FC2ブログ

ゆめラジオ、三島事件をアップ!

昭和四十五年・十一月、日本中を揺るがした三島事件。
美を追求した三島が、なぜ? どんな意図があった?
ぜひ、ご視聴ください。

三島事件

ゆめラジオ、所得倍増計画をアップ!

戦後、日本経済が高度経済成長に入るターニング・ポイント、
所得倍増計画。池田内閣で出され、実行。ゆめラジオで語りました。
ぜひ、ご視聴ください。

所得倍増計画

ゆめラジオ、田中角栄をアップ!

戦後の政治家と言えば、田中角栄。昨年、出版界では角栄ブーム。
ゆめラジオで語りました。ぜひ、ご視聴ください。

田中角栄

ゆめラジオ、保守合同をアップ!

昭和三十年、それまで右派、左派に分れてた日本社会党が統一。
五月のこと。それを受け、保守も合同。十一月です。その経緯は?
戦後日本のターニング・ポイント。ぜひ、ご視聴ください。

保守合同

ゆめラジオ、岸信介をアップ!

現在、首相を務める安倍首相の祖父。満州では辣腕ふるいました。
戦後、A級戦犯として収監された後、首相に。「昭和の妖怪」と
呼ばれました。その生涯、ぜひ、ご視聴ください。

岸信介

極東・国際軍事裁判

昭和二十一年に開廷し、昭和二十三年に結審した「極東・国際軍事裁判」。
英語では"The international military tribunal for the Far East"。
「東京裁判」とも呼ばれます。敗戦国・日本の戦犯を裁く行事。
最終的には、A級戦犯・七名が絞首刑となりました。

近代法学のイロハは「罪刑法定主義」。刑罰を科す時、刑罰を予め
定めておかねばならない、というもの。この原則なくば、事後法によって、
以前のどんな行動も罰することができます。

ところが東京裁判。被告たちを「平和に対する罪」という事後法で告発。
この時点で、この行事は裁判と呼べません。しかも、米軍による日本・
諸都市への空襲、原爆投下については、不問。日本には、あまた法学者
いても、東京裁判の欺瞞について、きちんと語る者は、ほとんどいません。

戦犯被告に共通したことは、昭和天皇への戦争責任を回避すること。
彼らは法廷で非難しあい、罪をなすりあいましたが、昭和天皇への累を
回避する点では、一致。廣田弘毅など、何を言っても、言質を取られると考え、
結審まで、終始、無言。この態度は、GHQやワシントン極東委員会にも伝わり、
昭和天皇の訴追は、免れました。

日本人が白人によって、いいように裁かれた東京裁判。
けれど、最後に意地を見せたのが、誰あろう、東條英機。

私は東條こそ、日本を破滅に追いやった張本人の一人と考えます。
彼が著した「戦陣訓」によって、どれほどの死が発生したでしょう。
しかし、彼が東京裁判・最終弁論で見せた態度は、注目に値します。

天皇への訴追回避が確実となった最終弁論。東條はアメリカ検事
キーナンに、一矢報いんと奮起。記憶を辿りながら、自説を、まとめ始めました。
けれど、戦後の物不足。巣鴨プリズンに十分な紙がありません。

東條は米兵看守に「ペーパー、ペーパー」と催促しますが、聞きいれられません。
不利な状況のまま、臨んだ個人反証。東條は、大東亜戦争は日本人にとって、
自衛のための、やむなき戦争だった、という自説を展開。

キーナン検事の「あなたは、自分が悪いことをしたとは思っていないのですか?」
という質問には。

・・・何も悪いことは、していません。

法廷の全ての目が、彼に注がれました。一呼吸、おいて。

正しいことをした、と思っています。

それを聞いたキーナン検事。眼鏡を取り、しばらく考えた後。

あなたは、この裁判で無罪になったなら、ここにいる、あなたの
同僚たちと、再び戦争を始めるつもりですか?

これで、東條の個人反証は終わりました。この時のやり取りは、映像にも、
残ってます。弁論後、面会にきた勝子夫人に、東條は
「まあ、あんなもんだろう。」すると、勝子夫人も。

あんなもんですよ。

お疲れさま、という気持ちを込めた、妻からの万感の言葉。この時の東條を
「プライド」という映画で、津川雅彦が好演。死刑執行の日、津川、扮する
東條が、囚人服のまま、勝子夫人(いしだあゆみ)の部屋を訪れ、
彼女の肩を抱くシーン。何度、見ても、涙こぼれます。

昭和二十三年、雪降る十二月二十三日・未明。GHQは今上天皇の誕生日、
死刑執行。東條、廣田たち、七名が巣鴨プリズンで絞首となりました。

光
Geschichte

War Guilt Information Program

どうして日本の教育は、こんなに自虐的なんですか?

できる塾生から、時々、こんなことを聞かれます。うーん。確かに、
南京大虐殺だの、慰安婦・強制連行だの、百人斬りだの、三光作戦だの、
日本の教育は、嘘ばかり。嘘と分かってからも、しつこく教える学校教員。

慰安婦・強制連行。ここまで来て、今だ、教えてます。
学校教員に、しみついた自虐史観は、変わりません。

自虐史観の源を辿れば、アメリカ軍による"War Guilt Information Program"。
略して"WGIP"。この言葉は直訳できず、意訳すれば「敗戦国・日本人に
罪悪感を植えつける計画」とでも、なるでしょう。WGIPは今、公文書として、
見ることができます。

アメリカは戦時中、この計画に着手。占領するとすぐ、実行に移しました。
GHQの哲学を一言で言えば、このWGIP。

東京裁判で、いきなり「南京大虐殺」が出てきたのも、WGIPの一環。
日本軍人の極悪非道を捏造。一方で、アメリカ軍の日本・諸都市への空襲、
原爆投下については、不問。

戦争放棄の日本国憲法も、WGIP精神で作られました。日本人は、
何をしでかすか分からないから、自ら戒め、武力を持たないことに
しました、という憲法。

GHQは日本国憲法・制定と同時に、この憲法がアメリカ人の手によると
教えてならない、という通達も出しました。結果、日本国憲法・制定の
経緯は、教育で教えられることなく、昨秋、国会前に集ったシールズも、
自分たちの憲法を守ろうと、叫びました。愚かな者たちです。

WGIPが、最も浸透したのが、教育とメディア。日教組と朝日新聞が、
歴史を捏造しては、広めました。反日政党・日本共産党も、ホイホイ便乗。
しんぶん赤旗には、朝日新聞より以上に、日本軍の「蛮行」。

世界のどんな小国も、国民には愛国心を教えます。自国史については、
正の部分をできるだけ強調し、負の部分をできるだけ隠すのが、常。
負の部分を、捏造してまで広める教育は、およそ、日本だけ。
その意味では、特殊な国です。

愛国心は、偏狭な自己中心でなく、共同体への自然な愛着。
この心あればこそ、人はまとまり、道徳も維持。土地をキレイにしよう、
良くしようという意識も、生まれます。逆に、この心なくば、
共同体も、国家も、瓦解。

もうお分かりですね。WGIPは、日本人・弱体化計画。日本人に、
愛国心を失わせ、堕落させ、どうしようもない民族にしよう、という計画。
日本共産党など、弱体化の隙をつき、革命を起こそうと、考えた輩。

