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承久の乱

頼朝は鎌倉幕府を成立させ、数年で死去。落馬が原因。長男・頼家に
期待が集まりましたが、全く才覚がなく、結局、母・政子によって、
伊豆に追放。しばらくして、入浴中に暗殺。

次男・実朝も、鶴岡八幡宮で、雪の降る二月、暗殺。首謀者は公暁。
公暁は頼家の子。父の暗殺は、おじ実朝のしわざと思いこんでの暗殺。
二代執権・義時(政子の弟)は、公暁を処刑。源氏・男系は絶えました。

頼朝と政子には、娘もいましたが、木曽義仲の息子に娶せたものの、
義仲が頼朝を裏切ったため、その息子を処刑。娘は、それが原因で、
心を病み、夭折。

政子の父、初代執権・時政は、とうの昔に追放。弟、二代執権・義時も、
むしろ政敵。信頼できる相手では、ありません。そんな孤独の中、
政子は二十年ほど、尼将軍として鎌倉に君臨。

三年前の大河ドラマ「平清盛」。かしまし娘・政子を杏(あん)が好演。
若き政子、かくあらんや、と思わせるほど。けれど、政子の晩年は、
こんな孤独。誰が想像したでしょうか。

やがて、承久の乱。承久三年(1221年)のこと。鎌倉の骨肉の争いを
見て、後鳥羽上皇が、武士から権力を取り戻す好機と判断し、挙兵。

朝廷に逆らうことに、躊躇する武士は少なくありませんでした。
朝敵となれば、未来、自分だけでなく、子孫まで「逆賊」。

ここで、政子。有力武士を集め、演説。「みな 心一にして 奉るべし」
吾妻鑑の有名な一節。武士は涙して聞き、鎌倉奉公を誓いあったとか。
やはり、政子しか、まとめられる人物はいませんでした。謀略ばかりで、
人望ない二代執権・義時は、末席で神妙に聞いたことでしょう。

武士が本気を出せば、朝廷軍など、ひとたまりもありません。
承久の乱はすぐに終結。後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇は流罪。
仲恭天皇は廃位。後鳥羽上皇の子孫は忌避され、後堀川天皇が即位。
鎌倉幕府は以降、百十年、続きました。

花
dream

新田義貞

JR南武線・分倍河原駅(ぶばいがわら えき)。駅前に大きな新田義貞
(にった よしさだ)の騎馬武者像。右手の剣を高く掲げ、
今にも走りだす姿勢。

二日間に及んだ分倍河原の戦いで、事実上、鎌倉幕府の滅亡は
決しました。義貞軍はこの後、町田へ続く鎌倉街道を進撃。これを見た
最後の執権・北条高時は幕府の終わりを悟り、自決。今から二十五年前の
大河ドラマ「太平記」では、片岡鶴太郎が、この時の高時を熱演。

やがて、始まった建武の新政。後醍醐天皇は義貞を検非違使に任命し、
重用。討幕に功あった武将なれば、当然の処遇。けれど、義貞。これで、
進む道を読み違えます。いくら後醍醐天皇に取り立ててもらっても、
武士は武士。

まず、第一に武士の利益を考えねばならないはずだった義貞。
いつのまにか、天皇、朝廷を向いてしまいました。

同じく倒幕のため、共に戦った尊氏が、武士の利益を最優先したこととは、
正反対。武士がどちらを支持するかは、明らかでした。義貞の動きは、
完全に時代に逆行。

三年も経たないうちに、武士の不満は頂点に達し、尊氏が後醍醐天皇に
反旗。武士はこぞって、尊氏に剛力。義貞につく者は、ほとんどいません
でした。結局、義貞。尊氏の弟・直義、そして高師直の軍に追われ、
敗走、討死。倒幕より他に、大きな武功を挙げられませんでした。

