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慶大・日吉キャンパスでインタビュー受けました

土曜日、東横線・日吉駅。改札を出て、待っててくれたのは慶大生、
五名。新入生です。教育学の授業で集まった彼ら。現在、
教育に携わってる人にインタビューしよう、という企画。
安藤ゼミ。

その「教育に携わってる人」として、なんと私が登場。日吉キャンパスで
インタビュー受けることになりました。

塾講師になった経緯、その仕事内容。そこから始まり、文学、哲学、
はては経済、金融、投資の話まで。聞く耳あらば、私にも一家言。
若い知性に伝えておきたいこと、たくさん。話すべきこと、
話しておきました。

二時間、あっという間に経過。今回、慶大生フレッシュマンの
お役に立てたでしょうか?

水
water

劇団森2016・DOLL

劇団森(しん)の定期公演、早大・戸山キャンパスで開催されました。
土曜日・午後二時。演目は"DOLL"。

登場人物は五人の女子。鎌倉の寄宿学校。高校生。なぜか一人、
男子キャスト。それが「きょうこ」と呼ばれます。しかも劇中では
「オレ」と男子言葉。この謎は、最後まで解かれることありません。

舞台は通常の形でなく、登場人物たちが向きあわない設定。
コミュニケーションの不可能を表します。

ストーリーを追うことより、キャスト演技、ダンスに注目させる劇。
最終公演は今日。このブログでネタバレしては、いけません。
これ以上のストーリーは、やめておきましょう。

気球
sky

慶大SFCの昼休み

新緑、眩しい季節、久しぶりに訪問したSFC。周囲には、森と畑、
そして、ため池。ため池は「カモ池」と呼ばれ、周囲でまったりすること、
「カモる」。今回、新しい造語を学びました。

聞けば、SFC。昼休みありません。通常の休憩時間のまま、
朝から晩まで。だから、昼に空き時間、作れればよいのですが、
そうでない場合、食事時間、なし。

その代わり、なんと、授業中、食べていい、という暗黙のルール。
ホンと? 信じられない。けれど、お昼どき、外から教室を覗くと、
食べてる、食べてる。

一体、SFC、昼休み設定しない理由は、何でしょう? 食べながら、
授業を聞いて、理解、深まるとでも? 昼休みなしにして、諭吉、
以来の何かの理念、達成できるのでしょうか?

慶大SFC、授業中に食べてよし。これからの受験生にとっても、
入学前に、知ってとくべきことです。

色
Campus

劇団森2016・さらば 愛しの箱根駅伝

劇団森(しん)の定期公演が早大・学生会館で行われます。私も、いそいそと
出かけました。開演は午後二時。主催者から、確認メールが前日、
何度も届く徹底ぶり。これは、行かないわけにはいきません。

日吉から西早稲田まで東横線、副都心線で一本。出口を出て、
学習院女子の瀟洒な校舎を右に歩いていると、ありました。
早大・学生会館。B203は、地下二階。こんな場所で。

会場は既に暗く、観客でいっぱい。やがて始まった定期公演。
テーマはズバリ、箱根駅伝。

紅葉大・マラソン部主将の走(はしる)。走たち十名は、箱根駅伝のため、
学生生活の全てを捧げてきました。けれど練習中、部員の一人にケガ。
ここから、走の苦悩が始まります。箱根駅伝への出場を諦めるか
どうか、その決断が、彼に託されました。

走には父親がいません。苦悩の末、辿りついたのは父の墓前。
そこで彼は、父・登(のぼる)と友人だった勇作という人物に遭遇。
二十年前、父・登と勇作は、ちょうど今の走のように、箱根駅伝を
目指すランナー。それぞれの大学に属しながら、競いあう好敵手。
どうやら勇作は、父の死の原因についても、知ってるそぶり。

そして、シーンは二十年前の父・登と勇作。二人は、ふとしたことから、
知りあい、互いの実力を認めあいます。目標は、箱根駅伝。勇作のチームで
女子マネを務めるラン。彼女は相手チーム主将の登に思いを寄せます。
結局、登とランは結ばれ、ランは、走の母親に。

現在と過去が交差。走が率いる紅葉大。父・登と友人・勇作が率いる、
それぞれの大学チーム。そして謎の鶴見大チームも加わり、
四つどもえの箱根駅伝がスタート!

走は登、勇作と共に十区を走ることなりました。その結果は?
そして走は父から、どんなメッセージを受け取ったでしょうか・・・

二時間を超える公演。早大生が時間をかけ、練ったストーリー。
ぼうっとしてると、ついていけなくなります。

シュールなようでいて、最初と最後をキチッと合わせ、統一感を出しました。
最初の山神の決闘。最後で、その二人が学生服の中学生として
走りさる、まとめ方は、相当、苦労したはず。

最後に流れるのはTOTOの"Africa"。
なんと、80年代ポップを、こんな場所で、流すとは。

教え子・女子も出演。彼女も体当たりの演技。主役を盛りたてました。
塾に通ってた頃、早稲田に入ったら、演劇やりたいと言ってた女子。
その夢を叶えました。劇団森。これからも公演が続くとか。
こんなできばえなら、私ももっと足を運ばなくてはなりません。

森1
forest

生田キャンパス・登戸研究所

小田急線・生田駅から歩く明大・生田キャンパス。実はこの場所、
戦前は「登戸研究所」。この名前すらコード・ネーム。
正式には第九陸軍・技術研究所。

「秘密戦」に関する研究が行われました。秘密戦というのは、諜報、謀略を
使った戦いのこと。研究対象は軍事機密だったり、非合法だったりしたため、
登戸研究所の存在そのものが秘密にされました。

風船爆弾、生物兵器、偽札製造など、登戸研究所で行ってた研究は多岐。
参加した研究員も軍関係者だけでなく、特務機関から集められました。
当時の陸軍の秀才ばかり。

戦後、登戸研究所は解散し、昭和三十年、跡地を明大が購入。
工学部、農学部をここに置きました。というわけで今、農学部・校舎の
隣に、登戸研究所・史料館があります。生田キャンパスを訪問するなら、
ついでに見ておきたい施設。大東亜戦争の裏側を見ることができます。

あじさい
June

横浜祭2014・ウォーター・フットプリント

港北ニュータウンにある私のマンション。ポストに都市大・横浜祭のチラシ。
見れば六月七、八日。牛久保(うしくぼ)にある横浜キャンパスは、
歩いて行ける距離。土曜日、雨模様の中、足を運んでみました。

都市大・横浜キャンパスには環境学部、メディア情報学部。
環境学部には環境創生学科、環境マネジメント学科。メディア情報学部には
社会メディア学科、情報システム学科。他にも世田谷キャンパス、
等々力キャンパスがあります。

第十八回・横浜祭。屋台の食べ物は、どうせ他大学と同じ。
研究室・展示を見ていきましょう。やはり、と言うべきか、
環境学部の展示が秀逸。

里山づくり 水の浄化 香りの芝生・・・

環境保全をそれぞれの視点から研究、展示。研究室が思い思いに
展示しても、全体が一つにまとまるのはスゴイ。しかも環境保全は
日本だけでなく、世界が最も必要とするテーマ。英文学、仏文学といった
何の役にも立たないヒマつぶしとは、わけが違います。

外に出てみると、テント展示。パネルをボンヤリ見てると。

ウォーター・フットプリントって聞いたこと、ありますか?

都市大・女子が話しかけてきました。「ううん」と言うと、説明し始めました。
ウォーター・フットプリントとは、ある製品が完成するまでに、それに
要した水量を数値化したもの。私たちの周囲にある全ての製品は、
その生産過程で水が関わってます。その値をはじき出した数字。

1950年代から伸び始め、1980年代から急激になるウォーター・フットプリント。
説明する彼女の声にも力が入ります。特に1980年代からの伸びでは、
アジアの存在感。中国の影を見ることはたやすいでしょう。

世界各国の深刻な水不足。いちいち写真を使って説明。
ちなみに日本はどうか聞いてみると。

日本は違いますね。水の確保が簡単です。

日本は世界でも稀に、清水の豊かな国。蛇口をひねって水が飲める国は、
実はほとんどありません。しかも隣国に真っ黒な中国。
思わず顔を見合わせてしまいます。

聞けば、彼女。メディア情報学部とか。文系、理系どちらから進学するかを
訊ねると、両方いるとのこと。入試科目が柔軟になってて、文系、理系どちら
からも受験できるよう。確かに、環境保全に文系も理系もありません。

地味な大学らしく、派手さのない横浜祭。けれど普段のマジメな学習を
展示しようという試みは買うべきでしょう。ツマラナイ文学部など、
設置してないおかげで、横浜祭のテーマも時代の要請にあってます。
都市大。また行事をやってれば、行ってみましょう。

夢
creation

神奈川大学

東急東横線・白楽駅(はくらく えき)から南へ伸びる
ふれあいのまち・商店街。オリジナルな店が多い通り。
この商店街は六角橋・交差点で終わります。

交差点から住宅街を上った所に神奈川大学。丘の上にあります。
「神大」(じんだい)と呼ばれる私大。近くには捜真女学校も。
白楽からだけでなく、反町から行くこともできます。

設立は昭和三年。米田吉盛(よねだ よしもり)が横浜に
法律・経済を教える専門学校を開きました。横浜専門学校。
当時、横浜には「Y専」という市立の商業学校がありましたが、
私学では横専が最初。

ちなみに戦前、横専とY専は野球の定期戦を行ってました。
戦績は残ってませんが、ライバル校どうしの対戦。
さぞ盛り上がったことでしょう。

戦後、横専は神大に、Y専は横市になりました。新制大学に
なるに当たり、両校とも「横浜大学」を名乗りたかったのですが、
横国まで横浜大学を主張したため、三校いずれにも使わせない
という痛み分けで終わりました。

けれど神大。名前だけ聞けば、まるで神奈川の国立大のよう。
首都圏以外で「神奈川大学」と聞けば、そう取られるのでは
ないでしょうか。

ということは神大。神奈川を背負って立ち、ゆくゆくは全国に
飛翔できる命名でもあったわけです。学部も伝統的な法、経済、
経営に加えて、早くから外国語学部を設置。

理系も理学部、工学部を揃え、確かに神奈川の
私立総合大学としてはトップを行きます。

けれど神大。箱根駅伝で走ってる以外、ほとんど存在感がありません。
横浜に住んでいても、です。それなりの歴史・伝統があり、
六角橋のロケーションも悪くありません。少なくとも、
東京のMARCHに匹敵する地位は得られたはず。

ところが神大。教員か公務員を輩出するのが、せいぜい。
その名にかかわらず、神奈川を背負って立つことはできてません。
今も「神大」と言えば、全国的には「神戸大学」を指すでしょう。

偏差値でも日東駒専レベル。数だけは多い平均値。日大ならば、
社長を輩出する気風もあるのですが、神大には、それもありません。
OBとしても軍学者の兵頭二十八(ひょうどう にそはち)くらい。

