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ゆめラジオ、児玉源太郎をアップ!

日露戦争を開始し、終了させたのは実質、児玉源太郎。
明治期、帝国陸軍の実力者。ゆめラジオで語りました。
ぜひ、ご視聴ください。

児玉源太郎

ゆめラジオ、伊藤博文をアップ!

以前の記事アップが不具合となりました。ゆめラジオで語った伊藤博文。
もう一度、この記事でアップします。ぜひ、ご視聴ください。

伊藤博文

ゆめラジオ、原敬をアップ!

凶弾に倒れた原敬(はら たかし)。彼がもっと政権運営していたら、
後の軍台頭は遅れた、またはなかったのでは?
ゆめラジオで語りました。ぜひ、ご視聴ください。

原敬

ゆめラジオ、大正政変をアップ!

大正政変について、ゆめラジオで語りました。第三次・桂内閣が
倒れました。日本史における国民運動の嚆矢。
ぜひ、ご視聴ください。

大正政変

ゆめラジオ、西南戦争をアップ!

明治十年の西南戦争。明治維新、最大の功労者・西郷隆盛が
賊軍となって、新政府軍から討伐されることに。なぜ、こんな状況に
なったのでしょうか? ゆめラジオで語りました。
ぜひ、ご視聴ください。

西南戦争

軍務大臣・現役武官制

第二次・山縣内閣の時、「軍務大臣は現役武官でなければならない」と
定められました。政党政治に対する山縣の危機感が、背景です。

軍務大臣が現役武官なら、陸軍は、陸相を出す、出さないで、未来の
内閣に揺さぶりをかけ、陸軍の意向を通すことができます。山縣としては、
こんな姑息な手段でも、未熟な政党政治はコントロールすべきでした。
現に、直前の大隈内閣は、初の政党内閣でしたが、半年もたずに瓦解。

現役武官制が、国民の意識に明確に上ったのは、第二次・西園寺内閣。
日韓併合後、陸軍は朝鮮半島に二個師団・増設を要求。ところが、世論は、
日露戦争後の軍縮。政友会総裁の西園寺首相も、二個師団・増設など、
のめません。

陸軍は、上原陸相に辞表を提出させ、後任の陸相も出しませんでした。
これで、第二次・西園寺内閣は倒れます。「陸軍による毒殺」。後継の
第三次・桂内閣も短期間で崩壊。「大正政変」(第一次・護憲運動)です。
国民は、陸軍の横暴を許しませんでした。第一次・山本内閣で、
現役武官制は一旦、廃止。

それから二十数年。昭和十一年、二・二六事件が勃発。荒木、真崎といった
予備役大将を、尉官たちが担ぎ、クーデタ。これを見て、予備役武官が
力を持つのは、やっぱりマズイ、となり、現役武官制が復活。
廣田内閣です。

この現役武官制・復活が、翌・昭和十二年、支那事変の解決を難しくしました。
廣田内閣の後、大命は宇垣大将に降下。この時、宇垣が組閣してれば、
外相に幣原を起用し、蒋介石と和解できたでしょう。対米戦争も、回避。

ところが、陸軍。軍縮の宇垣などトンデモナイ、とばかり、陸相の推挙を拒否。
宇垣大将は大命降下にもかかわらず、組閣できずに、流産。
支那事変の解決は不可能になりました。

もう、お分かりでしょう。廣田内閣の現役武官制・復活こそ、大東亜戦争への
原因。かえすがえすも、残念。戦後、東京裁判で、廣田弘毅が唯一、
文官として死刑になったのも、この理由からです。

トンボ
October

後藤新平

奥州・水沢に生まれました。幕末の高野長英とは遠縁。この二人こそ、
水沢が生んだ郷土の偉人。後藤は医学校を出た後、名古屋の
愛知医学校に勤務。現在の名大・医学部です。

そんな時、板垣退助が、名古屋で演説。その板垣が暴漢に刺されたという
知らせを聞き、後藤は現場に急行。すかさず応急処置。この処置が適切で、
板垣は一命をとりとめました。後藤の名は、中央政界に知られます。

やがて起こった日清戦争。戦争は早くかたづき、続々と戻ってくる帰還兵。
けれど、防疫検査。帰還兵を、そのまま上陸させるわけには、いきません。
早く祖国の土を踏みたい帰還兵。この時、宇品港で、テキパキと
貿易検査を捌いたのが、後藤。防疫検査は無事、終了。
この手腕が、参謀総長・児玉源太郎の目にとまります。

この医者は、ただ者ではない。

児玉は後藤を説得し、自分の片腕となって行政の道に進むことを提案。
後藤としても、自分の器を広げる絶好のチャンス。日清戦争後、
児玉は、初代・台湾総督。後藤を民政長官に抜擢。

当時、何の産業もなく、農業も遅れ、生きるのがやっとの台湾。
衛生は悪く、人々は家畜と同じ暮らし。そこに、医学知識ある後藤。
早速、衛生改善のためのインフラ計画。それに伴う道路整備。
ひいては、台湾の街づくり。

今の台湾を作ったのは、後藤です。内地から優秀な官僚を引き抜き、
重要ポストに抜擢。責任は自分がとるから、思いきりやってくれ・・・
ハッパをかけました。

奮起する部下たち。猛烈な速さで、台湾・近代化を推進。台湾社会は、
これで一変。生活インフラが整備され、学校、病院が次々に建設。
農業技術も進歩し、生産量が増大。人口も増え始めました。

四年前の東北大震災。あの時、他国の何倍もの寄付が、台湾から
集まったのも、元を辿れば、後藤、そして彼の部下たちの、
私心を超えた努力。

朝鮮半島でも、同じことを、いや、それ以上の大規模な努力が
行われましたが、今、朝鮮半島の北も南も、全く反日。
これを、どう説明すべきでしょうか?