何かの拍子で、革命でも起きてたら「日本・人民共和国」が、
誕生したでしょう。私たちは、身震いしないでしょうか。

教育、メディアが、ここまで反日運動を展開。昭和五十年ころまでは、
日本共産党、日本社会党の左翼勢力が、地方政治では、
首長を獲得するまでに。

なのに、戦後・日本人が、他国と比べ、それほど道徳的に堕落せず、
国民として一体感を保ちえたのは、ひとえに皇室の存在が
あったからでしょう。

皇室あればこそ、教育、メディアの異常な自虐史観にもかかわらず、
日本人は、なんとか節度を保ち、冷静な国家運営を続けることが、
できました。

大東亜戦争・末期に「国体護持」のためだけに、出撃していった、
特攻隊員たちの志は、決してムダでは、ありませんでした。

戦後、もう七十一年。アメリカに守ってもらう屈辱は、そろそろやめる
べきです。日本人は、自国安保を自ら担うという、国際社会の
当たり前のルールに戻るべきです。

自国の安保を、自ら担わない点で、日本は、底の底では、国際社会の
どこからも相手にされず、信頼も、されてません。だからこそ、
北朝鮮みたいな国に、拉致事件を起こされても、今だ、何もできず、
中国が横暴をくりかえしても、牽制すら、できません。

日本人は今、WGIPから、脱却すべき時。既に、遅すぎるほど。
GHQの日本国憲法・作成者たちも、戦後、数十年たち、自分たちが
二十日ほどで作った日本国憲法を、日本人が、まだ使ってると聞き、
全員、驚いたそうです。

日本国憲法は、しょせん、その程度のもの。日本の歴史、伝統に
立脚もしてないし、日本の頭脳が十年ほどかけて、考えぬき、
絞りだしたものでもありません。

憲法九条ある故に、拉致被害者を取り戻すことできず、尖閣諸島に
侵入されても、何もできません。学校教員は、どうして、拉致被害者の
哀しみを教えないのでしょうか? メディアは、どうして、連日の中国軍機、
中国工船による領土侵入を伝えないのでしょうか?
WGIPによる洗脳は、今だ、強力です。

港の夜明け
dawn

野坂参三

昭和三年、特高警察(現・公安警察)は日本共産党に大弾圧。小林多喜二は、
この時の様子を「一九二八年三月十五日」という小説で、克明に描写。
特高警察の卑劣な拷問を描きました。こうした秘密警察の暗躍をもって、
あの時代を「暗黒時代」と呼ぶなら、それは、確かにそうでしょう。

日本共産党・幹部だった野坂参三(のさか さんぞう)。彼も逮捕されます。
しかし、フシギなことに「目の病気」という理由で釈放。その後、妻を連れて、
ソ連に渡りました。他の幹部が命がけの拷問に直面してる時、野坂だけ、
釈放。しかも、ソ連に脱出。これは、どういうことでしょうか?

ソ連に渡った野坂。同じく日本共産党員だった山本懸蔵(やまもと けんぞう)
と接触。野坂と山本は、かつて、ソ連留学の頃からの同志。けれど、この時、
野坂夫婦と山本夫婦との間で、奇妙な男女関係が発生。ついには、
野坂が山本をソ連共産党に告発する、という状況に。

当時、ソ連では、スターリンによる大規模な粛清。山本は銃殺。野坂は
生き延びました。以降、野坂はアメリカ、中国へと渡り、それぞれの地で
アメリカ共産党、中国共産党と連携。この武勇伝は、彼の自伝
「風雪のあゆみ」で詳述。

どんな土地に行っても、すぐにそのサークルに溶けこみ、リーダーの心を
掴んだ野坂。人間的魅力があったのでしょう。中国では、毛沢東、周恩来の
信頼を勝ち取り、中国人の愛人まであてがわれました。

そして、大東亜戦争の敗戦。野坂の帰国。日本共産党は、野坂を歓迎。
国民も歓呼。最後まで戦争に反対し続けた日本共産党。海外に渡って、
日本の帝国主義と戦った野坂。野坂の演説会は、どこも超満員。

GHQは当初、日本の民主化のために日本共産党を活用しようと考え、
日本共産党に便宜をはかりました。日本共産党も、占領軍を「解放軍」。

やがて、米ソ対立が露わになり、GHQは手のひらを返し、レッド・パージ。
日本共産党・幹部は中国に逃れ、「北京機関」を設立。武力革命・路線の
徳田球一が、ここで客死。野坂は、徳田の右腕、伊藤律(いとう りつ)を
中国共産党に告発。伊藤は数十年間、北京で監禁生活を余儀なくされました。

ちなみに、伊藤。戦前の日本共産党とゾルゲ事件との関係を知りうる人物。
昭和五十五年、彼は三十年以上、経って帰国。この時、戦前の謎に光が
当たるのではないか、と期待されましたが、伊藤は、目も耳も、ほとんど
使えない身体障害者。何も語りませんでした。

徳田、伊藤など、武力革命・路線を排除した後、野坂は宮本顕治とともに、
議会民主主義・路線。かつての野坂からは、大転換。この時、野坂に
どんな変化があったかは、興味深いところですが、今の史料では、
明らかではありません。

昭和三十年の六全協を経て、日本共産党は野坂、宮本のソフト路線。
武力革命を早々と放棄し、今に続く勢力を確保。この時の決定は、
まことに正しかったでしょう。

とはいえ、こうした野坂の動きを、苦々しく見つめた幹部もいました。
徳田と同じく、獄中・非転向を貫いた、袴田里見(はかまだ さとみ)。
袴田は野坂と同じ頃、ソ連に留学し、昔からの野坂の行動を熟知。

この袴田が、ある時期から「野坂は内通者」という発言を始めました。
袴田の著書「党とともに あゆんで」は当時、党員・必読書。
影響力ある幹部だっただけに、党員が動揺。

この時は、宮本が握りつぶしました。袴田を除名。そのかわり、野坂も
議長という名ばかり職に。恐らく、この時点で、宮本、不破たちは、
袴田に言われるまでもなく、野坂の内通を知ってた、と私は考えます。

知ってても、野坂の功績、他の党員への影響を考え、秘密にしたまま、
野坂の死を待つつもりだったのでしょう。けれど、野坂、九十才を超え、
元気。赤旗まつりには「九十才を超えた青年です」と
言いながら、登壇。拍手を浴びました。

その後、ソ連の崩壊。グラスノスチ(情報公開)が始まり、秘密文書が、
次々と出てきました。アメリカではヴェノナ・ファイルの開示が始まった頃。

ソ連・秘密文書の中に、野坂のソ連への内通を示す文書が続々。
もう隠せなくなりました。百才を超えたばかりの野坂に、党幹部が急行。
この時、はじめて野坂が内通者だったと発表。除名された袴田の指摘は、
正しかったわけです。野坂は全ての職を剥奪され、党からも除名。
ほどなくして、死亡しました。

紅葉
histoire

シベリア抑留

日本の学校は、どうしてシベリア抑留を教えないのでしょうか?
昭和二十年・八月九日、ソ連が日ソ中立条約を破り、満州に侵攻。
関東軍・上層部は既に逃げだし、残りは使いものになりませんでした。

ソ連・近代兵器の前に、日本の民間人が丸腰で立たされました。
逃げる日本人。子供は足手まといですから、泣く泣く、現地の
中国人に預けるケースが続出。残留孤児の悲劇となります。

大人だって、ソ連兵に捕まれば、ただではすみません。男子は
シベリア抑留。女子は凌辱。男子の抑留数は、およそ六十万名。
十年後、鳩山内閣で日ソ国交回復するまで、抑留は続きましたから、
長い人だと、十年以上。