四月の今、神大に行くと、学生がゾロゾロ。広いはずの敷地も
狭く感じられます。これでは「ここしか受からなかった」
学生以外、支持を集められないでしょう。

そう。神大はコンテンツを高め、それを発信するべきです。
横浜にいて「給費生試験」のポスター以外、神大の情報が
来ないとは、どういうことでしょう。

マグロ養殖や植物工場、そしてオリンピック選手輩出によって、
ステータスを急上昇させてる近大が、参考になるでしょう。
神大も社会に有用で、話題になる研究を早く確立すべきです。

近代マグロにしたところで、研究が始まって四十年。
当時、紅顔の学生たちは今、初老に。世間に認められる
研究というのは、それほど時間がかかるもの。

神大の財務には、まだ余裕があります。受験生も二万人近く、
集めてます。とはいえ偏差値50~55程度の学生を拾ってるだけ。
このレベルの学生なら、数には困りません。

けれど大学が選ばれる時代。そんな集め方をしては早晩、
学生に見放されます。同レベルの東海大が電気自動車や
ロボットの研究で、一定の評価を集めてることからしても、
神大も危機感溢れる改革を、スタートさせるべきでしょう。

今のうちに未来を見据えた先行投資ができるなら、神大の
地力をもってすれば、もっと大きな飛翔が可能。少なくとも
平塚の山中にある東海大は軽く抜き去ることができるはず。

設備はキレイで、横浜駅からも遠くない。神大のポテンシャルは
大きいだけに、今のように小さくまとまってるのは惜しいと
言わざるを得ません。

夜桜
la nuit de printemps

慶大SFC

町田でJR横浜線から小田急線に乗り換えましょう。箱根湯本・行と
片瀬江の島・行の二つがありますから、注意が必要です。

片瀬江の島・行の快速に乗ると、相模大野、中央林間、大和と続いて、
湘南台駅(しょうなんだい えき)ここで降りましょう。

西口を出ます。ここはもう藤沢市。駅前には低い建物しかありません。
しばらく歩けば、神奈中バス・一番乗り場。ここから慶大行のバス。
慶大と言っても、慶大SFC。総合政策学部と環境情報学部。
ちなみにSFCとは"Shonan Fujisawa Campus"のこと。

バスはすぐに畑が続く道に入ります。十分もしないうちにSFCキャンパス。
典型的な郊外型キャンパス。周囲には大学以外、何もありません。

バスを降りて右に本館前。アルファ館。左に大講義室棟。オメガ館。
その向こうにメディア・センター。ここはミュー館。SFCでは、
このように建物にギリシア・アルファベットが付けられてます。

SFCは平成二年に「文理融合」を目指して、ここ藤沢に設立されました。
当初は全人的な教育を受けた学生がいる、ということで大いに注目されました。
けれど都心からあまりにも遠い立地が敬遠され、偏差値がドンドン低下。
やがて慶大で最も偏差値が低い学部に。

とはいえSFC。当初からコンピューターやITに関する教育を充実。
その教育を受けた卒業生がIT最先端で活躍し始めるにつれて、
今一度、勢いを取り戻しつつあります。

学生がパソコンを教室に持ち込むことが多く、教員の何気ない一言を
すぐに検索する姿が目立ちます。中でも注目すべきは環境情報学部の
村井純・研究室「インターネット」という枠組みで、さまざまな研究。

村井は日本のインターネットの草分け。日本とアメリカの回線を
初めてつないだのも村井。彼の下に多彩な学生が集結。東大や京大では、
逆立ちしてもできない、アイデア溢れる研究が生まれてます。
もう文系も理系も関係ありません。

インターネットは今や、社会の隅々に使われてます。それ故、
インターネットを枠に使えば、そのまま従来の「社会学」の枠を
設定できるわけです。起業を意識する学生も多く、今、
日本の文系学部が総じてダラしない中、SFCは
いい線を行ってると言っていいでしょう。

私の教え子からも毎年、数名がSFCに進学。都心からは遠いけど、
それが気にならないなら、面白い学び舎です。

森の池
the pond in forest

山村再生プロジェクト

東京農大の国際食料情報学部。その食料環境経済学科が
打ち出したプロジェクト。

山村の農業。個人でやろうとしても採算が取れません。

作物を作れば、シカやイノシシに食べられ、
果物を作れば、サルに食べられます。

「限界集落」という言葉もでき、耕作放棄地も増大。
高齢化が加わって、山村がますます荒廃。

この状況に対して食料環境経済学科。若者の力を使って、
地域再生に取り組もうとしてます。プロジェクトが
課題として挙げてる項目を見ると。

1・伝統再生によって地域の魅力を高める。
2・都会の若者と山村との接点を多くする。
3・地産地消を促し、地域力を高める。
4・農村での女性起業をバック・アップする。

どれもこれも必要なことばかり。農業に特化した東京農大としては、
取り組まざるを得ない課題。実践の場が必要ですね。

長野県・長和町(ながわ ちょう)。ここで行われてる山村再生プロジェクト。
農大生が活躍してます。魅力的な商品の企画・立案。農業体験。環境保全体験。
そして販売体験も。実学を打ち出す農大ならでは。

山村を復興させ、日本を蘇(よみがえ)らせようというプロジェクト。
始まってからまだ数年。実を結ぶのはこれからです。

子犬
little dog

獨協大学

長州出身の明治の元勲・品川弥二郎(しながわ やじろう)。彼の像は
九段・田安門にあります。隣には薩摩出身の大山巌(おおやま いわお)が
馬に乗ってる像も。

品川が1881年(明治14年)に発足させたのが獨逸学協会。当時、
ドイツ学はそのまま法学、哲学でもありました。二年後の1883年
(明治16年)獨逸学協会・学校が開学。これが獨協学園の始まり。
今も獨協学園の学祖は品川。

初代学長を務めたのは西周(にし あまね)。日本語に「哲学」という言葉を
導入し、それを皮切りに、さまざまな哲学用語を作り出した西。幕末、
西洋に学び、帰国後は徳川慶喜に西洋の制度を講義。

さて獨逸学協会・学校。神田にあったのですが、1900年(明治33年)、
校舎が火災で焼失。移転場所を探したところ、目白の椿山荘・前に
土地を確保。椿山荘と言えば、山縣有朋の邸宅。意外なところで
長州閥の力が発揮されました。今も獨協中・高は椿山荘・前に。

獨協大学が設立されたのは戦後、しばらく経ってから。1964年(昭和39年)に
天野貞祐(あまの ていゆう)が実業家の関湊(せき みなと)の協力を
得て設立。今も獨協大の正門を入ると、この二人の胸像。

天野は第三次・吉田内閣で文部大臣も務めた学者。カントの
「純粋理性批判」を最初に訳したのも彼。獨協大学・設立者として、
ふさわしい人物。では獨協大、どこにあるのでしょうか?

田園都市線は渋谷で半蔵門線に変わります。そのまま乗ってると、
スカイ・ツリーのある押上(おしあげ)に。押上からは東武東上線。
曳舟。北千住。草加・・・

草加で乗り換えれば一駅で松原団地。ここで降ります。駅を降りると、
ハーモネス・プラザ。それをくぐると獨協大・校舎が見えてきます。
新しい校舎。窓が大きく取られて、外の日差しが差し込みます。
明るい。廊下もトイレもピカピカ。

しかもあちこちにラウンジがあります。落ち着いて話せるスペースを確保。
学生目線に立ってます。東大や慶大の校舎は重厚。それはカッコイイようで、
昼間でも中は真っ暗。建て替えればすむ話ですが、時計台やら何やらが
象徴的な意味を帯び、今さら建て替えすらできません。

思えば、東大。駒場にしろ、本郷にしろ、校舎は汚く暗いまま。
ちょっとカワイソウ。その点、獨協。新しい大学である分、奇妙な象徴も
ありませんでした。それは良いことだったでしょう。廊下には到る所に
チャット・ルームの掲示。英、独、仏の言語だけでなくスペイン語や中国語も。
さすが「語学の獨協」と言われるだけあります。

外国語学部。国際教養学部。経済学部。法学部。これらが一つの
キャンパスに集まってます。でも獨協。東京にいると今ひとつ、存在感を
感じません。やはり外国語学部が法学部、経済学部を牽引し切れなかった
ことが、上昇を阻んだ大きな原因でしょう。

最初は外国語学部で人気を取っても、次第に法学部の国際関係法や
経済学部の国際経営が力を付けていく。文系の大学が全国に名を
馳せるには、このパターンがどうしても必要。

そして、そういう法学部、経済学部から総合商社、メーカー、銀行に
進む者がたくさん出てこそ、大学は活性化します。最初は人文。けれど、
その後には法、経が続かなくてはなりません。獨協では、その継承が
見られませんでした。西洋研究に終始。設立理念に、あまりに忠実。

で、獨協。これからどうするのでしょうか? 相変わらず西洋研究で
行くのでしょうか? そう。設立理念はとりあえず置いといて、
獨協もアジア研究へと舵を切るべきです。

確かに現代人の思考方法や社会システムの根本は、西洋に端を
発してますから、西洋を無視するわけにはいきません。
けれど、それはあくまで過去の話。未来はアジアから。
そちらにシフトしていくのは当然のことでしょう。

しかもその時、獨協が今まで培った西洋研究はムダにならないどころか、
より広いアジア研究の土台となってくれるでしょう。

それと獨協。ぜひ東武鉄道と話し合って「松原団地」というダサイ駅名を
「獨協大学前」と変えてもらいましょう。駅名を学校名に帰るだけで
周辺地価は上がります。松原団地・住人にも悪い話ではありません。

緑
green

国士舘大・二十一世紀アジア学部

小田急線・鶴川駅(つるかわ えき)。駅を降りるとバス・ロータリー。
二番乗り場から小田急バスに乗りましょう。
どのバスに乗っても国士舘大に行きます。

え、国士舘って世田谷にあるんじゃ?