秋
October

源実朝

大海の 磯もとどろに 寄する波 割れて砕けて 割けて散るかも

壮大な太平洋の荒波を歌った一首。武家・出身者が、ここまでの感性を
表現するとは。藤原定家も絶賛。けまりの技量も抜群。運命を選べるなら、
源実朝は、頼朝・次男としてでなく、公家に生まれたかったことでしょう。

鎌倉幕府は発足したばかり。御家人の内紛が絶えません。頼朝を後継する
はずだった長男・頼家。幕府をまとめる統率力がなく、御家人にとって、
最も大切な土地分配に関しても、投げやり。急速に信頼を失います。

頼家の妻が比企氏・出身だったことから、北条氏、比企氏の争いに発展。
結局、北条氏が勝利し、比企氏は根絶。頼家も伊豆に流され、暗殺。
三代将軍の座は、次男・実朝に回ってきました。

一生、歌の道で生きていこう、などと考えてた実朝。思いがけず巡ってきた
将軍職について、歌よみらしく、朝廷政治に範を取ろうとしました。志として、
悪くありません。けれど、御家人にとって、朝廷政治の復活は、
鎌倉時代・以前の、公家への屈服を意味します。

頼家の投げやり政治も問題でしたが、実朝の朝廷政治は、もっと危険な
ものに映りました。結局、実朝。鶴岡八幡宮で、頼家の息子・公暁(くぎょう)に
よって、雪の降る二月の夜、斬殺。公暁は、数時間後、北条氏によって討伐。
公暁をそそのかしたのは、二代執権・北条義時だったと言われてます。

頼朝の血筋は、ここで途絶えました。頼朝は、自分の血筋を安定させるため、
競争相手の親族男子をことごとく殺害。けれど、その業が返ったのでしょうか、
今度は自分の嫡流男子が、次々と憂き目にあいました。

さて、実朝。彼の首塚は、小田急線・秦野駅(はだの えき)北口から、
少し歩いた場所に、ひっそり佇んでます。鎌倉から遠く離れた、
こんな場所に、首塚があること自体、実朝の不遇を象徴してます。

夕日
sunset

湊川(みなとがわ)の戦い

建武三年・五月、足利尊氏が東上する時、その軍勢は三万五千。
当時、誰の目にも後醍醐天皇の失政は明らか。次を担うのは尊氏。

迎え撃つ楠正成。七百で挑みました。湊川(みなとがわ)の戦い。
尊氏と正成は、かつて鎌倉幕府・討幕のために共に戦った間柄。
けれど、運命の巡りあわせで、ここ湊川で戦うはめに。

正成としては、負け戦が明らかでしたから、息子・正行(まさつら)を含め、
数名を除外。死んでよいものだけを連れ、河内を出陣。湊川で
尊氏軍を待ち受けました。

三万五千の尊氏軍に、七百の正成軍。数十での斬りこみを数次に
わたって敢行。数を恃む尊氏軍も、正成軍の鬼気迫る斬りこみに、
動揺。戦いは長引きました。

漸減した正成軍。七十ばかりになった時、戦いを断念。この時、尊氏軍は
進軍を止め、周囲は、戦場とは思えないほど、シンとした静けさに。
尊氏の、武士の情け。正成は近くの民家で弟・正季(まさすえ)と
刺し違え、自決。その首は河内の息子・正行のもとへ、
丁重に届けられました。

実は正成。戦い前、後醍醐天皇に、尊氏と和睦するよう強く忠言。
一笑に付されました。それでも正成。決死の戦いを引き受け、
ついに湊川で討死。後から見れば、正成の政治センスは
正しかったことが分かります。

湊川の戦いから六百年ほど経った二十世紀。米軍が沖縄に迫ってきました。
大本営は「国体護持」のために特攻作戦を発令。「菊水作戦」と名づけられ
ました。この「菊水」こそ、楠正成の家紋。その昔、後醍醐天皇に忠義を
尽くした正成の姿が、国家存亡をかけた時、思い出されました。