粗末な食事。劣悪な住居。シベリアの極寒。そして奴隷労働。
壮健男子が多かったはずですが、六万名がシベリアで斃れました。
これこそ、強制連行。日本人はもっと、国際社会に、
この事実を告発すべきです。

帰国者も、ソ連は徹底的な共産主義教育、反日洗脳を施して、
送ってきました。人間など、弱いもの。食事、睡眠を制限され、
隔離されれば、実際にやってないことでも、簡単に
自分がしたと思いこみます。

この場合、強力なカウンター洗脳をしないと、思いこみは消えません。
注意すべきは、満州国境付近で行われた「三光作戦」を証言する
元日本兵が、ほぼ全て、シベリア抑留組であること。

奪いつくし、殺しつくし、焼きつくす、という三光作戦。命令書も
なければ、証拠もない話ですが、こうした元日本兵が帰国し、
騒ぎ立てたため、今も話題になります。

その内容たるや、残虐そのもの。一体、七十年前の私たちは、
そんな狂気集団だったでしょうか? 三光作戦の残虐さは、
とても、こんなブログでは書けません。

日本史のどこを探しても、今の日本のどこを見ても、そんな残虐さは、
ありません。一方、中国では、歴史上も今も、残虐例に、こと欠きません。
チベット、ウィグル、南モンゴルの人々、そして法輪功・学習者に対する、
言語を絶する虐待。三光作戦なるものが、実は誰の所業か、
分かろうというもの。

三光作戦だけでは、ありません。南京大虐殺の証拠写真も、全て
中国人の所業を写したニセモノ。全ての写真が、今、学問的には捏造と
断定されてます。そんな証明を待たなくても、そもそも、こんな残虐を、
日本人がするだろうか、と素朴に考えれば、分かることでしょう。

慰安婦・強制連行、南京大虐殺、三光作戦・・・嬉しそうに報じた
朝日新聞。無批判に受け入れた日本共産党、そして日教組。
日本の学校で、嘘ばかり教えられ、肝心のシベリア抑留が
無視される理由も、ここにあります。

緑もみじ
late summer

児玉誉士夫

「こだま よしお」と読みます。戦前、満州に渡り、多くの要人の知己を
得ます。中でも、岸信介、笹川良一とは、生涯を通じて、義兄弟。

右翼青年でしたが、仕事は正確。しかも、裏切る可能性は決してない
とあって、重宝され、ついには上海で特務機関を設立するまでに。

「児玉機関」は早慶を受験する日本史・選択者なら、中身は知らずとも、
名前だけ覚えるでしょう。特務機関とは、日本軍の裏活動資金を
調達する機関。国家予算が下りる通常の活動に加え、
日本軍は闇活動にも、手を染めてました。

その裏活動資金・捻出の機関が特務機関。児玉機関だけでなく、
里見機関、土肥原機関など有名。とはいえ、児玉機関が最も
知られてるのは、集めた資産がハンパでなかったからです。
ダイヤ、プラチナ、金、タングステン・・・貴金属を
山のように集めました。

資産を集める方法は、主にアヘン売買。あるいは占領地域での略奪。
日本軍にも、現地にも、顔がきかないと、決してできない闇活動。
児玉はそれを、みごとにやってのけ、終戦時には莫大な資産。

終戦時、米内海相に問いあわせると、特務機関の資産など、
ないことになってるから、適当に処分しろ、という返事。
終戦とは、そんな時期でした。

ちなみに、特務機関のアヘン売買。中国人の健康を蝕み、軍費調達。
もし今、私たちが中国大陸への侵略を「痛切に反省」するのなら、
南京大虐殺だの三光作戦だの、ありもしなかった話でなく、
こういう特務機関の活動こそ、問題にすべきでしょう。

戦後、児玉は岸、笹川と同じ日、A級戦犯として、巣鴨プリズンに収監。
死刑になっても、おかしくない状況。ところが、戦犯七名が処刑された
翌日、昭和二十三年・十二月二十四日、児玉はなんと、岸、笹川と
そろって出所。

児玉機関で集めた資産の何割かが、GHQ高官に流れ、その恩赦と
言われてます。出所後、右翼フィクサーとして、活動を始めた児玉。
保守政治家を陰から支えました。岸信介、河野一郎、中曽根康弘・・・

児玉機関の残り資産は、昭和三十年、自由民主党の設立に使われ
ました。児玉は岸信介、河野一郎を後援。河野が訪ソする時の
壮行会には、児玉が一円のヤクザ親分衆に号令。
勢ぞろいした光景は、圧巻だったとか。

岸、笹川たちとの満州人脈は、戦後、そっくり朝鮮人脈として機能。
児玉は岸、笹川と並んで、統一教会の日本進出に尽力。今も、
統一教会のさまざまな式典に、岸信介の孫、安倍首相の
祝電が読まれるのは、この理由によります。

また河野一郎の子、洋平が、宮澤内閣・官房長官の時、閣議にも
かけず、半ば独断で「河野談話」を発表し、嘘っぱちの慰安婦・
強制連行を認めた理由も、これで分かるでしょう。

要するに、戦後の大物・自民党政治家は、多かれ少なかれ、
ヤクザ、朝鮮人脈とズブズブなわけです。

さて、児玉。田中角栄がエネルギー問題で、アメリカに睨まれ、
権力から追い落とされる時、捨て石に使われました。
ロッキード事件です。

田中がホンとにロッキード社から五億円、もらったかどうか、
私には分かりません。けれどロッキード重役が「渡した」と言い、
児玉が「仲介した」と言った以上、田中の有罪が決まりました。

児玉のフィクサー人生も、ここで終わり。ロッキード事件の数年後、
児玉は死去。自民党政治家の多くが、児玉の世話になりました。
今も、昭和史を詳しく調べてれば、必ず児玉に行きつくはずです。

コスモス
September

宮本顕治

大正十一年に結党した日本共産党。今、存在する日本の政党の中で、
最も古い党。戦前の二十三年間は、非合法。戦後、合法化されました。

先進国ではどこでも、共産党は消滅するか、党名を変えるかする中、
日本共産党だけは、議会で一定数を保ち、政治力を発揮。
地方議会では第一党、第二党の場合も多く、
その影響力は今だ、大きい。

アメリカ人やドイツ人と話していて、日本に"communist party"が
存在し、そこそこの影響力がある、と言えば、驚かれるでしょう。

そんな日本共産党。今あるのは宮本顕治(みやもと けんじ)という
指導者のおかげ。宮本なくば、日本共産党は、遅かれ早かれ、
ソ連・崩壊と同時に自己批判し、消滅したことでしょう。

宮本顕治は山口県・光市の出身。徳山中学、松山高校を経て、
東京帝大に進みます。東京帝大では経済学部に所属。けれど、
文学青年。在学中、「敗北の文学」で「改造」懸賞論文に当選。
次席「さまざまなる意匠」(小林秀雄)を、抑えました。

文学を理解する心と、数理に強い頭脳。東京帝大を出た後、
昭和六年、入党。同じく共産主義に共鳴してた、中條ユリと結婚。
ユリは顕治より九才、年上でした。

当時、日本共産党は、弾圧により人材が払底。顕治はすぐに
党幹部になります。この時、特高警察(現・公安警察)は党内に、
多くの工作員を潜入させ、相互に疑心暗鬼を発生させてました。
組織に入りこみ、疑心暗鬼にさせる手法は、今の公安警察も、
常套手段として使ってます。

顕治が入党した頃、工作員をあぶりだす目的で、「査問」が
行われました。そして顕治が関わった査問の最中、被査問者が
ショック死する事件が発生。「日本共産党リンチ事件」です。