ここ町田にもキャンパスがあります。国士舘大・二十一世紀アジア学部。
バスはドンドン住宅街に。そして国士舘大学前。けれど降りても周囲は
都営住宅ばかり。キャンパスらしきものはありません。

ウロウロしてると看板が見えてきました。通りから引っ込んだ所に正門。
その向こうにキャンパスが広がってるのでした。二十一世紀アジア学部の
校舎は正門から歩いて行った、かなり奥まった場所。国士舘大の中でも
一番新しい学部。2002年(平成14年)4月に開学。

未来を予測する研究をしよう。アジアを全体的に捉えよう。

これが学部設立のグランド・コンセプト。三つのコースがあります。

交流アジアコース アジアビジネスコース アジア探求コース

国際関係論からアジアを研究したければ「交流アジアコース」。
貿易や実務に興味があるなら「アジアビジネスコース」。
文化や歴史を探求するなら「アジア探求コース」。

将来、ビジネスをやるにしても当該地域・文化への洞察は不可欠。
そういう考えが見えますね。語学としては中国語、韓国語、タイ語、
ベトナム語、インドネシア語、ロシア語、アラビア語を揃えてます。

在学中に留学し、現地でインターンとして働き、帰国して
卒業することが可能。現地での働きぶりが評価されれば、
卒業後、改めて就職するという道も。

今後、アジアの時代が到来するのは間違いありません。しかも重心は、
中国から次第にインド、東南アジアへと移っていくでしょう。

その時、このような学部を設立した意味が出て来ます。未来を
見据えた学部。国士舘大の試みは、今後、注目するに値します。

花束
bouquet

大東文化大学

池袋から東武東上線に乗って七つ目の駅。東武練馬。駅前の大東文化会館。
そこからはスクール・バス。板橋キャンパスには五分ほどで到着。
三、四年生がここで学びます。一、二年生は同じ東武東上線で
一時間ほど向こうの東松山キャンパスに。

ただし国際関係学部とスポーツ健康科学部は、四年間ずっと
東松山キャンパス。この二学部は新しく、板橋キャンパスでは
十分なスペースを確保できなかったようです。

さて板橋キャンパス。正門から入るとすぐに裏門。隣には
大東文化第一高校。敷地自体は消して広くはありません。

中央にある図書館を囲むように校舎が。ただしメインは
左右に長く続く三号館。一~三階が教室。四~五階が研究室。
ガラス張りの明るい雰囲気。壁面にはソーラー・パネル。
太陽光発電までやってるのですね。

戦前、九段に「大東文化学院」という小さな学校がありました。
その名の通り、漢籍研究から始まり、大きくアジア全体を学ぼうという学校。

ところが大東亜戦争。そして終戦。大東文化学院は戦後、新制大学への
許可を求めるにあたり「大東」という文字を取り、別名で申請しました。
大東文化学院そのものは、大東亜思想と関係なかったのですが、
GHQに国粋的な学校とみなされたくなかったのでしょう。

とはいえ「大東文化」という校名への愛着は卒業生、関係者に根強く、
新制大学となっていくらも経たないうちに「大東文化大学」に戻り、
今に至ってます。戦後のドサクサで校舎を転々とし、現在の板橋キャンパスに
落ち着いたのは1950年代。その後、学生数・増加により、板橋キャンパスも
手狭となり、東松山キャンパスが設立されました。

このような経緯から大東文化大。今も中国研究、アジア研究、
そして国際関係学がメインです。文学部に加え、外国語学部、
国際関係学部まで。あとは通常の法、経済、経営。
新しい学部としては環境創造学部、スポーツ健康科学部。

文系だけの学部構成なので、狭い大学でも、これだけの学部を詰め込む
ことができたのでしょう。その点では武蔵大と同じく、大東文化大は、
規模拡大に走らなかった故に、バブル以降の後遺症に苦しむことも
ありませんでした。文学部と外国語学部には似てる学科も多く。

日本文学科と日本語学科 中国学科と中国語学科
英米文学科と英語学科

これらを揃えられること自体、大学としての厚みを感じます。
やはり文系に特化した分、このような余裕もできたのでしょう。

さて大東文化大。いいことばかりではありません。特色ある大学なのに、
偏差値がまるで上がりません。50行くか、行かないかの程度。
「大東亜帝国」の一角で、そもそも「大学」と呼べるスレスレのライン。

キャンパスのロケーションという、どうしようもない構造的課題は、
ひとまずおきましょう。やはり対外アピールのマズサが、
上昇を見込めない原因ではないでしょうか。

これからのアジアの時代。大東文化大が誇れるものはいろいろあり、
それに興味を抱く受験生も多いはず。けれど電車で、たまに見る
大東文化大の広告。アジア研究に強いことすら、全く見えてこず、
「緑の中の学び舎」みたいなトンチンカンな打ち出し方。

戦後の危機がよっぽどこたえて、今もアジア研究を口にしにくいのでしょうか?
歴史、伝統、学部陣容が揃ってるのだから、工夫しだいでMARCHはともかく
日東駒専くらいは十分に追いつけるはず。どうして、
こう打ち出さないのでしょう。

アジア研究なら我が大学へ! 大東文化大。

大東文化大は、大学としては珍しく、キャラクターを持ってます。
ピーター・ラビット。学びの森で共にガンバりましょう、という趣旨。

自然をアピールすることは大いに結構。けれど大学は文系、理系を問わず、
文化を扱う場所であることを忘れてはなりません。

大東文化大では、入学時・偏差値の割には就職率は良く、しかも大学として
教員養成に力を入れてます。確かに平凡な教育学部でツマラナイ訓練を受け、
何も面白くない教員より、大東文化大で中国研究や国際関係学部に触れ、
その後、英語や社会を教えることになった教員の方が、遥かに面白く、
アクティブな授業ができそうです。

もっと効果的にアピールすればいいのに。

大東文化大にそう感じる人は、私だけではないでしょう。

滴
drops

武蔵大学

根津嘉一郎(ねづ かいちろう)という「鉄道王」がいます。明治、大正、
昭和を生き抜いた実業家。東武鉄道の経営で有名。東武鉄道と東上鉄道を
合併したのも根津。関西では南海電鉄の経営に加わりました。

根津は明治期、アメリカを視察した際、現地の資産家が慈善事業に
多額の資金を投じてる姿勢を目の当たりにし、「社会で得た利益は
社会に還元すべし」という強固な信念を持つに至りました。

根津は1922年(大正11年)旧制・武蔵高校を設立。晩年のことです。
とはいえ、社会にダイレクトに恩恵を与えられる教育に参加できたことは、
根津には本望だったでしょう。

戦後、武蔵高校に大学ができたのは、必然でした。武蔵大学は1949年
(昭和24年)新制・大学として発足。経済学部、人文学部、社会学部の
三学部で構成されます。

西武・池袋線の江古田駅(えこだ えき)が最寄り。駅を出て
ゴチャゴチャした商店街を抜けると千川通り。
右へ歩けば、すぐに武蔵大のキャンパス。

1970~80年代、多くの私学がユニヴァーシティを夢見て、理系学部を設立し、
場所が足りずに郊外に。一方、武蔵大はそのトレンドに乗らず、
江古田で三学部を堅持し続けました。2013年(平成25年)の今、
郊外に出てった私学の多くは、規模拡大による弊害に苦しんでます。

伝統が途切れ、かつての面影を失くした文系学部。
志願者が集まらず、不良資産化した理系学部。

その点、無謀な規模拡大に走らなかった武蔵大の経営姿勢はみごとでした。
どこの私学も郊外に進出してる時に、一人踏み止まるには、
それだけの理念と根性が必要だったでしょう。

さて、そんな武蔵大の特徴を挙げるなら、何と言っても「ゼミの充実」。
通常、一・二年次には「一般教養」という名前で高校の延長みたいな授業を
受けます。この一般教養。有名大を含め、普通の大学では、たいてい
教員から学生への一方通行。まともな授業も、面白い授業もありません。

第二・外国語という科目も、ここに含まれますが、その外国語が全く身に
付いてないことを見ても、一般教養の無意味さが理解できるでしょう。

三年次に、ようやくゼミ。けれど文系の場合、ゼミに入らず、卒論も書かずに
卒業することが可能。たとえゼミがあっても、たいていは課題図書の講読。
外国語の場合、訳読中心。高校の英語授業と、ほとんど変わりません。

いずれにせよディスカッション(議論)など行われず、課題図書を読んで
おしまい。訳読の場合、一度の授業で一ページほど。一年で三十ページ。
この分量で一体、何を学ぶというのでしょう?

しかも課題図書の選定には、教員が、たまたま興味を持った図書が
使われます。恣意的も、いいところ。今の学生に何が必要なのか、
という視点から、課題図書が選ばれたしません。

結果、ゼミとは名ばかりの白けた時間が続きます。しかも、情けないことに、
このダラけた空間は、怠けたいだけの教員、学生、双方にとって、
ぬるま湯の、実に心地良い空間。その堕落ぶりは、まともな判断力あれば、
心震えるはず。今の日本の大学は、冷静に見れば、そういう状況。

たまに教え子の大学生から、話を聞くことがあります。そんな彼らは一様に
「大学が楽しい」。私も場を壊すわけにはいきませんから、笑って流してます。

けれど「楽しい」という彼らの言葉。よく聞いてると「ディズニー・リゾートが
楽しい」という意味と、ほとんど変わらないことが分かってきます。

自己の崩壊。それに伴う視野の拡大。

真の知的作業とは、こういうものでしょう。けれど、そういう知的作業とは、
およそ無縁の、その場限りの喜びに包まれた、平穏な大学。
このような大学に全く意味はありません。
というより、害ですらあります。

武蔵大を見てみましょう。ここでは全学部で一年次にゼミに入ります。
入学後、オリエンテーションがあってゼミが開始。課題図書なり、
研究テーマなりを与えられ、研究が始まります。秋には
プレゼンテーション。自分の研究結果を発表。

教員はディスカッションが逸れないように注意し、自らの専門知識を
生かして、ディスカッションに足りない部分を補います。

これこそ理想。しかも武蔵大のスゴイ点は、そのゼミが三学部を跨いで
行える点です。その名も「三学部・横断型・ゼミナール・プロジェクト」。

確かに、~学部、~学科は便宜的な区分けにすぎません。
この世の事象は、そんな区分けより遥かに複雑。

その複雑さ、多様性に対して、たいていの大学教員は目をそむけ、
専門に閉じこもります。それ故、社会で何の役にも立たない言葉しか、
彼らから聞くことはできません。要するに時間の無駄。

武蔵大が三学部とはいえ、学部横断のプロジェクトを立ち上げたことは、
まさに日本の大学史で画期的! どうして今、誰もこれを
取り上げないのでしょうか?

東大が自らの機能不全を突き付けられ、秋入学にして留学生を増やし、
その留学生を通して、達成したい目標も、およそ、このようなもの。
その目標を武蔵大が今、やすやすとこなしてます。

なのに武蔵大の偏差値はMARCHと日東駒専の間ほど。一方、東大の
偏差値は相変わらず、断トツ。東大・文系では、まともなディスカッションも、
行われていないのに。一体、私たちはこの現実をどう分析し、
どう説明するべきでしょう?