さて、後藤新平。やがて、台湾・民政長官では飽き足りなくなりました。
児玉源太郎に辞意を伝えます。当時、後藤の手腕によって、台湾経営は
黒字転換。その利益から、多額の機密費が児玉に流れました。

日露戦争後、活動範囲を広げたかった児玉。後藤の辞任は、機密費を
失い、軍人としての活躍も、ふいにすることを意味します。当然、慰留。
けれど、後藤の決意は固く、最後はケンカ別れ。この後、すぐに
児玉は脳溢血で死亡。児玉にとって、後藤こそ生命線でした。

やがて、後藤。ポーツマス条約で獲得した南満州鉄道の初代総裁に
就任。満州経営にのりだし、結果を出し始めました。こんな後藤を、
中央政界がほっとくはずありません。後藤はやがて、鉄道院総裁、
寺内内閣では、外相、内相を歴任。東京市長にも、なりました。

そして第二次・山本内閣では、再び内相。第二次・山本内閣は、
加藤友三郎・首相の急死によって成立した臨時内閣。そして九月一日、
発生した関東大震災。そんな中での、組閣。

立川にある昭和記念館。その昭和館では、この時の内閣認証式を
描いた大きな絵があります。昭和天皇に拝謁する閣僚たち。
非常事態での拝謁に、みな、緊張。

この絵の中で、最も存在感をもって描かれたのは、山本首相でなく、
後藤内相。井上蔵相、田中陸相、犬養文相もいるのですが、圧倒。

内相・就任後、後藤は大規模な復興計画を発表。「大風呂敷」と呼ばれ
ました。この計画は、予算制約で、最終的には大きく削られたものの、
銀座の昭和通り、九段の靖国通り、そして明治通りが、この時、整備。
そして、さまざまな都立公園。

当時、幅45mの道路がなぜ必要なんだ、という意見が大勢。けれど、
後藤は自動車社会の到来を予見。強引に道路拡張、公園整備を
推進。東京の基礎を作りました。

一線を退いた後、後藤はボーイ・スカウトを設立。明治、大正の
実務家らしく、少年の知育、徳育、体育に力を入れました。

紅葉
autumn

関東大震災、被害累増の原因

JR両国駅。国技館を通り過ぎ、北へ歩くと、やがて横綱町公園。
日大一高もあります。大正の頃、この一帯は空地。帝国陸軍・
被服工廠の跡地でした。

大正十二年・九月一日に発生した関東大震災。下町の人々は、
揺れが収まった後、この空地に集まってきました。当時は防災教育も
なく、地震が起きれば、広い場所に行けばいい、という感覚。

最初、隅田川・対岸で発生した火災。風に煽られ、川を超えて東へと
延焼。瞬くうちに空地の周囲は火の海になりました。四万名を超す
人々が集まってましたが、火に囲まれ、逃げ場がありません。
阿鼻叫喚の地獄となりました。

集まった人々の九割以上が、ここで焼死、あるいは圧死。
関東大震災の犠牲者は、合わせて十・五万名。その四割が、
ここで、亡くなりました。今、横綱町公園には、慰霊塔が立ち、
中に入ると、当時を伝える展示があります。

ちなみに、この時。もう少し南にある新大橋。鉄橋だったこともあり、
橋上に集まった人は、助かりました。新大橋のたもとには今も、
それを記念する石碑。新大橋は「人助け橋」と呼ばれました。

水滴
water drop

第二次・護憲運動

原敬(はら たかし)が大正十年十一月、東京駅で暗殺された影響は
大きく、政党政治が機能しなくなりました。原を後継した高橋是清は、
政友会をまとめきれず、半年ほどで瓦解。

元老・西園寺公望は、この状況を見て、立憲政治では、のりきれないと、
判断。軍人から首相を選び、昭和天皇に推挙。こうして第二次・山本
権兵衛、加藤友三郎、清浦圭吾の三代の内閣。立憲によらず
成立した内閣、ということで「変態内閣」と呼ばれました。

とはいえ、清浦内閣は陸軍が予算獲得のために据えた臨時内閣。
時局収拾できません。ここで当時、三つあった有力政党が合流。
再び政党政治を始めんと動きだしました。これが「第二次・護憲運動」。
「大正政変」が第一次で、これが二度目。

護憲三派のリーダーは、政友会の高橋是清、憲政会の加藤高明、
革新倶楽部の犬養毅。彼らは各地で演説会を開き、立憲政治の
必要性を説きました。そして、行われた総選挙。ここで護憲三派が、
過半数を獲得。第一党は憲政会。加藤高明・内閣が発足。
大正十三年のこと。

三年後、政友会は革新倶楽部を吸収。憲政会は政友本党とくっついて、
民政党。昭和の二大政党制に道を開きました。この二つの政党に、
もう少し力があり、先を見通せたら、あるいは、大東亜戦争への
道はなかったかもしれません。

紅葉
nature

ビリケン宰相

山縣有朋、桂太郎と続いた長州の陸軍閥。それを後継したのが
寺内正毅(てらうち まさたけ)。大正五年、第二次・大隈内閣の後、
組閣。第一次・世界大戦のまっただ中。山縣が推挙し、
大命が下りました。

成立過程が山縣の推挙とあって、立憲とは呼べません。
「非立憲内閣」と言われました。しかも、寺内。当時、はやってた
ビリケン人形にそっくり。いつしか「非立憲」とかけて
「ビリケン宰相」と呼ばれるようになりました。