この事件は、当時者しか真相を知らず、リンチがホンとにあったか
どうかは、私も分かりません。ただ、顕治には柔道の心得が
あり、体格もよく、被査問者が査問中に死亡したことも、
間違いなかったことから、昭和八年、逮捕。そのまま
昭和二十年の敗戦まで、十二年間の獄中生活。

投獄中、拷問を受け、転向を強制された顕治。そんな彼を支え、
裁判にも必ず出席したのが、ユリ。ユリは目を患い、顕治からの
手紙も、読みにくくなってました。けれど、読めない方が、
楽しみを後にとっておけると、むしろ喜びます。

そんな彼女を、手紙でいたわる顕治。間違いなく彼らは、
愚かな大東亜戦争に最後まで反対した、勇気ある
夫婦として、歴史に刻まれるでしょう。

そして大東亜戦争の敗北。顕治は網走刑務所から、太って
出てきました。出所前に馬鈴薯をたくさん食べさせられたとか。
刑務所前で出迎えたのは、ユリ。

戦後、ユリは「宮本百合子」として「播州平野」などの作品を
発表。顕治が、それを支えます。顕治は同時に、非転向の
不屈党員として、日本共産党・再建にも加わりました。

党内では、やがて路線対立が鮮明になりました。徳田球一たち、
武力闘争・路線と、宮本たち議会民主主義・路線。宮本は、
この権力闘争に勝利し、日本共産党は昭和三十年、
六全協で、正式に議会民主主義・路線を採用。

宮本は昭和三十三年から昭和四十五年まで、党書記長。
昭和四十五年から昭和五十七年まで委員長。
実権を握りました。

人気があった野坂参三は、党議長という、いわば、お飾り。
宮本顕治、不破哲三のラインが事実上、党を仕切りました。
野坂は後に、ペレストロイカの後、ソ連への内通が発覚し、
党を除名されます。

昭和五十七年、宮本は不破に実権をバトン・タッチ。
党選出の参議院議員として、政治に関わり続けました。

宮本が武力闘争を、戦後の早い段階で放棄し、ソ連、中国と
距離を取る「自主独立路線」を採用したからこそ、日本共産党は、
今も残ることができました。

70年代、フランス、イタリアなど、先進国でも、強い共産党が
あったのですが、それらはソ連共産党とベッタリの武力闘争。
結局、国民の支持を得られず、ソ連・崩壊と共に、
消滅せざるをえませんでした。

一方、「自主独立路線」の日本共産党。ソ連・崩壊に際して、
「もろ手を挙げて歓迎」。外にいる人には、同じ共産党なのに、
なぜ、と分からなかったことでしょう。

宮本がいつ武力闘争を捨てたかが、歴史家にとってのポイント。
宮本が獄中にいる間、既に武力闘争を捨ててたのでは
ないか、と私は個人的に考えてますが、証拠はありません。

ホンとは宮本が、自分の内面を発表すべきだったのですが、
リンチ事件もあり、彼は過去について、ほとんど語らずに、
世を去りました。

現在、日本共産党・委員長を務める志井和夫。彼は東大・工に
在学中、入党。早くから政治論文を書き、宮本に認められました。
志井を育てたのは、宮本です。

日本共産党は個人崇拝しませんから、宮本が今、党内で、
英雄視される、ということは、ありません。けれど、宮本の
影響力は、今も日本共産党に、そして日本の政治に
及んでます。

うろこ
late summer

全共闘

昭和三十五年の安保闘争。それから十年経ち、昭和四十五年が近づく頃、
日本の大学で、再び、権力への反対運動が起きました。全共闘運動。
学園紛争ともいいます。

当時、日本だけでなく、フランスでもアメリカでも学園紛争がありましたから、
全共闘としては、自分たちは一人じゃない、みたいな連帯感も、
あったようです。

いずれにせよ、全共闘。安保闘争より規模が遥かに大きく、
社会に与えた影響も甚大。しかも安保闘争と違い、昭和四十五年で
終わらず、昭和、平成にまで影響が残りました。

全共闘の最大事件は、昭和四十四年・一月の東大落城。四百名ほどの
学生が、東大・安田講堂を占拠。「大学の自治」を叫んでバリケードを
築き、授業も試験もできなくなりました。

全共闘はどこの大学にも蔓延。けれど最もヒドかったのは、やはり東大。
前年の昭和四十三年、東大・医学部で教員、学生の対立が発生。それが
激化して、この東大封鎖。昭和四十三年度、東大では一年を通じて、
ろくすっぽ授業ができませんでした。

年が明けた一月。この時、東大・総長代理が、機動隊に突入要請。
催涙弾や放水で、東大生を締めあげました。東大生も応戦。火炎瓶や
爆弾を作って投げ始め、機動隊隊員に殉職者。一種の戦争状態。

もちろん学生が機動隊に勝てるはずありません。結局、安田講堂に白旗が
上がり、東大生は降伏。けれど、二カ月後の三月、とても入試ができる
状況になく、この年、東大入試は中止。多くの受験生が涙を呑みました。

全共闘でヒドかったのは、セクト間の内ゲバ。中核派、革マル派、
社青同・・・多くのセクトが乱立。彼らは団結して権力に戦うことはなく、
互いに反目し、殺し合いを始めました。それが内ゲバ。

この時の内ゲバはすさまじく、最初は棒を持って叩きあう、くらい
だったのが、武器も方法もエスカレート。結果、多くの死者、
身体障害者が出ました。

ゲバ棒に釘を刺し、相手セクト構成員の頭を狙って、殴りかかりました。
もちろん当たれば、頭からドンドン出血。それを「スイカ割り」という
隠語で呼び、自分たちの機関紙には「革命」だの「闘争」だの
という言葉で、美化。

そんな人殺し経験を持つ者に就職先など、ありません。行き場をなくした
学生の多くが、大学院にもぐりこみ、その後、なに食わぬ顔をして、
大学教員になりました。

その全共闘世代が今、教授、あるいは学部長になってます。今の大学生、
これから大学に行こうとしてる高校生は、自分たちが大学で見る教員の
何名かは、血みどろの内ゲバ実行者であり、中には、比喩でなく、
殺人者もいると、知っとくべきでしょう。

内ゲバには、公安警察の関与もあったようです。公安警察は伝統的に、
対象団体に入りこみ、内紛、疑心暗鬼を起こさせる手法を取ります。

公安警察が、それぞれのセクトに工作員を入れ、対立しあう状況を
作りだしたことが、当時の資料から、うっすら分かります。ただし、
公安警察は、闇組織。関与の本格的な証明は、やはり不可能。

全共闘の悲惨は猖獗(しょうけつ)を極め、関係者が今、思い出し
たがらないのも、分からないわけではありません。けれど、あの世代。
誰一人、社会に迷惑をかけたこと、多くの人を物理的に傷つけたことを、
今、反省する言葉を吐きません。これは驚きです。

先生、全共闘の時、何をなさってましたか?