畢竟、ディスカッションこそ、知性を発展させる原動力。ヘーゲル弁証法を
持ちだすまでもないことです。ディスカッションの過程で、コミュニケーション力、
自己管理力、チーム・ワーク力、リーダーシップを鍛えることができます。
こうした力は、社会のどこに行っても必須のもの。

当然と言うべきか、武蔵大は、ここ数年、企業の人事・担当者、
高校の進路・指導者から注目を集めるようになりました。
偏差値の割に「お買い得」というわけです。

大学の序列とて、時代とともに変わります。学生にまともな教育サービスを
提供できない大学は、官学、私学を問わず、淘汰されていくでしょう。
いわゆる有名大、国立大に、この危機意識が全く共有されてない
場合が多いのです。特に文系で。

社会と何の接点もない退屈なテーマを、時代錯誤の教員が傲慢(ごうまん)に
押しつけ、批判力のない学生も、その退屈さに感化され、小さくまとまり、
結果、社会で何の活躍もできない卒業生がゾロゾロ出てくる・・・

有名大を卒業しながら、就職もできず、何の能力もない、
かわいそうな若者を、私たちは今、目にするようになりました。
それは、こうした表れです。

武蔵大が投げかけてるテーマは、日本の大学が総じて、本気で考えなくては
ならないテーマ。それを世に示してくれただけでも、そのカリキュラムには
意義があります。

東大など「秋入学にします」と言ったきり、その後、何の発表もできてません。
このグズで、ヘタレな姿勢こそ、これまで数十年間、国立大が、やらねば
ならないのに、目をつぶってきたことを、シンボリックに示してます。

幕末。それまで全くどうでもよかった外様の薩長に、
最終的には日本の未来が託されました。

それと同じように今、大学改革は本丸の東大では到底ムリで、武蔵大のような
私学にガンバってもらわないと、いけないのかもしれません。

雲
sky

早大のナノばんそうこう

早大・先進理工学部の武岡真司(たけおか しんじ)教授の研究室が
ナノばんそうこうを開発。その名も「ナノ・プラスター」。

ナノ・プラスターの薄さは約60ナノ・メートル。
ちなみにナノは十億分の一を表します。

材料は時間が経てば人体に吸収されます。プラスター自体が
皮膚とピッタリくっつくため、接着剤がいりません。

今回のプラスター。保護シートとしての利用が期待できます。
傷ついた臓器にプラスターを貼れば、時間が経過して、
臓器が回復してきた頃に、プラスターも消滅してるという仕組み。

従来の保護シートは厚さが数ミリ・メートルもあったため、
臓器と癒着しやく、使いものになりませんでした。
ナノ・プラスターは、この欠点を克服できます。

ただし、ナノ・プラスター。欠点もあります。

薄すぎて、見えない。

あまりにも薄いため、治療効果を確かめにくく、
うまく貼れたかどうか、はがれてないかどうかも、
見極められません。実用化への課題です。

とはいえ医工連携の一環。
早大には医学部がない分、理工学部で、
医学への貢献をしてほしいですね。

階段
stairs

慶大の細胞研究

血小板には止血作用があり、手術時などに必要とされます。
現在はほぼ全て献血に依存。凍結保存もできず、不足気味。
この状況を受けて、慶大・医は血小板を皮膚細胞から作製する
技術を開発。ペンシルヴァニア大学との共同研究です。

松原由美子(まつばら ゆみこ)特任講師のグループは、
繊維芽細胞(せんいが さいぼう)と呼ばれる皮膚細胞に
三つの遺伝子を組み込み「巨核球・細胞」を作製することに成功。

この巨核球・細胞から血小板が得られました。これで自分の細胞を
少量採取し、そこから大量の血小板を作製して、
自分に輸血する方法に道が開かれました。

従来は、iPS細胞を使って、血小板を作製する技術が試みられてました。
ですが今回の技術では、作製のために要する時間を大幅に短縮でき、
ガン化の危険も大きく減ります。私大・医トップの慶大・医。
京大・医に負けない研究ですね。

夏空
summer sky

帝京大学

ラグビー部が有名。そのラグビー部を応援するチア・リーダーたち。
そして最先端医療を研究する医学部。一体、帝京大の相容れないこの二つを、
私たちはどう結び付けるべきでしょうか?

前身は戦前の帝京商業学校。設立者は沖永荘兵衛(おきなが そうべえ)。
昭和四十一年、息子の沖永荘一(おきなが そういち)が帝京大学として再建。
荘一は東大・医学部を卒業した俊才。専門は産婦人科。

荘一が医者だったことにより、新制・帝京大学。医学部を設立。
当然、東大・医学部から多くの教授陣を招聘。帝京大・医学部は
さながら東大・医学部の「ジッツ」(植民地)に。

偏差値からして帝京大・卒業生から自校・研究者を養成することが
不可能だった以上、帝京大・医学部が東大・医学部に浸食されることも、
ある意味、やむを得ないことだったでしょう。

しかも1970~80年代、東大・医学部が学生運動の余波を受け、
優秀な研究者を自校にとどめておくことができなかったことにより、
帝京大・医学部は優秀な研究者の受け皿に。それを「ジッツ」と呼ぼうが、
何と呼ぼうが、優秀な研究者の招聘という点では、プラスでした。

ちなみに医学部の「ジッツ」という点では、東海大・医学部が有名。
教授陣には慶大・医学部の出身者ばかり。やはり東海大・卒業生では、
自校・研究者になることはできませんでした。

さて帝京大。設立経緯より「実学」を重んじてます。今も「自分流」が校訓。
そして国際性。開放性。これらが重視されてます。今は医学部だけでなく、
法学部、経済学部、教育学部、文学部、理工学部を含む大きな大学。

とはいえ医学部以外の話題を帝京大から聞くことはありません。
医学部は板橋キャンパス。他は八王子キャンパス。八王子キャンパスは、
最寄りの多摩都市モノレールから、歩いて十分もかかる山の中。これで
優秀な受験生にアピールしようという方がムリでしょう。

かくして帝京大。医学部を除いては、偏差値50を下回る受験生の受け皿に。
とはいえ一般的に言われるヤンキーは、ほんの一部。たいていの帝京生は
偏差値こそ低いけれど、なんとなく大学に行きたかったマジメな学生たち。

数年前、帝京大が、やたら電車広告をしてた時期がありました。
広告されてたのは、ムキムキのラグビー部。彼らを応援する
ムチムチのチア・リーダー。帝京大・経営陣は、あの広告の結果、
入ってきた学生の顔ぶれを見て、何を思ったでしょうか?

というわけで帝京大。今のところ「大東亜帝国」の最下位あたり。とりあえず
「大学」と呼べるスレスレにいます。とはいえ帝京生の中には偏差値が
低かっただけで、マジメな学生もたくさん。そんな彼らが一括りに
「ヤンキー」と呼ばれたのでは、かわいそうです。

そう。学力にこそ秀でなかったけれど、常識を持ち、これからも明るく
生きていきたいと思ってるのが、大部分の帝京生の姿。ならば帝京生。
大きな野望を持たず、身の丈に合った範囲で最高の選択をすることがベスト。

分かりやすく言えば、公務員、教員、力ある中小企業・・・このあたりなら、
帝京生でも、力を発揮できる場所を与えてくれるでしょう。

医学部でない限り、学歴が有利になってはくれないと帝京生は賢く悟るべき。
それを逆手に取り、学歴に関係ない分野、ニッチ分野に入り込んで
努力するなら、有名大の鼻をあかすことも十分に可能。
戦略的な身の振り方が必要な大学です。

赤
red

亜細亜大学

JR中央線・武蔵境駅(むさしさかい えき)北口から歩きます。
「すきっぷ通り」と呼ばれる商店街。やがて大きな通り。
その名も「亜細亜大学・通り」。左に曲がれば、
やがて見えてくる校舎群。亜細亜大学です。

校名が「アジア」でなく「亜細亜」であるあたり、何かしら主張を
感じます。そう。前身は興亜専門学校(こうあ せんもんがっこう)。
対米戦・直前、昭和十六年四月に設立。

興亜専は大東亜共栄圏・建設のために、有為な人材を輩出することを
目標としました。強烈な汎アジア思想をバック・ボーンとしたため、
国士舘大と関わりが深く、興亜専は国士舘大の一部と見る見方も。
興亜専が戦後、亜細亜大へと昇格。

「八紘一宇」(はっこう いちう)を掲げた大東亜・共栄圏は、日本が
大東亜戦争に敗北したことにより雲散霧消(うんさん むしょう)。
しかしアジア各国は、帝国・陸海軍が列強を追い出したため、
戦後、次々と独立。

日本とアジア各国の結び付きは強いまま。亜細亜大の果たす役割も、
大きいもの。特色ある大学。しかも国士舘のように戦後も尊王思想を
吹聴しなかったことから亜細亜大、それなりにステータスの
高い大学になれるはずでした。

けれど大東文化大、帝京大、国士舘大とともに、
日東駒専より格下の「大東亜帝国」に沈んでます。

戦後、大学に昇格した時の理事長は五島慶太。東急電鉄・設立者で
剛腕で鳴らした人物。二代目・理事長は息子・五島昇。

三代目・理事長は五島慶太と親交の深かった瀬島龍三(せじま りゅうぞう)。
瀬島は戦前・戦中、陸軍幕僚に任命され、戦後、ビジネスの世界に転身し、
日商岩井(現・双日)会長を務めました。

この顔ぶれが本気で大学経営をすれば、短期間のうちに耳目を集める
エリート校ができ上がりそうです。ところが彼らは亜細亜大を、東急グループの
文化事業としか見ず、力を入れませんでした。同じ東急グループが経営する
武蔵工大(現・東京都市大)が、今ひとつパッとしなかったのと同じ。

さて亜細亜大。偏差値で言うと45~55の範囲。受験生の数は多く、
入試レベルを下げれば入学者に困ることはありません。しかし、このような
「質より量」を優先する大学経営が、少子化の今後、続くはずありません。
亜細亜大とて自校メリットを打ち出さねばなりません。

時代の流れは、亜細亜大に完全に追い風。亜細亜大が設立当初から
目を向けてきたアジアが世界の中心になろうとしてるからです。

アジア、中東の言語を学べるカリキュラムを多く用意し、その範囲は外語に
迫るほど。思えば、首都圏でアジア緒言語を学べる大学は実質、外語のみ。
このような寡占状態が良いはずありません。亜細亜大の存在は貴重。

カリキュラムでもう一つ、特筆すべきは「アジア夢カレッジ」という
インターンシップ。学生が在学中から留学・インターン両方の目的で
アジアで滞在できるシステム。略して「夢カレ」。

夢カレで留学した場合、学生は現地の日本企業でインターンシップを経験。
そんな学生がカルチャー・ショックを受け、帰国後、語学力をさらに磨き、
就職した場合、即戦力になること間違いありません。

東大が「ギャップ・ターム」とか言いながら、学生に味わってもらいたいことも、
突き詰めればこういう経験。東大からは「秋入学にします」と言ったきり、
その後、何のニュースも聞こえてきません。ですが亜細亜大。
とっくにそういう制度を打ち出してました。

けれど亜細亜大。せっかく時代の波に乗ってるのに、PRが全くありません。
オープン・キャンパスの広告を見かけることも、ほとんどありません。

どうして拓大といい、亜細亜大といい、この絶好のチャンスを
ものにして「我こそは次世代の盟主なり」と主張しないのでしょう?
少々のハッタリを入れてもいいから?