ちなみに、今、ビリケン様といえば、大阪・通天閣。ビリケン様の
足に触るとご利益がある、ということで、足がすり減ってます。

寺内組閣から十三年経った昭和四年、濱口内閣が誕生。
この時も、濱口雄幸は「ライオン宰相」。勇猛だったからでなく、
単に顔がライオンに似てたから。当時の人は、首相の容貌に、
あけすけでした。

さて、寺内首相。長州、陸軍の期待を背負った割には、大した成果も
挙げられませんでした。大正六年のロシア革命後、シベリア出兵を
決めてますが、これを成果とは言い難いでしょう。

結局、富山の主婦が起こした米騒動で、退陣するという情けない
幕引き。この体たらくを見て、後輩の田中儀一は長州閥には、
もう頼れないと判断。立憲政友会の原敬に、接近し始めます。

羽
feather

二〇三高地

遮蔽物ない丘の頂上に、敵軍が強力な陣地を構築。そこに友軍の歩兵が
突撃だけで前線突破を試みれば、どうなるでしょうか。

機銃掃射され、死屍累々となるのは明らか。二〇三高地で起きた戦闘が、
まさにそれ。日本兵の死体で、足の踏み場もないほど。
まさに高地が血で染まりました。

二〇三高地だけでなく、明治三十七年・八月末から始まった
旅順作戦では、全体的に、白兵戦が用いられました。

本来なら、敵軍が強力な陣地を構築したなら、こちらも陣地なり、
塹壕なりを作り、それを着実に進めていく形で、前線突破するのが、常道。
司令長官・乃木希典(のぎ まれすけ)も、その方針でした。

けれど、背水の陣で臨んだ日露戦争。帝国陸軍に余裕はありませんでした。
弾薬、装備、全てが不足。それを補うための人命損傷なら、やむを得ない、
という思想が蔓延。一度の総攻撃で、何千名の戦死者が出ても、
第三軍は突撃をやめませんでした。

死を覚悟した日本兵の気迫はすさまじく、堅牢な要塞を構えたロシア兵も、
機銃と手だけを上に出して、迎え撃ちました。バタバタ倒れながらも、
友軍の屍を踏み越え、進む日本兵。

ロシア軍の装備も完全では、ありません。撃ちまくってれば、弾丸も
尽きてきます。しかも戦闘の途中から、帝国陸軍が導入した二十八サンチ砲。
航空兵力がなかった当時、空から降ってくる大きな砲弾は、効果的。
ロシア軍・陣地は、少しずつ破壊されていきました。

結局、帝国陸軍は、白兵戦でロシア軍・陣地まで辿り着き、
そこで凄惨な取っ組み合いの結果、二〇三高地を落としました。
二〇三高地を手に入れれば、そこから二十八サンチ砲を旅順港に
打ち込めば、ロシアの旅順艦隊は無力化できます。

二〇三高地の勝利が、その後の奉天会戦、日本海海戦の勝利を導いた
わけですから、その意義は、大きいものでした。けれど帝国陸軍の中に、
白兵戦・至上主義、人命軽視の風潮を根づかせることにもなりました。

いざとなったら、白兵戦をやれば、敵はビビッて逃げる。

この奇妙な驕りが帝国陸軍をつけあがらせ、数十年後、大東亜戦争でも、
同じ作戦を繰り返しました。このようなものは、作戦とは呼べません。
しかも太平洋で対峙したアメリカ軍。白兵戦の通じる相手では、
ありませんでした。

ガダルカナルで、ニューギニアで、ビルマで、フィリピンで、無謀な突撃が
繰り返され、あたら若い命が失われました。迎え撃つアメリカ軍・司令官は、
どうして日本軍は、こんなバカな戦法を取るのだろうと、訝ったほど。

日露戦争に話を戻しましょう。戦争が終わり、ポーツマス条約が結ばれ、
晴れて日本に凱旋した乃木大将。国民から熱狂的な歓迎を受けました。
けれど何万名もの兵士を死なせての、帰国。乃木は。

われ、何の顔(かんばせ)ありてか、諸子にまみえん

明治天皇・崩御の際、妻・静子と共に自死した乃木大将。その胸中には、
あんな戦い方をして、申し訳なかった、というメッセージが込められてました。
けれど、乃木大将・自死の報を聞いても、その意味をホンとに理解し、
これからの戦争では、友軍の人命損傷をできるだけ少なくしようと、
考える陸軍軍人は、ほとんどいませんでした。

流れ
stream

日韓併合

明治四十三年、大日本帝国は、嫌がる大韓帝国を強制的に
併合したのでしょうか? だから韓国人は、今もそれを恨みに思い、
ことあるごとに日本を貶めるのでしょうか?

日韓併合は、朝鮮エリートが連名で、日本に請願する形で発議されたもの。
自主独立を全く達成できなかった、当時の朝鮮人。エリートたちは、
日本の力を借りて、近代化を達成しようとしました。

とはいえ「併合」とは同化を意味します。一体、朝鮮人が日本人に、
なってくれるでしょうか? その疑問を持ち、最後まで併合に反対したのが、
初代・朝鮮統監、伊藤博文。伊藤は、朝鮮に内政自治を認め、
軍事、外交だけ日本が担当すればいい、という意見でした。

幕末から修羅場をくぐり抜け、何度もの欧米視察により、国際社会を
熟知した伊藤。「併合」のマイナス面に、シッカリ気づいてました。

けれど、その伊藤がハルピンで殺されます。これで併合に反対する
政治家がいなくなり、日韓併合が決定。併合は円滑に実行され、
反対運動一つ、起きませんでした。

以降、大東亜戦争・敗戦までの三十六年間、日本統治が続きます。
併合ですから、日本人になってもらおうということで、日本文化が朝鮮に
導入されました。同時に、社会インフラも整備されます。鉄道、道路、電気、
上下水道、学校といった残る主要インフラが、日本人によって、
次々と作られました。

それまで朝鮮の社会インフラは、ほとんどゼロ。それ故、日本が導入した
近代化の威力はすさまじく、農業生産、工業生産が飛躍的に向上。
人口も三十六年間で二倍に増大しました。

なぜ朝鮮人は今、この近代化の恩恵について、
日本人に感謝の気持ちを持たないのでしょうか?