もし学生がそう問えば、青ざめて絶句する大学教員は多いはず。
彼らはだんまりを決めこみ、大学ポストを死守。日本の大学、
特に文系学部の授業が、お粗末きわまりない理由の一つは、
こうした全共闘世代が巣食ってるからです。

若い時に大学解体だの、ブルジョア打破だの言ってた者が、宗旨替えして、
なんと大学の教壇に。そのような者が、まともなことを言えるはずありません。
今の大学生が経験する、とても教育と呼べないお粗末授業は、
全共闘世代に、最大の原因があります。

大学だけでは、ありません。今、話題になってる沖縄の基地反対運動、
あるいは原発反対運動。こうした運動員の多くは、地元民では、ありません。
そこで出てくる初老の者たちは、たいてい、全共闘・経験者。

彼らは、こんな形で、かつての内ゲバを引きずってるわけです。沖縄左翼、
反原発左翼の、あきれた実態。その具体例については、別な記事に
するとして、その運動員も、辿っていけば、やっぱり全共闘。

凄惨な記憶しかない全共闘。けれど、そこに一種、生の燃焼を見て、
話してみよう、と思った作家がいました。三島由紀夫です。

三島は既に、民族主義、国粋主義の言論を展開してましたから、
全共闘にとっては敵。けれどヘタレ教員と違い、公開討論に応じよう、
という三島の呼びかけを、学生たちも意気に感じ、
三島と東大・全共闘の対話が実現。

会場は超満員。メディアも注目。普段は、目上の者に、ぞんざいな態度を取り、
自分たちこそ革命の指針と、うそぶいてた東大・全共闘も、三島には、
シッカリ敬語を使いました。当然、政治の話題が多かった中、
ある学生が、こんな質問。

三島さんの作品には、夭折する主人公が多いのに、
どうして三島さんは、そうしなかったのですか?

しばらく考えて三島は。

・・・その機会が、なかったからだな。

会場は大爆笑。暗く悲惨な全共闘の歴史で、
ほぼ唯一といっていい、心なごむ風景。

今、やっと大学で全共闘世代が退職しつつあり、これは良いことです。
大学は、これから改革していかねばなりません。その時、全共闘とは
何だったのか、どれほどヒドかったのかを、振り返っておくことには、
意味があります。

道
Weg

農協の歴史

農協の前身は明治三十三年に設立された産業組合。零細農家の救済を
目的としました。産業組合は大正、昭和を通じて、徐々に規模を拡大。
大東亜戦争中の昭和十八年、農業会として、国策組合に変貌。
農家は全て、農業会に強制加入。

戦後、GHQは農業会を翼賛組織と見て、解体。新たに農業協同組合
(農協)を設立。農協を通して、GHQは農地改革を実行。
農地改革の主体は農協でした。

農地改革によって、1haほどの土地を与えられた農家があちこちに誕生。
伝統地主からの土地の簒奪(さんだつ)。零細農家への平等な分配。
毛沢東・語録に出てきそうな政策が、農地改革で実行されました。

その陰で、強制的に土地を没収され、名誉や人間関係まで失った、
無力な伝統地主が、何人いたことでしょう。

農協はこのように、零細農家に土地を分け与える革命組織として登場。
けれど、その後、急速に保守化。一度、土地を持った農家が、再び
取り上げられることを恐れ、現状維持を強く望んだからです。

昭和三十年、保守を掲げる自由民主党が設立され、農協は、
自民党の支持母体として、強力に機能。農村が保守の地盤という、
戦後に長く続いた構図が、この時、できあがりました。

平成に入った頃から、日本の農業が、国際基準から見て、あまりに
非効率だと指摘され始めました。その元凶が農協だということも。

効率的な農業のためには、一戸当たり耕地面積の増大が不可欠。
しかし、大規模集約にすると、農家戸数は減り、農協票も減ります。
農協、自民党は農業改革に大反対。状況が動かず、今に至ります。

水
Wasser

六全協

昭和三十年・八月十一日、暑いさ中に開かれた日本共産党の
第六回・全国協議会。略して「六全協」。
場所は神宮・外苑の日本青年館。

日本共産党は戦後十年間、暴力革命を唱えました。
その先頭に立ってたのは書記の徳田球一。

ところが昭和二十七年、血のメーデー事件で武力闘争は完全に挫折。
日本共産党は人心を失い、衆議院での議席も失くしました。
党の立て直しが火急の課題。

当時、日本共産党のヒーローは野坂参三(のざか さんぞう)。
中国大陸で毛沢東、周恩来と共に抗日戦線を戦った野坂は、
戦後に帰国。圧倒的な支持を集めます。昭和二十二年の
衆議院選挙で当選。国会議員を務めました。

もう一人。宮本顕治(みやもと けんじ)。戦前、最後の政治局員として
治安維持法で逮捕され、獄中で十二年間ガンバり抜いた不屈の党員。
彼が網走刑務所から出獄した時、門の前に立ってたのは、
八才年上の妻、百合子ひとりでした。

六全協が開かれる前、野坂と宮本は地下活動に入っており、消息不明。
会議の行方は誰にも分りませんでした。ところが夕方・八時過ぎ、
満員の聴衆の前に野坂、宮本の両名が志田重雄、紺野与次郎を
連れて登場。満場の拍手に包まれます。

この六全協で日本共産党はキッパリと暴力革命を否定。武力闘争の
先頭に立ってた徳田球一が中国で客死したことも、
合わせて発表されました。

暴力革命に固執する学生たちは、この路線転換に猛反発。
「日共は軟弱」と罵り、党を出て行きました。彼らは後に
新左翼・運動を展開。中核派や革マル派といったセクトも、
ここから生じます。彼らは帝国主義以上に、日本共産党を憎みました。

同じく暴力革命に従ってた在日朝鮮人も、はしごを外されます。
言わば「とかげのしっぽ切り」。戦後、十年間、続いた
在日朝鮮人の横暴にも、ここで終止符。

昭和三十年。この後、社会党の右派・左派が合流して日本社会党が誕生。
十一月には自由党と民主党が合同して自由民主党に。
いわゆる「五十五年体制」がスタートしました。

日本共産党の路線転換。それは正しいものでした。この後も1970年代まで、
フランス共産党やイタリア共産党は、国内で強い力を持ってました。

けれどこれらの党はソ連共産党の影響力から抜け出せず、
暴力革命を捨て去ることもできませんでした。それ故、
ソ連が凋落するにつれて衰退。今は影も形もありません。

ソ連や東欧で共産党が倒れ、西欧でも共産党は消滅。
社会主義など、もう時代遅れ。どこのバカが、
まだ社会主義にしがみついてるんだ。

そんな時代、先進国で、ひとり気を吐く日本共産党。
六全協で自主独立を掲げ、いかなる外国・共産党の指令も受けないと
発表し、それを実行した賜物でした。

中国共産党が文化大革命、大躍進運動で大失敗してた頃、
最も先鋭に対立してたのは日本共産党。当時、日本の保守層は
「同じ共産党なのに」と笑ったものです。

あるいはソ連が崩壊した時、日本共産党は「もろ手を挙げて歓迎」。
相変わらず、世間では「次はあなたたちの番ですよ」と
見られてました。

今、振り返れば、日本共産党の先見性に括目せざるを得ません。
もしシッカリした自己がなかったら、今の日本で共産党など、
とっくの昔に消えてなくなってたでしょう。

ソ連・崩壊後、グラスノスチ(情報公開)により、野坂参三がなんと、
ソ連共産党の内通者だったことが判明し、党から除名。結局、
六全協から後、数十年間、日本共産党を指導したのは、
宮本顕治ただ一人だったとなります。

個人崇拝しない日本共産党。これだけ功績のあった宮本について今、
ほとんど語られてません。恐らく若い党員は、消費税・反対については
教えられても、宮本の名前すら聞くことはないでしょう。