今も正成の凛々しい騎馬武者姿は、皇居・濠端に見ることができます。

公園
park

建武の新政

「けんむの しんせい」と読みます。「建武中興」(けんむ ちゅうこう)と
呼ぶ場合もあります。鎌倉幕府が倒れた後、後醍醐天皇が始めた親政。
その四百年前の延喜天暦の治を範とし、鎌倉期の武士政治を
終わらせ、天皇が再び、自ら政治を動かそうとしました。

とはいえ、新政、中興とは名ばかりで、実体は、単なる時代錯誤。
既に鎌倉期、堅固な官僚組織が作り上げられ、それなしに、
社会は成立しなくなってました。

ところが後醍醐天皇、その現実を見ず、政治の全てを仕切ろうとしました。
できるはず、ありません。しかも、後醍醐天皇、武士の力で鎌倉幕府を
倒したくせに、武士を無視。これでは、社会に不満が高まる一方。

結局、建武の新政は三年で破綻。足利尊氏が見るに見かね、反乱。
後醍醐天皇は京を追われ、吉野に逃れました。

後醍醐天皇。鎌倉幕府を倒したことでしか、歴史に名を残せませんでした。
ところが、これまで歴史書では、尊氏が天皇親政をジャマしたかのように、
ずっと書かれてきました。皇国史観の名残りです。たとえ天皇の政治でも、
ダメなものはダメと言わなくてはなりません。

金魚
water

藤原泰衡

「ふじわらの やすひら」と読みます。百年続いた奥州藤原氏の四代目。
泰衡で最後。とはいえ、泰衡が奥州藤原氏の長として君臨したのは、
文治五年の、ほんの数カ月。源頼朝が八月、攻めてきて、平泉は陥落。
清衡、基衡、秀衡と続いた奥州藤原氏は、ここに滅亡。

四代目の泰衡。今の護憲派が喜びそうな平和主義者。実は当時の
奥州藤原氏。二十万ともいわれる兵力を持ち、この時は源義経も、
いました。この大兵力と、義経の軍略をもってすれば、頼朝など、
寄せつけないはず。

けれど名君・秀衡が文治五年に死去。秀衡は死の直前、国衡(長子)、
泰衡(嫡子)の二人の息子に起請文を書かせ、義経を主君として、
鎌倉幕府に対抗するよう、神前で誓わせました。平泉は、鎌倉幕府の
むたいな要求を、果敢にはねつける予定だったのです。

ところが秀衡が亡くなった後、平泉を任された泰衡。頼朝にちょっと
脅されるとブルブル震えだし、結局、義経を殺害。国衡(長兄)、
忠衡(ただひら:末弟)も殺し、自分も、最後は頼朝に討たれました。

戦わずして敗れた泰衡。時代劇では「文化の力、美の力で、鎌倉幕府を
圧倒する」みたいな、護憲派セリフを吐きます。けれど、こんなことを
言ってるうちに、百年続いた奥州藤原氏は滅亡。

潰れてしまったら、元も子もありません。その点では、
国家や企業のリーダーは、どんな言い訳もできません。

けれど泰衡。ろくすっぽ戦わず、頼朝の軍門に下り、自ら滅亡。
これを良しと言える人はいないでしょう。以降、東北地方は常に中央から
指令を受ける立場となり、日本史の中で、二度と指導的地位に
立つことはありませんでした。