理由はどうやら、朝鮮人が日本人に同化したくなかった、いうことにありそうです。
確かに、朝鮮エリートたちは日本に併合を請願しました。けれど、それも、
やむにやまれず、そうしただけで、いつかは独立したかったのでしょう。

朝鮮民衆にすれば、知らないところで併合が決まり、結果、
入ってきた日本人は、いばり散らす外人にしか、見えなかったのでしょう。

文化導入の試みも、朝鮮人の反感を助長。朝鮮の家族制度、氏名、習慣。
それらは全て、日本人から見れば、合理性を欠く、無意味なものでしたが、
だからといって、日本人が代わりに導入した神道、皇室崇拝が、
朝鮮に根づくことも、ありませんでした。

ハングルを再興したのは、日本人。当時、朝鮮エリートはみな漢字を使い、
民衆は文盲。創氏改名も強制でなく、応募。当時の記録では、その応募に
朝鮮人が殺到。総督府は断るのに苦労したほど。

よく言われる、日本人が朝鮮で文字を奪い、
名前を奪い・・・という話は、全くのデタラメです。

日本人は「内鮮一体」を叫び、朝鮮人がいつか日本人になってくれると信じ、
その政策を邁進。けれどその感情は朝鮮人に全く通じず、それどころか、
大東亜戦争では、朝鮮人にも大きな犠牲が出ましたから、
日本人への反感だけが残りました。

日本だって、いろんな良いことをしたじゃないか。

今の日本人が、少し歴史を調べれば、朝鮮人にそう言いたくなります。
けれど結局、民衆の同意を得た併合でなかったこと。朝鮮人も動員したのに、
大東亜戦争に負けたこと。これらをもって、朝鮮人の日本統治時代への
評価は決まってしまいました。

結論としては、伊藤博文が正しかった、となりそうです。
朝鮮人は日本人になる気はなかったし、そんな同化は、
最初からムリだったということ。

明治期から、朝鮮権益が安保上、必要だったという点についても、
同化など目指さず、進出もせず、ちょうど元寇のように、九州防衛を
充実させることしか、方法はなかったでしょう。しかも当時は、日露戦争に
勝った後。当分、ロシアの脅威はなかったはず。

日韓併合は、日本に自己満足以外、何の利益も、もたらしませんでした。
三十六年間、総督府・予算は赤字のまま。日本からの持ち出しが続きました。
併合でなく、植民地経営を行った台湾で、総督府・予算がすぐ黒字化したのとは、
大違い。朝鮮には、日本の一級の頭脳が多数、送られたにもかかわらず。

日韓併合なければ、満州事変もなく、大東亜戦争もなかったでしょう。
その意味で、ハルピンでの伊藤・暗殺が今、悔やまれてなりません。
しかも現在、伊藤を殺した朝鮮人が、韓国では英雄扱いとか。
日本人と朝鮮人は、分かりあえる隣人ではなさそうです。

日本庭園
Japanese garden

脱亜論

日本に物質が行き渡り、あえて学問を薦める必要もなくなった今、
福沢諭吉の業績をもう一度、振り返るとすれば、それは脱亜論でしょう。

諭吉の脱亜論はこれまで、アジアを抜け出して西洋に学ぼう、という
趣旨で解されてきました。けれど実は「中韓とつきあうのは、もうやめて、
西洋と手を結ぼう」という内容。当時、澎湃(ほうはい)と湧き起ってた
「アジア主義」への諭吉なりの結論でした。

諭吉は幕末、咸臨丸に乗船して渡米。西洋が生み出した自由主義と
テクノロジーに感嘆して帰国。明治維新に尽力します。

けれど明治が進むにつれて、アジアで孤立する日本の危うさにも
気づきました。グルッと見渡せば、アジアには日本以外に、まともに
西洋に伍する意志、能力を持ち合わせた国がありません。

日本の安全保障面からも、アジアには日本以外に有力な国がほしいところ。
できれば、その国と手を携え、西洋列強の圧力をはね返さねば。
この時までは諭吉も大いにアジア主義者でした。

折しも朝鮮半島では李氏の時代錯誤な政策が破綻し、ちょうど日本の
幕末に似た状況が出現。そこに朝鮮・維新の志士として金玉均が登場。
金は科挙を首席で合格したエリート中のエリート。

諭吉は金を物心両面で支援。甲申事変の後、金が反対派によって
命を狙われるようになってからは、三田の慶応義塾で彼を匿いました。
この時は、諭吉も塾生も命がけ。

けれど金。結局、反対派によって上海で暗殺され、半島は再び
停滞へと逆戻り。朝鮮人が自ら、維新を実行することなど、
叶わないことが、内外に明らかになりました。

この状況を見て、呆れ果てた諭吉が書いた文章が脱亜論。
明治十八年のことです。その結びの言葉を引用しましょう。諭吉がまるで、
現代の私たちに向けて書いたかと思われる文章。私たちは中韓に
接する時、胸に刻んでおくべき文章です。