昨年の参議院選挙。東京選挙区から出馬し、共産党ブームを
巻き起こした三十才の吉良よし子。彼女に一度「宮本路線について
どう思いますか?」と聞いてみたいですね。

松
February

日本の核武装

昭和三十九年十月十六日。池田内閣・末期。日本は国家を挙げて
東京オリンピックを開催。その真っ最中に中国は初の核実験を実行。
オリンピックに冷や水を浴びせます。なんという非礼。

場所は新疆ウィグル自治区。中国はこれ以降、ウィグルやチベットで
核実験を繰り返します。日本政府はこの状況を見て、核武装を
検討し始めました。政権は池田内閣から佐藤内閣に。

池田内閣で既に小型核なら現行・憲法でも可能という法解釈が
示されました。ところが奇妙なことに、核武装を目指したはずの
佐藤内閣が持ち出してきたのは「非核・三原則」。
日本は核兵器・放棄を内外に宣言。

佐藤内閣の核放棄は、これまでずっと歴史の謎でした。
ところが当時の外交文書が公開されはじめ、うっすらと
四十年前の舞台裏が分かってきました。

佐藤内閣の一つの課題は沖縄返還。実際に返還されたのは
昭和四十七年五月。その時、アメリカ軍が沖縄に核を持ち込むことを
許可する密約が日米政府の間で交わされました。この時、
佐藤の密使として交渉に当たったのが若泉敬。

沖縄を返してもらう代わりに、アメリカは沖縄に核付きで
寄港し始めました。この点で、沖縄に「核抜き・本渡並み」を
約束した日本政府は完全に二枚舌。沖縄県民の日本政府に対する
不信は、こんなところにも原因があります。

これ以降、日本は完全にアメリカの核の下に入ります。
密約は国民には知らされないままでした。

幻
phantasy

三角大福

三角大福(さんかく だいふく)と聞いても、今の高校生は「三角形のお餅」と
思うかもしれません。1972年(昭和47年)、八年続いた佐藤内閣の退陣後、
行われた自民党・総裁選。名のりを挙げた四名の候補者の名前を取って、
こう呼ばれました。三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫。

佐藤内閣・末期から次は大蔵省・出身の福田赳夫というのが、大方の予想。
本人もそのつもりだったでしょう。けれど、選挙前に若い田中角栄が猛追。
油断した福田は完全に足を掬われました。投票結果は。

田中角栄・百五十六票。福田赳夫・百五十票。大平正芳・百一票。
三木武夫・六十九票。

誰も過半数を超えられず、決選投票に。こうなれば勢いある角栄が断然、
有利。田中角栄・二百八十二票、福田赳夫・百九十票で、角栄の圧勝。
五十四才の若い首相が誕生しました。

田中角栄
politician

日本はこの後、角栄が唱える「日本列島・改造論」を土台としたインフレに突入。
アラブで起きた石油ショックが、インフレをさらに加速。物価がドンドン上がり、
「狂乱物価」と呼ばれました。

ニッカ、サントリー、オールドパー

東京オリンピック直前の1964年(昭和39年)7月。池田内閣・末期の頃。
自民党・総裁選が行われました。現職・池田勇人に挑んだ佐藤栄作。
そしてもう一人、藤山愛一郎。

事実上、池田と佐藤の勝負。吉田学校・出身の二人が一騎打ちする
ということで、世間の注目を集めました。総裁選は公職選挙法とは
関係ありません。というわけで、選挙の背後で莫大な資金が飛び交いました。

さまざまな隠語が作り出され、最も巷間に流れたのが、この言葉。
年配の方なら、覚えてる人もいるでしょう。

二派から資金を受ければニッカ。三派から資金を受ければサントリー。
全派から資金を受け、誰に投票したか分からなくさせればオールドパー。

結果は池田・二百四十二票。佐藤・百六十票。藤山・七十二票。
百票を超えた佐藤の発言力が一気に高まります。この後、池田は
体調を崩し、東京オリンピックを見届けた十月、退陣を表明。
総裁選で一騎打ちを演じた佐藤が後継総裁となります。

もみじ3
red

昭和電工事件

戦後・三年経った1948年(昭和23年)のこと。
昭和電工が時の政府高官に賄賂を贈ったとされる事件。
「昭電疑獄」(しょうでん ぎごく)とも呼ばれます。

六月に発覚。九月に逮捕が開始。大蔵省・主計局長だった福田赳夫
(ふくだ たけお)や党人・政治家の大野伴睦らが逮捕。福田は
主計局長まで上りながら、次官にはなれませんでした。

民主党の芦田均(あしだ ひとし)内閣は、この昭電疑獄で退陣。
日本社会党の片山内閣、民主党の芦田内閣は、それぞれ
七カ月ほどしか、もちませんでした。

当時の与党は日本社会党、民主党、そして国民共同党。
社会党、民主党の退陣後、国民協同党・幹事長だった三木武夫に
首相の座が回ってきそうになりました。

マッカーサーが二度に亘ってGHQに三木を呼びつけ、
芦田の次を担当するように説得。これが実現してれば、
三木は伊藤博文、近衛文麿を抜いて、史上・最年少の首相。

ところがここで三木は「憲政の常道」を引用して固辞。
与党が不祥事で退陣した場合、総選挙が筋だと主張しました。
マッカーサーも言い返せず、結果、野党だった自由党に
政権が渡り、第二次・吉田内閣が誕生。

昭電疑獄の背景にはGHQ内の路線対立があったと言われてます。
吉田内閣を阻止したかった民政局のホィットニーやケーディス。
三木に首相の座が回ってきたのも、彼らの根回しがあったからでした。

そして彼ら民政局と対立する参謀・第二部のウィロビー。
第二次・吉田内閣の誕生によって民政局は影響力を失い、
代わって参謀・第二部が影響力を強めました。

飛行機1
airplane

三木武吉

金丸信(かねまる しん)や青木幹雄(あおき みきお)など、
首相や大臣を目指さず、影に回った自民党の大物政治家たちは
「三木武吉みたいですね」と言われることを何より名誉にしたとか。

では三木武吉(みき ぶきち)とは、一体どういう人物なのでしょうか?

武吉は1884年(明治14年)香川に生まれます。頭が良かった武吉は
高松中学(現・高松高校)に入学。しかし二年生の時に同級生と
「うどん食い逃げ事件」を起こして退学。

その後、京都の同志社中学に進みました。しかし、ここでも
乱闘事件を起こして退学。やむなく上京することに。

上京後は羽目を外さず勉強し、東京専門学校(現・早大)を卒業。
その後、政治家を志し、憲政会から衆議院に立候補して当選。
国政に参加します。

当時は原内閣。蔵相は高橋是清。軍縮機運が高まり、高橋蔵相も
国会答弁で軍縮を主張「陸軍・十年、海軍・八年と申しまして・・・」
軍備には時間がかかることを訴えようとすると。

ダルマは九年!