百年にわたって、京から独立し、金(きん)、馬、貿易に基づいて
栄えた奥州藤原氏。その末路を見ることは、今の日本を
見ることにもなるでしょう。

葉
nature

北条実時

赤い京急に乗れば、どんな電車も金沢文庫駅に停車。金沢文庫と聞いて、
知らない人は、大きな本屋さんでもあるのかな、と思うかもしれません。

鎌倉期、金沢・北条氏が、この地域を本拠にしました。一門の一人、
北条実時(ほうじょう さねとき)が、晩年、ここに文庫を作ったことが、
名前の由来。

実時は、北条・嫡流から離れてたため、執権になる可能性は、ほぼゼロ。
けれど評定衆として、常に若き北条時宗を支えました。蒙古襲来の直前。

実時に政治野心はなく、それが周囲にも明白だったため、政争にも
巻きこまれず、政治家なのに、生涯、学者のような人生を送ることができました。
骨肉の争いと陰謀が百四十年間、続いた鎌倉幕府。その中で、政権中枢に
ありながら、ほぼ唯一、誰からも敵視されず、信頼された政治家。

金沢文庫を抱える称名寺(しょうみょう じ)。境内の奥、けもの道を
上へドンドン上がっていくと、実時の墓がひっそりと、あります。
今ですら、ほとんど誰も来ない場所。以前は、もっと
静かだったでしょう。いかにも実時らしい廟。

死後も、静かにしていたい、という実時の気持ちが表れてます。
廟前に立つ時は、帽子を取って一礼すべきでしょう。

青
Vergangenheit

明徳の和約

鎌倉期・終わり、後嵯峨天皇の後、第三子・後深草天皇と第四子・亀山天皇の間で、
皇位継承をめぐる対立が発生。後深草天皇が持明院統、亀山天皇が大覚寺統を作り、
両統交代で天皇に就任する、という慣習ができました。これを「両統迭立」
(りょうとう てつりつ)と呼びます。

北条氏が倒れ、鎌倉幕府は滅亡。後を継いだ後醍醐天皇の治世。
大覚寺統だった後醍醐天皇は、皇位を持明院統に移さず、
自らの嫡子(後村上天皇)に継承しようと画策。

この頃、後醍醐天皇と対立した足利尊氏。武力を用いて、
後醍醐天皇を京から追放。後醍醐天皇を武力で支えた楠正成、
新田義貞、北畠顕家たちは既に戦死。後醍醐天皇には、
逃れる以外、方法がありませんでした。

尊氏は持明院統の光明天皇を擁立し、北朝。奈良・吉野に逃れた
後醍醐天皇は後村上天皇に継承させ、南朝。鎌倉期の持明院統、
大覚寺統の対立が、室町期、そのまま北朝、南朝の対立に。

南北朝時代が六十年ほど続き、三代将軍・義満の時、北朝が南朝の
正統性を認める形で、やっと南北朝合一。この時、結ばれた和約が、
明徳の和約。明徳三年(1392年)のこと。

皇室血統は北朝を引き継ぎますが、歴代天皇は南朝を認め、両統の顔を
立てました。ちなみに、歴史家の中には、南北朝時代は、皇室が分裂し、
正当な時代とは呼べず、室町幕府は明徳三年から始まる、
と考える人もいます。

流れ
histoire

倭寇と勘合貿易

十三世紀、元寇をなんとか撃退した日本人。当分、外国が攻めてくることは、
ないだろうと安堵。そして一世紀ほど経った頃、今度は外国と貿易しよう
という機運が高まります。時は室町幕府。足利義満の治世。
明(みん)と貿易して、国を富ませようという計画。

けれど最大の障害となったのが、海賊、倭寇(わこう)。壱岐、対馬の出身者が
多かったと伝えられてます。そこには、元寇で蹂躙された祖先の恨みを
晴らす意味も、あったでしょう。

義満は明との貿易を始めるにあたり、倭寇対策として「勘合」(かんごう)と
呼ばれる割符を発行。双方が持ってる勘合がピタッと合えば、
相手が倭寇でなく、信頼できる貿易相手と分かるしくみ。
明との貿易が「勘合貿易」と呼ばれるのも、そのため。

あまり知られてないことですが、勘合貿易で、日本からの輸出品に、
刀剣がありました。日本刀は大陸で珍重され、高い値段で売却。
輸入品としては、永楽銭。当時、日本は自力で貨幣鋳造できませんでした。