もはや、この二国が国際常識を身に付けるなどと、期待してはならない。
「東アジア共同体」の一員として、その繁栄に与ってくれる
などという幻想は捨てるべきである。

日本は、むしろ大陸、半島との関係を絶ち、先進国と共に
進まなければならない。ただ隣国だからという理由だけで、
特別な感情をもって接してはならない。

この二国に対しても、国際常識に従い、国際法に則って
接すればよい。悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。
私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交する者である。

水平線
horizon

関東大震災

大正六年にロシア革命が勃発し、五年後の大正十一年にソ連が誕生。
世界に共産主義の拠点ができました。

日本では、この頃、大正デモクラシー。大正七年、初の平民宰相・
原敬が組閣。この時代が華やかで自由な民主主義の幕開けだった、
と思ってる人も多いでしょう。

けれど自由の普及は反乱の普及。明治の自由民権運動が、
過激な暴力事件を多数、引き起こしたように、大正デモクラシーも、
反乱の種を日本各地にばらまきました。

大正十年、原首相が暗殺。後継の高橋是清・内閣は政友会を
まとめきれず、半年ほどで瓦解。立憲政治が一旦、放棄され、
海軍出身の加藤友三郎が組閣。大正十一年です。
同じ年、日本共産党も設立。

朝鮮半島では、原内閣の大正八年、三一運動。独立機運が高まります。
朝鮮人は上海で独立組織を結成。日本にエージェントを派遣。

日本人の共産主義者と朝鮮独立の志士。彼らは天皇制・打倒、
人民政府・樹立、民族解放で手を握りました。ロシア革命のひそみに
ならい、暴力革命を志向。標的は摂政宮(後の昭和天皇)。

大正十二年。十一月に摂政宮の婚儀が予定。ここで何か起きる、
というのが日本の官憲、反乱分子の双方に共有された雰囲気。
もちろん世論も、そう。大正デモクラシーといいながら、日本国内、
特に東京はピリピリ。

そこで発生した関東大震災。九月一日の正午。被害が大きかった
横浜で、最初に朝鮮人・暴動が発生。震災の発生により、
予定してた一斉蜂起が早まった形に。

九月二、三日の新聞は朝鮮人・暴動の記事で埋め尽くされます。
暴動の残虐さは熾烈を極め、日本人には正視できないほど。

ところが五日くらいから、朝鮮人・暴動に関する記事はピタッと
なくなり、逆に「朝鮮人への心配は無用」という記事が出始めます。

発足したばかりの第二次・山本内閣。内相・後藤新平が、メディアに
圧力をかけ、やめさせたと言われてます。後藤の右腕で、警察官僚だった
正力松太郎が動きました。正力は戦後、読売新聞・社主となる人物。

後藤は、メディアによる報道で各地の朝鮮人が勢いづくことを恐れました。
暴動が大きくなり、摂政宮に万一でも起きれば、取り返しつかない、
というわけです。

横浜での暴動記事に接し、日本人は自警団を組織。
朝鮮人に備えました。そしてやられる前にやるとばかり、
近隣の朝鮮人を殺し始めます。これが、一般的に言われる
関東大震災での「朝鮮人虐殺」。

最初に朝鮮人・暴動があったことは忘れ去られ、朝鮮人虐殺だけが
記憶されました。無政府主義者・大杉栄が憲兵に殺され、
井戸に投げ込まれたのは九月十六日。

内相・後藤は首都圏の朝鮮人を千葉・習志野に集め、保護。
監視の意味もありました。保護された朝鮮人の一人、朴烈(ぼく れつ)が
摂政宮・暗殺計画をペラペラ自白し始めたことより、当局は緊張。
この年の摂政宮・婚儀は見送られます。

朝鮮人虐殺といっても、当時の歴史背景は、このようなもの。
平成七年の阪神淡路・大震災、平成二十三年の東日本・大震災で、
規律と我慢強さで世界を驚かせた日本人。関東大震災でだけ、
悪魔だったわけはありません。

高山植物
Geschichte

二個師団・増設問題

明治四十三年の日韓併合の後、日本に当面の軍事的脅威は
なくなりました。維新以降、常に緊張してた帝国・陸海軍の士気は
ここで初めて弛緩。第二次・西園寺内閣の頃。

ロシア南下の野望はくじかれ、国内では一気に軍縮気運が高まります。
とはいえ帝国陸軍には朝鮮半島の安定という使命。半島に八個師団を要求。
ところが軍縮気運に押され、その要求は四個師団、二個師団へと縮小。
最終的な二個師団は、譲れない線でした。

西園寺公望は政友会・総裁。当時の幹事長は原敬。
原は全国に鉄道利権を張り巡らし、政友会の権力拡大に奔走。
その政策は「我田引鉄」と呼ばれました。
当然、陸軍の要求に聞く耳などありません。

時の陸相は上原勇作(うえはら ゆうさく)。
フランスに留学経験があり、日露戦争にも従軍。塹壕戦の専門家。
ただし上原に政治的な頼みは長州閥のみ。元老の山縣有朋、
後輩の田中義一に動かされて、上原は二個師団・増設を要求。

この要求が満たされないと分かると、陸相・辞任を決定。
上原は天皇に辞任を奏上。後任・陸相使命を陸軍が拒否したため、
政治がストップ。第二次・西園寺内閣は瓦解。

当時の人は「西園寺内閣の毒殺」と呼びました。この「毒殺」が
可能だった原因は「現役武官制」にありました。陸相、海相は現役武官で
なくてはならない、という制度。その制度を盾に内閣を恫喝したわけです。