若いヤジが飛び、高橋蔵相も原首相も大笑い。同じ憲政会のリーダー、
謹厳実直で知られる加藤高明や濱口雄幸も爆笑。このヤジの主こそ、
当選間もない武吉。やがて「ヤジ将軍」の異名をと取るまでに。

武吉が名を馳せたのは大東亜戦争後、十年経った保守合同。
当時、保守勢力は吉田茂の後継者・緒方竹虎(おがた たけとら)
が率いる日本自由党と鳩山一郎が率いる日本民主党。

この二つの政党に力がなく、日本社会党がついた方が勝つという状況。
政治のキャスティング・ボードを社会党が握ってたわけです。

この状況に危機感を抱いた武吉。鳩山の日本民主党に所属。
自由党との合同が不可欠と悟り、自由党・実力者、大野伴睦
(おおの ばんぼく)と交渉に入ります。もともと武吉は公職追放組。
追放を逃れた伴睦とそりが合うはずありません。

しかし六十回に及ぶ交渉の末、伴睦と合意。自由民主党の結成に
こぎつけました「義理と人情」で知られた大野伴睦。

伴睦 殺すにゃ 刃物はいらぬ 天下国家を 言えばいい

武吉もひたすら「天下国家のために私情を捨てる」と説きました。
こうして1955年(昭和30年)11月22日「保守合同」が成立。
自民党の時代が始まりました。別名「55年体制」。
生涯の仕事をやり終えて、武吉は翌1956年に死去。

「自主憲法制定」「自主防衛」を夢見た武吉。
ホンとはもう十年、政界のフィクサーとして活躍し、
日本の真の独立を達成したかったことでしょう。

空2
sky

岸信介

ある世代の人々にとって岸信介は「悪の権化」のように嫌われました。
「昭和の妖怪」という呼び名まで。けれど一体、信介(のぶすけ)の
何がそんなにいけなかったのでしょうか?

信介は山口の名家に生まれます。岸・佐藤・安倍の三家は、閨閥
(けいばつ)で互いに濃く結び付いてました。佐藤家・次男に
生まれた信介は跡取りとして岸家・養子に。

長男・佐藤市郎は海軍中将。信介の述懐によると、この市郎が
三人兄弟の中で最も頭が良かったとか。市郎は「海軍きっての秀才」と
言われ、病に倒れなければ中将で止まることもなかったでしょう。

次男・岸信介。東京帝大に進学するも、ろくすっぽ勉強せず、
それでも、試験では刻苦勉励するライバルを抑え、次席・卒業。
その才能を見込んで指導教官は大学に残ることを強く薦めます。

とはいえ信介。大学に残ってはバカになるとシッカリ見抜き、
官吏の道を選びます。何となく受けにいった高等文官試験でトップ合格。
大蔵省か内務省、と思われた選択肢は、なんと農商務省
(後の商工省、戦後の通商産業省)。

世界に名乗りを上げてた当時の日本。産業・商業をリードしたいと
考えた信介の直感は、実に正しいものでした。上司である吉野信次
(よしの しんじ:吉野作造の実弟)の庇護を得て、商工省で
トントン拍子に出世。洋々たる未来が開けます。

やがて満州国・建国。赴任した信介は事実上、官房長官の役割。
当時、満州国で政治の実権を握ってたのは星野直樹(ほしの なおき)。
信介は星野の下で思う存分、国家運営の腕を磨きました。
ちなみに当時、関東軍には東條英機が赴任してました。

やがて東條が近衛内閣の退陣を受けて組閣。信介は商工大臣として
中央に呼ばれました。星野も内閣書記官長。東條内閣は「満州内閣」。

戦後、信介は開戦の詔勅署名でA級戦犯に擬せられ、巣鴨プリズンに収監。
とはいえ信介に戦争犯罪などあるはずもなく、やがて釈放。
政治活動を再開します。

鳩山一郎・率いる自由民主党に入党し、石橋内閣が倒れた後、
推されて岸内閣を組閣。そして1960年(昭和35年)日米・
安全保障条約の改定に乗り出します。

この安保・改訂に対して当時、反米を唱える学生・労働者が反発。
安保闘争として、歴史に記されることになりました。
今も記憶してる人は多いでしょう。

安保、反対。安保、反対。

国会を取り巻く数十万人のデモ隊。その掛け声はやがて。

岸、倒せ。岸、倒せ。

そのうちに。

岸、殺せ。岸、殺せ。

当時、首相官邸に詰めてた信介。三男の佐藤栄作が訪ねてきます。
窮地に立たされてた兄に向って、栄作は一言。

アニキ。首相官邸で死ぬなら、本望じゃないか。

それに対して信介は。

善良な国民は、今晩も後楽園球場でのジャイアンツの
試合を楽しみにしてる。彼らこそ、私の支持者だ。

安保・改定は自然成立。高度経済成長に道を開きました。とはいえ、
信介への「憎しみ」だけは国民の間に残ります。安保・改訂後、
1960年7月に、信介は暴漢に太ももを刺され、重傷。
岸内閣は悲劇的な幕切れとなりました。

同年10月には日本社会党・委員長の浅沼稲次郎(あさぬま 
いねじろう)も日比谷公会堂での演説中に、暴漢に刺され死亡。
世情は騒然としました。

岸信介が引いた高度経済成長のレール。後を継いだ池田勇人が
その路線を忠実に継承し、日本は戦後復興をいち早く、達成。その後、
池田内閣を引き継いだのが佐藤栄作。日本は先進国の仲間入りをします。

岸信介
prime minister

石橋湛山

「いしばし たんざん」と読みます。1884年(明治17年)に山梨で
生まれました。甲府中学(現・甲府第一高校)を卒業後、早大・文学部で
哲学を学びます。幼少より政治家を志し、哲学を学んだのも、
政治家になるには哲学が必要という判断から。

早大を首席で卒業後、東洋経済新報に入社。やはり政治家に
なるには経済を知らねばならない、という動機でした。

東洋経済新報・時代、湛山はリフレ論を展開。通貨発行による
経済成長を提唱します。当時、日本を席巻してた経済理論は金本位制。
金本位制を訴えたのは首相・濱口雄幸(はまぐち おさち)。
そして蔵相・井上準之助(いのうえ じゅんのすけ)。

金本位制では、保有してる金の範囲内でしか通貨発行できません。
通貨信認が高まり、インフレ懸念が遠のくかわりに、デフレに
なりやすい制度。当時の日本人には、インフレ懸念が強く、
インフレ・ターゲットを説く濱口・井上らの金解禁論は、
国民の支持を集めます。

ところが、その潮流に抗した数少ないエコノミストもいました。そして、
その一人が湛山。ちなみに、昨年からのアベノミクスで、通貨発行による
円安・株高が実行され、話題を集めました。現在、エコノミストの間では、
戦前にリフレ論を提唱してた湛山を再評価する動きが広がってます。

別にアベノミクスを待たずとも、昭和のリフレ・実行者、
高橋是清(たかはし これきよ)が湛山・理論を評価。
世間に分かってもらえなくても、見る目ある人に分かって
もらえれば、それでいい。湛山は終生、この姿勢を貫きました。

自由主義者だった湛山。大東亜戦争中、統制経済に反対。
それが大政翼賛会の方針と真っ向から対立。東洋経済新報は
さまざまな妨害を受け、社運が傾きます。しかし社長だった
湛山は一歩も引きませんでした。

戦後、この一貫した言論姿勢が評価され、湛山は第一次・
吉田内閣の蔵相に就任。通貨発行量を高め、経済パイを大きく
しながら成長していく経済政策を実行。その後、衆議院議員にも当選。
子供の頃からの夢だった政治家として一歩踏み出します。

湛山の名を歴史に残すことになったのは、彼が唱えたリフレ論より、
1956年(昭和31年)の自民党・総裁選挙。当時、圧倒的に
有利が伝えられてたのは岸信介(きし のぶすけ)。

しかし総裁選で岸の得票数は過半数に届かず、決選投票で、
二位・三位連合をまとめた湛山が逆転勝利。この時、大野伴睦
(おおの ばんぼく)や三木武夫(みき たけお)といった
党人・政治家も湛山・支持に回りました。