後の戦国期、織田信長は、この時に入ってきた「永楽通宝」を、
旗に掲げました。歴史好きなら「永楽通宝」の黄色い旗を、
どこかで見たことがあるでしょう。

さて、倭寇。二世紀ほど猛威をふるいましたが、次第に日本人が
いなくなります。代わりに、日本刀をもった外国人が船に乗りこみました。
出身は朝鮮、明など、さまざま。けれど日本刀を持ってたため、
ずっと「倭寇」と呼ばれ続けます。

倭寇・取り締まりが本格的になったのは、日本統一を果たした、
秀吉の時代になってから。秀吉の朝鮮出兵で、明も疲弊。
貿易も下火になります。結局、倭寇・取り締まりは、
勘合貿易の終わりでもありました。

空
summer

応仁の乱

八代将軍・足利義政(あしかが よしまさ)は、政治家というより風流人。
文化への造詣は並々ならぬもの。彼が設計に関わった慈照寺(銀閣寺)は、
日本文化の本質を形にしようという、芸術家・気質の集大成。

とはいえ、政治はサッパリ。三十才になる前、「山の庵で夜雨を聞きたい」と
言いだし、将軍職・後継を画策。妻・日野富子に子がなく、
出家した弟を還俗させ、九代将軍に、ともちかけました。

この弟が足利義視(あしかが よしみ)。彼は後継を了承。けれど義視が
了承した途端、富子が男子を出産。対立が生じました。

義視の後見に細川勝元。富子の背後に山名宗全。
同じ頃、畠山氏、斯波氏といった大名でも、後継問題が浮上し、
その度に細川、山名が対立。

応仁元年(1467年)、細川が御所の東、山名が御所の西に陣を構えました。
京都の「西陣」という地名は、この時、山名が陣を構えたことに由来します。

八代将軍・義政は当然、弟・義視の正当性を主張。最初は東軍、有利。
けれど長門、周防の大名・大内政弘(おおうち まさひろ)が、
大船団を率いて西軍・山名に与力。今度は西軍、有利。

大内がついた西軍、有利と見るや、弟・義視は、細川を裏切り、
山名に寝返りました。兄・義政は激怒。しかも今度は、富子が細川に
寝返ったため、応仁の乱は、途中で敵、味方が入れ替わる展開に。

誰が誰と戦ってるのか、分からなくなり、しかもメンツにこだわって、
停戦を言いだせず、戦いは継続。京は焼け野原になりました。御所の
内裏まで焼けたというのだから、その破壊が知れようというもの。

誰が勝ったともなく、戦いは十一年後に終了。引き上げる時には、
どの大名も、一日で京を後にし、国に帰りました。結局、九代将軍は、
嫡男・義尚(よしひさ)。富子の主張が通りました。

けれど義尚。早くから酒を覚え、使いものになりません。二十五才で没。
十代将軍は、義視の子・義材(よしき)に。何のための応仁の乱だったのでしょうか。

とはいえ室町幕府。信長によって滅ぼされる天正元年(1573年)まで、
もちこたえます。これだけの乱があっても、一世紀、継続できたのは、
室町幕府に、精緻な官僚機構があったからに他ありません。

森の池
nature

弘安の役

最初の蒙古襲来を「文永の役」(ぶんえいの えき)と呼びます。この時、
鎌倉幕府の武士は、一騎打ちで戦おうとしますが、蒙古軍は集団戦法。
武士が名乗りをあげ、口上を終えぬうちに、その頭上に火矢。
幕府軍はさんざんに、蹴散らされました。

ところが蒙古軍。たった一日で博多を去り、みな、あっけにとられました。
蒙古としては、軍事力を見せつけ、日本に服属を要求する
手はずだったと思われます。

ところが八代執権・北条時宗。一度ならず二度までも、服属要求を
はねつけ、文永の役から七年後、弘安の役(こうあんの えき)に至りました。

この時代、ユーラシアに巨大帝国を作り上げた蒙古には、服属した国が、
ほとんど。鎌倉幕府のように、最後まで抵抗した国はエジプト・マムルーク朝くらい。
この時代の日本人、今と違って国防の気概があったと言えるでしょう。