電車で通年広告すればいいのです。魅力的な「夢カレ」をアピールし、
外国語教育にも力を入れていることを地道に伝えていくべきです。
夢カレで学ぶカワイイ女子学生の写真もいくつか添えれば、
目を奪われる受験生は多数いるはず。

そうなれば偏差値上昇への道が見えてきます。今とは全く違う風景が
見えてくるはずなのです。なのに「やってやろう」という気概が見えません。

武蔵境のロケーション。これも決して良いとは言えません。キャンパス周囲には
畑が広がってます。ロケーションだけでは、四谷、渋谷の私大にボロ負け。

とはいえ上智、青学、明学といったミッション系の大学が、欧州の凋落と共に、
今後、どんどん偏差値を落とすことが予想。地道にアジアとの交流を
続けてきた亜細亜大に、注目が集まること、間違いありません。
その時、PRも含めた経営手法が問われることとなるでしょう。

「ごうとう けいた」と揶揄されるほど強引な経営ぶりで知られた五島慶太。
亜細亜大・経営者は今こそ、五島の強烈な経営理念を思い出す時でしょう。

ビーチ
beach
五島慶太

東海大学

一体、日東駒専の「東」は東洋大学でしょうか。それとも東海大学でしょうか。
二十年ほど前、両大学の関係者の間で「こっちだ、あっちだ」と議論が
交わされてました。

ですが結論が出ないまま、沙汰やみに。とはいえレベルが同じということで、
このブログでは東海大学も「日東駒専」のカテゴリで論じることにしましょう。

新宿で小田急線に乗り、成城学園前、新百合ヶ丘、町田。
町田の向こうに海老名、本厚木。もっと向こう、やっと東海大学前。

キャンパスは駅前にあるのかと思いきや、十五分ほど歩きます。
途中からは坂道。暑い中、これはキツイ。しかし周囲の学生たちは、
何事もなく歩いて行きます。私も負けるわけにはいきません。

やがて見えてきた建物群。東海大学の湘南キャンパス。
「丹沢キャンパス」と呼んだ方が、実情に即してるでしょう。

建物は立派で、広い運動場もいくつか、あります。文系の場合、
キャンパスが山の中にあることはマイナスですが、理系の場合、
設備が大切ですから、山の中であれ、どこであれ、立派な設備を
作って学生を迎えることには、それなりに意義があります。

もともとは航空宇宙専門学校が前身。その学校が戦後、東海大学に。
設立者は松前重義(まつまえ しげよし)。松前は熊本出身で、東北帝大で
電気工学を学びました。その後、遁信新(とんしん しょう)に入省。
理系・官僚に。

松前は官僚時代、無装荷(むそうか)ケーブルを開発。電気信号を伝える
新しい方法を世に出し、これによって、情報伝達が飛躍的に簡単・明瞭に。
その後、松前はキリスト者・内村鑑三(うちむら かんぞう)の影響を受け、
新しい学校を設立しようと思い立ちます。それが航空宇宙専門学校、
今の東海大。

東海とはアジア東の海、太平洋のこと。その大きな海原に出て行かんとする、
志ある学生を募集しました。今の湘南キャンパスに移ってきたのは1963年
(昭和38年)。多くの学部を作って、発展していきます。理事には
松前一家が就任。事実上のオーナー経営。

設立経緯から、東海大には今も、工学部・航空宇宙学科があり、
全日空と提携。この学科を卒業して、パイロットになった人も多数。
松前が工学を専攻してたことから、工学部の他学科もガンバってます。
ロボット、電気自動車、レーザー、生命科学、環境化学・・・

松前は熊本で過ごした青春時代、柔道をたしなみました。
その関係で体育学部・武道学科の充実が計られます。

全日本柔道選手権・九連覇の快挙を成し遂げた山下泰裕
(やました やすひろ)も東海大・相模高校から、
ここの武道学科に進学。

全日本・三連覇を果たした井上康生(いのうえ こうせい)が、
やはり武道学科出身。

文学部にも文明学科、文芸創作学科など、通常の文学研究を超えた学科。
文学部・北欧学科ではデンマーク語、ノルウェー語、スウェーデン語、
フィンランド語といった北欧・諸言語を専攻することができます。
外語でも、このあたりの言語はカバーし切れてないわけですから、
東海大の健闘が光ります。

他にも観光学部、情報理工学部といったユニークな学部を設立するなど、
東海大、それなりに意識的・先験的な大学経営をしてます。
しかも、こうした大学経営のあちこちに、設立者・松前の足跡。
設立者の裁量がここまで大きく発展した大学も珍しいですね。

学生数が三万人に達しようとする東海大。規模の拡大には成功。
これからは、今ある強い学部・学科をもっと効果的に
世間にPRすることが大切でしょう。

それから駅から大学までの移動が、あまりにも不便。
キャンパス内には立派な建物が建ってるのですから、
移動手段など、小田急バスと連携すればいくらでもできそうです。

偏差値が50~55くらいで田舎キャンパスに抵抗ないなら、
選択肢に入れていい大学です。

赤
red

拓殖大学

人種の色と 地の境(さかい)我が立つ前に 差別なし

拓殖大学の校歌。「拓大」(たくだい)と呼ばれます。長州出身の桂太郎
(かつら たろう)が明治三十三年に設立した「台湾協会学校」が前身。
この学校は植民地経営に長けた有能な官吏、ビジネスマンの養成を
目指しました。

日本が列強の仲間入りをするにあたり、植民地経営の重要性は、
当時の政治家たちのコンセンサス。ですが、それに特化した学校を
作ろうとは誰も思い至らず、当時、実力を付けつつあった桂が
台湾協会学校を設立したわけです。

台湾協会学校の方針は国策とも合致し、宮内庁から資金が下賜
されました。それもあってか、拓大には今も恩賜記念館が。
記念館の前には桂太郎が書物を読んでる像も。

大正七年に台湾協会学校は拓殖大学となり、翌・大正八年には後藤新平
(ごとう しんぺい)が第三代・学長として赴任。台湾民政長官、満鉄総裁を
歴任した後藤。拓大学長に、彼ほどふさわしい人物もいませんでした。

さて、桂の像がある恩賜記念館があるのは八王子キャンパス。
拓大のメイン・キャンパスは現在、ここです。

茗荷谷(みょうがだに)の文京キャンパスには
商学部、政治経済学部の三、四年生、そして大学院のみ。

学生数としては八王子キャンパス・約七千人。
文京キャンパス・約三千人。併せて約一万人。

現在の学部構成は商学部、政経学部、外国語学部、国際学部、工学部。
設立当時、日本の植民地は台湾だけでしたが、その後、南樺太、朝鮮半島、
そして満州と広がっていきます。半ば官立の趣きのあった拓大の重要性は
高まるばかり。戦前、官吏、ビジネスマンとして海外に雄飛した
拓大・卒業生は数え切れません。

とはいえ大東亜戦争に敗れた日本は植民地を悉(ことごと)く取り上げられ、
拓大が目指した「土地を切り拓き、殖産する」という目標も頓挫(とんざ)。
拓大=植民地主義=超保守主義というイメージが定着し、人気を落としました。

戦後、高度経済成長とともに、上智、青学の人気が上がっても、拓大には
当然ながら、その風は吹きませんでした。八王子キャンパスができたのが
昭和五十二年。場所はJR中央線の高尾駅からバスで十分かかる山の中。
いつしか拓大は偏差値50程度の学生が行く大学に。

とはいえ、偏差値50程度のラインに、最も多くの受験生がひしめくわけ
ですから、拓大。学生を選ばなければ、門を叩く学生には困りません。
というわけで八王子キャンパスは山中にあるにもかかわらず、
大学として、存続。

しかも今、時代はアジアの時代に突入。アジアの多くの大学と提携し、
国際学部を作って、アジアから多くの留学生を受け入れてる拓大。
千載一遇のチャンス到来。

背中も見えなくなっていた上智、青学、明学が、欧州偏重の姿勢を
全く改めず、衰退が予想される中、拓大に、その気さえあるなら、
大きく飛翔できるチャンス! 評判立ち、風さえ吹くなら、辺鄙(へんぴ)な
八王子キャンパスすら「勉強に集中できる、自然豊かなキャンパス」と
宣伝できるわけです。

とはいえ拓大から「次世代の大学こそ我が校」というPRが全く
聞こえてきません。大学・経営者は何をしてるのでしょうか?

少子化の波は各大学にとって、逆風にこそなれ、追い風には決して
なりません。学校経営も塾経営も、いかに自校の良さを効果的に
PRできるかが生命線。

例えばロンドン・オリンピック。拓大・卒業生からは、なんと七名の代表選手。
レスリング四名。マラソン二名。ボクシング一名。しかしその垂れ幕が
拓大・八王子キャンパスに下ろされたのは六月。

代表選手の選考は二月にとっくに終わっていたのに。
卒業式、入学式に同じ垂れ幕を掲げてたら、卒業生、新入生、
大いに意気高揚したのに。

拓大。時の利を完全に掴んでます。ところが、それが意識的な結果か、
それとも偶然かの違いで、今後の発展も全く違ってくるでしょう。
ひとえに経営者の手腕が問われてます。

水田
rice field

たしかな あしぶみ

成蹊大学の設立者・中村春二(なかむら はるじ)についての映画。
私はこの映画が成蹊大学・第三号館で上映されると知り、
吉祥寺キャンパスに行ってみました。

「ワン・キャンパス」が売りの成蹊大。確かに幼稚園から
大学まで、吉祥寺キャンパスの中に収まってます。

もともとは春二が1906年(明治39年)、池袋に設立した私塾が起源。
日露戦争後の当時、日本の教育は教室に六十名の生徒を詰め込む
マス・プロ教育。教育の重要性は認識されてましたが、それを
できるだけお金をかけずに行おうとしてました。
まるで今日の大手予備校の風情。

これでは当然、一人一人の生徒に目が行き届きません。
しかも学資が続かず、上級学校に進めない子供が続出。

そんな子供たちを真のジェントルマンに育てんと、
春二は自宅に勉学意欲のある生徒を住まわせ、
そこから学校に通わせました。

ところがいくら春二がガンバっても、生徒たちは
学校で俗世間に染まってしまいます。

自分で学校を作るしかない。

春二は当時、土地が安かった池袋で、資材をなげうって土地を購入。
そして校舎建設には同じ学窓の岩崎小弥太(いわさき こやた)
今村繁三(いまむら しげぞう)に資金の協力を仰ぎます。

