下・直後の市民の声

原爆投下された広島。直後、視察のために多数の軍関係者が訪問。
その惨状に息を呑みました。あちこちで苦しむ人々。救護しようにも、
物資が足りません。そんな広島市民が口々に言った言葉は。

兵隊さん、どうか、この仇を取って下さい!

それは今、広島・平和記念公園に見る「過ちは繰り返しませんから」とは
全く違う、心からの叫び。アメリカ軍こそ、国際法に明白に違反し、
民間人を大虐殺した「過ち」の主体。なのに、なぜ広島市民が
「過ち」を反省するのでしょうか?

碑文は大東亜戦争を引き起こしたのが日本だったから、そういう戦争を
二度と繰り返しません、という意味でしょう。確かに、大東亜戦争は
日本の侵略戦争。「やむにやまれぬ自衛戦争だった」と
主張する人もいますが、私は賛成しません。

古くは日韓併合、そして満州事変など、そもそも絶対必要だったか、
といえば、そうでもなかった半島進出、大陸進出。それを「生命線」と
主張して出ていった当時の日本。その姿は、やはり侵略国家。

けれど原爆投下は、それとは直接、関係ない話。国際法・違反を許して
いいのか、ということは、戦争原因とは切り離して考えるべき。
広島・平和記念公園の碑文は、少なくとも、あの場所に
ふさわしくありません。

私たちは、ありもしなかった南京大虐殺や慰安婦・強制連行について
学校で教わることはあっても、アメリカ軍が原爆投下、大都市・空襲で
民間人にどれだけ非人道を行ったか、ほとんど教わりません。

当時の日本人はアメリカ人を「鬼畜」と呼びましたが、民間人への攻撃を
見れば、この呼び名も妥当だったことが分かります。
今「過ち」をホンとに反省すべきはアメリカ軍です。

道
histoire

女子挺身隊

一体、女子挺身隊はいつ頃から慰安婦を指すようになったのでしょうか?
もともと女子挺身隊は国家総動員の一環として、戦局押し迫った
1943年(昭和18年)日本各地で設立されました。当時は台湾、朝鮮、
満州も日本でしたから、そこでも設立。

男子が兵役に取られ、労働力がいなくなった工場へ女子が
動員されることは、日本だけでなく、世界各国で行われてました。
珍しいことではありません。

戦争中の映像を見てると「打ちてしやまん」の言葉とともに、
女子たちがハンマーを叩くシーンが出てきます。あれこそ女子挺身隊。

女子挺身隊が慰安婦のように語られ始めるは1990年代に入ってから。
この時、一人のおばあさんが「自分は慰安婦だった」と
最初に名乗り出ました。

彼女は母親によって四十円で妓生(キーセン)に売られます。
そして彼女を買った義父によって日本軍・慰安所に連れて
行かれたと証言。日本の裁判所への訴状にも、そう書かれてあります。

ところが、この元慰安婦を最初にスクープしたのは、韓国メディアではなく
日本の大手メディア。この大手メディアが「日本軍が女子挺身隊として
彼女を徴用し、慰安所へ連行した」と報じたことにより、
女子挺身隊=慰安婦という印象が定着してしまいました。

ほとんど捏造と言っていい報道でしたが、今だ訂正されてません。
それまで全く問題にならなかった慰安婦問題に、この報道で一気に
火が付きます。日韓で最大の論争テーマに。

「新しい教科書をつくる会」が結成されたのも、元をただせば、
この時の慰安婦・報道が発端です。

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