現役武官制は第三次・桂内閣を経て、第一次・山本内閣の時に廃止。
山本内閣がジーメンス事件で倒れた後、大隈内閣が成立。
この時、第一次・世界大戦が勃発。

大隈内閣では、事の発端となった二個師団・増設問題も、
サッと認められました。何の反対運動もありません。
世論とは移り気なものです。

道
way

石井菊次郎

石井菊次郎は東京帝大・法から外務省に入省。有能な外交官として
出世を重ね、フランス大使に上りました。外務省では小村寿太郎の
弟子筋に当たります。大正四年、加藤高明の後を継いで外相に就任。
就任すぐの十月に「ロンドン宣言」を発表。

我が国は断固として戦線を離脱しない。

第一次・世界大戦を戦ってた英仏に対し、日本はあくまでも
戦争を継続すると宣言。信頼を勝ち取りました。当時、日本軍は
中国からドイツを追い出し、その利権を獲得。いつでも
有利な条件で講和に持ち込める立場でした。

そこで石井が出したロンドン宣言。英仏に大きな後ろ盾を与え、
第一次・世界大戦は英仏の勝利に終わりました。大戦後、日本が
国際連盟の常任理事国に入ったのも、こういう経緯があったからです。

石井はアメリカとの関係も重視。大戦中、アメリカの国務長官
ランシングとの間で「石井・ランシング協定」を締結。
日本が中国に持つ特殊権益をアメリカに認めさせ、
無用な紛争を回避。世界を動かす外交官として
「イシイ」の名はとどろきました。

石井菊次郎
foreign minister

ところが大戦中、政権の座に就いた原敬(はら たかし)。
アメリカ盲従の原にとって、石井の独自外交は目障りなだけ。
原は石井を遠ざけ、大戦後のヴェルサイユ条約にも
石井を派遣しませんでした。

なんでイシイが来ないんだ?

当時、パリに集った外交官の間で話題になりました。
石井の代わりに交渉に臨んだのは西園寺公望と牧野信顕
(まきの のぶあき)。やる気のない西園寺は会議に遅刻して
到着する始末。小村、高平、石井と続く日本の独自外交は、
ここで断たれました。

石井の後継となった幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)は、
原のアメリカ外交をそのまま踏襲。幣原外交は「軟弱外交」と呼ばれ、
その後、中国につけ入る隙を与えます。

目の見えた外交官・石井菊次郎。外交の一線を退いた後も、枢密院で活躍。
昭和になって懸案となった日独伊・三国同盟の締結には最後まで反対。

フレデリック大王以来、ドイツと組んで幸福になった国などない!

枢密院での石井の演説。誰も理解できませんでした。そもそも
「フレデリック大王」が十八世紀のフリードリッヒ大王を
指してると気づくまでに時間がかかりました。

石井がこれほどに反対したドイツとの軍事同盟。
石井の気持ちとは裏腹に、日本はドイツと手を結び、
やがて第二次・世界大戦に参戦。石井は暗澹たる気持ちで
真珠湾・攻撃の報に接しました。

戦争・末期の昭和二十年・五月、東京・山手がB29の大編隊に
襲われました。なぜか指摘されませんが、この時の犠牲者は、
三月十日の東京・大空襲に次ぐ規模。表参道には死体の山が築かれました。

原爆といい、都市空襲といい、日本人は今こそ、アメリカの
国際条約・違反と「人道に対する罪」を非難すべき時です。

最後まで戦争に反対し続けた石井菊次郎。
石井はこの時の山手空襲で死亡しました。

高平・ルート協定

明治四十一年に日米間で結ばれた協定。日本側では高平小五郎
(たかひら こごろう)駐米大使が取り仕切ったので、こう呼ばれます。
アメリカ代表者は国務長官エリフ・ルート。

三年前の明治三十八年に日露戦争が終結。東アジアでの日本の地位は
揺るぎないものになってました。とはいえ、それは当時、太平洋への
進出を企図してたアメリカとの衝突を意味します。

当然、両国間の協議が必要となり、その結果、結ばれた協定が
「高平・ルート協定」日本はアメリカのハワイ、フィリピン管理権を
認め、アメリカは日本の満州権益を認めました。

この協定によって、日露戦争後の日米間の紛争が予め解決されました。
ここに高平の先見の明を見てとることができます。大正・昭和に、
高平のような外交官が全く出なかったことが、
対米戦という悲劇を招きました。

六本木・飯倉にある外交資料館。二階に展示されてるポーツマス条約の
写真では、外相・小村寿太郎の脇で補佐する高平小五郎の姿が
写ってます。高平は高校・日本史ではほとんど出て来ませんが、
注目すべき外交官です。

カップ
cup

ニコポン政治家

長州出身の桂太郎(かつら たろう)は、首相として日露戦争を指導。
外相・小村寿太郎(こむら じゅたろう)と緊密な連携を取り、
ポーツマス条約にこぎつけます。

開国以来の悲願だった関税自主権を獲得したのもこの頃。その後、
第二次・桂内閣では日韓併合を実現。東アジアにおける
日本の地位が盤石となりました。

桂太郎
prime minister

とはいえ中学・歴史では、桂はほとんど登場しません。この時代、
日本は藩閥政治と政党政治の過渡期であり、そのはざまで苦悩した
桂には、あまり高い歴史評価が与えられませんでした。

山縣有朋に引き立てられながら、のし上がった桂。けれど
首相になってみると、衆議院のバックもなく、頼れるものは
縁故のみ。政友会・総裁の西園寺と交代で政権運営を
しなくてはならなかったのも、その理由によります。

長州閥を除いて、これといったコネがなかった桂。人身籠絡術に
頼らざるを得ません。見込んだ人物にはニコッと笑って、ポンと肩を
叩くのが習い性に。いつしか人は「ニコポン政治家」と揶揄。