岩崎は三菱の総帥。今村は今村銀行(現・みずほ銀行)の頭取。
快く資金寄付に応じました。こうして1912年(明治45年)
「成蹊実務学校」が誕生。今年で百年目。

実務学校では英語・数学だけでなく、簿記、そろばんなど、
「実務」に役立つ科目が教えられました。それだけでなく全寮制。
生徒は先生と朝から晩まで行動を共にします。

もちろん春二も生徒たちと食事をし、風呂に入り、ランニングもしました。
ランニング時には生徒と同じく、上半身・裸だったとか。

中村春二
teacher

そんな春二の背中を見て、成蹊の生徒たちは、
真のジェントルマンとは何かを、言葉でなく体得していきました。
文部省からは「クラスの定員が少なすぎる」とクレームが付きました。
しかし春二は。

三十名を超えると、生徒の一人一人に目が届きません。
生徒はいろいろな器の形をしてます。入口が狭い生徒の場合、
すぐにたくさん入れられません。だから、他の生徒と同じ速度では
入らないのです。けれど、そういう生徒の中にこそ、後に非凡な人物に
育っていく者たちがいるのです。一人一人に目を配らなくてはなりません・・・

やがて成蹊学園が吉祥寺に移転する話が持ち上がります。
ですがちょうどこの頃、春二は体調を崩し、教務に耐えられない状態に。
吉祥寺への移転にあたり「成蹊実務学校」が廃校と決定されます。

春二が手塩にかけて大きくした「成蹊実務学校」。その廃校を春二は、
たいそう嘆いたとか。今年、設立百周年を迎えた成蹊学園。その名の由来は。

桃李(とうり)もの言わざれども 下 おのずから蹊(みち)を成す

桃、梨の花が咲き誇れば、何も宣伝しなくても、人が集まってきて
自然に道ができる、そんな意味。生涯、理想を貫いた春二。池袋に実務学校を
建てた時も、入学直前に周囲の火事が引火。校舎は焼失。けれど、
一週間後に仮校舎を建て、スケジュール通り、新入生を迎えたとか。

春二が卒業生に送った言葉「たしかな あしぶみ」。もともとは全て
ひらがなですが、読みやすいように現代語にしておきました。

君たちが世の中に出た時 学窓から見た世の中とは
随分 違っていると感じるだろう

毎日 同じ仕事の繰り返しで ガッカリするかもしれない
こんな一生を送っていてはと 思う時もあるだろう

しかし毎日の変化が 生きるための必要条件だろうか
変化がなければ 人の目的がとげられないのだろうか

日は東より出て西に入る 冬が去れば春が来る
毎日 同じ仕事をすることを つまらぬと思う者は哀れだ

同じ仕事にこそ 深い意味が潜んでいるのだ

私が自分の人生を振り返る時 その路の面白さや変化が嬉しかったのではない
その旅路を踏みしめる 一足一足の確かさが大事なのだ
君たちも日々の路を シッカリ踏みしめて進みたまえ

夏
summer
筑波大学附属高校
成蹊大学

国士舘大学

これまで国士舘と言えば、男子柔道部の活躍のみが耳目を集めました。
京王線・永山にある国士舘・多摩キャンパス。ここに体育学部。
この武道学科からは多くのオリンピック・金メダリストが登場。

男子・柔道が惨敗したソウル・オリンピックで
唯一、金メダルを取った斉藤仁(さいとう ひとし)。

アテネ・オリンピックで金メダルを取った後、
地獄を見、そこから這い上がった鈴木桂治(すずき けいじ)。

北京・オリンピックで金メダルを取った後、
その立場に安住せずK-1に転身した石井慧(いしい さとし)。

けれど多摩キャンパスが国士舘の本部ではありません。
では国士舘、一体、どこにあるのでしょうか?

田園都市線・三軒茶屋駅。そこからは「世田谷線」という
路面電車が下高井戸まで走ってます。その途中にある「松陰神社駅」。
そこで降りてみましょう。北へ商店街が続いてます。

その商店街の先に「松陰神社」。幕末、多くの志士に影響を与え、
「安政の大獄」で斃れた吉田松陰。彼が祀られてます。
松陰神社の横には、生涯、松陰を敬愛した桂太郎の墓も。
世田谷区を歩きながら、もう心は憂国の志士に。

そんな期待に応えんと、やがて右に見えてくる国士舘キャンパス。
左には世田谷区役所。世田谷キャンパスと梅ヶ丘キャンパスがブリッジで
つながってます。梅ヶ丘キャンパスの高層棟。九階は学生食堂。
展望台にもなっていて、オシャレな空間が広がってます。
六本木ヒルズ、東京タワー、向こうにはスカイ・ツリーも。

柴田徳次郎(しばた とくじろう)が1917年(大正6年)に始めた私塾が
戦後、国士舘大学に。「尊王・殉国の至誠」を謳う国士舘です。
もちろん日本共産党は「国賊」(こくぞく)扱い。

柴田は若い頃、玄洋社の頭山満(とうやま みつる)の知己を得、
そこで「アジア主義」「国家主義」に目覚めます。そんな柴田、
頭山満、渋沢栄一、徳富蘇峰らが協議して設立した学校が国士舘。

国を憂い、国に殉ずる「国士」の輩出を目指しました。戦後も天長節や
海軍記念日に行事を行い、学生に愛国精神を植え付けようとした
柴田の理想。それは真摯な理想に基づいていたとはいえ、
一般国民の理解を得るには至りませんでした。

国士舘は「右翼の大学」というレッテルを貼られ、明るいキャンパス・
ライフに憧れる受験生から、完全に敬遠。ところが、その国士舘が
最近、復活!「二十一世紀アジア学部」を作り、従来の国粋的な
イメージから脱皮しようとしてます。

思えば、頭山らが唱えた「大アジア主義」も、西洋列強からの解放こそ、
唱えこそすれ、決して日本だけよければいい、アジアだけよければいい、
という狭量なものではありませんでした。そして二十一世紀、アジアの時代。
国士舘はその意味を賢く理解し、設立者・柴田の遺志を真に体現すべく、
動き始めてます。

東京のミッション系・私学が今だ、とっくに終わってる欧米に目を
向けてる今、早々と「アジア学部」を新設した国士舘の姿勢には、
設立者・柴田のDNAがシッカリと受け継がれてると言わざるを得ません。

世田谷キャンパスにはロンドン・オリンピックへの国士舘・出場者の
垂れ幕がかかってます。一週間に迫ったロンドン・オリンピック。
国士舘からは新体操、女子陸上、男子柔道で卒業生が参加。
応援しないわけにはいきませんね。

空と海
sky and sea
修猷館高校

國學院大学

渋谷駅・東口を出ると、南北に走る明治通り。恵比寿・方面に歩くと
「東」(ひがし)という交差点。そこを左に曲がると、國學院のキャンパス。
渋谷のことをよく知ってる人なら、こう聞いただけで「青学の隣かな」と
思うことでしょう。そう。青学の南にあります。

けれど青学と比べて遥かに新しいキャンパス。ガラス張りの校舎は明るく、
開放的。キャンパスの中央には「若木タワー」。上階は教員室。

学生食堂も充実。その名も「和」(なごみ)。「讃岐うどん」専門コーナーは秀逸。
國學院に行けば、一度は食べたいメニューです。

もともとは「皇典講究所」(こうてん こうきゅうじょ)という「国学」を学ぶ
小さな学校。飯田橋にありました。それが後に國學院大となります。
歴史から分かるように「日本文学」「日本史学」「民族学」の研究に
強い大学。戦前、人文を教えるロクな私学もなかった頃、
國學院には錚々たる学者が集いました。

「遠野物語」を書いた、民俗学の草分け、柳田國男(やなぎた くにお)。
柳田の弟子で、国学と民俗学を融合した折口信夫(おりくち しのぶ)。
多くの国語辞典を編纂した金田一京助(きんだいち きょうすけ)。

戦後になっても、ドイツ文学・研究の鬼才・種村季弘(たねむら すえひろ)が、
ここで教えました。

さて國學院。現在の学部構成は。

文学部、神道文化部、法学部、経済学部、人間開発学部。人間開発学部とは
教育学部のこと。この学部だけは田園都市線・たまプラーザにキャンパス。
神道文化部は、神主を養成するための学部。國學院にしか、ありません。

キレイなキャンパス。人文の脈々たる伝統。渋谷のロケーションも抜群。
なのに國學院。今のところ、日東駒専と同列か、それより下あたりにランク。
実力以下に評価されてると言わざるを得ません。

とはいえ時の利は、明らかに國學院にあります。「クール・ジャパン」が
叫ばれ、アメリカも欧州も、文明的にどうしようもなくなった今、
日本に注目が集まってます。

もともと強い「日本学」をバック・ボーンに、社会科学を充実させれば、
大化けする可能性。近くにある青学、明学が英文学だの仏文学だの、
時代遅れな西洋学問にしがみついてる今、「敵失」は明らか。

PRの仕方さえ間違えなければ、國學院には大きな可能性が開けます。
オープン・キャンパスにさえ来させれば、青学を視野に入れてる
受験生の心も揺らぐことでしょう。

それにしては國學院のPRが足りません。今、オープン・キャンパスの時期。
街のあちこちに私大の広告。けれど國學院の露出度が少ない。
惜しい、と言わざるを得ません。

理系学部を作らず、渋谷のキャンパスを大切にした國學院。MARCHが
ユニバーシティを夢見て、理系学部を作り、郊外への移転を余儀なくされ、
大学力も落とした今、國學院は完全に穴場。

設備は揃ってるのだから、後は経営者のやる気。そして教員、
学生の奮起のみ。私たちも期待しましょう。

森
forest

東洋大学

文京区・白山(はくさん)にある東洋大キャンパス。正門に立つと、
緩いスロープ。スロープを上まで行くと、井上円了(いのうえ えんりょう)
の像。向こうには井上記念館。円了が1887年(明治20年)に「哲学館」
として始めた学校が前身。その後、「哲学館大学」となり、
1906年(明治39年)に東洋大学となりました。

東洋の哲学のベースとして、その上に西洋の学問を移植し、
普遍的な知に到達しよう。

円了の学校設立の理念は実に正しいものでした。哲学こそ、全ての学問の
土台だからです。インド思想、中国思想、仏教思想、東洋芸術の分野に
限って言えば、東洋大は近くの東大・文学部に比(なら)び得る力を持ちます。

けれど大学が隆盛するためには、最初は哲学や人文を土台とはしても、
社会科学が活気づかねばなりません。けれど、東洋大。坂口安吾のように、
文学部からは有名な作家、研究者が多数、出ましたが、法学部、経済学部、
経営学部から、なかなか実力者が現れませんでした。

川越キャンパス・・・理工学部、総合情報学部。
朝霞キャンパス・・・ライフデザイン学部。
板倉キャンパス・・・生命科学部、食環境学部。

理工学部を詳しく見ると。

機械工学科 生体医工学科 電機電子情報学科 応用化学科
都市環境デザイン科 建築学科

どれも時代のニーズを正しく反映してます。とはいえ、そこでの研究が世に
広く知らしめられるに至らず、そこそこの学生が入学し、そこそこの場所に
就職していく、という平凡パターン。爆発的な発展がありません。