ちょうど安倍首相が昨年の総裁選挙で最初は二位に付け、
決選投票で逆転したのと同じパターン。国民の目が湛山に集まります。
長年、思い描いた経済成長路線を実行に移す時が来ました。蔵相に
新進気鋭の池田勇人(いけだ はやと)を抜擢。石橋内閣が船出します。

ところが翌1957年(昭和32年)湛山は体調を崩し、公務を遂行
できなくなりました。石橋内閣は僅か二ヶ月で退陣。副首相だった
岸が首相になり、閣僚全て引き継ぎます。

ちょうど湛山が東洋経済新報で働き盛りの頃、首相だった濱口が
暴漢に襲われる事件が起きました。濱口は一命を取りとめたものの、
国会を欠席することが多くなってました。

その濱口首相の姿勢を非難し、退陣要求の先頭にいたのが湛山。
自分が要求したことは、自分も受け入れねばならない。湛山は
逍遥(しょうよう)として自らの運命を甘受しました。

この後、湛山が目指した経済成長路線は、岸内閣・蔵相、
その後、首相を務めた池田勇人が推進し、日本の
高度経済成長に道を開きました。

静かな森
meditation

日韓基本条約

1965年(昭和40年)に日韓で結ばれた条約。これで、それ以前の
公的補償、民間補償の両方が、完全に解決。大東亜戦争で日本と韓国は
敵国だったわけではありませんから「賠償」という呼び方はできず、
「補償」となります。

1945年8月の終戦まで、日本と朝鮮半島は同じ国でした。
ところが日本の敗戦により、両国が分断。公的財産、民間財産の
両方も、それぞれ置き去りに。

あえて言えば、夫婦仲が悪くなり、別居が先に来て、とうとう
離婚する段階で、互いの家にある財産をそれぞれ返しましょう、
ということ。それが日韓基本条約。

ヘンに聞こえるかもしれませんが、この財産補償について、当時、
日本・外務官僚は日本の取り分が多い、と踏んでたようです。

公的財産は韓国に没収されるとしても、民間財産は「ハーグ陸戦法規」で
キチンと保護されることになってるからです。戦前の朝鮮半島では、
富裕層は圧倒的に日本人が多く、その民間財産が返ってくるなら、
日本の取り分が多くなって当然。

もちろん韓国はこんなことを認めるはず、ありません。日本の首席代表・
久保田貫一郎(くぼた かんいちろう)が「そこまでおっしゃるなら、日本が
半島に残した公的インフラのことも考えなくてはなりません」の発言で、
交渉は、あわや決裂寸前に。

結局、反共の砦・韓国が貧乏ではまずい、という判断から、日本が
五億ドルの補償をすることで決着。公的補償、民間補償、
全てについて最終かつ完全に解決されました。

パク・ジョンヒ大統領はこの五億ドルを最大限、近代化に投入。ダムを作り、
高速道路を広げ、製鉄所を建設。韓国の土台ができ上がりました。
パク大統領の「独裁」がなければ、とてもムリだった達成。
サムスンやヒョンデも、この時期に大きくなりました。

賄賂を嫌ったパク大統領。清貧な大統領だったからこそ、
日本からの資金がスムーズに近代化に流入。賄賂が横行する
国だったら、いくら資金を投下しても、私腹を肥やして
終わりだったでしょう。

五億ドルを「韓国への投資だった」と考えるなら、日本にとっても、
数十年間、自由な国が隣で発展したことは好都合。そう。五億ドルは
日韓両国にとって、実に有意義に使われたのです。

ところが、貧しかった韓国。民間補償まで含まれてたはずの
五億ドルを、ほぼ全てインフラ整備に費やし、民間補償がなおざりに。
仕方なかったとはいえ、禍根を残します。

ですから今、もし元慰安婦が未払い補償を請求するのなら、
韓国政府にするべきです。ところが韓国政府は1965年当時、
慰安婦問題は認識されてなかったとして、日本政府に補償を
求めてます。国際法違反と言われても仕方ないでしょう。

水車小屋
nature

八鹿高校事件

「同和」は「同胞融和」を略したもの。「被差別部落」を解消する目的で
使われるようになりました。被差別部落は「穢多」(えた)「非人」(ひにん)と
呼ばれた人たちが一カ所に集まり住んでた地域。穢多、非人の定義は
さまざまで、いつ頃から、そう呼ばれ始めたかにも諸説あります。

江戸期には、現在で言う被差別部落がハッキリ存在。当時は身分社会。
さまざまな階層が社会にあること自体は、問題にされません。

明治に入り「四民平等」が叫ばれ、人権思想も輸入されます。
部落差別は不公平という空気が広がりました。1922年(大正11年)
「全国水平社」が京都で設立されます。

人の世に熱あれ 人間に光あれ

とはいえ大東亜戦争が終わるまで戸籍上での部落差別は続き、
部落出身であることを消すことはできませんでした。

戦後も昭和30年代まで部落差別は続きます。被差別部落には
道路、電気、下水がなく、家はバラック同然。狭い路地。立ちこめる悪臭。
他地域との差別は歴然。

1955年(昭和30年)全国水平社を後継する形で「部落解放同盟」が設立。
解放同盟はさまざまな運動で、被差別部落の窮状を訴えました。

国も腰を上げます。1969年(昭和44年)「同和対策事業・特別措置法」
(同和立法)を制定。「部落差別の解消は国の義務」。

道路、家、下水道、学校と言ったインフラに多くの資金が投入されます。
公衆浴場や集会所も。集会所は「隣保館」。被差別部落の景色は
みるみる変わっていきました。

勢いづいた解放同盟は「糾弾」と称して役所、企業、学校に、集団で
押しかけるようになりました。「差別反対」を口にされると、誰も何も言えず、
糾弾はますますエスカレート。土建業の常ですが、インフラ整備に
関係した利権も発生。多額の資金が闇に消えました。

誰も何も言えなかった解放同盟に対して、当時、最も厳しい批判を
展開したのは日本共産党。下層階級の解放という点で、一見、
手を結びそうな解放同盟と日本共産党。

しかし利権を容赦しない共産党にとって、解放同盟は看過できない団体。
両者はあちこちで激しい論争を展開。対立します。その対立がピークに
達したのが1974年(昭和49年)兵庫で起きた「八鹿高校事件」
(ようか こうこう じけん)。

解放同盟の生徒が立ち上げた「部落解放・研究会」を共産党員の教員が
認可せず、それを機に、解放同盟と共産党との間で衝突が起きました。

今、振り返れば、この時の論争については、やはり共産党が正しかった
ようです。部落差別の解消は必要でしたが、解放同盟のやり方は、
あまりに過激。

自動車免許の取得費用。結婚時の給付金。

こんなものまで解放同盟は「差別解消」と称して請求。
それが認められたわけですから、市民は唖然。

京都、大阪など、今も関西で強い地盤を持つ日本共産党。
その理由の一つは、解放同盟への批判が支持されたことにありました。

1990年代に入り、被差別部落は他地域とほとんど、変わらなくなりました。
むしろ逆差別により、御殿のような家が並び始めます。同和立法の意義も薄れ、
2002年(平成14年)に廃止。解放同盟については、現在、以前のような
過激な糾弾は行わず、ソフト路線に転換。とはいえ2000年代に入っても、
役所での不正な資金授受の事件が、何件か発生してます。

緑
green
プロフィール

ゆめラジオ

Author:ゆめラジオ
ユーチューブとリンク

リンク
最新記事
最新コメント
カテゴリ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学校・教育
92位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
塾・予備校
10位
アクセスランキングを見る>>
カレンダー
03 | 2021/04 | 05
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
検索フォーム
月別アーカイブ