桂としてはシッカリした政党基盤の上で、政治活動をしたかった
でしょう。外交で華々しい成果を挙げながら、国内では政友会の西園寺、
原に何となく煙たがられ、国民・支持率もサッパリ上がりません。

結局、桂がどうガンバろうと、政党政治の波は抑えきれず、
大正元年、第二次・西園寺内閣が「毒殺」で崩壊した後、
第三次・桂内閣を組閣するも国民の反対にあい、三カ月もたずに退陣。
世に言う「大正政変」。高校・日本史では「第一次・護憲運動」。
桂に最後の引導を渡したのは海軍の山本権兵衛。

下野(げや)した桂は長年、温めてた新党構想に着手。後に「立憲同志会」
となるこの新党。さあ、船出、という時に、桂が病に斃(たお)れます。
大正政変の波は、やはり相当なストレスだったのでしょう。

「坂の上の雲」でも、伊藤や山縣のパシリみたいに描かれる桂。けれど、
冷静に見つめるなら、日本史での彼の功績は決して小さくありません。
もっと見直されるべき政治家です。桂が設立した立憲同志会は、
桂が斃れた翌年の大正三年、第二次・大隈内閣で、与党として
政治の中央に躍り出ます。

明治十四年の政変

明治十四年に「開拓使官有物・払下げ事件」が発生。
北海道開拓長官・黒田清隆(くろだ きよたか)が官有物を
不当に安く民間に払い下げました。政府が十年かけて
千四百万円を払った物件を僅か三十九万円で売却。

しかも売却相手が黒田と同郷、薩摩出身の五代友厚でしたから、
政府内の汚職として厳しい批判の声が上がりました。批判の急先鋒に
立ったのが元・大蔵卿の大隈重信。折しも憲法論争があった頃で、
この事件は憲法問題にまで発展。

長い時間をかけてプロイセン式・憲法を作ろうと考えた伊藤博文。
早く憲法を制定し、議会を設立しようと画策した大隈重信。
結局、伊藤たち薩長閥が大隈を上回り、大隈は下野(げや)。
薩長閥の力がますます強まります。

とはいえ、大隈がクリーンな正論を述べた印象が残り、
国民の間には大隈人気が高まりました「判官びいき」も手伝い、
大隈への同情は強まります。大隈は下野した翌年の明治十五年、
東京専門学校を設立。これが後の早大になります。

今、振り返ればこの政変。薩長閥の深慮に軍配が上がります。
伊藤たちは十年以内に憲法を作り、議会を開くと約束。
早速、伊藤の欧州留学、その後の憲法作成が始まりました。

憲法の作成作業は、大隈が主張するような「今すぐ」では、
決してできない作業。政変から八年後の明治二十二年、
ようやく大日本帝国・憲法が発布。それから二年後の
明治二十四年、第一回・帝国議会が開かれました。

大日本帝国・憲法は欧州のさまざまな憲法を手本としながらも、
日本の歴史・伝統をシッカリ咀嚼(そしゃく)した上で
作成された、当時の世界でも稀にみる先進的なもの。

この背景には伊藤博文の尽力だけでなく、彼を支えた井上毅
(いのうえ こわし)伊東巳代治(いとう みよじ)金子堅太郎
(かねこ けんたろう)たちの議論と思索がありました。私たちは今、
伊藤+部下三名の、この作業をもっと評価するべきでしょう。

衆議院に予算・先議権が与えられたことは画期的でした。
この先議権によって、明治、大正、昭和を通じ、予算をめぐって、
衆議院が権力を行使。軍部もそれに屈服せざるを得ない時が、
しばしばありました。同時に大蔵省の権力も増大。その権力が
最高に達したのが、井上準之助の時代です。

明治十四年の政変で下野し、人気を博した大隈。
けれど明治三十一年、伊藤、山縣から政権を渡されると、
すぐに板垣・自由党との内紛が発生。結局、大隈内閣は
五カ月もたずに瓦解。薩長閥は鼻で笑ったことでしょう。

思慮深い薩長閥と薄っぺらい自由民権派との違いを
見て取ることこそ、明治十四年の政変が伝える教訓です。

もみじ
Ruhe

原敬

受験だの大学だのと全く無縁に生きてても、小・中学校のどこかで
「平民宰相・原敬」という名前を聞いたことがあるでしょう。

薩長閥が強かった中央政界で、当時、岩手出身にもかかわらず、
頭角を表し、やがては爵位を持たない身で首相に登りつめた原敬
(はら たかし)「はら けい」と呼ばれることもあります。

政治家としてのキャリアは1900年(明治33年)に始まります。
外務省に出仕し、外務次官まで上り、その後、毎日新聞社・社長を
務めた原。伊藤博文が設立した立憲政友会に幹事長として加わります。

1902年(明治35年)には盛岡から衆議院選挙に立候補して初当選。
原は政党の力をバックに利権政治を実行。選挙区に鉄道を敷き、
その利権の代わりに政治力を拡大する、という手法を取りました。

日露戦争後、外国との戦争が遠のいたと思われたこの時代、
原の説く利益誘導型・政策は国民の心を捉えました。言ってみれば、
原こそ、田中角栄に代表される金権政治の原形を築いた政治家でした。

当時、元老として権力・頂点に立ってた山縣有朋(やまがた ありとも)。
長州閥・山縣にとって、利権を盾にのし上がる原は、目触りな限り。
しかし子飼いの桂太郎が大正政変で倒れ、最後の切り札、寺内正毅
(てらうち まさたけ)も米騒動で首相の座を追われます。