井上記念館の隣にある二号館は高層キャンパス。向こうに六号館。
六号館の地下には、広くて明るい食堂。普通、大学の学食など、素人の
オバチャンがマズイ食事を安く提供する、というのが定番。けれど、
東洋大・学食。チェーン店が出店。気合いが入ってます。

インド料理、和食、ラーメン、パスタ・・・出店なので街の食堂と変わりなく、
価格は安めに設定。東洋大生がオイシそうに食べてます。こんな側面も
自慢していいはずですが、大学パンフには、食堂についての記述は
一言もありません。

それから東洋大。スポーツが強い。野球部はプロ野球に多くの選手を
送り込んでます。マラソンでも2012年(平成24年)の箱根駅伝では駒大を
抑えて、堂々の優勝。タイムは10時間51分36秒で大会新。

ボクシング部ではロンドン・オリンピックに二人の卒業生が出場。
他にホッケー、相撲、レスリング・・・こう見てると東洋大。人文科学が強くて
社会科学が弱い。マラソンが盛ん。駒大との共通点を多く持ちます。

けれど学生数・二万三千名。立教、中央と同規模。
スポーツだけでなく、研究でもMARCHに伍してほしいですね。

花火
summer night

駒澤大学

鎌倉仏教の中から沸き起こった禅宗。道元は「正法眼蔵」を著し、曹洞宗を
開きました。その曹洞宗を学ぶ学校が江戸期、駿河台に「学林」(がくりん)
として誕生。この学林が駒澤大学の前身。

二十世紀になってから「曹洞宗大学」と改名し、戦後の学制改革で
「駒澤大学」に。略称は「駒大」(こまだい)。今年の箱根駅伝では
東洋大に続く二位。駒大の名を高めました。

東急・田園都市線には「駒澤大学」という駅があります。渋谷から乗れば、
三軒茶屋の一つ向こう。駅を出て首都高・三号線の下を桜新町・方面に
しばらく歩き、左に曲がれば駒大キャンパスが見えてきます。

ところが正門のすぐそばまで、三菱重工の大きな社宅!
レンガ色の堂々たる社宅で、向こうに見える駒大・校舎を圧倒。

どうしてこういう歪(いびつ)なキャンパスになったのでしょうか?
これでは駒大生、母校への誇りを持て、と言われてもムリ。
こんなキャンパスは、恐らく駒大だけでしょう。

正門を入ると、狭い敷地に校舎がいろいろ並んでます。禅の歴史を辿る
博物館「禅文化歴史・博物館」まで。しかし狭いことに変わりはなく、
駒大生は緑あふれる駒澤公園も我がキャンパスと思わねば、
やっていけないでしょう。

設立経緯から仏教学部、文学部が強い大学。仏教学部には
仏教学科だけでなく禅学科も。文学部にも地理学科、歴史学科、
社会学科、心理学科と一通りのことは学べる体制。

ただし法学部、経済学部、経営学部が弱いのは否定できません。
大学が隆盛する場合、最初は人文科学が引っ張っても、それを継承して
社会科学、ひいては自然科学が伸びていかねばなりません。

駒大の場合、自然科学はもともとないから、しかたないにしても、
社会科学が発展しなかったのは、致命的。

社会科学の教員が頻繁に世間に登場し、自説を披露すること。
彼らに教えられた者の中から、力ある政治家、財界人が出ること。

こういう状況になってこそ、大学は隆盛。上智や青学がまさにそうでしたね。
駒大。もともとの人文科学が「禅」という、あまり現代受けしない
内容だったことも、今ひとつ発展できなかった一因でしょう。

偏差値的には「日東駒専」に入れられ、私学でも三番手あたり。
国立も入れれば、五番手あたりの印象。

駒大にとっては、もともと強い人文科学を全面に押し出し、同時に
社会科学を充実させることが急務。それは教員、学生の双方に
意識改革を迫るものでしょう。

さくらんぼ
cherries

専修大学

明治初期、アメリカに留学した若き四人の留学生がいました。

相馬永胤(そうま ながたね) 目賀田種太郎(めがた たねたろう)
田尻稲次郎(たじり いなじろう) 駒井重格(こまい しげただ)

それぞれの出身藩や国家の援助を受けて、彼らはアメリカでまず法律、
そして経済を学びました。猛勉強の数年後、彼らは学位を取って帰国。
ところが日本ではそもそも日本語で法律、経済を学べる学校が
ありませんでした。

日本語で法律、経済を学べる「専修学校」を作ろう。

相馬を中心に四人は小さな学校を作ります。当時、慶応義塾を開設してた
福澤諭吉も力になりました。東京法学校(現・法大)明治法律学校(現・明大)
東京専門学校(現・早大)英吉利法律学校(現・中大)よりも、早い設立。

私学で法律、経済を学べる学校はここだけ。志願者が殺到し、専修の「黒門」は
帝大の「赤門」に匹敵するまでに。他の法律学校が法律だけしか教えて
なかったのに対し、専修カリキュラムは経済もカバー。

この学校が戦後、専修大学に。伝統、設立経緯を考えれば、私学の雄として
早大でなく専大が挙がってもいい状況に。ところが専大。数十年の時を経て、
MARCHにも届かず「日東駒専」の一角に。落ちぶれてしまいました。
司法試験・合格者も毎年十数名。中大の十分の一ほど。
どうしてこうなったのでしょうか。

四人の設立者は、いずれも学究肌。あるいは事務処理能力に長けた人物。
その教え子も、やはり小粒にならざるを得なかった、ということでしょう。

たとえば早大を設立した大隈重信は政治家。その教え子にも、日本の未来を
語る気宇壮大(けうそうだい)な資質が宿ります。その何名かでも、ホンとに
大物・政治家になれば、それは早大にとって大きな武器。

専大の教員、学生に、そこまでの進取の気性がなかった、というのが実情。
それ以上に、大学経営のお粗末さが響きました。メインの水道橋キャンパスは
狭すぎ、今や法学部を除く、全ての学部は生田キャンパス。伝統ある法学部と
他学部との有機的な関連が結べません。全学が早稲田で一緒に
学べる早大に、この点で既に遅れてます。

水道橋キャンパスには例によって、高層棟が登場しましたが、それが学生の
資質向上に何の役にも立ちませんでした。隣の日大・法学部、経済学部に
存在感で完全に圧倒されます。

しかも専大のシンボルたるべき「黒門」は早々に取り壊され、最近やっと
復元されたと思ったら、水道橋キャンパス近くの小さい公園の中。これでは
学生への吸引力は生まれないでしょう。どうしてムリヤリにでも、
毎日、学生がくぐる門に、黒門を取り付けなかったのでしょうか?

けれど専大。設立した四人の若き先生たちをモデルにしたDVDを作りました。
タイトルは「学校を作ろう」。専大インフォメーション・センターで売ってます。
設立者の幹事・相馬永胤を三浦貴文が熱演。彼の映画デビュー作。

三浦貴文は三浦友和の次男。百恵ちゃんの面影もある甘いマスク。
その彼が相馬を再現。アメリカで苦学し、専大を設立する若者。
見ごたえあるDVDに仕上がってます。

専大。今のところ、若き四人の設立者が最大の売り。言い換えれば、
それ以降の展開がパッとしなかったということ。歴史と伝統を考えれば、
残念と言う他ありません。

花畑
early summer

明治学院大学

日吉駅から目黒線に乗ると、そのまま白金高輪駅(しろかね たかなわ えき)
まで行けます。そこで降りて、目黒方面に歩くと、いくらもしないうちに、
右に赤レンガの建物が。明治学院大学です。
「明学」(めいがく)と呼ばれてます。

洋館が立つキャンパスは、さすがに伝統を感じさせます。
一方、ダイニング・ラウンジは明るくて広く、値段も手ごろ。
女子の姿が多く、女子大の佇まい。

ヘボンが横浜に1863年(文久3年)に開いた「ヘボン塾」が源流。
その後、この塾は東京に移り、明治学院となります。戦後、大学に昇格。

ヘボンは「ヘップバーン」と呼んだ方が原音に近いのですが、
歴史的呼称となってしまった今ではどうしようもありません。

さて明学。歴史的には福澤諭吉が開いた慶応義塾よりも古く、
ミッション・スクールとしても最古。長い伝統を持ちます。

正式に明治学院となった1887年(明治20年)一期生として島崎藤村
(しまざき とうそん)が入ってきます。藤村は明学で外国文化に触れ、
日本社会を客観的に見つめる力を養いました。藤村の作品群、
特に「破戒」は、日本社会だけに埋没しては決して
書かれなかったでしょう。

ちなみに藤村の「桜の実の熟する頃」という小説には、明学での一年間、
卒業後の二年間が描かれてます。明学の校歌を作詞したのも藤村。
まさに明学、誇るOB。

学部としては法、経に加えて心理学部、社会学部、文学部、国際学部。
理系科目を作りませんでした。戦後、都内の多くの私大がユニバーシティを
夢見て、理系学部を作り、敷地が手狭になり、郊外へと移転。

結果、学生文化や伝統が途切れ、大学全体の魅力も失くしていきました。
一年次は戸塚キャンパスに通うとはいえ、二年次・以降は全員、
この白金キャンパスに通えることは、明学の運営が
確かだったことを示してるでしょう。

伝統的に人文研究に優れ、著名な学者も揃ってます。この学部陣容なら、
学部の垣根を超えた研究もできそうです。

国際紛争を心理学から解き明かす研究。
芸術の価値を社会学から説明する研究。

白金にあるロケーションも文句なく、伝統にも裏打ちされてます。
教授陣も充実。ですが、ここで疑問がわきます。これだけ揃ってるなら、
どうして明学。もっと知名度を上げなかったのか、と。

1950年代までは上智も三流・男子校だったわけですから、
早、慶、明学となる可能性も十分にあったのです。

ところが明学。慶大には大きく引き離され、MARCH一角である
青学にも、抜かれてます。明学は三田にある慶大と渋谷にある青学の
ちょうど真ん中あたり。良い場所にあるのに・・・

後知恵になりますが、「語学重視」をシッカリ打ち出さなかったことが
原因でしょう。明学の設立経緯なら、戦後の早い時期に「外国語学部」を
設立し、質の高い語学教育を受けられると、内外に喧伝するべきでした。

上智が男女共学になった後、したことが、まさにそれ。1990年代くらいまでは
「語学がシッカリ学べる」ことは、それだけで受験生に大きなアピールでした。

上智は外国語学部・文学部が大学を引っ張り、つられる形で法、経営が
伸びました。青学についても、外国語学部を作らなかったとはいえ、
文学部がまず引っ張り、法、経営が上昇。