とはいえ、弘安の役。文永の役に数倍する蒙古軍を相手に、勝ち目ないと
思われました。ところが幕府軍。今回は、蒙古軍の戦法も、ある程度、研究。
ゲリラ戦に徹しました。戦いは一進一退。

そして、やって来た八月の台風。蒙古が神風で去った、
というのは、弘安の役を指します。

結局、日本は二度の蒙古襲来を自力で撃退した形になり、いつしか
日本人の心に「日本には神風が吹く」という信念が宿るようになりました。

二十世紀、二〇三高地を駆け上がった歩兵、アメリカ空母に突っ込んだ
飛行士の心には、「神風」があったはずです。けれど日露戦争はともかく、
アメリカ相手の戦争で、神風は吹きませんでした。

鎌倉時代、台風が蒙古軍を蹴散らしてくれたことは、七百年後、
日本がアメリカに蹂躙される悲惨を準備した、と言えるかもしれません。

紫
Geschichte

二月騒動

文永九年(1272年)、鎌倉幕府は予想される蒙古襲来に頭を痛めてました。
八代執権・北条時宗の時代。日本に開国を迫る蒙古・使者に対し、
幕府は返書しない方針を決定。

ところが京の朝廷は返書すべき、と主張。これは朝廷独自の思案というより、
幕府への反抗の現れ。半世紀前、承久の乱で、朝廷は幕府にコテンパンに
やられましたから、蒙古襲来を期に、幕府を揺るがそうという思惑が
あったわけです。

当時、京の六波羅探題・南方に務めてた北条時輔(ほうじょう ときすけ)。
時宗の兄でありながら庶子だったため、こんな閑職。
もちろん朝廷は時輔を取り込もうとします。

そして起こった二月騒動。鎌倉で北条・得宗家への謀反が発生。
執権・時宗は徹底的に鎮圧すると同時に、以前から反抗的だった
京の反対勢力にも圧力をかけました。その過程で、兄・時輔も討死。

二月騒動で、鎌倉の反・時宗派は一掃され、京の朝廷も震え上がりました。
二年後の文永十一年(1274年)、博多にやって来た蒙古。この時、鎌倉幕府が
曲りなりにも一枚岩で対処できたのは、二年前の二月騒動の結果、
反対勢力を一掃し、政権を固めていたからです。