原は首相になる以外の全ての道を、周到に潰してました。
政敵であっても山縣への心遣いも欠かさず、ついに1918年
(大正7年)首相に就任。政友会への国民の支持も絶大。

政党政治が確立し始めたこの頃、議会で多数派を握る政友会は、
予算を円滑に通過させることができ、それによって国政と軍を掌握。
政党が軍に優越し始めました。軍が政党政治を本格的に潰しに
かかるのは、もっと後のことです。

その意味では、原内閣は、平和な政党政治を実行した最初の内閣。
秘密政治や恐怖政治でない政党政治。もう一つの面は金権政治。
原内閣には汚職スキャンダルが絶えませんでした。

金権政治の批判をよそに、原は三年以上、首相を務めました。
暴漢に襲われることがなければ、原内閣はもっと続いたでしょう。
1921年(大正10年)11月4日、遊説に向かおうと東京駅に
立った原に、暴漢が接近。恐らくプロ。一撃は確実に
原の心臓を貫きました。原は即死。

原敬
prime minister

この時、原の身辺に危険が迫ってたことは明らかだったのに、
なぜ警備が手薄だったのか、今も歴史の謎として残ってます。
司法解剖に運ぼうとした警察を、妻・浅(あさ)が制止。
涙一つこぼさず、気丈に、原の乱れた衣服を整えた浅は。

もう総理ではありません。宅へ運んで下さい。

政治活動の激務の中、誰にも理解されず、ひっそり足を運んだ新橋の店。
そこで原が見初めた芸妓が浅でした。彼女も東北の貧しい家の出身。
全く身分違いだったにもかかわらず、原は誰にも打ち明けられない
苦悩を浅に伝えました。浅も、その気持ちにシッカリ応えます。
二人が伴侶となったことは必然だったでしょう。

原を失った政友会。後を高橋是清が首相となって引き継ぎますが、
利権に縁のない是清。半年も経たないうちに、政友会は分裂。
この後、三代に亘って日本の政党政治は頓挫します。

帝国・国防方針

1907年(明治40年)に定められました。二年前に終結した日露戦争。
その後の国防方針をまとめたもの。中味を大まかに言えば、爾後、
帝国陸軍はソ連、帝国海軍はアメリカを仮想敵国とする、というもの。

第一次世界大戦後、サイパンやグアムが日本・委任統治領となった時、
アメリカと戦争するならここ、という目的でサイパンに軍事基地と
日本人街が作られました。大東亜戦争時、そのサイパンで、
いかに悲劇的な戦いがあったかは、誰も知ってるでしょう。

とはいえ、この国防方針が出された背景には、別な思惑も。
日露戦争後、当分、軍に出番はなさそうでした。予算を
取り続けないと、軍は縮小を余儀なくされます。

陸軍が仮想敵国をソ連としたことには理がありましたが、
海軍が仮想敵国をアメリカにしたことには、大きなムリがありました。

けれど仮想敵国を設定しないと、海軍は陸軍に予算を取られるまま。
言わば、アメリカ仮想敵国は海軍が予算獲得のためにデッチ上げた話。
もともとアメリカと戦争する気などありません。
勝てるとも思ってません。

ところが仮想敵国はアメリカと言い続けて、予算を取り続けた海軍。
昭和になり、アメリカが日本を圧迫し始めた時「アメリカと戦争する気など、
ホンとはありませんでした」と言えなくなりました。
終戦後、東條英機は開戦経緯を聞かれ、次のように。

及川海相があの時「アメリカとは、できません」と
言ってくれてたら、開戦は防げたのに。

平和時には予算獲得こそ、省益。それは陸軍省・海軍省にも同じこと。
そして省益優先のデタラメ予算を数十年、続けた挙句、
日本は破滅の道へと突き進むことになりました。

空
life

松方デフレ

大隈重信が「明治十四年の政変」で下野した後、大蔵卿の職務は
大蔵次官だった松方正義(まつかた まさよし)に回ってきました。

積極財政を推進した大隈に対し、松方は緊縮財政を提唱。
「松方デフレ」と呼ばれる不景気の時代が始まります。

西南戦争が1877年(明治10年)に終了。明治政府にとって、
戦費調達のために膨張した通貨供給量を引き締める政策が急務。
松方財政はこれに沿ったもの。

「富国強兵」を掲げた明治政府。健全財政を国策の基本に
掲げます。健全財政あればこそ、有事の際に
国内で増税する余裕が生まれます。

また当時の日本は国債発行を外債に頼ってたため、
日頃から健全財政を行ってないと信用されません。明治時代、
常に外国との戦争を念頭に、国家運営がなされてました。

松方財政が始まった1881年度、紙幣発行高は1.5億円で
銀準備高(本位貨幣)は0.1億円。準備率は8%。

四年後の1885年度には、紙幣発行高は1.2億円で
銀準備高は0.45億円。準備率は37%まで回復。

この後、政府は銀兌換紙幣を発行して銀本位制を導入。
十二年後の1897年、日清戦争の賠償金による金準備を元に、
悲願の金本位制に移行。日本は名実ともに一等国に。
デフレの不景気と引き換えに、国際的信用を勝ち取りました。

日露戦争の戦費調達のために日銀・副総裁だった高橋是清が
欧州に渡った時、目標額の十倍以上の戦費調達ができたのも、
ひとえに平時における健全財政の賜物でした。

日本が放漫財政を続けてれば、足元を見られ、
全く相手にされなかったでしょう。

健全財政は明治・大正を通じて国策の基本。健全財政あればこそ、
日本が外国に伍してやっていけると、明治の元老は共通して
認識してました。この認識が崩れるのは昭和になってからです。

チューリップ
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