ところが明学。どことなく中途半端なまま、年月を過ごし、教授は著名でも、
活躍するOB、OGが出ず、法、経も伸び悩みました。条件が揃ってるのに、
それが受験生に見えず、現在に至ってます。

女子率が高いことも、骨太の学生が出にくい理由でしょう。明学の女子率は
なんと70%。男女共学の大学の中では一位。

ということは明学。曇りなき目で見れば、お得な大学とも言えます。
世間の評価が高くない故に、偏差値が低くて入りやすい。
入学後はMARCHには負けない教育。

今春、私の教え子も明学に進学しました。マジメな女子。明学は必ずしも
第一志望ではありませんでした。明学に進学するかどうか、相談に来た時、
私はイチ推し。名よりも実を取るなら、明学はお薦め。結局、
彼女は明学に進学。

その後、しばらくして彼女から連絡。キャンパス・ライフが楽しい、とのこと。
高校の教員を目指してみようかな、とも。

先生、背中を押してくれて、ありがとう。

私の判断は間違ってなかったようです。これからもガンバって下さい。

バラ
rose

津田塾大学

岩倉具視が「岩倉使節団」をアメリカに派遣。明治四年のことです。
女子は五人。女子にもアメリカを見て、見聞を広めてもらおうという使節団。

最年少だったのが津田梅子(つだ うめこ)。当時、六才。彼女が他の
留学生の膝にチョコンと座ってる写真は、歴史好きなら、いつかは
見たことあるでしょう。

実はこの五人。全員、明治・新政府から見れば逆賊の出身。薩長に
刃向かった藩の出身者ばかり。それは当然で、当時の日本では女子を
十年も留学させることなど、考えられないことでした。行き手が
なかったのです。せめてこの女子たちで薩長を見返さないと・・・

梅子は明治十五年までワシントンで暮らしましたから、アメリカでの
滞在期間は十一年。最高の教育を受けました。日本に帰国した時、
日本語も通訳が必要なほど。

帰国した梅子。日本社会における女性の地位の低さに愕然。女子教育の
必要性を痛感します。母国でのカルチャー・ショックでした。そして明治三十三年、
設立した女子英学塾。その後、津田英学塾と名を変え、戦後、津田塾大学に。
今では国立(くにたち)にある女子大トップとして、社会の評価を受けてます。

一体、岩倉使節団はどういう基準で派遣する女子を選抜したのでしょう?
六才の少女の中に、これほどの将来を見て取る鑑識眼の人物は
誰だったのでしょう? 

それは歴史の中に埋もれたまま。ひょっとしたら、梅子が選ばれたのも、
ただの偶然。要するに運命だった可能性も。思えば明治期。このような
運命的な選抜がいくつもありました。梅子の使節団への登用も、
その一つだったのですね。さて津田塾。現在、学芸学部のみ。

英文学科 国際関係学科 数学科 情報科学科

梅子の遺志は今も受け継がれ、建学の理念は。

優れた教員と意欲ある学生 少人数制の重視 高度な英語教育
女子・英語教員の養成

津田塾を巣立った女子・英語教員は数え切れません。著名な学者になる人も。
代表例は中根千枝(なかね ちえ)でしょう。「タテ社会の人間関係」を著し、
日本人のメンタリティを抉り出しました。私が学生の頃、インテリで中根の
この著書を読んでない人はいませんでした。中根は女子初の東大教授に。
梅子の遺志がこんなところでも開花。

中根の他、著名OGとしては、字幕翻訳で有名な戸田奈津子。
やはり私が学生の頃、英語の映画を見に行けば、
その多くが「字幕 戸田奈津子」でした。

梅子の遺志。

英語を日本に広めよう。女子がもっと活躍できる社会にしよう。

それは津田塾から、今も着実に発信されてます。この大学ほど、
設立者の遺志がまっとうに受け継がれてる大学も珍しいでしょう。

最後に塾での話を。今年、私のクラスから津田塾・進学者が出ました。
合格報告に来てくれた彼女。ホンとは外語・ドイツ語を目指してました。
けれど津田塾へ。

外語だったらドイツ語が最初、英語が二番目に。
津田塾なら英語が最初、ドイツ語が二番目になるだけだよ。

私はそう言いました。キチンと肯いてくれた彼女。きっと英語とドイツ語を両方、
マスターしてくれるでしょう。その時、入口はどっちが先でも構わなかったと
賢明に理解してくれるでしょう。

桜
spring

成城大学

小田急線・成城学園前駅(せいじょうがくえんまえ えき)。
駅を降りてすぐ。というより最初に成城学園があって、その後、
線路が引かれたわけですから、大学が駅から近いのも当然でしょう。

戦前は野原みたいな場所でしたが、東京が拡大するにつれて、
人々が移り住んできます。新宿まで十五分ほどのロケーション。
しかも自然が残る場所。

東宝や日活の撮影所が近くにあったことで、有名な俳優たちも
住み始めました。成城学園の一帯は、いつしか東急線の
田園調布や自由が丘と同じく、高級住宅街に変身します。

これが成城大に有利に働かないはずはありません。偏差値は
そこそこ上昇し、MARCHの次に考えるならここかな、というレベル。

戦前は七年生の成城高校。それが1950年(昭和25年)に
成城大学としてスタート。校名は「哲夫成城」(てっぷ せいじょう)
という中国の故事から取られてます。この言葉は
「ひとかどの人物なら街を繁栄させる」くらいの意味。
そういう人物の輩出を目指してます。

文系の大学。理系学部を作りませんでした。東京の私学が
文系から始まっても、ユニヴァーシティを夢見て理系学部を
付け足したのと比べ、成城は文系にこだわりました。

それは正しい選択だったでしょう。もし理系学部を作るなら、
今の敷地内ではとてもムリで、他の私学同様、郊外へと
出て行かざるを得なかったからです。

郊外へ出て行った私学はたくさん。けれど、それにより学生文化や
伝統が途切れ、もともとの文系学部すら衰退してしまった例ばかり。

その点、ムリな規模拡大に走らず、身の程をわきまえた成城の戦略。
何もしなかっただけだ、と言えばそれまでですが、他の私学が
競って規模拡大してる中で、ジッとしてるのには、
それなりの長期的な視野が必要だったでしょう。

法学部・経済学部・文芸学部。社会イノベーション学部。
社会イノベーション学部は2005年(平成17年)にできました。
注目の学部です。

ハッキリ言って、他の学部は偏差値に見合った教育内容であるのに対し、
社会イノベーション学部はコンセプトが明確。しかも学部運営を
そのコンセプトに忠実に一致させてます。

政策イノベーション学科・心理学科に分かれます。
「イノベーション」という言葉を広義の「価値創造」と捉え、
それに個人・企業・国策という観点から迫ろうとしてます。
確かに「人が何を良いと思うか」こそ、世界を突き動かす言動力。

個人レベルで捉えようとすれば心理学が必要。
集団を扱う時、加えて社会学・統計学などが必要になってきます。
一見、関係ないように見える「心理学」と「イノベーション」は
言われて見れば、確かに有機的に連関します。

少人数制。討論を重視。どんなに舌足らずでもいいから、
自分の意見を人前で発表することが求められます。
そして教員や他の学生がそれに対して自分の意見を述べます。

討論のレベルはともかく、そういう姿勢があること自体、
日本の大学では画期的。

英語のコミュニケーション能力も重視。ネイティブ授業では
十名程度に人数を抑え、イヤでも発言せざるを得ない形に。
学生のやる気にもよりますが、シッカリ学ぶなら、
有名大を遥かに超えるスキルが身に付くでしょう。

やはりと言うべきか、社会イノベーション学部。新しいにも
かかわらず、成城大の中では最も内定率が高いとのこと。
当然でしょう。企業が学生に求める能力を磨いてるのですから。

この「企業が学生に求める能力」を東大や早大がプライドと怠慢で、
全く学生に提供できてない今、成城の健闘が光ります。

多くの俳優・モデル・映画監督・作家を輩出してる成城。
田村正和。岩下志摩。高嶋兄弟。。。こうしたビッグネームを
挙げるだけで十分でしょう。

芸術・文化だけではありません。羽田牧(はた つとむ)という
首相経験者もOBに。偏差値の割にお買い得な大学。

受験勉強は苦手だけど、社会に迫る研究をしたい。
空理空論はイヤ。

そう思う文系の高校生。選択肢に入れていいでしょう。

孔雀
peacock

早大、新カリキュラムを発表

早大が一年間のカリキュラムを年・四回に分けると発表。クォーター制。
導入は2013年4月から。一学期が二カ月・四週間となり、留学生の
送り出し、受け入れに柔軟に対応できるとのこと。

三年次、四年次に休みが増え、その時間を短期留学やインターンシップ、
長期ボランティアに充てる方針。早大は学生に多様な経験を
してほしいようです。

しかし、一体、これが大学でしょうか? 早大が自らのカリキュラムに
自信ないことを、自ら表明しているようにしか、私には見えません。

もちろん大学生にとって、世間のさまざまな人と触れ合ったり、海外に
目を向けたりすることは大切。ですが、そっちがメインになって、
教室がおろそかになったら、そもそも大学が何のためにあるんだ、
となります。

1・教員が学生に最新テーマを絶えず投げかけること
2・それについての討論が教員、学生を交えて真摯に行われること
3・そこに一般人も、時には参加できること。
4・その討論を外国語(たいていは英語)で行うこと。

これこそ、教室で世間と触れ合い、教室から海外を見ることです。
なのに早大が教室を重視せず、休みを使って自由にやりなさいでは、
全くの責任放棄。

自由な学風が売りの早大。教室は今までも機能してなかったし、
今後、もっと機能しなくなるようです。クォーター制を採用しても、肝心の
教室の向上に取り組む気がないのですから、何も変わらないでしょう。

海外の若者にとっても、日本に興味のある学生以外、早大に
勉強しにこようとも思わないはず。要するに危機感がないのです。
海外から見れば、教室の向上を話題にせず、入学時期ばかり
議論してる日本の大学は、非常に奇妙に見えることでしょう。

ウサギ
hare
早稲田大学

慶大でスマホの節電研究

慶大と言えば、法、経、商といった文系学部がメインのような気がしますが、
日吉にある理工学部も健闘。電子工学科の黒田忠広教授のグループは、
今回、スマホの消費電力を全体で約10%削減できる技術を発表しました。

スマホのCPU(中央演算処理装置)とメモリ間を無線で接続する技術。
従来の有線で接続する方法より消費電力を90%削減できます。

電気信号を流す場合、電場、磁場に分かれます。この力を利用し、
CPUとメモリの間でデータをやり取り。電圧を最小限まで減らせるとのこと。
この新技術でデータ処理速度も三倍。スマホをパソコン代わりに使う人も
多い状況で、充電回数を減らせることは利便性・向上につながります。

理系学部が、理論だけでなく現実に役立つ研究を
してるのはウレシイですね。

ハスの花
lotus
慶応の三田会
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