クローバー
histoire

足利義教

室町幕府の六代将軍・足利義教(あしかが よしのり)について、
高校・日本史では、ほとんど扱いません。けれど、歴史的には、
重要な意味を持つ将軍です。

当初、ガタガタしてた室町幕府も、三代将軍・義満の時代、ようやく安定。
義教が六代将軍に就任した頃、京都には華やかな文化が漲ってました。

義教は父・義満の支配方法を踏襲し、権力の一元化を進めました。
その過程で、多くの守護大名の内紛に介入。敵も作りました。

幕府が充実するにつれ、常備軍も編成。義教の時代、
およそ一万人が、常備軍として待機しました。

常備軍を編成するには、堅固な官僚制度が必要。この官僚制度と
常備軍をもって、世界史では「絶対王政の誕生」と教えます。

世界史で絶対王政とは、イギリス・チューダー朝、フランス・ブルボン朝を指し、
十六世紀から十七世紀。ちょうど日本史では、戦国時代から
江戸時代への過渡期。

十四世紀の時点で常備軍を揃えた足利義教。その国力の充実ぶりは、
西洋を二世紀、先行したものとして、もっと強調されるべきでしょう。

けれど義教。敵を作りすぎました。最終的には、四職の一つ、
赤松氏に討たれ、志半ばで斃れました。

青
June

義経の腰越状

江ノ電・腰越駅(こしごえ えき)を降りて、しばらく歩くと満福寺。
鎌倉へ入ることを許されなかった義経は、ここで兄・頼朝に対し、
許しを請う「腰越状」を認めます。

自分に悪気はなく、粉骨砕身、源氏のために働いてきたことを、
切々と訴える腰越状。けれど頼朝にとって、そんな手紙は、
ほとんど意味ありませんでした。

武士の世では、主君の許しなく官位を授かることは、第一にやっては
いけないこと。けれど義経は、後白河法王から検非違使の官位を
提示されると、ホイホイと乗ってしまいました。

自らの官位・受諾が頼朝の機嫌を損ねると知っても、義経は官位を
返上しませんでした。腰越状を書いた時も、義経は検非違使の高位。

もちろん義経としては、自分が高位に位することは、源氏の誉れであり、
それは頼朝も喜ばせるはず、という感情があったのかもしれません。

けれど序列が何より大切な武士の世で、そんな感情は通用しません。
頼朝から再三、警告があったにもかかわらず、義経は結局、
自由にふるまいました。悪気があろうと、なかろうと、
その行動は頼朝に許されるはずありませんでした。

結局、頼朝は腰越状に返事を書かず、それどころか京へ帰った義経に、
刺客を派遣。ここに至って、義経は頼朝の真意を知り、反旗を翻しました。

とはいえ、政治力ない義経。彼の呼びかけに従う武将など、いません。
義経は頼朝によって命を狙われ、ついに平泉で自害。軍事力はあっても、
政治力がまるでなかった義経は、武士の世で生き残れませんでした。

青い蝶
purity

観応の擾乱

観応の擾乱は、足利尊氏が征夷大将軍となり、室町幕府を開いてから、
十年ほど経った時、起こりました。「かんのうの じょうらん」と読みます。

「擾乱」とは通常の乱より、規模が大きいものを指す日本史の用語。
確かに、この時の乱はすさまじく、室町幕府は早期に倒れる、
という観測が世に流れました。

室町幕府は足利尊氏、直義(ただよし)兄弟の二頭制で出発。
兄・尊氏は軍事、弟・直義は政治を担当。それぞれの得意分野を
分担し、兄弟の絆で新しい武士の世を作ろうと試みました。

けれど二頭制は、仲良し兄弟だった二人にも、対立を生みました。
これが観応の擾乱。もともとは弟・直義と、尊氏の股肱(ここう)の臣、
高師泰(こうの もろやす)高師直(こうの もろなお)兄弟の対立。
大規模な戦いとなりました。最終的には直義が勝利し、
高兄弟を殺害。尊氏も囚われの身。

朝廷は当時、尊氏が推す北朝と、後醍醐天皇の南朝に分裂。
政治力、軍事力では圧倒的に北朝の有利なのに、南北朝時代が
六十年間も続いたのは、観応の擾乱に見られる、北朝・内部の
対立があったからです。

弟・直義の一方的勝利。尊氏は高兄弟を殺された敗軍の将。
なのに尊氏、戦いの後に開かれた評定では、幕府の正当性は
自分にあると主張。勝利したはずの直義も、その部下も、
尊氏の気迫に押され、何も言い返せませんでした。

そも、征夷大将軍は誰ぞ。

尊氏のこの言葉が決め手となりました。尊氏の人間力が直義を圧倒。
直義は北朝を離れ、なんと南朝方に。しかし直義。この後、
尊氏によって毒殺され、二頭制は終了。武士の世では、
やはり二頭制は長続きしませんでした。

この後、室町幕府は尊氏の嫡男・義詮(よしあきら)、孫・義満(よしみつ)へ
受け継がれ、三代将軍・義満の時代、ようやく安定しました。

緑湖
Bruecke
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ゆめラジオ

Author:ゆめラジオ
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